二年度第十九回
12月7日
課題:「典礼、秘跡、祈り――」
今回の、最後のテーマ「典礼、秘跡、祈り」は内容が広く、大きいので、2回で取り扱うには限界があります。全体をまとめることは難しいので、細かいところに入らないで、消化できる範囲に留める事にしました。「祈り」については次回扱い、今日は「典礼と秘跡」を扱います。秘跡と典礼は共通している。信仰生活の中で「どんな支えがあるのか」、「どうしてそれが支えになるのか」、「どのようにすれば支えとなるのか」、細部にはとらわれずに理解をリフレッシュしたい。人によっては、説明の内容に驚くかも知れない。
全ての宗教に共通して言えることでは有るが、習慣の中に誘惑が隠されている。慣れの中で、癖が生まれて、それが規則になり、それを聖なる伝統と思い込んでしまうようになり、人々を拘束してそれを変えることが出来なくなる傾向がある。旧約聖書で預言者は定期的に現れ、礼拝とか巡礼といった面に見られる形骸化を鋭く相対化する。このような動向は仏教やヒンズー教にもある。宗教は純粋に自分の心を見直す時、人間的に造られたものを相対化する。それはユダヤ教の時代からキリスト教時代にもあった。20世紀に育った信仰者はそのような重い伝統の中にあるわけです。ヨーロッパから日本にきた宣教師は典礼でも秘跡でもヨーロッパの理解や伝統を持ち込で来た。日本に来て私も20年間秘跡を教えてきました。教えるために学べば学ぶほど秘跡はもっと深みと可能性があるにも関わらずそれが生かされていないと感じます。もったいない事です。
ともかく典礼や秘蹟の何処に中心点があるのか。資料全般を見ることは出来ないので部分的に取上げることにします。今日は一頁目を説明します。
前提
「キリストの従って生きる信仰の中心は何処にあるのか」と言う事を見逃さないことが大切です。典礼や秘跡を考えるときに最も大切なのは「典礼と秘跡は『信仰の表現』である」ということです。従ってどの「信仰表現」よりも『生き方』そのものが最も大切であるということです。
家庭の事情などで典礼にあずかれない時に、罪悪感をかんじる必要はない。何が大事かといえば『家庭』です。ミサに行かなければ罪ということではありません。生活が最も大切です。何が大事であるか判断することは大切です。家庭生活の中で争いが起きて和解が必要な時もある。和解のプロセスが既に始まっている時、日曜日になるような時もある、何が大切なのか考えなくてはならない。信仰を生きるには自分の人生を確り生きることが第一になるのです。
次の前提は「どの儀式よりもどの祝いよりも『神の恵み』は深く大きく自由である」ということです。良い神学者はいつも『神の恵みは秘跡に束縛されなくて秘跡より大きい』と指摘していた。
カトリックの信者にとっては告白しないと罪が許されないということは変だと子供のころ不思議に思っていた。それは意味がない。しかし今でもそのように教えている神父もシスターも居る。神は自由である。いくら秘跡が100以上あっても神の恵みは其れをはるかに超えている。私が悩んだのはどうしてカトリック信者になると恵みの道が狭くなるのかということであった。神はよい人にも悪い人にも雨を降らせる。神の恵みは太陽のようである。典礼や秘跡があるから小さくなるなら意味がない。神の無限の恵みを表現し生かす為です。これは一つの助けです。典礼や秘跡は神の恵みをコントロールすることではない。神は自由です。キリシタン迫害の時秘跡なしに250年間も信仰を生き続けてゆく恵みが与えられた。韓国や中国でもその様な例があります。彼らには毎日ミサに行くよりももっと多くの恵みが与えられていた。
前提2
恵みは心の中で働くので意識しても意識しなくても生きている。百姓は種をまくが種は寝ている間に育つ。心の中で神の恵みがどのように発展して行くのかが大切である。王たるキリストのとき読まれた福音マタイ25章の審判の個所を読めば分かるが、意識されていない行為が明確にされる。人に対して心を開いて生きることが大切である。心に憐れみがあり思いやりがあること、人に対して心が動かされるのであれば良いのです。審判のときに戸惑った彼らは秘跡にもミサにも与かったことが無いでしょう。大切なのは心です。信仰とは心が生きていることである。典礼とか秘跡は心の代わりになるのではなく心の支えになるものである。初金に9回行けば救われるのではないのです。良い信心とは心のためでなくてはならない。秘跡は大切であるが心の代わりになる物ではない。意識が変わるのです。心が変わらなければ恵みは生きない。聖霊の助けは大きい。ヨハネ福音書では聖霊は風のように吹くといわれる。どこからどこへか私は知らない。コントロールは出来ない。心の中に本物が生きるとき聖霊が働かれ聖霊が導かれる。ガラテア5:22―24では聖霊が心の中で神に祈ります。我々は心の中に恐れ不安とか分からないことだらけですが聖霊が来る時導かれる。言い換えれば、現実が大切である。信仰を生きるとは生き方全体のことである。
結論
典礼を考える時には『恵み』がテーマの中心で、義務や規則ではない。典礼や秘跡は恵みの時である。私達を超えた「神の近さを体験する時」であるのだから、子供も大人もそうだが、秘跡に与からないから罪であるというのは意味がない。恵みの場であって罪の場ではない。神を祝いに行く事が、どうしてそれが罪に変わるのか。罪人が典礼に行くのである。典礼と秘跡は恵みの場である。与からないと損をする感じである。物足りなさを感じるのは良いでしょう。しかし罪ではないし、義務でもない。典礼はもっと自由を強調すればよいのである。私たちの希望であり信仰を祝っているのです。また人生の問題から聖霊の力で自由になる。暗闇から光を得る。そのような事を祝う為に典礼がある。自分の心の中にある悩み、緊張感、感情的不安、喜び、等がもっと典礼の中に表現されれば良いでしょう。典礼は共同体的な恵みです。個人の時は一人で祈ればよい。典礼は共同体的である。最後のポイントは「心を活かす表現は神学や理論ではない」ことです。心を動かすのは歌とかシンボルです。体と心で感情を表すことが大切です。よい典礼は動き、歌、水、ブドー酒、等のシンボルで心の動きを表現する。
秘跡や典礼の構造は100%シンボリックです。私達が普通の言葉で言えない事をシンボルは表現する。深い感情は言葉でいえないのでシンボルで表す。これは我々の日常でいつも体験していることです。心の深みは言葉で表現できないので様々なシンボルで表現し合っている。結婚をしようとする二人のやり取りもシンボルに満ちている。手を取り合ったり、プレゼントを交換したり様々なシンボルで心を伝え合う。結婚してからもそうである、セックスも深いところでシンボルである。言葉ではいえない心を伝えるためにいろいろな事をする。典礼でも私たちの心をシンボルで共同体として表している。イエスも深い感情を最後の晩餐で寂しさの中であらわされるのにシンボルを使われた。シンボルとして深みのあるものである。秘蹟は行動的シンボルである。典礼のシンボルは行動的である。イエスは行動やシンボルで話し神の国を表現されたので定義はされなかった。譬え話で話された。神の国はドラマである。典礼は祈りだけではなくドラマである。行動的な典礼が希薄になったのは宣教師の影響でしょう。19世紀に入ってきた典礼はヤンセニズムの影響がありセレモニー的で、仏教的で静かな沈黙を大切にする典礼となって、動きが殆どなく祈りの場となっていった。現在の典礼では司祭が動くだけで会衆は殆ど動かない。典礼の本質から見ると典礼としては弱い。動きがないと心の動きが支えられない。
典礼には目的がある。典礼によって我々は神に向かって歩み、和解し、キリストの体に入り、自分ミッションを受け入れ、或いは結婚の道を歩む、等の様々な目的がある。しかし恵みを漠然と戴くのが目的ではない。全ての人はすでに恵みに包まれているのである。したがって、結婚の恵み、洗礼の恵み、共同体の恵み、和解の恵み、どの恵みか具体的に恵みを捉えることが大切である。
日常生活の中にいろいろな悩み問題があってどうすればよいのか分からない時、典礼が助けになる。典礼の構造には「はじめ」があり「プロセス」があり「目的」がある。これはドラマである。あまり意識されていないし説明がされていないがミサには明確な構造がある。心のプロセスが大切であり儀式的に判断してはいけない。ミサには弱い者として来る。罪の告白ではない。罪人としての意識を深めることで神の助けを求めて来る。その時どのような問題をかかえているのか、様々な問題がある、それが出発点です。それぞれの人が抱える問題そのものが出発点である。其れに対して神は何を与えてくれるか。御言葉を大事にすること。キリストがどのように私達を引っ張って御父に導いて下さるのか。其れが終点です。
神は自分からら出て世界を創られ、その世界を神の国にしたいと考えられておられる。この動きが創造の時から始まる。キリストも同じである。人間となられ十字架までおりられそこから御父へ向かわれた。典礼もそれを記念して私達をそこに招待してくれるのです。キリストの動きを目の前に表現して我々の心が動くようになる。そこに根本がある。典礼に与かれば恵みがある、落着いて祈れるとかいうのではない。祈るならどこでも祈れる。典礼は違う。典礼は共同体の歩みです。心の歩みの表現です。日常生活の体験の変化。我々はいつも日常で問題に遭遇する。どうすればそこから出られるのか。話を聞いても頭でわかっても心が動かないことが多い。典礼の時には共同体として同じような悩みを持って来て皆で歌いみ言葉を聞いて共同体の信仰と祈りに支えられて自分の心がみ言葉に向かうことが出来るように成る場が典礼です。ミサに行くとき祈りたいなら30分前に行って一人で祈る。ミサが始まったら皆でキリストの中に入る。キリストを記念する。「これを私の記念として行ないなさい」私のドラマを記念して、あなた方もその同じドラマの中に歩んでください。ドラマにはいろいろな要素がありますがその関係がはっきりすればよいのです。どのようにすれば我々の信仰が養われるのか、どうすれば我々の体験が入れるのか、どうすれば我々の心が動くのか。
大切なポイントは「共同体になっていないと良い典礼は難しい」ということである。共同体の概念は多岐ではあっても、何らかの一致を感じさせるものが集まっている人たち中に無いと良い典礼は生まれない。其れは小教区でも修道院でも同じである。ミサに与かると共同体の状態が分かるといわれる。その共同体に交わりが無いと儀式となってしまう。典礼は共同体の状態から独立していない。共同体との関係が大切である。
み言葉と典礼の関係が大切である。神学的にも「典礼や秘跡はみ言葉を体で表すことである」と言われている。み言葉なしには典礼は考えられない。準備が必要である。どのように読むか、神の言葉であることを味わうためにはどのようにしたら良いのか準備することは大切です。聖書を公に読むための訓練が必要でしょう。生きた言葉として伝わるように。神の言葉だから、ドラマチックな内容ならそのように読む、説教なら黙想的に読む。聖書にはいろいろな種類のことばがあります。それを味わえるように伝える必要があると思います。
典礼と秘跡を深く広く理解して、典礼には様々なことが必要である。ワンパターでは駄目である。多様であることが大切である。共同体は生きている、共同体が落ち込んでいるのか、疲れているのか、元気なのか、現実的に今に対応することが大切である。現代の日本人は将来に希望を失って落ち込んでいるこれをでどのようにミサの中で希望につなげるのか其れが出発点である。典礼には多様性が必要である。ミサの意味は年寄り、子供、青年など意識も理解も皆違う。具体的な人の歩みにかかわる時ミサは生き生きしてくる。大切なのは集まり与かる人たちが典礼で神に出会い神に近寄り喜びを体験することです。私達が共通して体験していることは、具体的な人の問題や歩み人の関わっているテーマをミサのテーマにするときにこそミサは生き生きしたものになるということです。典礼は抽象的になっては駄目である。規則もあり、簡単ではない、司祭の養成の問題もある。ミサは共同体のものであるから要望の声を挙げてゆく必要があるでしょう。
ミサはみなのものである。昔の神学、初代教会のころに既に、ミサにおける聖変化は 1)司祭の言葉、2)信徒の祈り、3)聖霊の力 であると言われていた。ミサは共同体の祝いである。みなの気持ちを言葉にする。みなの声がもっと聞かれると良い。
二年度第二十回
12月7日
課題:「典礼、秘跡、祈り――」
「キリスト者の生活と祈り」
祈りが最後のテーマです。信仰生活を支えてゆく上で大切なポイントをあげて置きます。30分間では短いのですが、キリスト教の伝統からヒントを受けて祈りとはどのように考えられてきたのか簡単に指摘しておきましょう。
祈りの体験は皆違います。学問的な定義ではない。どの定義も正しいが、どれも不十分です。伝統的にも見方は異なって居ます。
1 祈りとは。
◇ 多くの定義がある。全てはよくて、全ては不十分です。
◇ まず始めとしていえるのは「祈りは神のみ前で神の存在を意識して生きること」である。
◇ キリスト者の祈りは常に“コミュニケーション”の要素を持っている。願いであり、心の高揚であり、対話である。
意識が大切です。意識が強いのか弱いのか状況によって異なります。しかし、いつも神について考えるとノイローゼになります。神と共にある有り方は様々です。伝統的には日常生活での祈りが強調されています。自分の生きかた全体が祈りです。霊操はすべてに於いて祈ることが出来るようになる事を願うのが目的です。遊び、苦しみ、寝ている時も。個人的には「教会の祈り」の寝る前の祈りが好きです。「体が休んでいる時にも心が神を褒め称えますように」心も神の前に休むように祈ります。キリスト教の伝統的な祈りは対話的なものです。神を生きた方として祈るのです。願いがあり、対話もあり、戦いもあります。聖書にはヤコブの例やアブラハムの神と取引の例がありますね。イエスのゲッセマネの祈りも内的な戦いを示しています。神との喧嘩を恐れることはない。難しい体験に遭遇した時、これはどうしてもおかしいと思う時。信仰がなければ神に文句は言えない、神と闘えない。自分の全てが祈りとなれば良いのです。
祈りは伝統の中でどのように生きられたのか。祈りはこうであると決めつけることは出来ない。時間、場所、自分の状況によって違うので、自分の出来事、自分の回りの出来事、気持ち、意識、自分の可能性、自分の訓練によって祈り方は様々で一つではない。イグナチオの霊操もあり、聖テレジア祈り方、十字架のヨハネの祈りもあり様々である。人の性格、人の歴史の中で、悲しみの時の祈りと喜びの時の祈りは違う。痛みがある時、行動する時、病気、不安、貧しい時、富んでいる時、祈りは皆違う。聖書の読み方も違う。貧しい人が山上の説教を読む時、有り余るほど金が或る時何が心に響くのか。共同体の交わりに出てくる祈りはその人達の生きている状態によって多様である。祈りには開かれた大きな可能性があるのです。
2 祈りの方法
◇ 祈りの方法は様々である。時、機会、ムード、出来事、心の状態、意識、可能性、集中力、訓練などによる。
◇ 喜び、悲しみ、痛み、活動、病気、心配、貧困、富裕、等の時における祈りがある。
先週は「典礼」について考えました。いろいろいえるのですが特に強調したのは「典礼」にはドマティックな面があると言いましたが、「祈り」は其れとは違います。「典礼」の中の祈りとは違った面がありますが、共通点は「祈り」にも動きがあるという点です。多くの場合変化を求めて祈ります。落ち込んで居る時、苦しんでいる時、希望とか心の慰めを求め心の癒しを求めて祈ります。しかし「典礼」の時のように外面的な動きとはではなく「祈り」は内面的動きで心を支えようとします。二つのパターンがあります。
狭い自分から広い神の世界に向かう。祈りによって自分の世界が広がって行く。自分の痛みから他者の痛みへそしてキリストの痛みへと向かいます。痛みの中に含まれて居る賜物、神の知恵、を見出す動きです。自分を乗り越えて行くユックリとした心の広がりです。新しい次元が見るようになります。ヨブ記は祈りの良い例です。ヨブは悲劇的な傷みに出会ってヨブの問いに対して友人は神学的なことを頭で考え原因を探すが其れは祈りではない。神は最終的にも苦しみの意味を説明はしないが、ヨブの意識が神の愛へ広がるようにされる。ヨブは自分の狭さに気がつく。我々もそこに招かれている。自分の世界から神の世界へ、部分から全体へ、今から永遠に向かっての動きがあります。自分の体験はいつも部分です。其れが全体へ広がるのです。日本の深い伝統の禅の中にも「今の永遠」「永遠の今」の考え方がある。「今」には「永遠」が含まれている。キリスト教的には十字架の今には永遠が含まれているということです。自分から神へ、恐れから希望へ、落ち込みから希望へ、罪意識から和解へと変えられてゆく。罪意識は大きな罪の場合には役立つが、そうでなければ罪意識は役立たない。
もう一つの動きが、祈りは浅い意識から深い意識へと深く入ってゆくことである。仏教とかアジアの伝統的な宗教の祈りにも有るものです。祈りによって浅い自分から深い自分に入る祈りです。心の意識を深めて最後には聖霊に達する。その聖霊がどのように私たちを支えて下さっておられるのか。全ての恵みはこの深みから出てくる。
広くなるか深くなるかは必要に応じて祈り方で違ってくる。はじめにあるのは意識の変化である。新約聖書の多くの譬え話はこの意識の変化に関係しています。祈りの実りはどこにでもある。私たちの人間関係の捉え方は狭すぎるが、イエスの譬え話はその枠を壊す力がある。話の説明ではない。司祭達に譬え話を説教する時に説明しないで欲しいといっています。聴く人が譬え話の中に自分で入って自分で決断することが大切なのです。キリストに祈るときには自分から出てキリストの中に入ることです。神の現存を意識することです。深いところで聖霊の働きを意識することです。
洗礼の準備に必要なことはこの「祈り」ではないかと感じています。まとまった教えよりも自分の心に何があるのかを大切にしなければなりません。教会に来る前から聖霊が心の中で働かれている。外に何かを求めることではありません。福音を聴いて喜べるのは既に心に其れがあるからです。公教要理のプログラムが第一ではない。まず祈りです。「祈り」で自分の心に何が動いているか知ることが大切です。指導者も神様の指導に協力することです。
キリスト教の伝統の中には「沈黙」の大切さもあります。英語でstill
point、「心の中の動かない場」、「そこに行けば休めるところ」を意味する言葉です。「記憶を使って祈る」ことも出来ます。祈りには「救いの体験の『時』」が大切です。聖書を読む時などに其れを思い起こします。「その時」と言う言葉で始まるところが聖書にありますがそれは時間のことではなく「救いの時」「神の姿が見えたとき」「キリストの憐れみ、キリストの愛を感じた時」を意味しています。単に過去の時を思い起こすだけではなく、それらの『時』にイマジネーションで入ってゆく。其れを祈りの出発点とするのです。そのときは「今」である。記念をしてそこに与かる。祈る時どこか遠いところを思う必要がない。その恵みは「今」です。「記念し、創造し」心でそこに入るのがキリスト教の「観想の祈り」の伝統で大切なところです。現代的表現で言えば、左脳ではなく右脳が働くことです。芸術的分野でそこから想像的世界が広がって行く。左で論理的哲学的に考えれば考えるほど其れは「祈り」の邪魔になる。イマジネーションの助けで心が広がって行く。このような祈りの表現には終わりがありません。
3 祈りは確かに心の動きを含む
◇ 祈りはまたある種の“動き”がある。内的動きを起こしてそれを支える。
* 部分から全体へ
* 現在から永遠へ
* 自我から神へ
* 恐れから希望へ
* 罪から回心へ
* 他
◇ 動きの最初の動作は気づき。
* 神の現存
* 聖霊の業
* 神における『大自分』
* 神の国の出来事
*他
◇
他の動き
* 視点の変化:自我一転リスト−神
* 痛み、希望、喜び、ニーズ等、を伴った対話
* 静寂を求めて喧奥の中での沈黙
* 想起:時/恩恵/青已念の出来事
* 自己変換に於ける神の国
* 他
小教区のチャレンジとして訓練が必要である。祈りの心は多様であるから、訓練されれば自分で自分の祈り方を選ぶことが出来る。イエズス会に入って48年になりましたが、多くの神学生、修道者、司祭を指導したことがありますが、接していて驚くのは彼らの中にも祈りを知らない人が居るということです。一つの祈りを学んで熱心に続けていても、人は成長しますから祈りが変わらないと祈れなくなるのです。若い時と大人になった時の祈りは違います。他者と接したところから祈りは始まります。皆さんも同じだと思います。公教教理とか黙想会とかで習った祈りだけでは駄目になる時が有ります。苦労とか体験とか出会いとか失敗とか喜び悲しみ、祈り方も広ければ広いほどよいわけです。祈りが広ければ広いほど選択できるわけです。reframinngという言葉があります、いろいろな枠組みの中で祈れるわけです。
教会には伝統が多いのでいろいろな「祈り」があります。ここにはリストだけ上げておきました。歴史的、文化的にそれらが修道院のものになってしまいました。「センタリング」もその一つですが、ベネディクト会が最近新たに広めつつあります。言葉で願う祈りこれが一番なれている祈りでしょう共同祈願もその一つです。悩みを言葉にする。オリゲネスが既に言っていることですが、聖書を読んで祈る。Lectio
Divinaこれは共同体作りに力となります。これは修道会の霊性に残されています。しかし聖書を読める者は教育あるものだけであった。イグナチオの祈りも伝統から摂られた祈りです。聖書を読んで聖書について考えるのではなく聖書を読んで其れを自分のなかで作り上げのです。記念し、記憶し、イマジネーションンを深め自分の心の内に其れを作りあげて行く。ビデオを使っては駄目です。自分でイメージすることが大切でそうすれば自分の感情が入るので其れが大切なのです。感情の動きが大切です。イエスの言葉を聞いたとき何を感じたのか。
自分から祈りの中に入る様々な祈り、カルメル会、十字架のヨハネ、アジアの祈り、禅やヨガの祈り、共同体としての典礼の祈り、カリスマ運動の祈り等。くり返し同じ言葉で祈るマントラの祈りの中にはJesus
Prayerがある。軽い観想の祈りの中にはロザリオの祈りもある。祈りの時には左脳を忘れることが大切です。意識するだけで考えないでくり返すことによって心が落着く。そこに考えが入ると休めない。
4
実践の必掛訓練「成長」
◇ 『センタリング』の祈り
◇ 嘆析
◇ 聖書の永続的読書 (Lectio
Divina)
◇ イグナチオ的祈り
◇ カルメル会伝統から来る観想
◇ アジアの伝統にある多くの祈り
◇ 典礼の祈り
◇ 共同体−グループの祈り
◇ 繰り返しのある祈り
* 繰り返しだけ−マントラ
* 瞑想的な繰り返し:ロザリオ
* 信心にある繰り返し:聖人、マリア様、十字架の道行き
◇ 他の多くの形式
5
カテゴリーの要約
◇ 人生:多棟性一相違―真実
◇ 対話:沈黙一歌声一嘆願
◇ 認識:自我−神秘
◇
訓練:成長―喜び−識別など。
まとめて言えば「人生の全てが祈りになる」といえる。対話的祈り、沈黙の祈りもある。そこに神がおられると感じるだけでもよい。心が通う、対話でもよい。言葉でもよい。しかし訓練しないと可能性は分からない。
三つの伝統をあげて置く:
@ ベネディクト会 祈り 働き ora et labola
ネパールの仏教徒は絨毯を織りながら祈る
A ドミニコ会 観想 宣教 contemplata tradere
B イエズス会 イグナチオ霊操 仕事の中の観想 in actione contemplatii
自分にとって一番どのパターンが良いのかが問題であって、どれが一番優れているということはない。
待降節第三主日の第二朗読テサロニケの教会への手紙でパウロが言っている「いつも喜びなさい、いつも祈りなさい、―――」特別な時だけではなく、生きかた全体が生贄になるように、『いつも』『絶えず』『あらゆるもの』其れが我々の課題でしょう。祈りについては様々な可能性がありますが、小教区に絞ったのは、信仰者が絶えず祈るなら小教区で集まった人たちが祈れないはずはないのに、何故祈れないのか考えたいと思ったから「小教区レベルで」と限定してみたわけです。
鋭い指摘の一つは「沈黙がないと言葉は分からない」と言うことです。言葉が留まれないのです。聖書朗読も同じです。余裕が必要です。テンポが大切です。次に、小教区の委員会に祈りがあるのか。修道会でも同じですが、議論で緊張した時、少し分かれて祈る。そして戻ると、議論が円滑に進むことが出来る。我々の全ての活動には自然に2−3分祈るとよいことが多い。大きな問題にぶつかったら10分ぐらい祈ってから話し合うと良い。小教区の生活に祈りを持ち込むことが必要ではないか。祈る小グループを作るのは力になりますが、今日指摘しておきたいのは行動の中での祈りの事です。
インドの話に、一匹の魚が仲間に「海はどこにあるのか」と問う話がある。海の中に居ると水を意識しないと探すことが出来ない。神はどこにでもおられるが意識しないと分からない。意識して意識の中で活動することが大切です。祈りは現実からの逃避ではない。心のない活動は害になる。心が入っていれば祈りになる。霊性のある活動霊性のあるかかわり方が大切。私は霊性という言葉を避けて「深み」と言う表現をしばしばします。人は他者を裁く力はあるが、自分を見つめる力がない。その壁を乗り越えるのは祈りでしょう。義務とか倫理とか公教要理では乗り越えられない。左脳の働きになってしまう。自分の心を見つめる、心の中に入るのは祈りです。謙遜な心で、人と交わり、人の話を聴き、自分の悩みの中で神に近づく時、心が動きその心の動きに敏感になれば自分の本音がわかる。本音が分かれば他者を裁かない。それらの事は全部共通している。これは大きな課題で、信仰に生きる深い課題なので、ここで全部取り扱えないのでこの辺で終わりにします。