発題 現在の教会に事実ある4つの異なった考え方から発題しました。4人の参加者代表の発題ですが発題者の意見ではなく、意識的に設定された発題のそって発言されます。
1.「準備なしても希望する人には洗礼を授ける」
先日カトリック新聞に、成人洗礼の年間受洗者数の記事が載っていましたが、昨年度は56年ぶりに4000人台を割ったと言う事でした。私は受洗者数にこだわって居るわけではありません。私の所属する教会では、洗礼の為の入門講座は、週に一回の割合で約一年間受講します。受洗後は半年ほどのフォローアップ講座があります。さて、私は常々、洗礼を受けるために、何故、長期間の勉強が必要なのか疑問を抱いています。キリスト教の教義や聖書の知識がなくとも「私は、神を信じます。イエス・キリストを信じて生きていきたい」という望みを持って、教会の扉を叩いた方には、すぐに洗礼の恵みが与えられるべきだと思います。
長い間、ご家族と一緒に、日曜日のミサに与かっているお父さんがいらっしゃいますが、彼は、いまだに洗礼を受けていません。それは、入門講座に出席する事が難しいからです。週日は会社が多忙で、なかなか時間がとれないということもありますし、また、勉強するという事に、怖れもあるようです。「途中で通えなくなるかもしれない」とか、「講座の内容がわかるか心配」とか、「一緒に受講する人とうまくやっていけるか心配」など、胸中はかなり複雑です。バザーなどの教会行事にも参加して下さるのですが、「私は信徒ではないので」といつも裏方に徹していらっしやいます。そんなお父さんをみていると、信徒としての恵みを受ける事ができずに本当にもったいないと思ってしまうのです。キリストとの出会いは、百人百様です。
この方のように、ご家族を通してキリストに出会う方、ミッションスクールでの学校生活を通してキリストに出会う方.キリストを信じる友人を通して出会う方、又、この世の苦しみの中で、必死に救いを探し求めて、やっとキリストに出会った方など、一人一人にドラマがあります。この一人一人を、キリストまで導いて下さったのは聖霊の働きです.1億2000万人の中で、何人の人がこの聖霊の働きに導かれて、教会に足を運んで来るでしょうか. それぞれが、キリストとの出会いを「生活の中」で体験してます。その体験を通して「キリストを信じて、洗礼を受けたい」と願う人は、もう既に秘跡を授かる準備ができていると私は思います。
放蕩息子のたとえを思い出して下さい。私たち全ての人間は、神の子どもです。神であるおん父から沢山の恵みを頂いて生きています。でも、その恵みに気付かずに、自分の力だけで生きていると思ってしまうのが人間でしょう。まるで、あの放蕩息子のように.放蕩息子は父を捨て自由奔放な生活の中で、次第に行き詰まっていきます。これまで頼りにしてきたあらゆる物が自分から離れてゆき、生きる望みを失ってしまった。 そうして、父を思い出しました。父に救ってもらいたい、父に赦してもらいたいという思い、そんな息子を父親は責めることもなく、満ち溢れる愛で、だきしめてくれました。
父親にとって、息子が再び戻ってきたことが、このうえない喜びでした。現代は真実が見えにくい社会です。肴望が持ちにくい世の中です。何を信じて行けば良いのか、生きることがとても難しい毎日の生活の中で、幸いにも神に出会いキリストに救いを求めて教会を訪れた人は、まるで父のもとに戻ってきた放蕩息子のようではありませんか。父親は帰って来た放蕩息子の為に、すぐに最高の祝宴を開きました。けれど、それを見た兄は「何故、親不孝な弟のために祝宴を開くのか」と不服でした。この兄の思いは、人間の思いでした。 父である神の思いとは違っていました。洗礼の秘跡をすぐに授けることが出来ない今の制度は、「何もわからない人に、信者としての資格を与える訳にはいかない」とかあるいは、「何かに対する不安や怖れ」とか、そういった人間の思いが強いからではないでしょうか。それは神の思いとは異なると思います。神は無条件に、どんな人にでも、ご自分の愛を伝えたいとお望みだからです。
洗礼の秘跡とは何でしょう。それは「私は神の子です。」と人々の前で公に宣言することでより強く神と結ばれる恵みの、日に見えるしるしです。これまでの自分の生活を振り返り、今日からは新しい人となって、父の愛の中で生きること誓い、教会共同体の一員となる儀式です。今は、昔のいわゆる「公教要理」の勉強ではなく、いろいろと研究された「入門講座」が行なわれているようですが、講座を受ける前に、洗礼の恵みを受けることによって、さらに信じる心が深められ、信仰者としての大きな力となる事でしょう。そして、教会共同体の一員となって、人々に支えられ励まされ、祈り合って、私たち信徒は成長していくと思います。信仰者としての恵みをいただいて、福音の喜びを伝える者となれるでしょう。 長い講座を受けてやっと受洗しても次第にミサに与らず、共同体からもすっかり離れてしまう人も多いのです。信徒としての使命を、全うすることができるかどうか、それは私たちが教会共同体としての責任を担いつつ、私と神という一対一の契約の中で、求め続け、深めていくもだと思います。永遠の生命にはいる為の「入門講座」は、洗礼を受けるためのものではなく、信徒として生涯、学び続けていくものだと思います。
2. 「洗礼は2年間ぐらいじっくり学習させてから授ける」
洗礼まで時間を掛ける理由
1.カトリックとは何かを学ぶには、内容的に時間が必要:
洗礼を受ける、すなわち、キリストの教会に入る(入信)人は、いくつかの段階を経てキリストに近づいていく。(1) 求道期(入門者)、(2) 洗礼準備期(受洗志願者)、(3) 受洗 (4) 受洗後の復活節を教会共同体と共に過ごし、教会の教えを学んでいくことが望ましい。
現代の「入門講座」は、1年間3単元で、「自分に出会う」、「キリストに出会う」、「教会に出会う」としている。1年では、相当な駆け足であり、2年間ぐらいかけるのが適当である。そして、洗礼を受けるためには、教会の伝統的典礼歴に従って、待降節のはじめ頃に入門者として教会共同体に紹介され、四旬節第一主日からは「洗礼志願者」として復活祭までを共同体と共に過ごすことになる。洗礼は、それらを経て、復活徹夜祭に入信の秘跡」として行なわれる。(洗礼の準備は、キリストを「認める」ためのものです。それはイエス自身が、人々は私を何者だと言っているか」、「あなたがたは私を何者だと言うのか」(マルコ8・27〜29、マタイ16・13〜16、ルカ9・19〜20)と問いかけているからであり、教会は洗礼志願者がこの問いに答えられるよう指導し、助けるのが務めです。)
2. 信仰を固めるには十分な熟考の時間が必要:
・熱し易く、冷めやすい信仰であってはいけない
・一時の興奮状態で洗礼を決めてはいけない
・ご利益的必要性で洗礼を授けるものではない
3. 教会共同体になじんでいく必要:
「求道者は教会の準会員で、すでに共同体と関係がある」、「求道者にとって必要なことは、教義や戒律を教えられることよりも、キリスト教生活全体、その人の生活がどう変わるか、その人の生活が信仰によってどのように豊かなものにされるかそれが中心である」(宣教活動に関する教令14番)
少なくとも1年以上にわたって教会共同体との付き合いをしなければ、知識とても教会のことがわからない。紹介者のない人にとっては、共同体の中に人間関係ができ、代母、代父を依頼するにも人を知る必要がある。
『成人のキリスト教入信式』という儀式書(1976年3月30日発行)の緒言に従うことが望ましいことです。入信する求道者は段楷的に、共同体の中で秘跡の準備をします。入門講座は司祭やカテキスタあるいは信徒の先生が担当するかもしれませんが、求道者を育てる究極的な責任は信者の共同体であるということを、新しい儀式書は非常に明確にうたっています。求道者は信者の共同体の中で段階的に信仰に近づいていきます。この式が実は教会を本当につくる秘跡なのです。
くイニシエ−ション:国井健宏師」福音宣教と入信の秘跡)
3. 「日本の教会の現状は受洗者を増やせる状況にないからあまり授けない」
1.「洗礼」は様々な側面から考えられるでしょう。少し考えるだけで、「洗礼」について、大切であると考えられる事をたくさん上げられるでしょう。然し、大切な事といっても、その重要度に順序があると思います。その辺のところを取り違えるとこれからの発題は理解できないかもしれません。
2.出発点は「『洗礼』は信仰共同体への加入儀礼である」と言うところにあります。「洗礼」は、個人の回心と準備に留まらない。教会共同体の出来事である。イエスを信じる信者が集められるのは教会共同体であって、その仲間への加入だと言うのが中心点です。
3.その意味で、入信を準備される方は、共同体抜きに準備は出来ないのです。そこに自分を受け入れてくれる共同体が現実に存在していなくては、入信を十分に準備する事が出来ないのです。従って、洗礼の準備には、受洗者を受け入れる教会共同体の準備が、教会にとって最も大切な準備になるのです。
4.現在の、日本の教会の現状をみていると、入信者の準備は入信を希望する方に司祭が要理教育を授ける形が殆どで、信者の共同体としてその方を受け入れ共に祈り共に学びあって、共同体がその方と共に「洗礼」の準備をしているところは殆どない現状と思われます。
5.日本の現状はその意味での共同体が不在で見えないのではないでしょうか。
6.ですから、せっかく長年熱心に準備された受洗者も、しばらくすると教会から遠のき、見えなくなることも、少なくないのではないでしょうか。それは、受洗者が悪いと言うよりも、それらの方々が本来帰属すべき共同体を現在の日本の教会では見出すことが出来ないその結果そのようになると思われるのです。
7.その意味で「日本の教会の現状は受洗者を増やせる状態では無い」と言いたいのです。だから「洗礼をあまり授けることが現実に出来ない状況ではないか」と言いたいのです。
8.ごく少数のケースかもしれませんが、「洗礼」を希望される方の背後に共同体が見える事はあるわけで、そのときには無論喜ばしい事です。例えば、定年退職した夫が奥さんや家族の影響で受洗を望まれる場合です。この場合、家族全員で準備をしていると思います。司祭に任せるだけではないでしょう。家族全員が信仰を学びあう良い機会になっているはずで
す。
9. 信仰者の道のりは険しいのですからどうしても共同体が必要なのです。信仰体験を分ち合い、励ましあい、癒しあう仲間がなくては、信仰は生きられないとおもうのです。
10.洗礼志願者と共に共同体は「洗礼の準備」をするのが四旬節だと理解されているのは、ご存知の通りですが、現実はいかがでしょうか?本来は四旬節だけでは十分ではないと思うのです。典礼が空虚になってしまう最大な原因は、実態が典礼の「しるし」に伴なわない時です。現実の実態が典礼に先行して準備されていなければ、典礼はその目的を果たす事は出来ないと思います。
11.共同体の重要性については「学び合い2年間」の間にも沢山学び合ってきましたね。NICEのメッセージでも最近の教会の公的文章にも多く語られています。
12.教会が共同体として生きている時に、新たな受洗者をお迎えする事が出来るのではないでしょうか。復活徹夜祭には、新たな兄弟姉妹の誕生に共同体全員が友を迎えた喜びと、目の前に現実に現れた、共におられる神の業にたいする感謝に満ち満ちるのではないでしょうか。
13.復活徹夜祭の洗礼式を、どれほど心から喜び感謝できる共同体であるかによって、逆に自分達の属する教会がどれ程、信仰の共同体性を生きているのか分かるのではないでしょうか。
4. 「洗礼を授けることにこだわるべきではない」
私たち古い信者には自分でも気付かない無意識な次元において信仰のとらわれがある。信者の中には夫人が信者でご主人が信者でない方が多くいらっしゃいます。どなたかのご主人が洗礼を受けたと言う事になると、羨望の眼差しが起きて自分の夫も何時の日にか受洗させたいという強迫観念のようなものが感じられます。私の友人が夫の定年退職後は妻に面倒を見てもらいたいと言う思いがありそれなら受洗をさせようといった、受洗の動機が不純な友人がおります。
自分の夫も信者ではないが、私は夫に洗礼を望んだことは無いと思います。彼が受洗するとか、しないとかと言ったことではなく、一人の人間として成熟して欲しいと願っている。結婚している間に夫の中にいろいろな変化、変わってきたなと言う過程を見守りたいと言うような思いが一番強いように思います。彼が人生の辛く苦しい道のりの中で、自分の弱さを受け入れるのは難しい。男が自分の弱さを受け入れるのは非常に難しい。彼が挫折を乗り越えて安らぎの心境になって欲しいと願っています。それが自分の一番の願いではないかと思います。
全ての人が天地創造の時から、神様の恵みに包まれて生きているとニコラス神父様が教えて下さいました。神様の自由の中に居る事を何より大切にしたいとおもっています。家庭生活の中にも神様の恵みが見えていて、小さな気付きや発見があって、その発見に励まされて生きる力を得ていると思います。神様は信者であるとかないとか関係なしに自由に何ものにもとらわれないのだと言う事を体験しています。私達はいろいろな過去の教義とか掟に縛られて神様の自由の恵みが分からなくなっている。一人一人の人間を在りのままに受け入れてゆくと言う眼差しを受ける目にうろこが掛かっているように思います。自分が長い間、目にうろこの掛かった信仰のとらわれの中に生きていたなと言う事に気付くようになりました。心の狭さを思い知らされて、信仰を云々する前に、一人の人間として成熟してゆく事が大事ではないかと感じています。
参加者の意見の発表
6グル−プに分かれて分ち合いを40分行なった後各自の意見が発表されました。
「A−I」はその幾つかの意見の要旨です:
A 「洗礼」についての4つの発言は、それぞれに理解できるが、結局は「今の教会共同体は健全か」と言う問題に帰着する。
B キリスト教は、欧州では生活基盤だが、日本では社会に背を向けて生きている事になる。若い人々に教会を支える事を期待できるか。冠婿葬祭の教会と言う事に成り果て、それでよいのかもしれない。
C 発題4に関して、人間的成熟、良い人への成長は大切な事だが、それと信仰とは別の問題ではないか。「絶対的に神が私を受け入れて下っている」と言う保証、それが洗礼だろう。
D 『洗礼』が教会内の人と外の人を区別する事を改めて聞いてショックであった。
E 発題2の日本の「洗礼準備」は多忙な若い人の現実にそぐわないと思われる。若い人々の求めるものにどのように合わせられるのか。入信は知識を学ぶより神の恵みではないのか。
F 発題1と4は日本の現実を示している。それを踏まえて教会共同体をどうするかが課題と思われる。
G信仰にとって大切なことは「神との出会い」にあり、それが洗礼と言う秘跡の形で表されている。教えも大切だが二義的といえないか。良心的な人はキリスト教と関わりなく多数いる。その人々との共生がキリスト者にとって大切だ。
H 幼児洗礼も教会にとって大切なこと。自分達自身が子を持つ親の世代になっており、子供の信仰をいかに育てていくかは大きな課題である。
T 受洗後し.ぱらくすると教会に来ない人が相当いる。知識的なことよりも、個人的な神との出会いが大切なのではないか.また、受洗後の教会内の支えが必要なのではないか。信仰上の問題に限らず、自分の苦しみや痛みや疑問を率直に分ち合える人人との交わりが必要ではないか。
神学的コメント :
今日の発題のやり方は非常に良かったと思います。四人が異なった視点から発題して、四人とも、みなそれぞれに説得力のあるような良いポイントを指摘していました。
洗礼が教会と教会外との区別の鍵となるという指摘がはじめにありました。それに関連して、それはどのように理解すべきかと言う質問がありました。形としては、洗礼が鍵となっていますが、実際はどうかと言うと、そうではないという事も経験的にも分かりますし、歴史的に言ってもそうではないのです。初代教会の教父は面白い表現を使いました。「アベルからの教会」(カインとアベルのアベル創世記4章)という表現をしました。心の教会はアベルからです。
善意のある人は皆、何らかの形で神の救いの中にある、それらの人々は広い意味の教会の中に居る、といった概念もありました。中世に至り考え方が狭くなり始めました。特にアリストレス哲学の影響で、洗礼が救いの絶対的条件になるまでは、そうではなかった。救いは神の恵みです。洗礼は教会の「しるし」です。だから、洗礼と救いは同じではない。私達の「しるし」は神の恵みを束縛してはいない。マルコ福音を少し狭く考えすぎた点があったのです。
今日の分ち合いの中にもたくさんの方が指摘したように、教会の外に良い人がたくさん居ます。教会の中でも、教会に来ない人の中にも、一杯います。同じような体験は中世期にも有りました。神学者は救われるためには「望みの洗礼」があればそれで十分だということになりました。20世紀になり「洗礼を望まない人」は救われないのかとの問いがでてくると、「チャンスがあれば望んだであろう人」も救いに含まれるとしました。そこまで来ると、正直に言って、「しるし」は相対的になってくると思います。
良いことは一つしかないと考える誘惑を神学者は持ってしまう傾向はあります。救いのためには、洗礼を受けて、キリストの道に入って、キリストとともに歩むのは良いことですが、いつのまにか、福音宣教のために、この道しかないと言うことになってしまう。然しそうではない。イエスは百夫長の信仰を褒めましたが、彼はユダヤ人でもクリスチャンでもなかった。パウロの信仰の模範はアブラハムですが、彼もユダヤ人でもなくクリスチャンでもなかった。限られた世界から出て神に向かって歩んでゆく、アブラハムのような信仰の持ち主は日本にたくさん居ます。彼らはクリスチャンにはならないかもしれない。
根本的なところを私達は考える必要があります。メインポイントは今日の分ち合いの中にもはっきり出ていました。大切なのは秘跡ではなくて、人生そのものでしょう。どのように生きるか、どのように恵みによって生かされるか、どのような照らしに従ってゆくのかがメインポイントです。教会の目的はそのような人たちを助け、励まし、そのような人の救いに貢献することにあります。その人がより豊かに生きるためにやはりキリストを悟ってキリストと共に歩むとすれば、共に歩む「しるし」は洗礼になります。新約聖書時代にも「その日には、この新しい道に入った人は…でした」と言う表現がありました。
心がどのようになっているのか。人の状況は様々です。いろいろな段階いろいろな悟りいろいろな歩みがある中で、一つにまとめる事は出来ません。神の前にはいろいろな可能性があります。我々はそれを変えることは出来ません。信仰の歩みも様々だと思います。皆さんはその違いを今日分ち合ったのです。信仰のプロセスから言えば「悟り―イエスの道―教え―組織(教会)」です。「道」は様々です、その人が何かを悟ってキリストを自分のものにしたいと思う、心の問題と考えた方がよいのです。それは聖霊の働きでしょう。
日本では聖書研究**勉強、**学びとか言った頭の問題が強調されているような呼び方が多いように思えるのですが、心の問題を先行させることが大切です。洗礼は「道に入る」前後がよいのではないかと思います。「教え」の時期では遅すぎるように思われます。教えは信仰生活の助けとして時間を掛けて紹介していけばよいと思います。それにアフタ―ケアーが必要でしょう。「教え」には歴史的文化的或る時は政治的な面が絡んできます。「教え」は絶えず新たに表現し直してゆく必要があります。 神学では人は救われないのです。教会のシステムに関してはたくさん内容が有るので準備段階で学ぶのは負担が大きいでしょう。洗礼の準備段階では心の側面かどのように変わって行くのかを大切にすべきでしょう。われわれはある意味で一生涯準備しているのです。
最近日本に来ているフイリッピン人たちの中にはあまり勉強していない人は少なくありませんけれども深い信仰を持っている人が居る。幼児洗礼は3世紀の頃から問題になっていた。信仰がないのに何故洗礼を授けるのか疑問がでてきたのです。洗礼にはアフターケアーがなければ余り意味がありません。日本の多くの教会には子供のためのプロセスやプログラムがない。中学生になるとミサに退屈して教会に行かなくなる。無理して堅信までいってもそれが卒業式。アメリカでも同じで堅信が最後でそれから教会に来なくなるとよく言われています。
第二バチカン公会議は洗礼を大切にしようとしました。大人のためにも洗礼を意識化する(RCIA)プロセスがアメリカでは取り入れられて大きな力があったのです。さっき紹介のあった「成人の洗礼式」と言う本が出されていますが、日本ではどのように生かされているのか分からない。識別を入れてゆく必要がありますし、システマチックな「教え」は後でも良いので、洗礼の準備には黙想、祈り、仲間の中に参加することが大切でしょう。
カトリック教会に行くと共同体に入らないとならないから嫌だという人も居ます。既に多くの共同体に属していてまた教会の共同体かということになる。共同体への参加も様々です。共同体は基本的なものと思いますが、洗礼を受けてキリストの者となれば、人は共同体的になってゆきます。人々に対して関心を持つようになり、人を大切にし、ゆるしあいは常識の中に入ってくるでしょう。出来れば同じような心を持った人たちと共同体を作ってゆく、教会の中で出来なければ、自分が既に属している共同体の中をより共同体性の強いものにしてゆくこと、これは課題として、広く考えてゆく事が出来ると思います。そこにも様々な形、様々なやり方あり方があるでしょう。そのようにして「洗礼」から来る共同体性は生かされるのではないでしょうか。
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