六月十二日「学び合いの会」記録
テーマ:「司祭と信徒の関係」 (No.2) 参加者: 21 名
「信徒」は教会の活動に「参加」するのではなく教会の完全な欠けるところのない一員であり教会そのものを「構成」するのだという事実から考えます。
司会者の開会のことば:
二年間の「学び合い」講座のコースが終わっても、キリスト信者としての「学び合い」を続ける事を申し合わせて、真生会館と仲間のご尽力で「学び合いの会」を開始して二年目になります。今日は二年目の第二回目を開くことができました。
この「学び合いの会」には「学び合い」二期の受講者の方も参加しておられます。
昨年は自分たちのありのままの信仰を炙り出そうと言うことで、「洗礼」「信仰と生活の遊離」信仰生活における「ミサ」を、異なった観点から3人の発題者の発表を中心にグループ討議を行い、その結果を報告しあい、其の話し合いに基づいて神学的まとめレビューをニコラス師はじめ参加された司祭の方からいただきました。
今年は新しい教会のあり方として共同宣教司牧が日本の各地で始められており、司祭と信者の新しい関わりに対し年間を通じて、いわゆる教会の民主化という問題も踏まえて問いただすことにしております。第一回は4月17日に「現在の教会の底流にある司祭と信徒の相互不信」を聖書に照らされ討議しました。その内容は9頁に及ぶ記録に明らかです。
さて本日の課題は「信徒の教会への参加の実態と其の問題点」に関して3人の方から自由発題を行います。其の後でそれ以外の方からも自由に発題できるように15分取ってあります。その後で5人ぐらいのグループに分かれて、発題された内容と問題点に関し、具体的な話し合いを行います。その後また全体で集まり意見交換をしますが、今日はニコラスさんがおられませんので、参加者のわれわれがレビューし「まとめ」となるような発言をお願いします。自由発言ですが一度も発言されなかった方は是非この最後のまとめで発言をお願いします。以上の要領で進めたいと考えます。よろしくお願いします。
発題1
信徒として、カトリックの信仰を受け継ぐものとして、新しい信徒と司祭との関わりを考えてみたい。1955年に洗礼を受けました。「マリアの家」と言う学生寮に居ました。其の当時の祈りの本を今も大切にしています。そこでの生活は準修道者のようだったと思います。其のころの信仰の体験が今日の私の信仰の柱になっていると思います。其の生活の中で青年としての生きる喜びが見出せたのです。その後他の修道会とのつながりで祈りを教えていただいた。「祈りの会」と言うところに参加して、実践的に神学生も交えて祈りを体験する機会を得ました。5 - 6年続いたと思います。ここにおられる2人のかたともそれらの過程で知り合いになり今日まで関係が続いています。
信徒として今も大切にしている言葉があります。その一つは「信仰は人から人へ」です。司祭と共に信徒とのつながりを大切にしてゆきたい。これまで教えられた事柄の中で今も大事だなと思うのは「 DUTY のある生活」をするということです。共同体の中ではやるべきことをキチッと行うことが大切なのです。学生寮での生活がそうでした。共同生活をしてゆく中でさまざまな為すべきことがありますがそれらを自ら分担し引き受けてゆくことです。共同体の中で必ずなにかの役割を分担しなくてはなりません。教会では信徒として自分の役割をいかに果たすかと言うことが大切です。今でも教会の中でも其の実践に心がけているものです。具体的な例を挙げますと、過去2年間では、小教区の中で「先唱者マニュアル」と「葬儀の手引き」を共同体に仲間と共に作りました。
司祭とのかかわりは対話と信頼が大切で、司祭に協力してどんなことがやれるのか自分のやれることを見出してゆく必要があると思っています。これを「 DUTY 」と言う言葉でとらえています。司祭と共に現代の時代をとらえながら進んでゆくことが大切であると思っています。「一隅を照らす」と言う言葉がありますがこの年齢になって教会の一隅を照らせるようにと願っています。
教会においての司祭との関わり
対話から信頼関係を
個性を尊重し協力関係を
今必要な小さな奉仕活動を
教会も“社会.経済環境の時代変化にどう対応するか”が大切になつてきました。
国際化 〜 グローバル社会 〜 バチカン外交
少子高齢化 〜 シルバーエイジ世代の活用
高度情報化 〜 一人勝ち 〜 正しい情報システムの運用
テロ.戦争 〜 世界平和への道 〜 教皇のメッセイジ
デフレ不況 〜 所得格差の拡大 〜 教会維持費の減少
信仰は人から人へ―――生活の基本的原理である愛
「互いに兄弟愛をもって心から愛し、競って尊敬し合いなさい。」 (ローマ12−10)
「喜ぶ者とともに喜び、泣く者とともに泣きなさい。互いに思いを一つにし、高ぶら
ず、身分の低い人々の仲間となりなさい。〜 できることなら、あなたがたの力の
及ぶ限り、すべての人と平和に暮らしなさい。」( ローマ12−15.16.18)
発題2
私は、カトリック一族に生まれ、司祭、修道女が身近にいる環境で育ちました。それなのに、何故か教会の世界に馴染みきれずに成人しました。それでも、自分の子供たちには洗礼を受けさせてしまったので、その子供たちに対する責任感から、「何だか変だな?」と思ってきたことを一度はっきりと教会内で発言してみようと考え、それからの20年ほど、学んだり、祈ったり、活動したり、様々なことに挑戦してみました。青年会の時代に僅かに教会に出入りした時期もあったのですけれど、その時はきっとここに居る人たちは、私と違って心が清らかなのだろうからと、なるべくぼろを出さないようにしてきれい事のお話をする程度のお付き合いをしただけでした。もともと司祭の「おとりまき」のおばさまたちにだけはなりたくないと思っていたので、その後も教会に足繁く通ったことはありませんでした。神父様とはなるべく目を合わさないようにして、そっとミサにだけ行き、ミサが終わると誰とも話をしないようにして脱兎の如く家路につく生活をしていた時が多かったと思います。それでも、子供の頃から教会に出入りしていて、両親をご存じの方もたくさんいらっしゃるような状況ですから、教会で疎外感を味わうという体験は持っていません。
とにかくそんな訳で、教会の御聖堂以外の区域に、30歳を過ぎて初めて足を踏み入れました。最初はよく分からないので、とりあえず得意なところで、葬儀用の聖歌隊を作ってみました。そんな私を当時の主任司祭は「よく働いてくれる人」と評価して下さいました。でも、また「何だか変だな?」と思ってしまいました。何故、みんな神父様に評価されたがるのだろう?神父様に評価されることが、そのまま神様の評価になるのだろうか?当時の一例を挙げれば、教会にうまくなじめないある女性が、婦人会の定例会に来るとき、必ず先に主任司祭の部屋に行き、定例会の席にはいつもその神父様と一緒に入って来るのです。神父様と親しい振る舞いをすれば、自分に箔がつくとでも思っているのでしょうか。それでは、司祭が権力となってしまうのではないでしょうか。また、当時、アジアに目を向けるようにと、そして我が国の戦争責任を糾弾するお説教ばかりをなさる神父様が、あるご婦人について「あの人は在日だろう?だから、仲間に入れて親切にしてやれよ。」と仰る。私は、その神父様の発言にご本人の差別意識を感じてしまう。成人式のお祝いと壮年会の新年会は、毎年同じ日に催されて、壮年会の酒席に、成人式の綺麗な着物を着たお嬢さんたちが並ぶ。それって、いわゆるセクハラじゃないの?司祭の口から出る「あの人は大学の先生なんだよ。」「あの人は男爵なんだよ。」という発言。肩書きなどで誰かを見上げる目を持つ人は、同時に同じ目線で誰かを見下ろすと思います。その司祭は「司教様の名前を出すと信徒が動くから、司教様の名前を出すのだ。」と平然と仰る。そういう司祭が、いくら弱者と共に戦っていても、日頃の差別発言に抵抗感を持っている人たちは当然白けてしまい、何も言わずに身をそらしてしまいます。そうして身をそらしたのはどうやら私一人ではないようでした。結局その司祭に付き従うのは司祭の権力に依存したい人、あるいは盲目的に従順な人だけになります。
その一方で、教会の運営がうまくいき、教会内の人たちが仲良くさえできればそれでいいのだと考える方たちの側に立つ気にも、私はなれませんでした。神父様の味方か敵かという発想を、どうすればなくせるのかと考えました。主任司祭が替わるたびに、教会で活躍する顔ぶれが変わるなんておかしくないですか?どうすれば、神父様の「おとりまき」をなくせるのでしょう。神父様にやたらと甘いおばさまがたもいらっしゃいます。そういう方たちは、神父様が多少常識はずれの行動をとっても、「結婚してないのだから仕方がないわよ。」と寛大に仰る。神父様も一人の立派な大人ではないですか?きちんと挨拶ができなくて、「照れ屋さんだから」と許されることが、大人同士の人間関係にあり得るでしょうか。
その時の私はまだ若くて、経験も少なくてうまくできなかったのですが、今になると、気づいたときにすぐに司祭に、「それはおかしいですよ。」「あなたの差別意識が見え見えですよ。」とあっさりと言うべきだったと思います。お互い罪ある身であると自覚すれば、相手の逸脱もあっさり指摘できます。自分は正しい、あなたが間違いだと指摘しようとすれば、何も言えなくなります。何も言えなかった私は、実は自分の罪深さを受け入れていなかったのだと、今の私には分かります。
遠い昔のことです。私が二階で一人で勉強していて、階下から何やらごそごそと話し声がしました。足音を忍ばせて階段を下り、聞き耳を立てると、どうやらある司祭が女性と関係を持ってしまい、そのためにゆすられていたという話のようでした。父は泣いていました。まだ高校生だった私には内緒の話のようでした。そんな世界にずっと居ましたから、神父様の不祥事は一大事だからとにかく絶対に隠さなければならないと、私はずっと思ってきました。また自分自身も教会では何の罪もない人間のように振る舞わなければならないとも思っていました。人は皆罪人で、しかも神様の目から見れば、大罪人も聖人も違いはないのだという足場に立てば、神父様の発言や行動で気になることがあれば、あっさりと指摘できるはずです。そして、小さな逸脱のうちに指摘しておけば、傷は深くならず、神父様が孤独に陥ったり、その結果、「おとりまき」を作ってしまうこともないのではないかと思います。そして、その指摘は、できれば公にした方がいいように思います。個人的に指摘すると、また別の問題が起こりがちです。結果として、また「とりまき」を作ってしまうことになるかも知れません。現実に神父様のその種の弱みにつけ込んで、教会内で生き抜いてきた人が居ることも、私は知っています。
「幼子の如く」が神様に愛されるのだということを根拠に、何も知らない、純粋な信者がいいと評価された時代がありました。神父様は信徒たちを教え導き、信徒は神父様に盲目的に従順でなければならないと考えられてきました。盲目的に従順になれない、「何だかおかしい」と思ってしまって苦しんできた私でも、未だに神父様の顔色を見てしまいます。でも、少し視点を変えて教会を見てみましょう。権力構造ではない、主従関係ではない人間関係を造り出さなければ、教会の存在の意味がなくなるのではないでしょうか。
昨年夏頃から、所属教会で信徒と司祭で作り上げる共同体作りに向けての組織作りのために働きました。まだ30歳台の青年で、私と似通った育ち方をしてきた男性が頑張ってくれているのが大変に心強いです。しかし、そのプロセスで、教会内の司祭と信徒双方の意識改革が先決だなと思うようになりました。全体として意識は少しずつ変わってきていると思います。今まで言えなかったことを口にできるようになった人たちも居ます。とりあえず、司祭に「教会のために、自分のためによく働いてくれる人」と思われようと働く信徒はいなくなったようにも感じられます。しかし、その一方で教会には善意で行動なさる方が多いことが一つのネックになっているようにも思います。善意故に実は他者の尊厳を傷つけていることがあるということがなかなか分かって貰えないのです。司祭信徒を問わず、誰かにその指摘をするには大変なエネルギーが必要なのではないでしょうか。これからの課題は、司教、司祭、信徒、すべての信者が、しっかりと向き合って自由に話し合える環境を作り上げることのように思います。神様の前にその命の重さは皆同じです。その現実をしっかりと教会員が全員で受け止めること、これを第一歩にして歩んでいきたいと考えています。私は自分が罪深い傲慢な人間であるという現実を受け入れたときに、それでも私の存在を愛してくださる神様の目を感じました。これが私の伝える福音です。この解放を共有できる場が教会であればいいと思うのですが。すなわち、教会は神様の眼差しをそこで感じられるところにならなければいけないのではないでしょうか。
最後に、少し、私が個人的にしてきた活動を通して感じたことをお話しします。私は山谷や拘置所と関わりを持って10年以上になります。もっとも大した活動はしていません。しかし、山谷に住まう人々や、拘束されている人々と接するとき、人間的評価と関わりなく神様は一つ一つの命を同じに大切にしていらっしゃるのだということだけは実感しました。神様がこの人たちと共にいらっしゃることは確実だと感じるのです。その人たちに人間が僅かな手助けをしても、神様の存在の大きさと比べれば、何の意味もないと私は感じます。その人たちの中に神様の存在を垣間見させていただいているだけです。「あの人は悪いことをしたけど本当はいい人なのよ。」とか「社会の枠組みから落ちこぼれる人は可哀想な人なのよ。」という価値観は、人間の視点からの評価に過ぎないと思います。神様はどんな命も同じに愛して下さっています。だから私は典礼聖歌集の「小さな人々」の歌が嫌で歌えません。神様の眼差しを感じるとき、私は「小さな人々」を「見守る」ことなんてできません。一人一人の中に同じキリストが居るのですよ。「見守る」なんて偉そうなことがどうして言えるでしょうか。そんな偉そうなことを言えるのは神様だけです。神様の前に、人間的な評価、価値観、人間の決める善悪は全く通用しません。すべての命は、ただ命であるというそのことだけで、全く同じなのです。教会は、それを宣言していく場だと、私は信じています。
発題3
信徒が教会そのものであるという視点と、司祭の立場からの両方から考えて見ます。私が洗礼を受けたのは第二バチカン公会議前のことです。信徒使徒職の活動を通じて学んできました。信徒、修道者、司祭、司教が同じ神の民であると言う
それぞれの役割は違っていても立場は平等であり、共同責任を持って教会の宣教に携わらなくてはならないという認識を改めて確認する必要があると思われます。信徒が教会の活動に単に参加すると言うだけではなく教会共同体の意思決定にも参加すると言う意識が育っていかなくてはならないと言うことに気がつきました。教会の本質的活動を考えて見ますと、福音を告げること、典礼を行うこと、それから愛の奉仕に生きることだと思います。これまでの教会は司祭が要理を教えたりミサを捧げ諸秘蹟を行い病人や貧しい方々を訪問し悩みのある人の相談に乗ると言うこれらすべてを司祭に頼ってきたといえる。しかし公会議以降に信徒として役割を担うことが明確に示されたのだと思う。そのためには信徒の霊性を育てる養成が必要になります。いろいろなところで其の養成のプログラムが作成されてゆくと思います。教会の宣教が言葉による働きかけではなくイエスの証人になることが基本になると思います。すべての人が安心して教会に居られるように。共同体の全員の責任でしょう。あたらしく教会に来られた方、転入された方、心にさまざまな悩みを持っておられる方、体や精神にハンディーを持っておられる方、高齢者や病人の方、青少年、子供たち、在日外国人、育児などで疲れている人たち、これらの方たちに私達が心にかけて接しているかどうか自分に問うています。これらの方々の一番の理解者になれるのは信徒です。あの信徒がいるから教会に来たくなるというように言われるように。このような役割を私達が果たして行くためには私達は具体的のどのようなことが出来るのかこれから考えて見なくてはならないと思います。
司祭の立場から考えると、司祭はこれまで伝統的に教会のことは一切引き受けてゆくシステムでしたが一人の司祭が現代の多様性に対応するには限界が来ている。 本当の教会共同体にはなっていっていないと思います。司祭に話したいのだが司祭は居ない。悩みを聞いて欲しいのに、司祭に時間が無いということをよく聞きます。司祭は状況を学び理解し信徒とともに教会の宣教に奉仕しなければならないと思います。信徒のあり方も多様であり司祭のあり方も多様であると思う。教会共同体の中でともに働く時、相互に尊敬と忍耐を持って心からの対話とコミュニケーションを取れるようにして行けたらと思います。司祭は立場上一人で教会を司牧してゆく時、あるときは孤独で苦しみ悩む時があると思います。其の時に一番心の支え頼りになるのは信徒ではないでしょうか。信徒たちとの信頼関係が無ければ真の司牧は出来ないと思います。司祭と信徒の関係はこの信頼関係が育って行くとき相互協力が出てきます。信徒は司祭に対していろいろな不満もあると思います。信徒自信が成熟した信者になって宣教活動を実践してゆくならそこから司祭も力をもらい安心して司牧をしてゆけるのではないでしょうか。先ず信徒が実行することにより、司祭は信徒を通して司牧者として成長して行かれることと思います。今日本の教会では共同宣教司牧が始まり従来の小教区のことだけではなく複数の教会を体験するのも有益なことと思います。神学校の教育プログラムにも人間性を養う体験も必要でしょう。司祭と信徒の関係の中に連帯、奉仕における一致が見えてきたとき社会への証となるでしょう。ゆっくりではあっても変化して行くことを希望しています。神よ、変えることの出来ないものを受け入れる平静と変えるべきものを変える勇気を、変えることの出来ないものと変えるべきことを識別する知恵をお与え下さい。
分かち合い ( 5 名のグループに分かれて話合いの後全体の分かち合いに入る)
A 司祭の生活環境がどう見ても普通ではない。かなりの高齢になっても自分ひとりで食事もまかなっている。ある方は家族が面倒を見ているケースもある。いずれにしても教会として体制が整っていない。信徒にも勘違いしている人もいる。教会の中は民主主義であると言う人が居る。民主主義の名の下に反対する人が居る。例えば信徒会での決定を主任司祭が否定してもそれは民主主義に反している、信徒会の決定に神父は口を出さないでくれと言ったりする人が居る。教会の中で司祭は何をし何を決めるのか信徒は何をし何を決めるのかが明確ではないところが問題である。社会の問題あり方が教会に持ち込まれてきている。叙階式のあり方でも司祭が主催者のように振舞うが現実には信徒が段取りをしなくてはならない状況が起きていたりする。互いに成熟していないところが目立つ。嫌気のさした信徒はほかの教会に行ったりしばらく休んだりする。すると司祭は、信徒は休んだり逃げたり出来るが司祭はそれが出来ないと言う。互いの立場を率直に出すほうが良いのではないだろうか。何かきれい事のようにやっている感じがする。
B 今日のテーマに関して信徒と司祭の関係と言っても、一般信徒のことかリーダー的に活動している信徒のことなのかどちらをテーマにしているのですか。教会のリーダー的な役割をになう人にはそれなりの資質が求められると思います。又一方ミサにだけ参加している人たちも居るでしょう。
C すべての人が何らかの意味で活動に招かれていると理解していますので特にテーマの扱いとしては区別する必要は無いと思いますが。
D 同じ人が異なったあり方をするので、ある時には司祭に近いところで教会行事にかかわりあってリーダー的な役割を持ったりまたそれから離れたりするのではないでしょうか。いずれにしても理想は自発的に関わってゆくことが大切であるとの考えがほかでも発言されました。リーダー的に振舞う人には参加する人が気持ちよく参加できるようにプロモートすることが大切でしょう。それぞれの役割によって振るまいは異なって来るのではないかと思います。
E 教会の中にいて教会内のある種のグループに垣根があって入れないと感じたようなことはありましたか(第2発題者に対する質問)。
F 数十年も同じ教会に子供のときから属してきているので教会に対して疎外感は感じたことは無い。長い間教会の活動に参加していなかった時代には教会で活動している人たちは清らかな人たちなんだろうと思っていた。自分とは違うんだと言った感じはあっても一方”清らか“なのかしらと疑問にも思っていた。
G いろんな人たちが教会に集まっているのでみなが仲良くやれないといけない。
教会の中で民主化ということを言うのは注意しなければならないのではないだろうか。ある教会で司祭が新しくきて「こんな司祭を送りやがって・・・」を言うような人たちがいる。そんなことでは教会は成り立たないのではないか。司祭の方に問題があっても話し合って解決してゆくことが必要ではないか。
H 司祭が交代しても変わらない土壌をどうしたら作れるのかが問題の中心ではないかと考えています。神父の環境も悪いが信徒の環境も悪いと思うのです。
I 「民主化」という言葉を教会内で口にすると直ぐに反対する傾向があります。其の方の感じている前提を理解することはできますが。この学び合いの会でこのテーマを取り上げる過程でも同じような状況がありました。しかし「教会の民主化」は第二バチカン公会議の流れの中で取り上げられている、教会の改革(現代化 = アジョルナメント)を考える正しい方向の一つであって、現在のカトリック教会のリーダーの最高峰の位置にあるカスパー枢機卿も論文でも取り上げられたものです。(神学ダイジェスト 31 号参照)しかし今年のテーマで直接「民主化」そのものを考えるのではなく方向性はそこに置くとしても「司祭と信徒の関係の現実のどこに問題があるのか」を問うことにしたわけです。いずれにしても直ぐに教会を民主化しようと言う議論をするのではなく、反対するにしても賛成するにしても、一度この視点から事柄を整理して教会を見てみることが必要であると言うことです。
J リーダーのあり方に関して話し合うのか一般的な信徒としてのあり方からか考えるのかと言った問題は、それぞれが自分自身の置かれた状況から考えてゆくことであると思う。教会の役割を担うには教会内での歩みの中で段階的に入っていくのではないだろうか、それぞれ信徒の務めをはたした人がリーダーとなって行くのが一般的ではないだろうか。
Sr. 弘田: 「学び合いの会」のようなところで自分で発言して行くことは大切であると思う。なんとなく可笑しいなと思っていても、それを話あって祈り識別して行く場は作らないと無い。自分たちの考えを声に出して言うことは一つの文化を創ると言うことです。教会の中にこのような考え方があるのだ言うことを分かりあうのは大切なことです。「教会の民主化」と言うことで 7 月 3 日に真生会館でアメリカの信徒神学者レナード・スウィドラーさんを迎えて講演会「つまずきから新しいいのちへ」(米国カトリック教会の現状とこれから)が開かれます。昨年二度来日して「教会の民主化」の講演をしています。「教会の民主化」と言うとみな「へー!」と思ってしまいますが、 10 月には正義と平和協議会は「「神の民」としての教会」(参加型教会を考え行動する)と題して東京大会がカテドラルで開かれます。其の中の議題に「教会の民主化徹底トーク」と言うのを検討中です。「学び合いの会」からも参加し発言して欲しいと思います。
中村さん: レナード・スウィドラーさんの紹介。小さな人々を見守りあうことは大切だろう。自己形成だけではなくそれを周りに伝えてゆく。意見は異なるが一つである同じ方向に向かっている姿を見たのが教会に入るきっかけになった。教会は出来上がっているものではない。不完全であっても其の中に魅力を感じる。民主化も言葉ではなく現代化と近いのではないのか。イデオロギーではないカスパーの話が出ましたが、彼の姿は素朴でそれこそ彼そのものが民主化を語っている。「カトリック教会会憲」(神学ダイジェスト 96 号)の紹介があった。
シェガレさん: 先日在る教会で高校生に対して「あなたにとって教会はなんですか」と質問したら一人の人が「神父の家」と答えたのです。「神様の家」とか「皆の家」という答えは無かったのです。現実に確かに今の教会は司祭の家になっている。司祭には家族が無いので教会がすべてになっていて、そこに住んでいる限り教会は「司祭の家」になる。意識改革として「神様の家」になるようにするだけでなく、現実に構造的改革をするとなると、司祭は共同生活をして司祭が一緒に住んでそこから教会に通うのがよいのではないかと思ったりする。
教会の民主化については、「民主化」と言う言葉に惑わされるのではなく慎重に扱って欲しい。福音的な民主化がよいかもしれないが、福音の原理と民主主義の原理は違う。全く同じではない。選挙で選んで皆が自由に発言するのだったら教会は潰れてしまう。教会の民主化は警戒心を持って慎重に扱ってもらいたい。
今回参観して下さった方のご紹介 : (今後何らかの形でご協力いただけることを期待しています)
Sr. 弘田しずえさん :ベリス・メルセス宣教修道女会員、カトリック正義と平和協議会運営委員、80年代からアジア司教協議会という組織で働かれ、アジア特別シノドス (1998 年、ローマ ) にも日本司教団メンバーとして参加された。また米国の信徒神学者で民主化運動推進者のテンプル大学教授スイドラーさんの日本での講演では、同時通訳をされるなど、広い視野からの教会のあり方を問い掛けておられるようです。最近の市川教会における講話は、「21世紀の教会を作るシリーズT「教会と女性、そして民主化」(カトリック京葉宣教協力体出版)」が発行されております。教会内の「おかしい」と思うことが具体的にわかり易く述べられています。(講話冊子購入のための連絡先は市川教会( Tel : 047-322-5488 )です。)
中村友太郎さん :上智大学文学部「人間学」教授
「自由の源泉を求めて」、「倫理にのぞむ根本姿勢」どちらもB.ヘーリング著・中村友太郎訳でサンパウロ社発行、その他人間学、社会科学、経済学などの分野の書籍の翻訳や、各種研究会での報告、発表など、さらにはキリスト教関係で「第二バチカン公会議概説」、マックス・シェーラー著「キリスト教と社会」などの翻訳も多数のようです。
以上
「学び合いの会」 2004 年の年間テーマ:「司祭と信徒との関係」
実施済み
4月17日 キリストの教会にはどのような「信徒司祭の関係」が望まれるのか。現在教会に漂っている相互不信に似た状況「教会の現状」を福音に照らして考えた。
6月12日 「信徒」は教会の活動に「参加」するのではなく教会の完全な欠けるところの無い一員であり教会そのものを「構成」するのだという事実から考えた。
今後の予定
10月16日 現在の教会の状況の中には教会の「成長」を阻害している構造的欠陥があるのでは ないかと問います。
12月11日 教会は『誰とともに』歩むのか問うところから信徒と司祭の関係を考えてみたいのです。「キリストの教会」となるためにどのような関係が必要なのでしょうか。