信仰と生活の遊離

「学び合いの会」10月4日記録

テーマ:「信仰と生活の遊離」

出席者総数 38名(「学び合い2年間コース」1期21名 2期14名 他3名)
(コメンテーターを含まず)
森師・ニコラス師・松田師もコメンテーターとして出席

1.連絡事項:

会費は参加の都度500円支払いでも良いが、年間会費制を取り入れ年会費を支払ったかたには、欠席時にも資料や記録があれば配布することにした。今年は今回と12月例会分で1,000円。

 

2.課題説明

テーマは「信仰と生活の遊離」です。「信仰と生活の遊離」と言った発想は、ナイスの時点より司教団から打ち出された問いであり、二年間の「学び合い」自体がこの問題意識から誕生したとも言えるだろう。われわれ信仰者はこの投げかけをどのように現時点で受け止めているのだろうか?「信仰と生活の遊離は本来有りえない」「信仰と生活の遊離はあるべきである」「信仰と生活の遊離といった発想自体が誤りだ」等々と言ったような様々な考え方があるだろう。

三人の発題者は現代の信仰者が一般に考えていると思われる考え方を想定して発題することにした。しかし、問題は「遊離」にあるのではなく「信仰」と「生活」の関係がポイントだと言うことである。発題者は自分の意見を必ずしも発表しているわけではありません。

 

3.発題

(1) 「信仰と生活の遊離は本来ありえない」

私には「信仰と生活の遊離はあり得ない」と言う発題があたえられました。信仰生活十年余りで心に強くなりつつある思いを教えられた言葉でお話します。

 私は先日夢をみました。私を入れて三人で話をしていてそのうちの一人が「私のすべては忘れられる」と言ったのに対して、もう一人が「いやあ、貴方は私が生きているからには忘れられることはない」と言ったのです。いつも夢はすぐ忘れてしまうのに、妙にはっきりと「そうだ」と思って目がさめました。

  信仰という言葉は、私には‘FAITH’即ち‘忠実’であると言われて一番良く解るような気がします。それは国民学校六年生の時に戦争が終わり、中学一年になって真黒に塗り潰された英語の教科書で‘FAITH’が忠君愛国の‘忠’であることを知ったからです。若い人々が体を国に捧げて死んでいったということで、私の理解にとって十分であるからです。

 イエスとの出会いは「貴方が生まれる前から貴方を知っており、貴方の名前を付け、そして貴方は私のものだ」と言う呼びかけに始まり、神が人生の真実をそのまま具体的に語り出しているのは、他ならぬイエスの言葉と活動と人格においてであることを知ります。

  人間にとって人の心より深いものはこの世界では他になく、心が人間の、存在と思い、憧れと自由を統一する原点であると説く聖書との毎日が続きます。常に成長し自分を変えるように努めながら、純粋で深いところを求め、自分の思いと意思を無防備にしたまま、神の光の意志との生きた交流の中に、自分を置く事が必要だと決断します。そして貧しいまま、小さいままの道を求める者になり切るよう切望します。

 福音を一度受けたものが、そこから離れ、神なしに自分自身になろうとしても、それはもはや不可能です。

  イエスが繰り返し勧めている道は、自分の有限性を深く自覚することであり、まず悲しみ、孤独、悩みなど、それ自体では消極的な経験ですが、それらこそ日常的な意識に対しては隠れていた自らの深みを顕わし、かけ替えのない自己を救いに対して、自ら開くことの出来るものとして、自覚させます。神の憐みの深さです。

  そしてこの世の生活では、自分も、家族の一員もコミュニティーの一員も、国民の一人一人も、そして人類の一人一人が共に十字架を担っていることに深い思いをいたさざるを得ません。その現実から逃げ出さないこと、その場で起きる変化に、何時も自分自身を開いている事が信仰者にとっての、せめてもの心の努めではないでしょうか。「汝の敵をも愛せよ」は「汝の敵をこそ大切にせよ」と読み直す時代が到来しつつあります。その時私たちに対する根源的語りかけと力づけを真剣に考え、深く黙想し、光を願って祈ることは、人類の救いに直結することではないでしょうか。

 

(2) 「信仰と生活の遊離はあるべきである」

初めに、アダムに罪と死が入り人はそれを受け継いで生まれてきます。罪のなせる仕業はいまや大きな力となって世界に満ちています。地球全体がまるで呻いているようでなりません。日本の社会も病んでいます。

人と人の関わりが希薄になっていますし、話や言葉が表面的でそれがおかしいという感覚に満たされています。

そんな社会の中では青少年は希望を持つことが出来ません。犯罪が多発しているのも何かわかるような気がいたします。リストラ、経済的破綻、今まで物を中心に生きてきたので、もともと生きる力が弱いのです。そしてキリスト信者の家庭でも同様に苦しんでいるのではないでしょうか。

さてその一つ一つの家庭が再生することを病んでいる小さな最も身近なところから心をかけてゆくことが大事でしょう。日本の信者は少ないと申しますが、家族を含めましたら相当な数になると思います。どうしたら再生するのでしょうか。私は主イエスキリストの命をクリスチャンはまず自分の家庭に持ち運ぶことではないかとおもいます。ゆっくりと確実に人は癒されて行くのです。しかし現実的に信者がいのちを運ぶ役割を果たす事が出来るかと申しますと、その辺に教会の問題があるように思われるのです。

教会において信者の信仰の重心が外向きになっていること、礼拝に熱心に出席、自発的に活動、親切、しかし、信者の心の中に自己愛をしっかり持っていてその事があれこれ望ましいことにはならない。

説教者の説教は神学・聖書の学びに熱心であるが偏りがあるように思うのです。人はそれでは成功しないのです。全身で向かっていく言葉がほしいのです。

さていのちに戻るにはやはり決心してすべてをもって主イエス・キリストに向かうこと。空っぽになってただただ主イエス・キリストに頼ることを、あの主の十字架はありとあらゆる苦しみを持って人の側にたっていて下さったことを、十字架において神さまからも捨てられたその暗い世界にも落ちて――なさったいのちをなんとしてもほしい。今のままでは遊離したままであり、よほどの決心が必要だと思っています。

 

(3) 「信仰と生活の遊離といった発想自体が誤りだ」

信仰と生活を対立構造で捉えるところがまず問題だと思う。この二つは別のものであるといった発想自体に納得できない。信仰イコール教会であり祈りであるととらえることは教会によくある。生活、活動は世のこと、教会外でのことといった考え方である。しかし信仰生活という言葉があるように、信仰とはイエスキリストに希望をおいた生き様であるともいえる。とすれば日常の中で、家族の健康や幸せを祈り、日々の糧を求め、平安を願うことはほとんどのキリスト者が日課としていることだ。にもかかわらず、ナイス以来、さかんに「信仰と生活の遊離」と言う言葉が出てくるのは、そこに問題があると思われているからからだろう。いまだにこれが問題とされているとすれば、一つには、私はこの「信仰と生活の遊離」という言葉を、「あなたはキリスト者としてどのように生きようとしているのですか」と言い換えた方がよいと思っている。

また、「生活」などの言葉をどのようなイメージで、どのような中身で捉えているのかについての相互確認、すりあわせのようなものが必要だと実感している。先日体験したことを通してお話ししたい。先日私たちの教会の百人ほどが集まる連絡会議の場で、「本当にこの道でいいのでしょうか」(日本カトリック司教協議会・社会司教委委員会 2003年7カ月25日付け)を読んでの話し合いが行われた。「平和のために皆さん何が出来るでしょう」という問いかけであった。グループディスカッションでは様々な意見が出てきた。「このメッセージは何を言っているのかわからない」「日本一国で平和は守れない」「デリケートで教会の取り上げる問題ではない」「テロリストに教会が囲まれたらどうする」「戦後教育を受けた自分は平和憲法を守りたい」――などなどで、これは私たちの教会だけでなく、この場でもさまざまなご意見があると思う。「平和」という言葉はミサ毎に繰り返される言葉であるけれども、中身のない言葉を使っていることを実感した。「生活」と言う言葉も同じではないだろうか。子供のこと家族のことを祈るけれどもそこから出てゆかない。戦争を支持することで、子どもたちが戦場に狩り出されることになるかもしれないのに。政治アレルギーの信者は依然として多い。経済の問題、失業、リストラは私たちの生活を直撃しているけれども、信仰とどのようにかかわりをもっているのか、いないのか。教会の中で語られている言葉が上っ面なものに見えてくる。

教会に必要なのは様々な問題について皆で語り合うこと。私たちは社会に対して発信できる多くの宝を頂いているはず。それを発信してゆかなくてはならない。平和のために全人類にどのように貢献できるのかをもっともっと話し合い、おかしいと思うなら、教会から出されたメッセージであっても、そのように発言すべきだし、その場も必要だ。そして「キリスト者としてどのように生きようとしているのですか」と自分にも相互にも問い続けていきたい。

 

4.グループでの分かち合いの後、全体での意見交換の要点

 自分は出来ることをして出来ないことは許していただく姿勢で信仰を生きてきた。教会では戸惑うことやショックを受ける体験がある。教会は何を教えてきたのかと戸惑うこともある。

 信仰の捉え方の差で結論にも差が出てくる。生き様を信仰と考えるなら遊離は起きない。常に福音の喜びに生きるなら遊離しない。しかし現実には遊離は起きるので常に福音へ立ち返る必要がある。

 本来的には信仰は生き様であるから遊離は考えられないのだが、現実には平和とか愛とは何かを問うてゆかないといけないのではないか。

 信仰は社会の流れの中で生きてゆくのであるから社会とマッチしてゆかざるをえない。一方教会に居る時と教会のそとに居る時では同じ人間が違った振る舞いをするのを見かけることもある。教会を特別視しすぎているように見えることもある。福音の原点に立ち返って教会の中でのあり方と外でのあり方の一致を考える必要があるだろう。変革の時代に来ているように感じる。

 教会に大いなる責任がある。聖と俗で信仰を教えようとしたところが問題でのある。現実の小教区の主任司祭も信徒の生き方として、近所付き合いよりも教会付き合いの方を重視しているようなところもある。教会の本質的なところに教会自体が遊離をかもし出している。近年信徒も自信をつけてきて自分で自分の言葉で考える人が出始めてきた。今日の発題者も3人とも自分の言葉で語っていそこに感心した。遊離は教会の欠陥であってわれわれ信徒に投げかけられるべき言葉ではない。

 遊離は教会と私たちの間にあるのかもしれない。

 外国人信徒に対して、小教区の中に喜びがあるか、司祭との関係はどうなっているのか、イラク問題に対して、平和の問題に対して、そして日本の社会の現状に対して、それらの現実の問題にどのように対応し行動を取るかによって遊離の問題は問われているのではないか。

 「学び合いの会」について一言。みんなで話し合って考えるという場は少ない。「学び合い」二年間続けるのはしんどいことではありましたが、皆で話し合って考えるという有意義な場であり時でした。今回のテーマ「遊離」も『学び合いの会』で話しあいながら自らが選択したものです。「新しい教会の姿」を問うというのが目的ですがまだそこまでいっていません。来年は「教会の民主化」を取り上げてみたいと検討中です。

 

5.神学的まとめ

ニコラスさんのコメント

いろいろな側面から議論が戦わされて、イラク問題と同じで、「遊離」はなななか処理しにくい問題ですね。広がりが多くていろいろなレベルから考える事ができます。神学的コメントと言うよりも自分の意見を少しお話しましょう。

遊離があるかどうかと問われるならば、答えはイエスでありノーでもあります。それは結局のところ議論をしてゆくと根本的なところ「信仰とは何か」と言うところに行き着くからです。信仰の現実は実生活にあります。自分の信仰を活かしている時間と活かしていしていない時間を分けて考える、聖なる時間と俗なる時間とを区別して捉えていた時代がありました。信仰は自分の全体である。だから不完全で変わりながら成長してゆく。外的なことをすべてはずし、論理的で組織的なものをはずしたところから信仰は捉えられる。信仰は心と言うことになります。人がどんな心で生きているのか、どんな人間関係、どんな価値観で判断しているのか、どのような奉仕に生きているのか。心の底から溢れ出るものです。計画を立てたり、心配したり、罪悪感があると信仰の喜びも涌いてこないのです。不完全であっても歩みながらそれを生かしてゆくならば、信仰が生かされていて遊離はありません。

遊離が言われたのは歴史の結果や、宣教師の考えの狭さの問題などから起きてきたのでしょう。また秘蹟とか教会の活動とかを信仰と同じものとしてしまったところにあります。

パウロにとっての信仰の模範はアブラハムであった。ユダヤ人でもなくクリスチャンでもなかった。何かを悟って歩き始める。自分の常識から出て何かを求めて歩き始めた。イエスはどのような信仰をほめたでしょうか。ローマ人の百夫長と罪深い女、彼らの特徴は一生懸命生きていたということです。心は憐みがあって開かれている。遊離を心配するのは信仰を別のところに置いたからかもしれません。現実は生活にしかない。

心の深いところにある信仰は神からくる。いまの世界は悪化している。この現実の中で、世界にほかの希望があること、ほかの生き方があることを示すのが、信者の共同体である教会でしょう。この悪化する世界に流されなくてもよいのだ、別の生き方があることを示すのが教会の本質です。

世界の苦しみうめきにが把握できないなら遊離しているといえるでしょう。喜びを伝えられないなら遊離しているでしょう。新しい教会は心の深みから変えてゆくことです。内側からふれてゆく事が大切です。組織は助けにならないなら変えればよい。歴史的にも変えてきました。

 

森さんのコメント

皆さんの話を聞いていて信徒の発想と聖職者の問題意識との差を今感じました。一番遊離しているのは教会の組織が信仰から遊離しているということでしょう。今もって家族計画、離婚、結婚などを原理主義的に考え方ており、皆さんに投げかけられている教義は皆さんの信仰と遊離している。教皇、司教は何のために存在しているのか。信者のために派遣されている。叙階式の式文を読んでもそのように書かれている。しかし、宣教、宣教といいながら信者のためといっているところは明らかに遊離しているといえます。信徒の信仰は教会の組織や体質にどっぷりつかっていないから信仰は生きている。司教や司祭は遊離を感じている。

司教や司祭の統治する権限は現代社会の基本的なあり方から考えるとおかしい、皆さんの信仰の体験と教会の体質ありかたとどこか違っている。皆さんから見ると信仰が違っている。教会の組織、体質、観点などが明らかに信者と違う。教会の民主化もその辺で関わりあっているのかもしれない。十字架のイエスへの発想から、組織全体を解体してゆく勇気があるか。

遊離の問題は信仰への問いかけであると同時に教会のあり方への問いが出てくる。遊離の問題がナイスから出たのは教会体質の問題で教会の責任の問題である。皆さんの信仰と違うというなら下から突き上げてそれを解体してゆくエネルギーがどこまで出てくるのか。楽しみにしている。      以上


トップページ
平成十八年予定

「ミサ」