トマス・ロシカ師の「福音味読」の試訳を連続掲載いたします。
ロシカ神父 紹介
トロント発、 2008/11/26 Zenit:
聖バシル修道会(バシル会)のロシカ神父は 1986 年に司祭叙階。アメリカとカナダの 2 つの国籍を持ち、専門は神学と聖書学。トロント大学レジスカレッジ、ローマ教皇庁聖書研究所、エルサレムのフランス聖書考古学学院で学ぶ。 1994-2000 年にかけてトロント大学ニューマン・カトリック・ミッション・センターの責任者を務め、 1990 年以来、カナダ各地の大学で聖書学を教える。
2002 年にトロントで開催されたワールド・ユース・デーにおけるカナダの総責任者。また 2003 年以来、トロントに本部を置く「塩と光のカトリック・メディア財団・テレビジョンネットワーク」の最高責任者。 2006 年バシル会総長に選出される。今年( 2008 年) 10 月の世界代表司教会議ではマスコミ広報を担当した。
メールアドレスは rosica@saltandlighttv.org
主日ごとの聖書の味読の参考にしていただければ幸いです。
真生会館「学び合いの会」有志
記憶の中にある偉大な歴史の再現
トマス・ロシカ師の「福音味読」 待降節第1主日
この週末から、教会は待降節に入り、クリスチャンは、救い主が実際に来ていること、そして神の統治が「間近に来ている」ことを宣言します。 待降節は、神を変えません。待降節は、神が、預言者と油を注がれた者(キリスト)の約束を果たされることへの、わたしたちの渇望と期待の心を深めてくれます。 わたしたちは、神の救いの約束を今すぐにでも見て感じたいという願いに、神が答えてくださるよう祈るのです。 この主を待ち望む時間に、わたしたちは、祈り、神の御言葉を思いめぐらすこと、とりわけ、キリストの光、キリストご自身の反映となるように招かれています。 しかし、キリストの光を反映する難しさ、特に生活に幻滅し、空疎な世間に慣れ、あるいは、平凡と空虚に満足し育っているとき、それが難しいことをわたしたちはよく知っています。 待降節は、わたしたちが、自分の生活のどんな瞬間にも主と出会えるように備えるべきことを思い起こさせます。
丁度
、 セキュリティの警報が家の持ち主に知らせるように、待降節は、生活の中で眠りに落ち込む危険にあるクリスチャンを呼び覚ますのです。
人生の中で、わたしたちは何を、誰を待ち望んでいるのでしょうか? 今年、わたしたちは、何の徳目や賜物を頂くように祈るのでしょうか? 神との壊れた関係の中で、癒しと和解を切望するのでしょうか? 自分の暗闇、悲しみ、そして謎の只中で、何の意味と理解を渇望しているのでしょうか? 洗礼の約束をどのように生きぬくのでしょうか? この待降節に、わたしたちは、自分自身の生活の中で、イエスの中のどのような資質を探し求めるのでしょうか? しばしば、わたしたちが待ち望む物、資質、賜物、そして他の人から、自分のほんとうの姿を知る大きな洞察を与えられます。 あなたが誰を待っているのかを知れば、わたしはあなたが誰かを語れます。 待降節は、世の中の、そして自分自身の生活の中の神の現存に目を見開き、焦点を合わせ、注目する時です。 待降節第1主日の預言者イザヤの書の朗読で、全能の御方は、イスラエルの心と魂に希望の息吹を再び吹き込み、陶工が彼の陶器を形造るようにイスラエルと、この出来事を新たにします。
パウロは、彼の愛するコリントの教会に書き送る中で、「主イエス・キリストの日」を待ち望んでいます。 それは(イエスに)呼ばれた人々を救うために主イエスが明らかにされる時です。 そして、主人が「突然」帰って来ても目を覚ましている門番についてのマルコの福音の描写は、一年中すべての時に期待される姿ですが、待降節には特に期待されるイメージです。 わたしたちの洗礼は、イエスの、王としての、また救い主としての使命の分け前に与ることです。 この使命を分かち合う者はだれでも、王としての責任も分かち合うのです。 特に、苦しみ傷ついた人々のケアをする責任があります。 待降節は、自分の洗礼の約束とコミットメントとを「活性化」するすばらしい機会です。
ジョゼフ・ラッツィンガー 枢機卿(現教皇)は、かつて、「教会年の目的は、教会の偉大な歴史の記憶を継続し、繰り返すことです。心の記憶を呼び覚まし、それによって希望の星を識別するように。われわれ全ての中に、『善きこと』への記憶を呼び覚まし、希望への扉を開くことは、待降節のすばらしいつとめです。」と記しました。
この待降節には、争いを止め、平和を築き、忘れられた友を探し出し、疑いを捨て、信頼を取り戻し、愛の手紙を書くようにしてください。 大切な宝を分かち合い、きつい返事を出したくても、親切な言葉にし、若者には信じていると励まし、言葉と行いであなたの誠実さを示してください。約束は守り、時間を見つけ、時間を作り出し、悪意はやめて、敵を赦し、和解の秘跡を受けましょう。 もっと耳を傾け、自分が悪いときには謝り、自分が悪くなくとも相手には親切にしましょう! 相手を理解するように努め、そねまず、他人への自分の要求をよく吟味し、自分よりも他人を優先して考え、相手を認め、相手に親切に、穏やかに。 少しは笑顔で、もう少し笑い。 確信を以って。 悪意には決然と。 自己満足を否定し、感謝の気持ちを言い表し、教会に行き、いつもより其処に少し長く居て、子供の心を喜ばせ、地球の美と不思議を喜び、あなたの愛を語りましょう。 もう一度、あなたの愛を語りましょう。 さらに、さらにもう一度大きな声で。 もの静かにそれを語り、喜びましょう。 主イエスは近くに居られるのですから!
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洗礼者ヨハネ、待降節の預言者 2008/12/7 待降節第2主日: トマス・ロシカ師のコメンタリー
トロント、 2008/12/3 ( Zenit.org ) 待降節と降誕祭の物語の中で重要な役割を担う洗礼者ヨハネが、今日の福音に登場します。 ヨハネが私たちにとっての良き模範であることを理解するために、彼の生き方の一部を詳しく見てみましょ う 。 洗礼者ヨハネは、多くの言葉を費やさずに、的を射た、真に大切なことを語りました。彼は、私たち全てに等しく率直な言葉で語りました ‐‐ それはまさに、わたしたちの生き方の弱さに的を絞った言葉でした。 洗礼者ヨハネは、悔い改める者が信頼をおくことのできる説教家でした。 なぜなら、彼は何よりも先に、自分自身の荒野の中で聴いた神の御言葉を愛するよ う になったからです。
荒野の中で神の解放の言葉を、聞き、体験し、それを生きました。それを語る彼の言葉が他の人よりも説得力を持ったのは、彼の生き方とメッセージが一致していたからです。 わたしたちの人生の中で、最も厄介なことの一つは、二重性( duplicity )です。 わたしたちの言葉や考えと行動は、なかなか一致しません。 イスラエルの真の預言者たちは、あらゆる種類の二重性と戦うわたしたちを助けてくれます。
不毛の荒野
聖書の歴史の中で、指導者や神秘家たちは、新しい生き方を見つけるために砂漠に出かけ、神の御声をより明瞭に聞き分け、熱心に耳を傾けました。ヘブライ語の荒れ地 midyar は、「群れや集団を牧草地に導く」という意味のセム語の語源から出ています。 Midyar の訳語に使われたギリシャ語の Eremos は、寂しい、人が余り住まない地域を意味し、厳密には、不毛の地、砂漠(荒野)を意味します。
「荒れ地」とい う 語には、「野生」(w ild )と「戸惑い」( bewildering )という、異なるけれど関わりのある二つの意味があるように思います。 多分、その土地が持っている、「未知の」(戸惑わせる)、「人の手の及ばない」(野生的)という性質から、「荒れ地」( wilderness )の名がついたのでしょ う 。 荒野や荒地という言葉には、別の理解の仕方もあります。
midyar の語源を注意深く見ると、そこには、「言葉」や「メッセージ」の意味のヘブライ語 davar が含まれています。 「荒野」や「荒れ地」のヘブライ的概念は、「そこで、神の御言葉を拘束なしに、全く自由に聞き、体験し、生きることができる、聖なる場所」ということです。 預言者たちは、聖霊によって神の存在を感じとることができました。
預言者たちは、神の態度、価値観、感性、感情を分かち合 う ことができました。 つまり、預言者たちは、その時代の出来事を、神が見るよ う に見、神が感じるのと同じように感じることが出来たのです。 預言者たちは、神の怒り、神の憐れみ、悲しみ、失望、不快感、人間への敏感性、真剣さを分かち合いました。 しかし、預言者たちは、それらを抽象的に捉えて分かち合ったのではありません。 その時代の具体的な出来事についての神の感受性 (feeling) を分かち合ったのです。
洗礼者ヨハネは、この待降節の預言者です。 そのイメージは、しばしば、次に来るべき方、イエス・キリストを示す「指」に例えられます。 もしも、ヨハネに代わって、今日の世界に(主イエスの)道を整える役割をすることになれば、わたしたちの生き方も、イエスを見出し、近くに居られることを明示する生き証人の「指」となるでしょ う 。 ヨハネは、自分自身は世を救 う メシアではないとの自覚をもって、その時代の人々に赦しと救いの体験を与えました。わたしたちは、果たして人々に神の体験や、その赦しと救いの体験を与えられるでしょ う か?
洗礼者ヨハネは、この社会や人間生活の暗闇と悲しみから抜け出す道を教えるために来ました。そして、その道こそイエスご自身のことなのです。 メシアは、暗闇と死の力からわたしたちを救
い 、平和と和解の道に戻し、わたしたちが神に立ち帰る道を見出すために来られます。
イエズス会の神学者、故カール・ラーナーは、あるとき、このよ う に記しました。 「わたしたちは、荒れ野で叫ぶ声を聴かなければならない。 たとえそれが、「わたしはメシアではない」、と言ったとしても。 「それは、人間の声にすぎないから」といって、その声を聴かないとい う 選択肢はない。 そして同じよ う に、教会は「その前を歩む主の靴紐を解く値打ちさえない」からといって、教会のメッセージを無視することはできない。 時はまだ到来していないのである。」
わたしたちは、この待降節に、ユダヤの荒野を旅するような贅沢もせず、シナイの砂漠に一週間ひきこもるといった恵まれた経験もできないでしょう。 しかし、わたしたちは今週、自分の生活の喧騒の中にでも、小さな「砂漠の荒れ地」を作り出すことが出来るにちがいありません。 さあ、あの聖なる地に出かけよ う ではありませんか。あなたが心を開けば、神の御言葉は、あなたに語りかけ、あなたをいやし、新たな方向を示し、待降節の来臨を待ち望むキリストの御心に導いてくださるのです。
* * *
John the Baptizer, the Advent Prophet Biblical Reflection for 2nd Sunday of Advent By Father Thomas Rosica, CSB
TORONTO
, DEC. 3,
2008 ( Zenit.org ).- One of the great stars
of the Advent and Christmas stories, John the Baptizer, makes his appearance
on the biblical stage today. Let us consider some of the details of John's life
and see how he is such a good model for us. John the Baptist didn't mince words.
He got right to the point and said what needed to be said. He would speak with
equally straightforward words to us -- words that would zero in on the weak
points of our lives. John the Baptist was a credible preacher of repentance
because he had first come to love God's word that he heard in the midst of his
own desert.
He heard, experienced and lived God's liberating word in the desert and was
thus able to preach it to others so effectively because his life and message
were one. One of the most discouraging things we must deal with in our lives
is duplicity. How often our words, thoughts
and actions are not coherent or one. The true prophets of Israel help us in
our struggle against all forms of duplicity.
The
desert wilderness
T
hroughout
biblical history, leaders and visionaries have gone to the desert to see more
clearly, to listen intently for God's voice, to discover new ways to live. The
Hebrew word for wilderness midvar is derived from a Semitic root that
means, "to lead flocks or herds to pasture." Eremos , the
Greek word used to translate midvar , denotes a desolate and thinly
populated area and, in a stricter sense, a wasteland or desert.
The term "wilderness" has two different but related meanings, referring to something judged to be wild and bewildering. It is probably the unknown (bewildering) and uncontrolled (wild) character of the place that earned it the name "wilderness." There is also another way of understanding the meaning of desert or wilderness.
A careful look at the root of the word midvar reveals the word davar meaning "word" or "message." The Hebraic notion of "desert" or "wilderness" is that holy place where God's word is unbound and completely free to be heard, experienced and lived. We go to the desert to hear God's Word, unbound and completely free. The Spirit of God enabled the prophets to feel with God.
They were able to share God's attitudes, God's values, God's feelings, God's emotions. This enabled them to see the events of their time as God saw them and to feel the same way about these events as God felt. They shared God's anger, God's compassion, God's sorrow, God's disappointment, God's revulsion, God's sensitivity for people, and God's seriousness. Nor did they share these things in the abstract; they shared God's feelings about the concrete events of their time.
John the Baptist is the Advent prophet. His image is often portrayed in the finger pointing to the one who was coming: Jesus Christ. If we are to take on John's role of preparing the way in today's world, our lives also will become the pointing fingers of living witnesses who demonstrate that Jesus can be found and that he is near. John gave the people of his time an experience of forgiveness and salvation, knowing full well that he himself was not the Messiah, the one who could save. Do we allow others to have experiences of God, of forgiveness and of salvation?
John the Baptist came to teach us that there is a way out of the darkness and sadness of the world and of the human condition, and that way is Jesus himself. The Messiah comes to save us from the powers of darkness and death, and to put us back on the path of peace and reconciliation so that we might find our way back to God.
T he late Jesuit theologian, Father Karl Rahner, once wrote: "We have to listen to the voice of the one calling in the wilderness, even when it confesses: I am not he. You cannot choose not to listen to this voice, 'because it is only the voice of a man.' And, likewise, you cannot lay aside the message of the Church, because the Church is 'not worthy to untie the shoelaces of its Lord who goes on before it.' It is, indeed, still Advent."
We may not have the luxury of traveling to the wilderness of Judah , nor the privilege of a week's retreat in the Sinai desert this Advent. However, we can certainly carve out a little desert wilderness in the midst of our activity and noise this week. Let us go to that sacred place and allow the Word of God to speak to us, to heal us, to reorient us, and to lead us to the heart of Christ, whose coming we await this Advent.
聖書 朗読
イザヤ 40:1-5, 9-11; 慰めよ、わたしの民を慰めよと/あなたたちの神は言われる。 エルサレムの心に語りかけ/彼女に呼びかけよ/苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを/主の御手から受けた、と。 呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。 谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。 主の栄光がこうして現れるのを/肉なる者は共に見る。主の口がこう宣言される。高い山に登れ/良い知らせをシオンに伝える者よ。力を振るって声をあげよ/良い知らせをエルサレムに伝える者よ。声をあげよ、恐れるな/ユダの町々に告げよ。見よ、あなたたちの神 見よ、主なる神。彼は力を帯びて来られ/御腕をもって統治される。見よ、主のかち得られたものは御もとに従い/主の働きの実りは御前を進む。主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め/小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。
2 ペトロ 3:8-14; 愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。 ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は激しい音をたてながら消えうせ、自然界の諸要素は熱に熔け尽くし、地とそこで造り出されたものは暴かれてしまいます。 このように、すべてのものは滅び去るのですから、あなたがたは聖なる信心深い生活を送らなければなりません。 神の日の来るのを待ち望み、また、それが来るのを早めるようにすべきです。その日、天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、熔け去ることでしょう。 しかしわたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです。 だから、愛する人たち、このことを待ち望みながら、きずや汚れが何一つなく、平和に過ごしていると神に認めていただけるように励みなさい。
マルコ 1:1-8 ; 神の子イエス・キリストの福音の初め。 預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの道を準備させよう。 荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」そのとおり、 洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。 ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。 ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。 彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。 わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」
喜ぶこと、待つこと 待降節第3主日( 2008/12/14 )
ロシカ師の福音コメンタリー
トロント、 2008/12/10 ( Zenit.org ) 待降節は、預言者たちの季節です。 そしてクリスマス迄の数週間の聖書朗読は、救い主に心を向け、主を待ち望む心を深めてくれます。 今年 (B 年 ) の 待降節第3主日の福音の中で、洗礼者ヨハネは、再度、救いの歴史のステージに現れます。 そのヨハネの使命のすべては、救い主の到来の準備にありました。 時が来たときに、ヨハネは自分の弟子たちをイエスに導き、イエスこそメシア、救い主、まことの光、世の罪を取り去る神の子羊であると知らせました。 ヨハネ自身は光ではなく、光について証しするために来ました。 彼は自分の暗闇について考えたりせず、光が自分を照らすに任せたのです。
ヨハネは、自分をイエスの奴隷に過ぎないと考えました。 「ヨハネは答えた。『わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。 その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。』」(ヨハネ 1 : 26-27) と福音書は語ります。
ヨハネの弟子たちが彼に向かって、ヨルダン川のイエスの洗礼の意味を尋ねたとき、ヨハネは、「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。 わたしは、『自分はメシアではない』 と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』 と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる。 花嫁を迎えるのは花婿だ。 花婿の介添え人は そばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。 だから、わたしは喜びで満たされている。 あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」 (ヨハネ 3:27-30) と、きっぱりと答えました。
ルカ福音書の最も切実な場面の一つでは、洗礼者ヨハネは、ヘロディアとの間の不道徳な近親内結婚を公に非難したために、ヘロデ・アンティパスによって、投獄されました。 ( マタイ 4:12; マルコ 1:14; ルカ 3:19). 孤独で気力も失せた、その生涯の終わり近く、「預言者中の最も偉大な者」と称えられる洗礼者ヨハネは、こう尋ねざるを得ませんでした・・・「あなたは本当にメシアですか?」 ヨハネはたぶん、燃える火のような社会改革者が現れて神の国をもたらす、と期待したのでしょう。 その人物は、貧しい者、足の萎えた者、盲目の者、追放された者、罪ある人などとは無関係な筈でした。 しかし、キリストは、最も予期しない方法で、しばしば最も予期しない人々のところに来られるのです。
イエスはヨハネに、周囲を見回して、それまでに人々の間に成された業を見るよう招きました。 盲人は視力を回復し、足の萎えた者は再び歩いていました。 病者は癒され、聾唖者は、聞き、話していました。 「良い知らせ」は今や、貧しい者に向かって語られていました。 それは全く驚くべきことでした! そして、これはわたしたちにとっての大きな慰めです。 しばしば、「キリスト者の生活は、本当に意義があるのか?」とか、「イエスは、世の、そして自分自身の生活の、全ての悪と悲しみに対する、本当の答えなのか?」 という質問を繰り返している自分を見ても、驚いてはいけません。
群衆はヨハネのところに来て訊ねました。「それでは、わたしたちは何をするのでしょうか?」 洗礼者は、そこが問題の多い場所であっても自分の居る世界を去れとは決して勧めませんでした。 むしろ彼は、二つの上着をもつ者に、その一つを持たない者に分け与えるように教え、同じように、食物をたくさんもつ者は、飢えた者に分け与えるように、と教えました。 徴税人たちには、命じられているより多く徴収しないように、兵士たちには、暴力や不正な理由で強奪しないように話され、自分の給与で満足するように諭されました。 差し迫ったメシアの到来のために、人々は何を準備すべきであったのでしょうか? それは、親切に、正しく、正直に、感謝を以って、そして思いやりをもつことでした。 (ルカ福音書 3:10-14 参照 :そこで群衆は、「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ね た。 ヨハネは、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持ってい る者も同じようにせよ」と答えた。 徴税人も洗礼を受けるために来て、「先生、わたしたちはどうすれ ばよいのですか」と言った。 ヨハネは、「規定以上のものは取り立てるな」と言った。 兵士も、「この わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。ヨハネは、「だれからも金をゆすり取ったり、だま し取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と言った。)
洗礼者ヨハネの生涯とその使命は、わたしたちが救いの御業をどれほど必要としているのか、を気づかせてくれます。 その御業は、わたしたちが光の中で生きるために、呼ばれているすべてのものに応え、なすべきことをすべて行う者にしてくださるのです。 この世に既に来ておられる「光」をキリスト者として証しするために、わたしたちはどれほど勇敢に、また預言的になれるでしょうか? わたしたちは、いつも、自分の身近にある「真(まこと)の光」に気付かずにいます。
洗礼者ヨハネが、他の人々に光を伝える力と勇気をわたしたちに与えてくれますように。 また、わたしたちが待ち望む間に、やさしさと喜ぶ力を与えてくれますように。 第2の朗読、テサロニケの信徒への手紙で、パウロは書きます。「いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。」
わたしたちは、この二つの文章を入れ替えて、「絶えず祈りつづけなさい。 いつも喜んでいられるように。」とすることもできます。
祈りの中でこそ、わたしたちは、神がわたしたちの心配事や希望を、全て神ご自身の無限の愛と知恵の中に引き寄せてくださるのを経験します。 また(祈りの中でこそ)神がわたしたちに自分の足で立つ力を取り戻させ、満ち溢れるいのちと光を与えてくださるのを体験するのです。
◇◇◇◇
Rejoicing and Waiting
Biblical
Reflection for 3rd Sunday of Advent By
Father Thomas Rosica, CSB
TORONTO, DEC. 10, 2008 ( Zenit.org ).- Advent
is the season of the prophets and the Scripture readings of these weeks before
Christmas help us to focus our vision and deepen our longing for the Messiah.
In this year's Gospel for the Third Sunday of Advent, the figure of John the
Baptist appears once again on the stage of salvation history. John's whole mission
was a preparation for the Messiah's coming.
When the time had come, John led his own disciples to Jesus and indicated to
them the Messiah, the True Light, and the Lamb of God who takes away the sins
of the world. John, himself, was not the light. He
came to testify to the light. He didn't spend time thinking about his shadow.
He just allowed the light to shine on him.
John considered himself to be less than a slave to Jesus, "There is one among you whom you do not recognize -- the one coming after me -- the strap of whose sandal I am not worthy to unfasten" (John 1:26-27). When John's own disciples came to him and were troubled about the meaning of Jesus' baptism in the Jordan , he answered them confidently:
"No one can receive anything except what is given them from above." John says he is only the friend of the bridegroom, the one who must decrease while his master increases (John 3:25-30). The Baptizer defined his humanity in terms of its limitations.
In one of the most poignant scenes of Luke's Gospel, John the Baptist is imprisoned by Herod Antipas because of his public rebuke of the tetrarch for his adulterous and incestuous marriage with Herodias (Matthew 4:12; Mark 1:14; Luke 3:19). Alone, dejected and near the end of his life, John the Baptist, hailed as the "greatest of all prophets," had to ask the question, "Are you really the Messiah?" John probably expected a fiery social reformer to come and bring about the Kingdom, certainly not someone who would associate with the poor, the lame, the blind, outcasts and sinners. Yet Christ comes in the most unexpected ways and often in the most unlikely people.
Jesus invites John to look around and see the works that had already been accomplished in the midst of people. The blind recovered their sight and the lame were walking again. Diseases and illness were healed and all those who were deaf could hear. The Good News was now preached to the poor. That was the greatest wonder of all! This is a great consolation for us. We should never be surprised if we often find ourselves asking the same question -- "Is Christian living really worth it?" "Is Jesus really the answer to all the evils and sadness of the world and of our own lives?
The crowds came to John and asked him, "What then shall we do?" The Baptist advises no one to leave the world they are in, however ambiguous it may be. Rather he told those with two coats to share one with those who had none. Likewise, those with an abundance of food were to share with the hungry. Tax collectors were told to collect no more than was appointed to them. Soldiers were to rob no one by violence or by false accusation. They were to be content with their wages. What were people to do to prepare for the imminent coming of the Messiah? To be generous, just, honest, grateful and compassionate (cf. Luke 3:10-14).
John the Baptist's life and mission reminds us how badly we need a Savior to save us, in order that we might be all that we are called to be and do all that we have to do to live in the Light. How are we courageous and prophetic in our Christian witness to the Light, who has already come into our world? So often we fail to recognize the one among us who is our True Light.
May John the Baptist give us strength and courage to bear the light to others, and the generosity and ability to rejoice as we wait. "Rejoice always. Pray without ceasing," Paul writes in his letter to the Thessalonians. We can also reverse the order of these two sentences: "Pray without ceasing, so that we will be able to rejoice always."
In
prayer we experience God's gathering up all of our concerns and hopes into his
own infinite love and wisdom, his setting us back on our feet, and his giving
us fullness of life and light.
朗 読:
イザヤ 61:1-2a, 10-11 : 主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために。 主が恵みをお与えになる年/わたしたちの神が報復される日を告知させるために。 わたしは主によって喜び楽しみ/わたしの魂はわたしの神にあって喜び躍る。主は救いの衣をわたしに着せ/恵みの晴れ着をまとわせてくださる。花婿のように輝きの冠をかぶらせ/花嫁のように宝石で飾ってくださる。 大地が草の芽を萌えいでさせ/園が蒔かれた種を芽生えさせるように/主なる神はすべての民の前で/恵みと栄誉を芽生えさせてくださる。
1 テサロニケ 5:16-24 : いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。 どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。 “霊”の火を消してはいけません。 預言を軽んじてはいけません。 すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。 あらゆる悪いものから遠ざかりなさい。 どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。 あなたがたをお招きになった方は、真実で、必ずそのとおりにしてくださいます。
ヨハネ 1:6-8, 19-28 : 神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。 彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。 彼は光ではなく、光について証しをするために来た。 さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、 彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した。 彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言った。更に、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた。 そこで、彼らは言った。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」 ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」 遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。 彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と言うと、 ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。 その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」 これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。
マリアの問題をどう解決するか?
待降節第4主日 2008/12/21 トマス・ロシカ師福音コメント
「サウンド・オブ・ミュージック」の舞台劇とわたしロシカとは同い年です。 1959 年の生まれです。この映画は、 1960 年代の半ばに子供のわたしが家族と共に最初に見た映画です。それが上映されて以来、舞台で、またテレビで、何回わたしがそれを見たかは、神のみぞ知るというところです。
10 月半ばから、カナダのトロント中心街にあるプリンセス・オブ・ウェールズ劇場で、ロジャース・ハマースタインの名作ミュージカル「サウンド・オブ・ミュージック」が観客を喜ばせており、このミュージカルで街は「活気」に満ちています。 このすばらしい作品は、アンドルー・ロイド・ウェバーの演出によりイングランドで初演されました。 トロント公演は、間違いなく、いつの時代にも最も愛されてきた歌が入っているこのミュージカルを充分に表現しています。
マリア・トラップの問題の解決
この中の記憶に残る歌の一つは、「マリア」です。「どうやって、マリアのような問題を解決しましょうか?」と呼ばれることもある歌です。 この歌は、オーストリアのザルツブルにあるベネディクト会のノンベルグ修道院でベルト、ソフィア、マルガレッタの 3 人のシスター、および院長のマザー・アビスによって歌われます。修道女たちは、マリアが、修道院の礼儀正しい、禁欲的な生活にもかかわらず、あまりに軽々しく、気まぐれ、陽気なので怒ります。 この歌の歌詞をオスカー・ハマースタインU世が書いたときには、マリアが修道女のベールの下にカーラーをつけているという細部の描写にまでこだわったと言われています。
ザルツブルグの年配のオーストリア人たちがマリアについて話す時、そのマリアは「ゴッテスムッター」、すなわち神の母を指します。 一方、外国人、とくに北米の人たちがザルツブルグに来て、マリアについて話す時、そのマリアとはもう一人のマリア、マリア・アウグスタ・キッチャラ、後のマリア・アウグスタ・フォン・トラップのことです。 彼女は、第一次世界大戦の後、修道院の学校で教師をし、彼女の生涯が、「サウンド・オブ・ミュージック」の映画の土台になりました。
このマリアのおかげで、この修道院は国際的名声を得、それはシステーたちを仰天させるほどでした。わたしがドイツのバーバリアの近くでドイツ語を学んでいたとき、何回かこのノンブルグ修道院を訪れ、「サウウンド・オブ・ミュージック」が彼女らの生活におよぼす影響について数人の年長のシスターに尋ねました。 修道院長は、マリア・フォン・トラップとその逃避行に関する銘板は、修道院にもザルツブルグの町にもないと教えてくれました。 一人の年長のシスターが、にっこりして、「ダス・イスト・ヌア・ホリウッド!」(それらは、全てハリウッドの物語です!)と言いました。
ナザレのマリアの問題の解決
福音書のお告げの物語は、クリスマスの物語の偉大なヒロインであるもう一人のマリア - - 人間と神との間の望まれる架け橋である、ナザレのマリアを示します。 彼女は、神の善性と人間性とをわたしたちに紹介する、優れた弟子です。 彼女は、神の御言葉を、その物語がどのように終わるかを知らずに、十全の意味で喜んで迎え入れました。 マリアは、イエスの生涯を通してあの言葉を必ずしも理解していたわけではありませんが、彼女は、それを信じ、天使に与えた最初の答をいつも思い起こし、「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」(ルカ 2:19 )のでした。
ゴルゴタの丘で、マリアは自分の「はい」の答えの責任の意味を完全に悟りました。 聖書には、マリアが深い信仰と憐れみのある女性で、他の人々の求めることに大変気配りのある女性であったことを述べる幾つかの箇所があります。
マリア・フォン・トラップは、トラップ大佐とその小さな音楽家族に従って、神の存在と神の選んだ人々を否定しようとするネオ異教徒、邪悪のナチ政権から逃げ出そうと、オーストリアのアルプスの山道を越えていきました。 その後、トラップ一家は、アメリカに渡り、バーモントでずっと幸せに暮らし、トラップ家の音楽の評判は、現在のトロントの聴衆まで魅了する舞台作品を通して生き続けていると言われます。 彼らの音楽と共に、未だ「山は生きている」(劇中歌の歌詞)のです。
ナザレのマリアの「問題」は、ガブリエルという風変わりな天上からの訪問者を迎えたときに始まりました。 ナザレの若い女性は、救い主で、神の御子となる息子を彼女が産むことになると分かったとき、大いに困りました。 「マリアは天使に言った。『どうして、そのようなことがありえましょうか。 わたしは男の人を知りませんのに。 天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。・・・マリアは言った。 「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」 そこで、天使は去って行った。」(ルカ 1:34-35, 38 ) そして、聖母マリアの賛歌 "Magnificat anima mea Dominum." (ルカ 1:46-55 )が始まります。
それは、その力強い音楽を以っていつの時代にも世界に満ちあふれるリフレーンとなるでしょう。 マリアが受けたメッセージは、マリアを、小さな、眠っているようなナザレの町、そして、中近東のイスラエルとパレスチナと呼ばれる小さな一片の土地をはるかに越える軌道に乗せて打ち上げました。 マリアの「はい」は、世界全体に影響を与え、人間の歴史を変えるのです。
問題の解決
ナザレのマリアは、彼女の「問題」を引き受け、彼女の従順、忠実、信頼、希望そして静かな喜びを通してそれを解決しました。 ナザレのあの最初の瞬間、彼女の内にいるこの子供の物語が残忍な終わり方をするとは予見できませんでした。何年もの後、ゴルゴタの丘の上でやっと、人間の歴史を永遠に変えた、自分の「はい」の答えの責任の意味を完全に悟ることになります。 仮に、ノンベルグ修道院にマリア・フォン・トラップの運命の出会いを記念する銘板はないとしても、ナザレのマリアの故郷には、マリアの生涯を変えた出会いを記念する小さな銘板があります。
今日のガリラヤのナザレの町の中央に立つのは、お告げの巨大な大聖堂で、それは、洞窟でマリアの住処であったと信じられている辺りに建てられました。 岩屋のような部屋の中の祭壇に、小さな碑文があり、それは、マリアが天使ガブリエルから、「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。」(ルカ 1:31 )のお告げを受けた場所を記念しています。 ラテン語の碑文は "Verbum caro hic factum est" ( ここで、御言葉は人となられた ) と書いてあります。
わたしは 1988 年、その祭壇の前に初めてひざまずいたときの感動をまだ憶えています。 あのお告げの岩屋の中の碑文は、深い、別世界の、地を震わす、生き方を変える、目のくらむような、畏れ多いものでした。 "Verbum caro hic factum est" の文字は、ベツレヘムの生誕地の岩屋のプレートにも、神殿跡の壁にも、エルサレムの観光事務所にも、ありません。 その文字は、ナザレの中心にあるお告げの聖堂伽藍の奥深い祭壇に刻まれています。 「ここは、御言葉が肉となった場所である」
これは、マリアが「はい」と答えたために歴史が変えられた場所です。
「ここで、御言葉は肉となる」 - - このような言葉を、わたしたち自身の生き方に、家族に、仲間に、そして教会にふさわしいものとすることが出来るでしょうか?
私たちは、 神の御言葉にどのように耳を傾け、それを黙想し、毎日それをどのように生きるかを、知っているでしょうか? わたしたちの思いや生き方は、忠実で、希望に満ち、愛にあふれ、心を開いたものでしょうか? 「御言葉が肉となる」 - - キリスト者について語る何と力強い言葉でしょうか! しかし、美しく、心魅かれるのは、ザルツブルグのマリアの響きです。 もう一人のマリア、ナザレのマリアの音楽は、これまでに聴いた何ものをも越えて素晴らしい響きなのです。
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How Do We Solve a Problem Like Maria? Biblical Reflection for the 4th Sunday of Advent By Father Thomas Rosica, CSB
TORONTO,
DEC. 17, 2008 ( Zenit.org
).- "The Sound of Music" stage play and I are the same
age -- both from that vintage year of 1959 -- and the film version was the first
"motion picture" I saw as child in the mid 1960's with my family.
God alone knows how many times I have seen it since on stage, at the theater
and on television!
Since mid-October,
the Rodgers and Hammerstein famed musical "The Sound of Music" has
been delighting audiences in Toronto 's Princess of Wales Theatre in the downtown
theater district. The city is "alive" with the sound of music. This
magnificent production first opened in England under the direction of Andrew
Lloyd Weber. The Toronto version of the show does justice to the musical that
arguably contains the best-loved songs of all time.
Solving the problem of Maria von Trapp
One of the memorable songs of the play is "Maria," sometimes known as "How Do You Solve a Problem Like Maria?" It is sung brilliantly by Sister Berthe, Sister Sophia, Sister Margaretta and the Mother Abbess at the Benedictine Nonnberg Abbey in Salzburg , Austria .
The
nuns are exasperated with Maria for being too frivolous, flighty and frolicsome
for the decorous and austere life at the abbey.
It is said that when Oscar Hammerstein II wrote the lyrics for this song, he
was taken by the detail of her wearing curlers in her hair under her wimple!
When older Austrians in Salzburg speak of Maria, it is the "Gottesmutter,"
the Mother of the Lord!
When
the foreigners, especially North Americans, arrive in Salzburg and speak about
Maria, it is usually the other one: Maria Augusta Kutschera, later Maria Augusta
von Trapp, who was a teacher in the abbey school after World War I and whose
life was the basis for the film "The Sound of Music."
Because of this Maria, the abbey acquired international fame, to the consternation
of some of the sisters! Having visited Nonnberg Abbey on several occasions while
I was studying German in nearby Bavaria, I spoke with a few of the elderly sisters
about the impact of "The Sound of Music" on their life.
The prioress told me that they have no plaques up about Maria von Trapp and
her escapades at the abbey nor in Salzburg ! One elderly sister said to me,
with a smile, "Das ist nur Hollywood !" (That is only Hollywood !)
Solving the problem of Maria von Nazareth
The Gospel story of the Annunciation presents another Maria, the great heroine of the Christmas stories -- Mary of Nazareth -- the willing link between humanity and God. She is the disciple par excellence who introduces us to the goodness and humanity of God. She received and welcomed God's word in the fullest sense, not knowing how the story would finally end. She did not always understand that word throughout Jesus' life but she trusted and constantly recaptured the initial response she had given the angel and literally "kept it alive," "tossed it around," "pondered it" in her heart (Luke 2:19).
At
Calvary she experienced the full responsibility of her "yes." We have
discovered in the few Scripture passages relating to her that she was a woman
of deep faith, compassion, and she was very attentive to the needs of others.
Maria von Trapp followed the captain and his little musical family through the
Alpine mountain passes of Austria , fleeing a neo-pagan, evil regime that tried
to deny the existence of God and God's chosen people.
Some
would say that they lived happily ever after in Vermont in the United States
, and that their musical reputation lives on through the stage production enchanting
Toronto audiences at present. The hills are still alive with their music!
The "problem"
of Maria of Nazareth began when she entertained a strange, heavenly visitor
named Gabriel. The young woman of Nazareth was greatly troubled as she discovered
that she would bear a son who would be Savior and Son of the Most High. "How
will this be," Mary asked the angel, "since I am a virgin?"
The angel answered, "The Holy Spirit will come upon you, and the power
of the Most High will overshadow you. So the holy one to be born will be called
the Son of God."
"I am the Lord's servant," Mary answered. "May it be to me as
you have said." The angel left her and then the music began: "Magnificat
anima mea Dominum."
It would become a refrain filling the world with the sound of its powerful music
down through the ages.
The message Mary received catapulted her on a trajectory far beyond tiny, sleepy Nazareth and that little strip of land called Israel and Palestine in the Middle East . Mary's "yes" would impact the entire world, and change human history.
Problem solved
Mary of Nazareth accepted her "problem" and resolved it through her obedience, fidelity, trust, hope and quiet joy. At that first moment in Nazareth , she could not foresee the brutal ending of the story of this child within her. Only on a hillside in Calvary , years later, would she experience the full responsibility of her "yes" that forever changed the history of humanity. If there are no plaques commemorating Maria von Trapp's encounter with destiny at Nonnberg Abbey, there is one small plaque commemorating Mary of Nazareth's life-changing meeting in her hometown.
Standing
in the middle of the present day city of Nazareth in Galilee is the mammoth
basilica of the Annunciation, built around what is believed to be the cave and
dwelling of Mary. A small inscription is found on the altar in this grotto-like
room that commemorates the place where Mary received the message from the angel
Gabriel that she would "conceive and bear a son and give him the name Jesus"
(Luke 1:31). The Latin inscription reads "Verbum caro hic factum est"
(Here the word became flesh).
I
can still remember the sensation I had when I knelt before that altar for the
first time in 1988. That inscription in the grotto of the Annunciation is profound,
otherworldly, earth shaking, life changing, dizzying and awesome.
The words "Verbum caro hic factum est" are not found on an ex-voto
plaque in the cave of the Nativity in Bethlehem, nor engraved on the outer walls
of the Temple ruins or on governmental tourist offices in Jerusalem.
They are affixed to an altar deep within the imposing structure of Nazareth
's centerpiece of the Annunciation. "This is where the word became flesh."
This is where history was changed because Mary said "yes."
Could such words be applied to our own lives, to our families, communities, and churches -- "Here the word becomes flesh"?
Do
we know how to listen to God's Word, meditate upon it and live it each day?
Do we put that word into action in our daily lives? Are we faithful, hopeful,
loving, and inviting in our discourse and living? What powerful words to be
said about Christians -- that their words become flesh!
However beautiful and catchy are the tunes of Maria of Salzburg, the music of
the other Maria, the one from Nazareth , surpasses anything I have ever heard.
朗読:
2 サムエル 7:1-5, 8b-12, 14a, 16 ; 王は王宮に住むようになり、主は周囲の敵をすべて退けて彼に安らぎをお与えになった。王は預言者ナタンに言った。「見なさい。わたしはレバノン杉の家に住んでいるが、神の箱は天幕を張った中に置いたままだ。」ナタンは王に言った。「心にあることは何でも実行なさるとよいでしょう。主はあなたと共におられます。」しかし、その夜、ナタンに臨んだ主の言葉は次のとおりであった。「わたしの僕ダビデのもとに行って告げよ。主はこう言われる。あなたがわたしのために住むべき家を建てようというのか。わたしは牧場の羊の群れの後ろからあなたを取って、わたしの民イスラエルの指導者にした。あなたがどこに行こうとも、わたしは共にいて、あなたの行く手から敵をことごとく断ち、地上の大いなる者に並ぶ名声を与えよう。わたしの民イスラエルには一つの所を定め、彼らをそこに植え付ける。民はそこに住み着いて、もはや、おののくことはなく、昔のように不正を行う者に圧迫されることもない。 わたしの民イスラエルの上に士師を立てたころからの敵をわたしがすべて退けて、あなたに安らぎを与える。主はあなたに告げる。主があなたのために家を興す。あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。あなたの家、あなたの王国は、あなたの行く手にとこしえに続き、あなたの王座はとこしえに堅く据えられる。」
ローマ 16:25-27 ; 神 は、わたしの福音すなわちイエス・キリストについての宣教によって、あなたがたを強めることがおできになります。この福音は、世々にわたって隠されていた、秘められた計画を啓示するものです。 その計画は今や現されて、永遠の神の命令のままに、預言者たちの書き物を通して、信仰による従順に導くため、すべての異邦人に知られるようになりました。 この知恵ある唯一の神に、イエス・キリストを通して栄光が世々限りなくありますように、アーメン。
ルカ
1:26-38
; 六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。
ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。
天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。
すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。
あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。
その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。
彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」
マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」
天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。
あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。
神にできないことは何一つない。」
マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。