二年度第十五回
11月2日
課題:「結婚・離婚・性の意味」
「人は一人でいるのは良くない、彼に会うふさわしい助けて手を与ようと神は仰せになった。信仰の光に照らされた女と男、その出会い、人間としての成長と言う視点から、」今日は考えていきましょう。初めにこれまで皆さんが学ばれた記録を読ませていただいた中から重要な指摘と思われるものを挙げておきます。
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「神は儀式的生贅に飽きた、吐き気がすると言われる。・・・それは心が入っていない。・‥ミサに行っても心がなければ意味がない。心が変わらなければ無意味。ミサの中で心が変わる」
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* 「キリスト教の本質である『いのちと恵み』の体験は(人生で逃げ場がない)女性がした。」
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* 「教会は『交わり』であり『ムーブメント』でもある。・‥『良い交わり』『良いムーブ
メント』となるためにはどうしたら良いのか」
結婚は男女の二人の死が別つまでの関わり。もし結婚が制度としての関わりのみで『いのちと恵み』がその関わりを支えていなかったら、もし二人が共にいることによって新しい地平を体験するほど変わることの出来る『心が入っていな』かったら、そして二人の交わりが世界に開かれていくムーブメントの一つの基点となることを指向する『良い交わり』でなかったら、私たちは秘蹟(神の愛の徴)としての結婚の豊かさをまだ実現していない。
キリストと教会の関わりが夫と妻の関わりにたとえられるのは,結婚がそのいのちと恵み、その深い交わりを生きるように呼ばれているから。然しその高い召し出しの実現が阻まれてきたのは夫と妻の関わりである筈の『教会』のイメージの貧困であり、すなわち結婿に対するイメージの貧困からであると思います。これが今日の発題の視点です。
わたくしは女性学を専門としていますが、女性学に関するイメージはそれぞれに異なっていると思います。偏見もあるでしょう。批判の一つは「なにも女性の視点で考えなくとも人間の立場から考えればよいではないか」と言う考え方です。しかし本当にそうでしょうか。例えばアメリカの独立記念について考える場合でも、白人でアングロサクソンとアメリカインディアンとは違った受け取り方をするはずです。同じ出来事でも立場によって見方は異なってきます。男性が女性の視点から考えてみて分かったといってもそれは少し違うでしょう。
historyと言う言葉をもじってhis−storyという洒落が英語にあります。歴史は男性の見方から書かれているということを言っているのです。歴史を見ても男の方が圧倒的に多く登場します。少なくとも表面的には男性が歴史を動かしてきたように書かれています。でも人類の半分は女性です。
聖書の例を挙げますと、マルコ14章にイエスに香油を掛けた女性の話が出てきますね。この出来事は福音が宣べ伝えられるところでは世界中何処でも記念として語り伝えられる重大な出来事であると言いながら、その行為をした女性の名前は書かれていない。ヨハネではベタニアのマリアと書かれているが、マタイでもただベタニアの一人の女としか書かれていない。ペトロが一言話すとすべてペトロと書かれる。これまで女性は自分の生きた体験で自分自身を語ってこなかったのです。
これまで「結婚」のイメージは教会の中で創世記のアダムとイブの関わりに関する聖書解釈によってつくられてきた。そのイメージの中心は以下に抜粋した創世記の個所を参照して考えることが出来るでしょう。各自で目を通してみてください。どのような印象をもたれますか。この個所を読んで神が男と女の関係をどのように望まれているのか、そして女性がどのようである事を男性がどのようにある事を神が望まれているのか考えてみてください。
1)消極的解釈
これまで創世記は皆さんの発言のような読み方がされていました。アダムが始めに造られたことが大きな意味を持たされてきた。イブは後から造られたからアダムの時間的優位性があると発言されてきました。「あばら骨」に関して面白いジョークがありますので紹介します。アダムが毎夜遅く帰ってくるのを疑ったイブはアダムに向かって「何で毎晩こんなに遅くなるの?」それに答えてアダムは「二人しかいないのに何を疑っているの」というが、それでも納得しないイブはアダムは寝ている間に蒲団をはいで「あばら骨」を数えたら、また1本減っていた!
女性は男性の一部から造られたから男性のヘルパーであり、男と支えるためにつくられた理解されてきた。1960年代になって英語の聖書でもassistantの訳からpartnerと変えられた。「お前は、苦しんで子を産み、お前は男を求め、彼はお前を支配する」この個所を読むと女子学生は皆怒る。決定的なのは「支配」である。
男性は汗を流してパンを得るために働く。女性は部品としてのヘルパー。誘惑するので男性にとって危険だから近づかない。司祭は赤ん坊の女の子でも抱いてはいけないと以前は書かれていた。男性は理性的、女性は欲望的であるとされた。決定的なのはこれを「神が言った」とされたところにある。キリスト教は男尊女卑である。マリア様のような従順が理想とされた。1960年代に入りフリーダの女性解放運動第二波が始まる。「フェミニスティク」と言う本の中で「女性像は神話である。現実に生きる女性から生まれたものではない。社会文化によるイメージで形成されたものである」といっている。ボーボワールも「女性は女性として作られてゆく」と言っている。自分の体験から言ってもそのように感じられる。愛の神が本当にこのようなイメージを望まれるだろうか。疑問がわいてくする。早く生まれたものがリーダーで遅く生まれたものは従うべきなのか。進化論的に言えば後から作られたものの方が優れている。聖書では女性が最後に造られてから神は休まれた。時間的先行は優位性を表さない。
「助ける者」と訳されているヘブライ語は「エゼル」であるが、ヘルパーの意味ではない。「優れているものが援助する」事を意味しており、聖書では神が「エゼル」と呼ばれている。「エゼル」には「ケネグドー」と言う修飾語がついていますがこれは「「対等の」と言う意味があります。下につくと言うことではありません。「同じ目線に立って助け合う」相互補完的意味です。互いに優れたものを出し合って成長を助け合う意味です。「あばら骨」の方も、はシュメール語で「骨」のほかに「いのち」の意味があります。「いのち」も相互補完的な同質的なものです。アダムの命とイブの命は対等なのです。
危険な存在、誘惑者、弱い者、避けるべき存在と言われてきたのを女性の側から読むとどうなるか。アダムも食べたではないか。感極まって感激していた大切な者を神に言われると直ぐに売ってしまう。女性の方は売ってはいない、ただ事実を述べているだけです。アンブロジュースは「パートナーを売ったアダムよりイブの方が許される点が多い」とすでに言っています。男性が男性の視点で聖書を解釈してきたのです。男性の視点からは問題にされなかった事柄が、女性が信仰に生きるとき、神の愛の発言が本当にこのような解釈になるのだろうかと疑問を持つのが女性学のスタートなのです。
3章は罪が入った後での、始めのイメージが壊されてからの事である。「始めのイメージはこのようではなかった」とラーナーも言っている。始めは「共に」であったのが、「支配」が入っていてしまう。罪の結果「分業と支配」が入り込んだ。このように命と恵みから読み直すと、「結婚」は「共に」「相互補完」「より良い部分を出し合う」イメージが出てくる。前回の社会問題の時に出てきた「働くことについて」の回勅から言えば、働くことによって人間となるなら、女性が社会で働くことから疎外されていれば女性は人間になれなくなってしまう。
2)イエスは革命的平等観をもっていた。イエスにたくさんの女性が付き従ったのはその態度にあたのだろう。母マリアに対してのといに応えられたイエス――『神の御心を行う人こそ私の兄弟柿妹又母』(マルコ3;31)――自分の母兄弟姉妹とは、神の御心を行ない神の国を作る神の秩序に参加するかどうかであり、性差には関係がないと言われる。重要なのは神のみ旨を行うかどうかであるという。
イエスに結婚とは何かとの問に応えてイエスは言われた――
『それゆえに人はその父母を離れ二人のものは一体となるべきである。
彼らはもはや二人ではなく一体である。だから神があわせられたもの
を人は離してはならない』(イエス、創世記を引用。マルコ10;7−10)
『妻を離縁して他の女を妻にするものは、妻に対して姦通の罪を犯す
ことになる。夫を離縁して他の男を夫にするものも、姦通の罪を犯
すことになる。』
イエスは文化を超えて自由であり縛られていない。結婚の契約は相互的、男女対等な基盤である。人間は文化的社会的に条件つけられている。弟子達も同様であった。その中で福音を宣べている。
3)弟子達の解釈とそれを超えさせる聖霊の光
『婦人が教えたり、男の上に立ったりするのを私は許しません。・・・なぜならばアダム
が最初に造られ、それからエバが造られたからです。しかもアダムはだまされませんで したが、女はだまされて罪を犯してしまいました。』(テモテ2;11から)
弟子達もイエスに従ってはいても文化社会の影響下で福音を伝えているのです。
『妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。キリストが教会の頭であり、自らその身体の救い主であるように男は妻の頭だからです。・・・いずれにせよ、あなた方も、それぞれ、妻を自分のように愛しなさい。』(エフェゾ6章)
『ここであなた方に知っておいて欲しいのは、全ての男の頭はキリスト、女の頭は男、そしてキリストの頭は神であるということです。・・・・・・男は神の姿と栄光を写すものですから頭に物をかぶるべきではありません。然し、女は男の栄光を映すものです。というのは、男が女から出てきたのではなく、女が男から出てきたのだし、男が女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだからです。・・・・・いずれにせよ、主においては、男無しに女はなく、女無しに男はありません。それは女が男から出たように、男も女から生まれ、又、全てのものが神から出ているからです。』(コリント書11;3−20)
コリントの構造は一見、左の順序のように思われるがそうではない。三位一体の神の関係を前提にすれば、神とキリストは一体であり、男と女は一体であることになる。つまり、この構造は男女の「一体性」を意味しているのです。
共に一緒に歩む。男も女も神からでたからである。然しミルトンの「失楽園」でも男性が女性を作ったように書かれている。イブがアダムに向かって「あなたはわたしの造り主」と言っているところが書かれている。中世では男性が女性を造ると考えられていた。本当の解釈はそうではない、「全てのものは神から出る、女が男から出たように、男は女から生まれる」。聖書全体を読むと聖霊がはたらかれてどんなに文化に制約されていても真理を見出す力がはたらく。
女性が男性のヘルパーで男性は理性的で女性は従うものであると言われていたのは何故か。17世紀の百科事典の中には精子の中に胎児が書かれているものが有る。生むのは男性で女性は畑に過ぎない。アブラハムはイサクを生みと書かれ生むのは男性で有った。女性は畑に過ぎない。女性に貞潔が求められていたのは、男性がその畑は自分のものとしておく必要があったからである。母親と言ってもベビーシッターのような役割に過ぎないものであった。女性観に影響を与えたのは科学の進歩である。科学が男女の対等観の助けになっている。科学も神の神秘の解明に寄与している。
小さい頃、今度生まれたらどちらになりたい、といった問いがあった。現在の学校では女性は女性の方が良いと回答する人が多くなってきた。その理由は「楽だから」「就職しなくて済むから」等というのが多い。このような女性は創世記の「対等性」と「一体性」を生きる女性とはいえない。文化社会に女性は育てられている。赤ちゃんの場合女性の方が成長が早い小学校一年生で一年差が生じる。男はほったらかされるので自分の感情をコントロールする事を学んで行くが、女の子はほって置くとかんの強い子になると言って泣くと直ぐに抱くから自分の感情をコントロールする事を学ぶ機会がない。過剰に配慮されて育てられるから自分で歩くのが不安になる。そこには文化の影響がある。差別なしには育てられない。女性は探検、冒険、恐怖、戦慄を体験できない。自分の成長にブレーキをかけてしまう。依存性を保ちながら対等を主張されると大変である。依存症というシンデレラコンプレックスを克服して行かない限り根本的対策とはならないだろう。
以上
「学び合い」二年度第十六回
11月9日
課題:「聖書に現れる性」
先週は創世記を女性の視点から読んでみました。そうすると世界も教会もずいぶん違って見えてくる。「命と恵み」に心を開いて教会は歩まないと、世界の方が先に行ってしまう。国連は既に先へと行っている。その辺の所をビデオで確認してから発題を始めます。ビデオでノルウエーの女性の政治への進出状況を紹介。
政治は女性を必要とする。ノルウエーに15年前に女性の首相が誕生した時にはカルチャーショックであった。然し現在では4歳の子供が「男性でも首相になれるの」ときくぐらいにまでなっている。ノルウエーでは閣僚19人中8人が女性である。公的機関には一方の性が40%を下回ってはいけないという「男女平等法」が存在する。在任中に二人目の子供を生んだ大臣もいる。男性も育児休暇を取る。政治の場で女性が50%を占めるまでには未だ時間がかかるだろう。しかし女性差別撤廃運動は効果を発揮する。ノルウエーでは両親が1年間の育児休暇を取ることを保障している。男性も女性も子を育てながら仕事を続けると仕事のやり方も違ってくる。ノルウエーの成功の秘訣はそのモデルにある。女性は母親であり職業人であり、子育てと社会参加が両立する社会システムがある。父親を家庭に戻し家庭の責任を男女で分かち合いが出来る改革が実現した。「権力の女性化」を意識して政治を行っている。それは全ての省庁で実行されている。以上がビデオの解説の大筋である。
先週に女性はこういうもの男性はこういうものと言った社会的文化的歴史的解釈や教会的解釈がある事を話しました。女性観は創世記の消極的解釈で形成してきた面があります。近年ギリシャ語やヘブライ語の原典から見直したダイナミックな読み方が出来るようになってきた。「現代の性」につては話したいことがたくさんありますが今日は時間の関係から全てを取りあげられません。「現代の性」については回勅とか横川さんの著書を参照してください。今日は「聖書の中の性」について話したいと思います。
旧約聖書
1)祝福 2)浄、不浄の見方 二重基準
聖書参照個所レビ15;19、レビ16;21〜22,25
「産めよ増えよ地に満ちよ」と、性は良いものとして祝福されています。男女の性は性行為だけではなく、生き方そのものを表しています。その全体が祝福されているのです。しかし、段々に拡張的な解釈が入り込んで来た。女性蔑視的な解釈が出てきてきました。性の解釈の中に浄不浄の考えが入り込み、男が生まれれば33日、女が生まれれば66日間不浄とされていました。レビ記では命の元である、血は不浄なものとされ、不浄さは触れることによってうつる、と考えらました。そのため出産に関わる生理の血も不浄とされた。女性を打ち砕く観念が生まれてきたのです。そこには二重基準があります。男性は遊んでも良いが女性は貞潔をもとめられた。女性は予約された畑であった。女性は男性に対して汚れた存在と見られ性の関わりがタブー視されだしてきたのです。
新約聖書
聖書参照個所:マルコ3;34マルコ16、ルカ8マリア、マルタ(ルカ7;36)マルコ5;25
マルコ12:41ヨハネ8
新約でイエスが登場して「神の御心を行なうかどうか」が問題であるとされ、性差が問題ではないとした。伝道旅行にも女性を携えていた。教えを聞く場に女性がいるのは異常なことと見られていた社会で、イエスは教えの対象としても女性を扱われた。マリアとマルタの個所でもそれは分かるが、イエスは教えを聞く場に女性がいる事を祝福されたし癒しの対象としても女性がたくさん登場する。12年間出血で苦しむ女性が登場しますが、この女性が血を不浄視する社会でどれほど苦しんだか。一緒に住むことが出来なかったはずです。孤独な生活であったはずである。イエスはこの不浄な女性に触れられたので当時としては穢れたと解釈されたはずであるが、イエスはそれをものともされなかった。姦淫の女性の場合でもイエスは何も裁かない。女性は弱い立場におかれていた。これがイエスの女性観である。
イエスは結婚を対等な男女同権の基礎の上に置かれた。夫婦の結合はおたがいに自分を相手に与えることによって成立するとはっきり述べられた。性は二人の関係である。『それゆえに人はその父母を離れ二人のものは一体となるべきである。彼らはもはや二人ではなく一体である。だから神が合わせられた者を人は離してはならない』(マルコ10:7〜10)と言われた。イエスは革命的であった。離婚を禁じる掟が当時はなかったのでそれは画期的なことであった。
結婚の不解消性:
モーゼによる男子が妻を離婚することの許可は効を失った。夫にせよ妻にせよ、その配偶者と離婚して他のものと結婚すればそれは姦淫の罪を犯す、というイエスの言葉に対して、弟子ですら『もし妻に対する夫の立場がそうだとすれば結婚しない方がましです』(マタイ19:10)と言っている。イエスは夫婦に同じ法規を適用することにより夫婦の平等は保障された。離婚できないと何とかがんばって付き合ってゆかないと駄目でありその中で神を体験するのではないか。
復活
主の御復活は肉体に尊厳をもたらした。復活によって牢屋のような肉体は永遠が宿る神殿となった。身体は主のものであるから男女共に貞節でなければならない。
・× 快楽の対象とされるべきもの
・× 子孫を生む器としてだけの価値
・
○ 神の国のために守られる処女性も尊はれる。
出産や育児は恥ずべきものではなく寧ろ光栄化されたものとなった。女性も不浄なものではなく性の営みも祝福され肉体は聖霊の神殿となった。肉体はそれ自体尊重されるべきものとなり、女性も女性としてではなく一個の人間として重要な存在となった。それ自体が価値あるものであり、夫や子供がない女性も無駄なものではなく、そこに処女性の意味も出てきた。修道女も女性の尊厳を現している。肉体は子供を残す為だけのものではない。互恵的にかかわりあうことに於いて「性」そのものの尊厳が出てくる。
弟子たちの反応
弟子達は少し文化を引きずっているが、同時に福音として文化を越えてメッセージを伝えている。『妻は自分の身体を白由にすることは出来ない。それが出来るのは夫である。夫も同様に自分の身体を自由にすることは出来ない。それが出来るのは妻である。』(第一コリント7;4)『‥・独身の男は、どうすれば主に喜ばれるかと主のことに心を遣いますが、結婚している男はどうすれば妻に喜ばれるかと、世のことに心を遣い心が二つに分かれてしまいます』(第一コリント7;25〜)と書かれ、互恵的、二元論的なところから言われている。結婚が一段と低く見なされている。神より妻を選ぶなら確かに問題だろう。神を第一に選ぶのが信仰者としての召命である。イエスのメッセージの根本を捉え、復活の意味を考えると、聖性の意味として神を第一にするように呼ばれていることが理解される。そこから考えるとき伝統的に考えられていた穢れとかではない本当の「性」のメッセージが見えてくるのです。
ノルウエーがあのような状況になってきたのは1960年代になてからである。当時一番問題となったのは、区別の問題であった。黒人と白人の区別、違いは除外を意味している。女性も違うと言う言い方をしているときには女性の座は開けなかった。JALが墜落事故を起こした時、専業主婦は男子中学生ほどにも逸失利益は算定されなかった。少年よりひくい賠償金これは差別である。子供は親の愛を必要とするそれを母性と言って来たが現在は両親性parenthoodと言う表現に変えられている。男性も育児をと言う考え方を国連でも持っている。同じ事をしないと相手のことが見えてこない。男性も自分で食事を作るようになると主婦の食事の配慮が理解できるようになる。男性の仕事は残るが女性の仕事は残らない。体験して見ておかしいということがある。自分も子供が出来たときには専業主婦に戻ったが子供がひと段落して仕事にまた戻った。話したいことはたくさんありますが時間が有りません。性ではなくて一人一人の個性を活かしてゆくことが大切でしょう。最後に学校で女性徒に対しては「あなたが納得するならそれでよいのです」と答えています。「パートナーシップ(キリスト教的女性学)」(平成11年門土社)と言う本を書きました。その中でこれまで話してきたことがより詳しく書かれています是非参考にしてください。