「学び合い」二年度第十七回 

11月16日

 

課題:「高齢化社会を迎えて」

 

。現在は社会福祉法人ケアハウス「慈しみの家」でケースワーカーをしています。「慈しみの家」は75年前に「ベタニアの家」としてヨゼフ・フロージャック神父が開設された施設の流れをくんでいます。「ベタニアの家」開設のきっかけは、結核病院に入院している若者達を見舞い、生きる希望を失った彼らの有様を見て驚いたフロージャック神父が小教区の主任司祭の職務を置いて「共に生活し共に生きる場」としてアパート生活を始めたものです。戦争中にカタカナ名が問題になって「慈しみの家」と名前を変えてそのまま続いているものです。それぞれの時代の要請に応えて乳児園、保育園、障害者施設、高齢者施設などいろいろな施設を運営しています。「家のない人の家になる」をモットーとして運営されてきました。

 

2000年に開設されたケアーハウス「慈しみの家」は30人が定員です。2―3階が特別養護老人施設になっています。ケアーハウスではご飯を提供するだけでその他は全て自分でします。入所している方は自立できる方ですが自立困難になった場合には幾つかの選択肢があってその先の生き方を選びます。元気な間はベタニア施設のボランティアーとして活躍されていますから生活は充実しています。海外へ巡礼される方もいるほど元気な方もいらっしゃいます。現在入所待ちの方が130人います。ケアーハウスのニーズは高いのですがどこも満杯です。

 

介護の世界に入った切っ掛けは三つあると感じています:

1)               先ず、ハンセンシ施設での出来事です。 20歳の頃ライ病施設に草刈の奉仕に出かけたときのことです。現在ほとんどの方が後遺症を残すだけで菌を出さない状態です。この病気は衣服の外に出ている体の部分、顔、手足に影響が出る特徴を持っています。対面して話すときに目を逸らしたい姿になってしまいます。感染する可能性があるのは、患者の菌がプラスでその菌が自分の切り傷などに接触するときですが、現在では感染しても数週間の投薬で治癒されます。若者は自然に振舞えると励まされて草刈に参加しました。患者は汗腺も冒されますから大変な汗をかきます。汗をかいたところでスイカを食べることになって、手を冒されて指のなくなった方が器用にスイカを割って手渡ししてくれました。そのときスイカの赤い色と彼の冒された手の指の間の赤さが同時に目に入ってきました。突然嚥下困難におちいりました。その方は無理するなよと言ってくださいました。自分では偏見がないと思っていたのですがだめでした。情けなく辛かった!一生懸命作業を手伝って皆に喜んでもらいたいと思っていたのにこの有様!そのあとその日は木陰で休んでいた。 「――のために」と一生懸命しようと思っていたことは駄目であった。

2)               剣岳でのこと。其れから5年後のことであった。山登りが好きであった。長野県に日本一高い駅がある。そこで高原野菜収穫のアルバイトをした。お金がはいったので単独山行をした。台風が近くを通り大雨であった。苦労して登っていたが頂上は視界ゼロであった。下山の方が危険なので誰かともに降りてくれる人を探しているとワイドサックをキチット背負った山慣れをした感じの若者が登ってきた。下りの同行を頼んだところ快く同意してくれた。幾つかのルートがあったが一番長い道を二人とも選んで下山を開始した。早足の人であった。一時間ぐらい行ったところだろうか。浮石に足をすくわれてしまった。5―6m崖をすべり落ちた。数秒のことであったと思う。木と木の間に挟まれて止まった。体は二本の気の間を抜けていたがリュックが二本の木のつかえ棒になって止まったのだ。下は全くの霧の海であった。彼が直ぐにやってきて助けてくれた。頭と腰にけがはないか先ず確認してからユックリと絡み有っているものを解きほぐして引っ張り挙げてくれた。膝をけがして出血していた。痛い思いをしたが何とか助けられ歩いて山小屋に着いた。そこに置いてある薬で手当てをしてもらった。「僕は何度も同じような事故にあっている、頭と腰さえ大丈夫なら明日には歩けるようになる」とはなしてくれた。不安の中で安心情報をくれたのだ。気分がすっかり楽になった。彼は今日の夜行で帰る予定で、直ぐに下山したい状況であった。しかしごく自然のように「今日は帰るのを止めた」といった。二人で食料を出し合って食事をして一泊した。翌朝、幸い痛みは残るが何とか下山できる状態であり彼の助けを得て下山した。彼も同じ茂雄というなまえであった。

3)               ドクター岩村の話しである。ネパールの無医村で奉仕されている結核の専門医である岩村先生のことである。かれの講演で大きな感銘を受けたのでお話したい。岩村先生はネパールに行って多くの病人を癒しネパールの星と讃えられ教科書にもかかれたほどである。しかしその講演会での話は「自分は褒められているが実はそうではない」という趣旨であった。自分たちは高度の医療技術を持ってネパールのかわいそうな人たちを助けに行っているのだとはじめは考えていたが、その考えは誤っていると段々に分からされた。自分が彼らに与えたものより、彼らから学んだことの方が多かったと話された。始めのころネパールの人たちは怠け者のように思えた。しかし彼らの現実の生き方を見ていると不作の時も諦めないで継続的に「がんばる」粘り強さがあり、成果が目の前に見えなくともがんばり続ける強さがあることがわかって来た。

 

医療活動を続けている時に自分たちの邪魔になっていたのは「祈祷師」であるとはじめの頃は思っていた。しかし、或る時医療活動に出かけて薬も使い果して一休みして皆で食事をした時のことである。急激な下痢を起こした。典型的な赤痢の症状であった。日本でなら適切な薬で直ぐに対応出来るが、そこには薬がなかった。自分はもう駄目だと観念していた時、村長さんが来て「自分はあなたの親友だから良いところに連れて行ってあげる」といって運んでくれた。ついたところは祈祷師のところであった。観念して治療を受けたところ翌日には回復してしまった。あとで分かったことだが彼らが調合している薬には近代薬品と同じ物質が含まれていたことが分かった。祈祷師と共に医療活動をするべきなのだ。「――のために」ではなく「――と共に」である。

 

或る時ネパールの僧侶に質問された「あなたは何人の人を治療したか」「そのうちの何人と友人になったか」。「友人とは何でも打ち明けられ相談に乗れる人のことだ」と言われた。数千人の人を治療しても、彼にはその様な友人は一人も居なかった。大事なものを彼らに提供して喜んで貰う片道の思いだけであった事を思い知らされた。岩村先生は日本には心がなくなった、ネパールには其れがあると言われる。

 

エピソードを話します。重症の結核を患った老婆がいたが、診療所までは3日の道のりがある。背負って行くほかはない。農繁期で皆が多忙であった。一人の若者が農器具を買いに町に行くので老婆を背負って行くとかってでた。農繁期の多忙な時に農器具を買いに行く人は居ない。三日の道のりを病に苦しむ老婆を背負って町の診療所に運んで手当てを受けさせた。老婆は回復した。岩村先生は青年に3倍の賃金を払うと申し出たが受け取らなかった。青年の答えは「おばあちゃん病気、おれ元気」「おばあちゃん駆けられない、おれ駆けられる」という言葉であった。ネパールには「サンガイジネコラギ」のように聞こえる言葉がある。その意味は「皆が生きるために」であるが、挨拶として、こんにちは、さようなら、おはよう、こんばんは、シャロームなどに当る。青年は「サンガイジュネコレギ」といって去っていった。なんとネパールの青年は格好がいいのだろう。日本にもこのような心を輸入しなければいけないだろう。「自分はネパールの星ではなくネパールの人たちこそ星なのだ」と、岩村先生の話を聴いた時の思いは今も心に強く残っている。彼らを救いに行っているつもりであったが、自分の方が救われてたのだ。

 

20年前にフロージャック神父の「共に住む」精神にひょんなことから触れたところからわたしは始めた。神父が始めた頃の結核に対する差別は凄かった。退院しても帰るところがない。家に帰れば家族に迷惑がかかる。生きる希望を失った人達がたくさん居た。自殺した人も少なくなかった。其れを見て関口教会を出て中野にアパートを借りて移り住み共同生活を始めまた時に彼は医療技術も福祉の知識も持っていませんでした。ともかく一緒の住むところから事業を始めました。私はこれに打たれました。福祉には技術も制度も必要であるが最も大切なのは「――と共に」であると思います。イエスの名前がインマヌエル「神がわれわれと共に居てくださる」ですよね。神が共にいてくださるのだから共にやりましょうの心です。

 

皆さんはもっと強烈な体験をされているかもしれません。これまで話した三つが自分の大きな体験です。夏のワークキャンプで打ちひしがれたこと。あの時「――と共に」の体験が少し出来たと思いますし、茂雄さんの「ここでわたしがあなたを残して行ってしまったら生涯悔いるよ。あなたが私の立場だったら同じでしょう」は「――と共に」の精神だと思います。そして「ネパールの若者『皆が生きるために』といって去っていった姿がわたしの大きな目標になっています。

 「学び合い」二年度第十八回 

11月30日

発題者:欠席

 

「男の介護カラ」:介護現場は多様である。ケアーハウス、家事労働支援、身体介護、痴呆症介護、終末看取り等で現実は大きく異なっている。多様な実体を理解する一助として、「男の介護」グループの過去の記録資料を急遽利用することにした。このグループは参加者の一人が世話役として関係しているものである。男の視点から介護問題を考え、「介護のよき理解者」となり。「介護保険制度」をよりよく活用し、自分自身も「より良く介護を受けられる人」になる、「人生を語り合い」、「老後を助けあって生きてゆく」ことを目指している地域社会のグループである。この記録のうち特に「一雄」さんの痴呆専門ホームでの体験、線を引いた個所に注目して欲しい。誰が痴呆症になるか分からない、人の人生の現実がそこに垣間見ことが出来るだろう。ひと事ではない。一雄さんはリストラ退職された50代前半の方である。彼にとっても今の現実はサラリーマン時代には夢にも思ったことのない出来事だろう。一雄さんは新たな人生を清貧の内に、勇気と喜びを持って人生の苦悩にチャレンジしている。心底から偉い方だと尊敬せざるを得ない。

「三軒茶屋教会ケース」:現在、東京教区で優先課題のひとつとして「福祉」問題が取上げられ、幾つかの小教区でも老人福祉問題を積極的に取上げはじめている。このケースは教区主催の「福祉の集い」(11月9日関口教会)で発表されたケースである。「学び合い」に参加している我々は一般論としての高齢化社会問題を考えるだけではなく、小教区教会としてこの問題をどのように考えるのか問われている。今日のこれからの分ち合いでは高齢化社会を広く捉えて欲しい。「学び合い」のプログラムにも「――老いを恵みとして、人生の新たなチャレンジとして受け止め深めてゆくためには・・・・高齢化社会がもたらした現実に、どのように対応したら良いのか、老いの意味、生き方そして信徒の責任について学び会います」とかかれています。

 

以上

資料2「男の介護」記録

「理論より体験」介護の現場を知るために、ヘルパーの資格を取って介護をプロとして実践している二人をお招きしました。生々しい体験談に参加者は真剣に聞き入り一時間も超過してしまいました。介護に携わる多忙な中で貴重な時間を提供してくださったお二人に感謝します。3時間にもわたった話を簡単にまとめるのは難しいのですが、記憶に残った内容をいくつか収録しておきます。お二人とも、ヘルパー講座を一年前に受講して資格をとり実践に入った方です。

 

明子さん

資格をとって直ぐ実践力を身につけるため講習の実技指導を受けた施設に頼み込み無償で3ヶ月働かせてもらってから本格的に在宅介護の仕事に就いた。

 

初日、玄関を入って廊下を歩き依頼者の居室にゆく。絨毯のうえで足の裏が”じわっと”して、何か柔らかな物を二・三度踏んだような気がした。在宅介護はその感触から始まった。この体験を「うんち踏み」事件と名付けている。それから驚きの連続であった。

 

9月から伺いはじめたお宅。両親と長男の3人、みな介護を必要としている家族があった。10月に父親が亡くなり、12月に長男が亡くなった。2月に母親は意識不明で救急入院。一命は取り留め在宅介護再開を待っている。人がこれほど早く去ってゆかれる現実に今「死を改めて見つめて」いる。

 

金持ちのオバアチャンの話し相手をしている。広大な屋敷に住んでいる。自分の部屋も広々と十畳以上はある。依頼された家事労働を終えると、「あのね−ー」と言う、これは同じ話の繰り返しと創作話開始の合図である。話は終わらない、帰れない、帰さない、帰る時間がすぎてゆく、玄関そして長い道を歩いて門の外まで送って出てくる。「さようなら。それではまたね」。オバアチャンは新聞を敷いて門の前に座り込む。いつまでも門の外にいる。車で一周して門の前を通る。まだ座っている。玄関までつれてもどる。「それではね」。また門についてくる。「寂しいから、外には誰かが通るからここにいる」という。息子さん夫婦は二階におられるそうである。「人の寂しさはお金ではどうしようもない」らしい。

 

少しぼけが始まっているおとなしいオバーちゃん。一人住まい。娘さんは嫁いだ先の両親の介護で手が離せない。週に一度きて介護計画表を自分で作成して何曜日の何時何をするか一覧表に記入されている。朝、昼、晩一日3回ヘルパーの訪問介護を受ける。ヘルパーはそれを見て実施する。フルにヘルパーを活用している。緊急時には上階に住む知人に連絡を託している。体制ができている。賢い介護保険の活用者である。まだまだ話は続くが省略します。

 

ポイントだけに絞り、短い期間ではあっても体験を通して明子さんが伝えたいことをまとめると次のようになるでしょう:

1)在宅で家族だけで介護するのはむずかしい。外から来た人でも信頼関係ができれば何でもできる。家族が行き詰まると打開できない。他人が入ることで変化が起こせることがある。

2)施設と在宅の差は施設の方が介護者に多様性があって迅速に対応に変化を持たせることができる。呆けが絡んでいる場合には施設の活用の方が勧められるケースの方が多いだろう。

3)老いて一人住まいになっても介護保険をフルに活用すれば生きられる。介護保険をいかに使うかである。賢い使い手になるためには一家に一人はヘルパーの資格を持つ者がいるのがよいだろう。果物を買うように介護を買えるようになることである。家族だけで無理してはいけない。

 

感想:山登り、マージャン、社交ダンスが趣味と言われる明子さんの興味ある体験談でした。介護にも新しい人材が誕生しつつあります。明子さんのようなヘルパーが多く出現する時代になるなら、介護の世界、我等の老後も、明るい希望が見えるようです。彼らを応援したいものです。

 

一雄さん

通院介助と痴呆者専門のホーム施設での経験から話をしてくださいました。15人の介護者が8人の入居者の面倒を24時間看ている。

 

痴呆はアルツハイマー、脳血管障害、等いくつかに区別されてはいるが、個人差がまことに大きい。性格が急変する人が多いので何日にもわたって長時間一緒に生活してみないと実態が理解できないことが多い。家族でも同じである。安定しているときは普通の人と全く同じように対応するのでわかりにくい。激変すると人相も変わり、正常には対応できない、収まるまでは、被介護者のなすがままにしたいことをさせる以外どうしようもない。完全受容である。

 

暴言は介護者を動揺させるし、傷つくが我慢する以外によい方法はない。徘徊も禁じてはだめ。すべて受け入れることである。おしっこ、うんちの垂れ流し、それも受け入れる以外ない。パンツもはかないで歩き回るのは理由がある。汚すと気持ちが悪い。換えても直ぐに汚す。自分で汚している意識はない。誰かが自分のベッドで糞尿をしたと本気で思っているのだ。気持ち悪さから逃れるためなのだ。気持ち悪いから手でそれをのぞこうとする、手につくパンツでふく、パジャマでふく、シーツで拭く、壁にこすりつける。気持ち悪さから逃れるためなのだ。本人も怒っているのだ。介護者は全部黙々とすべてを受け入れて始末をしてゆく、次から次にそれが続いてゆく。夜中じゅう続く。それが仕事なのだ。糞便の始末を黙々と続けてゆくうちに信頼関係が形成される。怒りをぶつけなくなってくるのだ。

 

夜はおおむねよくない。日が沈むと目つきがかわって来る人がある。危険信号。背中を流しているとき険悪な目つきに変わる人もある。施設では直ぐ人が交替することができる。女性の介護者に変わると優しくなることもあるしその逆もある。一般的にいって男の方が孤立してしまいがちである。女性は仲間意識がもてる人が多いようである。家族では変化を与えることができない。

 

痴呆の原因はよくわからない。誰がなるかもわからない。なったら過去の栄光のいっさいが問題にならない。「問う者もいない。ただひとがいる」。現象として医学的に説明されている痴呆の特徴は

 

1)「まだらぼけ」。全体がぼけるわけではない。計算ができたり、漢字が書けたりすることは、ぼけていない証拠にはならない。

2)「見当識が無くなる」。自分が今置かれている状況認識が出来なくなる。今いる場所がわからないから徘徊する。わかるところに行って安心したいためなのだ。このときには被介護者は極度の不安の中にいる。痴呆は意識が無いから楽だとは思ってはいけない。行動にはすべて理由がある。頭からだめと決めつけないことは大切。

3)10−20年の「長期間記憶を失う」こともある。こうなると家族の識別ができなくなることも起きる。

 

体で覚えたことは忘れない。洋式トイレを使ったことが無い男性は立ちションしかできない。腰が曲がると男性用に向けて立ちションができないからそこらじゅうにすることになる。教えることはできない。何でも今から自分で試みておくことである。片手で食べる。排泄もいろいろためしてみた方がよい。貴重な話はまだまだ続きましたが紙面も都合もあり二つのアドバイスを載せておきます。

 

グループホームの選び方:

1 勤務者が年齢性別で多様性がある方がよい。偏っていると対応ができにくい。痴呆者の激変に対応するための交替が出来ない。2.客観的に見てこれがよい介護と言えるのは無いだろう。試みをくり返してゆくほか無い。他者に教えられる正解は無い。自分で考え対応してゆくほか無い。

 

2 家族へのアドバイス:

家族が施設に入っている場合には訪問頻度があまりに多いと、施設と家庭との区別ができなくなるおそれがある。話をするときには他の入居者を配慮して個室であう方がよい。家族の訪問を喜ばない人はいないが、家族が訪問にあまり来ない入居者が不機嫌になることを理解しておいた方がよい。

 

感想

30日間睡眠を全くとらないで働いても40万円を超えることが無い賃金!賃金の問題はともかく、心底から「なにごとか」に心を動かされて介護に飛び込まないと続かないだろう。しかし「介護問題」はむこうから押しかけてくる。お二人を動かしておられるのはいったい「どなた」なのか。介護するときされるとき人生の決定的な時であるらしい。そこで助け合ってゆけるような社会にしたいものです。そのとき過去を「問う者もいない」。ただひとがいる。

 

                                                              以上

資料3

カトリック新聞2002・12・1号に記載されている記事『「教会ホールを高齢者に開放」「三軒茶屋教会での実践例」「東京教区「福祉の集い」での報告」』です。

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