砂漠(荒れ野)の道 (“霊”はイエスを荒れ野に送り出した) 四旬節第1主日( 2009/03/01 )福音黙想 トマス・ロシカ師
だれか本当に四旬節を待ち望んでいる人はいるでしょうか? 四旬節について心をときめかせるものは何でしょうか? この四旬節の旅路の中でのわたしたちの試練は何でしょうか?
この四旬節の季節の朗読箇所は、わたしたちの目の前に、救いの歴史を再現するように注意深く選ばれています。
四旬節第1主日の福音、砂漠(荒れ野)の中のイエスから始めましょう。 砂漠の太陽と飢えと渇きの苦しみは、イエスに悪霊を思い起こさせます。 マルコは、ただ独り、砂漠の中の荒れ地の静寂の中で、サタンの力と戦うイエスの姿を表します。 マルコは、イエスが受けた3つの誘惑についても、イエスの断食についても記していません。 マルコは善と悪、神とサタンの間の闘いの一部としてイエスが誘惑を受けたことを示そうとするだけです。
イエスの砂漠の経験は、わたしたちに、大切な疑問を提示します。 今までの生涯の中で、自分が経験してきた「砂漠の」体験とは何だろうか? 今、自分が生き抜いている砂漠の体験とは何だろうか?自分自身は、忙しい生活の中で、いつどうやって、黙想の時間を見つけているだろうか? 自分の砂漠の中を、自分は一体どのように生きてきたのだろうか? 自分は、勇気をもって、ねばり強く悪霊と戦ってきただろうか? 自分の砂漠を、豊かないのちの場に変えることに、どのように抗ってきたのだろうか?
マタイ福音書とルカの福音書には、救い主としての使命の本質にある信仰と高潔さからイエスを引き離そうと試みる悪霊との、現在進行形の会話が描かれています。 しかし、仮にイスラエルの民が、この砂漠の試練に負けたとしても、イエスにはありえませんでした。 イエスの御父とのきずなは砂漠の悪霊さえも断ち切れないほどに強いものでした。(マタイ
4:1-11 、ルカ 4:1-13 )
(石をパンに、という)砂漠の最初の誘惑で、人間の生計手段(食料)が必要なことを否定せずに、イエスは悪霊に、むしろ人間のいのちと(「人はパンだけで生きるものではない」と)人間の生き方の大局的な見方によって答えます。 イエスに従う人々は、この世のものごとに隷属するものとはなりえません。もし、神にではなく、物質的なものに隷属するなら、わたしたちは誘惑に負け、罪に屈服することになります。
神の支配:
(権力と繁栄の)第二の誘惑は、神を差し置いて、悪魔を崇敬する問題を扱います。 イエスは、(「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ)と書いてある」と答えて)神が全てを掌握されていることを悪霊に思い起こさせます。 誘惑に負けそうになるときや、周囲のものごとが全てうまく行かず悪に引き込まれそうなとき、このことは、よく聴き、信じるために大切です。 わたしたちの運命を究極的に支配しているのは神である、ということです。 第三の誘惑で、悪魔は、(「神の子ならここからとびおりたらどうか」と言って)イエスへの神の愛を試すように求めます。 イエスは、(「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになり、)神が自分を愛することをだれにも証明する必要はない、とお答えになります。
誘惑は、すべて人を小さく、醜く、みすぼらしくします。悪は、考えつく最も巧みな動きを誘惑に使います。 悪魔が人を支配すればするほど、私たちは、悪魔がこの地球上のありとあらゆるものを得ようとして戦っていることを認めたくなくなってしまいます。 イエスは悪魔に勝手をさせませんでした。 この世との、そして人間一人ひとりのための戦いの開始に当たって、イエスは、公然と敵に対峙しました。 疑い、混乱、誘惑の闇の中で、イエスは聖書という力を用いて己の戦いを開始しました。 このイエスの模範を決して忘れてはなりません。 それは悪魔のごまかしに乗らないためです。
神が現存され、わたしたちが試練や誘惑に会い、罪を犯したときにさえ、わたしたちを支えてくださることを、イエスから学びます。 そこで、わたしたちは日常生活の中に霊的な場を設けるべきことに気づきます。 その霊的な場でわたしたちは、まといつく贋ものの化けの皮をはがし、自らの理想に新しい命を吹き込み、もう一度始められるのです。 希望の種子を覆っているもみ殻を除いて、それを花開かせることが神はおできになる、と信じるようになります。 これらが砂漠の教えです。ですから、日常生活と仕事の活動の間でさえも、わたしたちには、祈りの時、静かに考える時、神の御声に耳を澄ませる時が必要なのです。
罪、利己心、嫉妬、効率、孤独、冷笑、絶望の砂漠の中にあって、わたしたちは神に出会います。 神に心を開いて、自分自身の砂漠に、神が花を咲かせるままにすれば、砂漠のただ中で、神のご意志が聞こえてくるのです。 砂漠の中にある道は、イエスの御心の深みにありました。 そしてイエスに従う者全てにとっても、それは同じであるはずです。
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The Ways of the Desert
Biblical
Reflection for 1st Sunday of Lent 2009
By Father Thomas Rosica, CSB
TORONTO, Canada, FEB. 25, 2009 ( Zenit.org
) .- Does anyone really look forward to Lent?
What is it about Lent that excites us? What aspects of the Lenten journey test
us? The Scriptural readings for this season are carefully chosen so as to replay
salvation history before our very eyes.
Let us begin with Jesus in the desert -- the Gospel for the first Sunday of Lent. The desert sun and the pangs of hunger and thirst conjured up the demon for him. Mark presents Jesus wrestling with the power of Satan, alone and silent in the desert wastes. Mark's version of the temptations of Jesus does not mention three temptations, nor does it say that Jesus fasted. Mark's whole focus is on presenting the temptations of Jesus as part of the great struggle between good and evil, between God and Satan.
Jesus' desert experience raises important questions for us. What are some of the "desert" experiences I have experienced in my life? What desert experience am I living through right now? When and how do I find moments of contemplation in the midst of a busy life? How have I lived in the midst of my own deserts? Have I been courageous and persistent in fighting with the demons? How have I resisted transforming my own deserts into places of abundant life?
In Matthew and Luke there is an ongoing conversation, as the prince of evil attempts to turn Jesus aside from the faith and integrity at the heart of his messianic mission. But if Israel had failed in the desert, Jesus would not. His bond with his Father was too strong for even the demons of the desert to break.
In the first temptation in the desert, Jesus responds to the evil one, not by denying human dependence on sustenance (food), but rather by putting human life and the human journey in perspective. Those who follow Jesus cannot become dependent on the things of this world. When we are so dependent on material things, and not on God, we give in to temptation and sin.
God's
in charge :
The second temptation deals with the adoration of the devil rather than God.
Jesus once again reminds the evil one that God is in control. This is important
for us to hear and believe, especially when our own temptations seem to overpower
us, when everything around us might indicate failure, shadows, darkness and
evil. It is God who is ultimately in charge of our destiny. In the third temptation,
the devil asks for a revelation or manifestation of God's love in favor of Jesus.
Jesus answers the evil one by saying that he doesn't have to prove to anyone
that God loves him.
Temptation is everything that makes us small, ugly, and mean. Temptation uses the trickiest moves that the evil one can think up. The more the devil has control of us, the less we want to acknowledge that he is fighting for every millimeter of this earth. Jesus didn't let him get away with that. At the very beginning of his campaign for this world and for each one of us, Jesus openly confronted the enemy. He began his fight using the power of Scripture during a night of doubt, confusion and temptation. We must never forget Jesus' example, so that we won't be seduced by the devil's deception.
From Jesus we learn that God is present and sustaining us in the midst of test, temptation and even sinfulness. We realize that we must have some spiritual space in our lives where we can strip away the false things that cling to us and breathe new life into our dreams and begin again. We come to believe that God can take the parched surface of our hope and make it bloom. These are the lessons of the desert. That is why we need ? even in the activity of our daily lives and work, moments of prayer, of stillness, of listening to the voice of God.
We meet God in the midst of our deserts of sinfulness, selfishness, jealousy, efficiency, isolation, cynicism and despair. And in the midst of the desert we hear what God will do if we open our hearts to him and allow him to make our own deserts bloom. The ways of the desert were deep within the heart of Jesus, and it must be the same for all who would follow him.
朗読:
創世 9:8-15 ; 神はノアと彼の息子たちに言われた。 「わたしは、あなたたちと、そして後に続く子孫と、契約を立てる。 あなたたちと共にいるすべての生き物、またあなたたちと共にいる鳥や家畜や地のすべての獣など、箱舟から出たすべてのもののみならず、地のすべての獣と契約を立てる。 わたしがあなたたちと契約を立てたならば、二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない。」 更に神は言われた。「あなたたちならびにあなたたちと共にいるすべての生き物と、代々とこしえにわたしが立てる契約のしるしはこれである。 すなわち、わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる。 わたしが地の上に雲を湧き起こらせ、雲の中に虹が現れると、 わたしは、わたしとあなたたちならびにすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた契約に心を留める。水が洪水となって、肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない。」
1 ペトロ 3:18-22 ; キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。 そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。 この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。この箱舟に乗り込んだ数人、すなわち八人だけが水の中を通って救われました。 この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです。 キリストは、天に上って神の右におられます。天使、また権威や勢力は、キリストの支配に服しているのです。
マルコ 1:12-15 ; それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。 イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。