「学び合いの会」 12月20日記録

テーマ:「典礼」ミサ

2003年12月20日

 

出席者総数  32名+ 森師・シェガレ師・ニコラス師・

 

連絡事項:1)今年の総まとめとして小金井の聖霊修道会で 2 月に合宿を予定しています。2)来年度の年四回の「学び合いの会」として「教会のいわゆる民主化を考える為に、今の新しい時代の“司祭と信徒の関係を問う”をテーマとして取り上げるべく準備しているところです。ご意見のある方はどんどんお寄せください。

 

1.課題説明

これから三人の方が[ミサ]について発題していただきます。発題は「ミサ」に関して、現代の信仰者が一般に考えていると思われる代表的な三つの異なった考え方を想定して構成されております。引き続き行われる「分ち合い」がより広い視点から出来るように配慮したつもりです。従って、発題の内容は発題者の個人の考えではありません。

 

2.発題

(1) 「主日のミサは信仰に不可欠」

「主日のミサが不可欠」という与えられたテーマは、主日のミサに与らなければならないというネバ論、与るべきだというベキ論で論じたくない私にはとても苦しみを伴う作業でした。

こんな求道者がいます。彼は、奥様がご信者でしたから結婚式は教会で挙げました。でも商売をしていますから日曜もなく仕事があり、奥様も一緒にお店に出ているので主日のミサに与る姿は見たことがありませんでした。でも結婚式をあげてくださった司祭に、「いつも喜んでいなさい」と言われたことを全然守っていないことが気になっていました。

50代に入って、なんとなく今のままじゃあいけないのと思って、奥様に勧められたわけではなく教会へ勉強にいらっしゃるようになりました。要理の話、聖書の話を聞きながら「フーム、うーん」とその通りだと思いながら、自分にはそんな生き方はできそうもない、まだまだだ、ゆっくりいきますよと言っていました。それでも忙しい商売の中で週一回の勉強会は彼にとって「修行」だと出席しています。そんな彼が、こんな私でも洗礼を受けられるでしょうかねと言い出しました。そして今は来年の復活祭に向けて準備をしています。つい先日、来年洗礼を受けられるなら、日曜にお店があればせめて土曜の夕ミサにできるときだけでも与るようにしましょうよとお誘いしたら、そっちの方はボチボチ・・とおっしゃいました。そうですね、ゆっくりねと答えましたが、日がたつほどに彼にはなんと言おうかと考えています。

 

 ミサにあずからなくても神を信じられれば、信仰者として生きることができるかもしれない、と思う人がいるかもしれません。でもそう言い切ってはいけないものがミサには一杯詰まっている、と私は思います。ベキ論ではなく、ネバ論ではない、信仰を生き生きとさせるものがミサにはあるのだと思います。

 皆さんがご存知のように、イエスの復活を記念した主日を日曜日に教会は決めました。過ぎ越しの日の前日に十字架につけられたイエス、十字架で死ぬまでに神の使命を果たしぬかれたイエスによって、私達は神との交わりに再び招かれました。ミサの中で行われる聖体の秘跡は最後の晩餐で弟子達に、すなわち私達にのこされたイエスの現存の秘跡です。聖体を奉納するときに私達は自身をイエスと共にささげます。聖体を頂くことによって、私はあらたにキリストを糧としてキリストと同じにキリスト者として身を削る宣教の場へ派遣されます。以上は、主日のミサが信仰生活に不可欠であるという模範的な答えだと思います。

 私達は、一人ひとりが神に愛されています、神に受け容れられています、神は私達の現実の生活の中で味わう苦しい、あるときは辛く悲しい叫びをいつも聞いてくださっていると確信しています、だから私は、 「信じていて本当に幸せだ!良かった!」「どんなときにも神が共にいてくださると確信できる喜びがある」 といえます。 

 主日のミサは、イエスが命がけで伝えたかったこと、神が私達を真剣に、おん独り子を与えてくださったほど真剣に愛してくださっていることが詰まっています。聖体の秘跡はまさにその事を表しているのではありませんか?  嬉しいことでしょう?本当に。
 イエスを通してでなければ、私達は救われないのだということをあらたに思い起こす場です。イエスが光なら、その照らす道を歩き、イエスが真理ならその示すことを信頼していくこと、ほんの少しのことしかできなくてもでも、 イエスへの信頼を持ち続けることができ、イエス子を救いだと信じることができるのは恵み以外の何者でもないと思います。

 イエスは、十字架の死を覚悟された上でご自分の御体と御血をご聖体の形でのこされました。すごいことでしょう? 熱い、暖かい、私達一人ひとりを思ってくださっているイエスとの出会いなのに、私達はいい加減にミサに与ってはいないでしょうか?  主日にミサに来るのが習慣化していないでしょうか? 恵みに慣れてしまった信仰になっていないでしょうか? 恵みはただ心地よいことばかりではない ことは、イエスが示してくださった道でも良く分かります。 苦しみ、悲しみ、辛さに叫ぶしかない現実でも神が目を注いでくださっていることは、信仰者ではなければ喜びにならないかもしれません。でも信仰者は、ミサの中で、聖体の秘跡の中で、現実の中で神がいてくださるということを受け止めて、だから「信仰の喜び」がもてるのだと思います。

主日のミサに、もう少し真剣に=心を込めて与ってみませんか? もったいないほどの恵みなのですから。

 

独りだけで祈り、独りだけで信仰じているよりも、すべての人に与えられている神の愛も恵みも、一人ひとりに与えられている良いもの=それぞれの賜物、一人ひとりのこたえ方が違う共同体の中で、その多様性に目を開くことによって、もっともっと神を知ることができ、もっともっと神と交わることができるのが、主日の共同体の中で共に与るミサなのだと思います。

 主日のミサは、信仰生活にとっても大切な意味を信仰者は受け止める必要があると思います。でも、いろいろな事情で主日のミサに与れないときに、昔の公教要理、告白の秘跡の究明のように罪意識にさいなまれる必要はないと思います。主日の朗読聖書を読む時間をとるとか、土曜の夕ミサに与るとか、ほかの日より、「主」のための祈りの時間をとるとか、いろいろな方法が神との交わりを深める機会を作ってくれると思いますから。

(2) 「復活祭、クリスマスのような大きな祝日だけで十分だ」

「ミサは復活祭、クリスマスのような大きな祝日だけで充分だ。」という立場で、べき論を越えた、大所、高所に立って発題することを、テーマとして頂いていると思いますが、能力不足もあって、自分のフィルターを通しての話になってしまいます。

 

毎日曜日、主日のミサに参加するのを当然の事として、過ごしている自分にとって今回の頂いたテーマは、ゆっくりと自分の信仰を見直すという事にも繋がりました。「一般に考えていると思われる考え方を想定して溌題する。」ということを念頭におきながら、テーマを通して自分の信仰を考えてみました。しかし、このテーマは一般的な事として、ひとくくりに考えてしまうのが難しいと思います。

 

何故なら、信仰に生きる一人ひとりの生かされている条件、それに伴う生き方は、其々違っていて、「ミサは、復活祭、クリスマスのような大きな祝日だけで充分だ。」というより、一年に二回、それもこの意義のある祝日に、ミサに参加できるだけで本当に有難いという思いでいらっしゃる方、そういう状況にある方も多いのではないかな、と思うからです。

 

 ミサに与るのは、大祝日の、一年に二回で充分か、どうかは、一人ひとりの状況によって違ってくると思います。生かされている状況は、みな違うから。

 

 自分にとってのミサとは?改めて考える機会を与えられ、まず感じたのは、私がミサに参加するのは、自分の内面の表現、信仰表現であると思っていたのですが、ミサに参加する回数に比例して、自分の信仰が深まっているとは必ずしも言えないかな、という事でした。

 

 御聖体を頂いて霊的な力を頂いているはずだのに、私は変えられていくはずだのに、そういう実感も余りなく、習慣的にミサに与っている事が度々あると感じています。人類の救いのために歩まれたキリストの人生のドラマを記念し、「主の死を思い、復活を称えよう。」と祈っているのに、どれ程自分の人生を重ね合わせ、深く祈っているのだろうか。神様の豊かな恵みを、どれ程、実感しているのでしょうか。

 

 ミサに与ることを何よりも第一優先として、生活の実体ではなく、単にミサに与っている、そのことのみを奉献するというのではなく、日々の人との出会いや出来事などで、挫折を繰り返しながら、それでも神様のまなざしを信じて生きる日々、祈る日々を、奉献できたら良いのであって、ミサに参加する回数ではない、と思います。ミサに参加できない人達のほうが、もっとキリストに近いのかも知れません。

 

 主日のミサが儀式的に行われていて、信者はミサに参加するのを当然の事として与っている、典礼が粛々と執り行われている、そのこと自体は意義のあることだと思います。でも、それが惰性になって無感動にお勤めを果たしているかのようになってしまうとミサから力も汲み取れないし、変われない自分のままで留まってしまいます。ミサに参加するのはキリスト者としての大切な信仰表現であると思いますが、参加するという行為が掟や義務のレベルにあって、感謝と喜びで満たされるものでないなら、ミサの意義が見出せなくなってしまいます。

 

義務的に掟を守る為に与るミサの回数を重ねるよりも、一年に二度でも良い、ミサに与る者の思いが込められた、司祭と信者が一緒になって、つくり上げていくような、ミサに与ることが出来たら、良いな、有難いな、と思います。また、キリストが歩まれた道に感謝し、ミサの参加者が、参加できない人達のことを思い、共に歩む者がキリスト化されていくのを願う、そんな熱い思いで、ミサに与る事ができるなら、日々、信仰に生きるための糧となり、力となる事が、もっと実感できるだろうな、と思いました。

 

神の御前で生きる一人ひとりの生き様、祈りが奉献される事で、ミサを力あるものにし、また、そのミサによって力づけられるのだ、と思います。頂いた力が支えとなって、日々、自分の生かされている場で、誠実にコツコツと精一杯生きられるなら、自分の深いところでの欲求が満たされるだろうな、と思います。ミサに与る、参加するというのは回数ではなく、与りたいという純な気持ち、動機がどれ程のものであるかが大事なのではないでしょうか。

最後に、学び合い 2 年間コースでの学びを引用させていただきます。「どの儀式よりも、どの祝いよりも“神の恵み”は深く、大きく、自由であり、更に“神の恵み”は秘蹟に束縛されなくて、秘蹟より大きい。」この前提にあって、ミサを通して信仰表現していけたら良いかな、と思っています。

 

(3)  「ミサがなくとも信仰はおくれる」

信者はみなミサの重要性は感じていると思います。生活の中でその意味を見つめることは大切であるといわれています。今日は現実の中からミサを考えてみたい。教会に来られない人、日曜日に仕事がある人、ミサに行きたくない人もいるでしょう。こない人のアンケートは取れないので本当に理由はわからないのですが。久しぶりに教会を訪れて見て教会の雰囲気の冷たさに嫌になって又こなくなる人は確かにいます。その人たちはその人なりに信仰生活を生きていると思います。

 

小教区の統計によると在籍信者の30%ぐらいしかミサに参加していないと言われています。その中で、果たしてミサは美しく喜びに満ちているミサが行はれているのか問われていました。ミサに参加していない人は義務を果たしていないのか?そうでは無いと思います。こない人の理由の一つが司祭や信者が冷たいとかいったこともあるようです。現実には、理由はともあれ、われわれ自身が教会に行かれなくなる事があり得るのです。来る事が出来ない人に対してわれわれは何が出来るのか考える必要があります。学び合いの会でもそのことを学び合ってきていると思います。

 

司祭のいない時代が日本にもあったそれはキリシタン時代です。ミサにも殆どあずかれない多くの人々が迫害に合い殉教していった。「隠れキリシタンの信仰生活」という本の中で 200 数十年司祭なしで信仰がどのように守られてきたのか書かれています。コンフラリアといわれた信徒組織があり行事執行役、洗礼役、補佐会計の三役があった。その信徒組織が信徒の信仰を守った。 1644 年以降宣教師がいなくても信仰が伝えられたのはこの組織のおかげであったといわれています。

 

現代でもアフリカの地方では司祭が少なくて司祭に会う機会が少ないところでは信徒組織が信徒の信仰を守っている現実があります。 1 年に一回ミサにあずかれるかどうかといった中でそれぞれの役割を担う信徒組織があって信仰が守られている。

 

ミサの根本を考え生きることを根本から考える時、現実にミサなしでも強い信仰に生きている信徒たちがいることを思い起こす必要があるでしょう。

 

4.グループでの分かち合いの後、全体での意見交換の要点

 

 今日の発題によってミサの意義大切さを考えるきっかけになった。いろいろ話は出ましたが、その一つにご聖体を病人に届けておられる方の話がありました。ただご聖体を届けるだけではなく「みことばの典礼」をそこで行うのです。こられない方のために出来る大切な事がたくさんあるということを感じました。ミサには準備が大切であるという話が出ました。司祭との一致についても話が出ました。断片的ですがミサの大切さについて多くの考えが話されました。

 

 プロテスタントの場合には説教のウエイトが高いので説教についての意見が多く出ます。でもないものねだりでいつも不満を抱いているのは損であると思います。自分の求めるものが真剣でないと不満だらけになって説教から何も得るところがなくなってしまう。本当に真剣に求めるものがあるなら賛美歌でもほかの方の話でも説教でも感動するところがあるのではないかと思います。

 

プロテスタントの場合は、説教が 40分ぐらいあるので内容は濃く頭にびっしり詰め込まれます。然しそれは入り口まで出しかない。分かったと思っても「生き方」は分からない。カトリックの方がその点良く理解できます。森司教様の説教集などを繰り返し読んでいます。霊性の深さを体験できます。この「学び合いの会」も同じです。ですから参加しています。

自分の心の中に必死になって追い求めてゆく姿勢が大切ではないかと思います。プロテスタントは活気があって諸活動が活発でメリハリがある、一方カトリックのほうは淡々としすぎてはいないか。もっと現実に即して苦しんで悩みをもって教会に来られる方への言葉が足りないのではないかと感じています。儀式だけではだめです。「いのち」をいただいて帰ってゆくのです。その辺のところをミサで工夫をする事が出来ないのかなと思います。

 

 重複は避けます。聖体奉仕者の悩みも話されました。この今日の発題は個人としての信徒の視点と共同体としての視点の両方があるのではないかと思います。この二つは異なるのではないかと思いました。共同体としては「べき論」[ネバならない論]があるのではないかということです。多様性の一致の唯一の場がミサではないでしょうか。主日もミサに限定はする必要はないでしょうが共同体としては必定なことで「ネバならない」のがミサだと思うのです。インターネットやテレビで参加するミサはどのように理解されなくてはならないのかその有効性を疑問に思っています。

 

 最終的な結論は「ミサは生活と結びついて個人個人が生きたものにしてゆく事が大切だ」との話になりました。教会の本質として共同体の中で信仰告白を的確にすることは大切である。家庭生活での信仰生活、社会生活の中での信仰が生かされてゆくこと。生活の中で「神から生かされている」事がシンボリックのことではなくて現実のこととして、われわれの信仰を高めてゆく事が大切でると再認識されました。

 

 主日のミサには様々な理由で教会にこられないかたがたの苦悩をおもい兄弟姉妹として電話で励ましの言葉をかけ手を差し伸べイエスさまの愛の教えを具体的に実践してゆくことが大切です。公会議以前には主日のミサにあずからないと地獄に行くといわれていたと聞きました。本当に驚きました。裁く神様ではないのに。

主日のミサに参加できないでも信仰を生きておられる方を尊敬すると言われた方もおりました。カトリックの信仰生活は秘蹟を中心としている。プロテスタントからの改宗者からみるとその差がよく分かります。プロテスタントは活動が確かに盛んです。霊性を深める点では物足りなかった。説教を聴いても信仰生活はなかなか深まらなかった。聖書が頭で分かっても肌に感じてこない。イエスの愛を体で感じる事がなかった。どうしても理屈や頭だけで信仰を捉えてしまう。

 

カトリックの信仰の良いところは秘蹟だと思う。主日にミサでご聖体をいただいて心と体の傷を癒していただく、目に見えない神様の愛に触れて新たにされて一週間やってゆける力を頂く。ゆるしの秘蹟も同じです。罪の告白の中に神が介入される。

 

4.神学的 コメント

<ニコラスさんのコメント>

今日も興味深い発言がたくさんありましたね。大切なポイントは、キリスト教信仰の中心は愛であることを忘れてはいけないこと。中心はミサではありません。神への愛と隣人への愛であることは言うまでもありません。ですからキリシタン時代にはミサがなくとも 250 年近く立派に信仰を守ってくることが出来たのです。生活の中でキリストの言葉とか思い出とか福音を生かしてきた。それが中心です。然し、シンボリックな表現とか儀式ではミサが中心であると言ってよいのです。

 

私たちの目的は実際に日常生活の中で神に近づき隣人と共に歩むという事が中心です。ミサはそのためになる場であると思います。他の秘蹟と同じ様にそのように生きる「助け」となるものです。本物は生活です。秘蹟はその助けです。このバランスを崩すと秘蹟主義になってしまう。価値観がさかさまになるのです。

 

次に大切なポイントは、第二バチカン公会議以降の「教会一致の対話」のおかげで、カトリック教会でも「みことば」をより大切にするようになってきました。そのおかげで秘蹟の理解もバランスの取れたものになってきました。儀式の中で体で表現できるようになる事が大切になります。「みことば」の精神は秘蹟の体で私たちの心を養う場と考えられています。「みことば」と儀式のバランスが大切です。秘蹟だけ強調して「みことば」が貧しければその秘蹟は良い秘蹟とはいえない。体の助けになるような表現とか共同体の歩みがなければ物足りなさを感じるようなところが出てきます。

 

残念ながら教会の歴史のある段階では、主日に皆が集まってきて心を一つにしてキリストを記念することが義務として考えられるようになった。義務は DISTRACTION (=注意を乱すもの、混乱)を引き起こしてしまった。義務を強調することによって中心がそれて変わってしまった。行かないと大罪と言うことになれば、これは大きくずれていると思います。秘蹟は恵みの場です。罪の場になりえない。そのように発言できる権利のある人間はいない。これを罪と定める力はどこにもない。歴史的に残念なことです。ミサに行かないと地獄に行くなどとは考えられない。センタリングのずれでしょう。そのように説明された為に信者がミサに期待する事が少なくなって単に義務を果たすだけになっていったのです。義務を果たしても果たさなくても心が変わらないので段々ミサに行かなくなる事が公会議以前にはありました。私が日本にくる前の時代、スペインでは熱心な地方ですら参加する人は15〜20%程度でした。現在はもっともっと少ない。参加しても儀式が分からない、つまらないといった体験が重なると自然にこなくなるのです。

その副作用の一つは聖職者がミサの準備を怠けるようになってしまったことです。ミサの準備が不十分。ミサの準備は聖歌を決めたりすることではなく、皆がどんな生活の問題で悩み、キリストの言葉でどのようにすれば癒されるのか、といった側面の準備があまりない。日曜日のミサの準備が不十分であるようなケースをよく見かけます。司祭はすべてをミサで間に合わせてしまう。学校の初めと終わり。何かあればミサと言うことになる。司祭にとってそのほうが楽です。式は決まっているから。学校の初めなら教育にどのような工夫をすれば生徒により良い体験となり良く分かるのかなどを考えなくてはいけない。考えるのが大変だから説教の時に子供が喜びそうなことを一言付け加えて済ましてしまうなら深みが出てこない。すべての秘蹟には深いものがあります。奥義として人生の歩みのすべてが含まれているミサですが、それが出てくる体験はすくない。これは教会にとっての大きな課題です。

 

外国人が今の日本の教会には大勢きていますがその司牧への配慮は極端に少ない。月に一回どこからか外国語が出来る宣教師が来て、終わるとまたよその教会に行く。このミサが外国からこられた信者の一ヶ月の生き方のまとめになるのか疑問です。参加している人々がキリストの名で集まりミサの奥義から何かエネルギーを得ようとするならば準備しなければならない。ミサへの期待が裏切られずにわれわれが変わってゆけるように心が開かれるようにミサの準備をしなければいけない。

 

 

 <シェガレさんのコメント>

神学の問題よりも自分が体験的にわかっていることから話します。ミサは個人の信心とか信心行とかや個人の好みではないのだと言うことを強く言いたい。ミサは共同体の行う技であって共同体のためであり、共同体建設のため、共同体の癒しのため、共同体の一致のためにあります。一般社会の人間集団は組織によってまとめますが教会はミサによってまとめられると信じています。教会がキリストの体となってゆくのがミサだと思っています。その意味で主日のミサを大事にしていきたいのです。

 

然し、大切であるから義務であるとは言わない。これは押し付けではないのです。義務ではないが、しかし「責任」 (responsability) ではあります。信徒と司祭みなに責任があります。信徒も責任がある限り軽い理由でそれを怠ることはよくないし司祭としては許しがたいと感じます。少し厳しいように思われるかもしれませんが甘い発言が多いので責任と言うことを強調しておきたいのです。

 

そうかといって、来られない人、来たくない人は悪いのか、そうではありません。けっして裁いてはいけない。これは絶対的な原則です。愛を持ってそれらの方々に関わってゆく事が必要です。私たちがそれらの方々をケアーすることが責任を果たすことでもあります。何らかの傷をもって教会にこられなくなった兄弟たちに対して電話をするとか聖書と典礼を届けるとかご聖体を届けるとか何が出来るのか工夫しなくてはいけない。ミサは一致であって排除ではない。排斥してはならない。

 

又皆さんがおっしゃっている通り、生活に結びつかないミサはだめです。それは本物ではないでしょう。ミサの間にもっと生活のにおいが欲しいし勿論説教も中にも共同祈願にも生活のにおいや一般社会の風を吹きかけて欲しいと思います。

 

<森さんのコメント>

神学者ではないしお二人は大変まとものことをおしゃいましたので、私は体験的なことをお話します。ぼくは高校三年生のとき洗礼を受けました。横浜から学校まで 1 時間 20 分かかりました。 8 20 分から学校が始まるのですがその前に毎日ミサに行きました。 6 20 分ごろ出かけていきました。さらに日曜日のミサに行きました。一生懸命でした。ですがミサが当時の自分の心の求めているものになかなか響いてこない事が非常につらかった。昔のミサはラテン語で日本語は文語体でしたし、自分の心にこだわってゆこうとすると儀式が自分にとって邪魔になる。その時期はとてもつらかった。教会がそっけなく感じるといわれた方の事が良くわかります。

 

そこで禅寺を紹介されて大学時代は休みの度に一週間とか一ヶ月とか禅寺にこもった。自分の中を深めよう深めようと努めた。格好よく言えば霊性を求めていた。悪く言えば自分のことしかわかっていなかった。そのような時期に共同体がどうのといわれてもだめです。

 

お坊さんがあるときカトリックか禅かどちらかを選ばなくてはならない、宗教とはそんなに甘いものではない。カトリックにも良いものがあるはずである禅を徹底的にやるかどちらかにしなさいと云われて、カトリックに集中することになった。信仰が薄いと言われればそのとおりだがミサについて懐疑的な感じが残っていた。そこでカルメル会に入った。そこで自分の心を育てる事ができた。

 

ミサを絶対化することはよくない。ミサを中心にして他者を裁くということはあってはならない。一人一人の人生のプロセスがある。それを大事にして、来られない時期にはきっと何かがあるに違いないと言う暖かな面が必要だろう。

 

今の心境はどうか、あの頃は自分の心とか自分の悩みしか見えない時期で、今は自分がキリストの十字架と復活によって救われた人々の中の一員であると言う自覚はすごく強い。だから共同体が意識できる。広い意味で人類を救おうとしてキリストが十字架につけられて復活されたあの出来事に生かされている人々の一員であるという自覚はすごく強い。その明確な表現がミサという共同体です。神が御独り子をおあたえになるほど人類を救おうとして救われた共同体としての信仰宣言の現れであるからミサは本当に大事です。若いときにはそのような共同体の中にいながらも心がまだ開かれていなかった。自分の問題しか見えていなかった。自分の役割のある共同体なんだと言う確信は持てなかった。いまではそれをはっきり云えます。司祭であるとか司教であることの意味を今では確信をもっていえます。これは模範解答ではなくて自分の信仰告白です。そこにたどり着くまでわれわれ信者は道を迷いながら模索しながらやっているわけです。お互いに気持ちを育ててゆくことをこの集いとしては大事にしてゆきたいですね。

以上

 

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