二年度第十三回
10月19日
課題:「現代の若者たちと教会」「若者と同伴する教会と私達」
1.
現代の若者たちと教会
若者のテーマは頭の痛い問題です。若者と教会の関係は理屈の問題ではなく現実の問題です。将来の教会に関わる問題です。自分自身長年若者と関わってきました。アレルギーを感じるぐらいですが、確信をもって若者はこうであるといえることは少ない。34年前に日本にきた当初は本が書けそうなほど感想がたくさんあったが30年以上若者とかかわり続けた現在、彼らと付き合えば付き合うほど何も言えない。この間同伴司祭として過ごしてきました。自分自身落ち込んだり挫折感を味合わされたりしてきた。一方彼らからえた喜びもたくさんありました。若者は多様です。先週は3日間青年とキャンプに行ってきた。今朝も突然大阪から15人の青年が来て泊めてくれと訪れた。
若者を考える時、時代の変化の中に若者を見る必要がある。今日は二つの側面から考えて見ます。一つは「若者自体」を社会的側面から、二つ目は「若者と教会の関係」です。
1) 「若者」階層の崩壊
一 大人社会のコントロルの下にあった昔の若者集団(例:青年団)が消えた。
30‐40年前の若者とは違うと言う実感があります。最大の違いは「若者」と言う階層が存在しなくなったことです。一昔前には、若者とは大人の事を学んで大人になるのを待ち少しずつ大人になっていった。
− 40年前の学生デモや消費社会が生み出した「若者」文化が崩壊した。
安保闘争の時代にはいて若者は大人社会に向けて反乱を起こした。新たな文化を築こうとした。この時代には若者対象の消費社会があり若者文化があった。若者は連帯していた。歌声喫茶もあった。
− 90年以降一捉えにくくなってきた若者の「惑星」多様化と細分化。
90年代になると若者連帯文化は分裂してしまう。この時代から若者がと捉えにくい時代になってたのである。「若者惑星」と言う言葉が生まれてきた。若者が何処にいるのか分からなくなってきたのである。指導も出来ない。滅茶苦茶に再分化され多様化されていった。
2)
しかし・・・過凝期としての青年期が変わらない
社会学的視点から見ると細分化され多様化されてはいても心理学的視点から見るとそれほどかわってはいないのである。
一 依然として理想、夢、狂気、憧れ、格好よきの重要さ、仮装とポーズ
夢を持ち理想に憧れ、一方ピアスや茶髪で他者へ同一化してゆく。自分が未だ見出せていない、大人への過渡期であり、人格形成の途上にある。これは永遠の課題である。この事を忘れている大人が多い。
ー 以前より、劣等感、孤独感、憧への悔み、迷いの深刻化
一 反抗と創造に過剰なエネルギーを使う著者 連帯の欲しさ
彼らが最も欲しているのは連帯である。携帯電話を絶えずかけあい連帯を確認しあう。一番の問題は彼らが人格形成が困難になってきていることである。この時代は人格形成が難しい。
3) 人格形成を困難にする現代状況の悪化
― モラトリアム現象:責任を取らない、40才になっても、まだ青年!
責任をとりたくない成熟したくない、40歳になってもまだ大人になれない。教会にもいる。
― 家庭の状祝:一人っ子現象 母親の過保護 父親不在
家庭でもぶつかる相手がいない。だからアイデンティティーが確立できない。人は反抗の中で成長する。母親との関係も甘やかし何でもかなえてしまう。だから成長できない。大人の先生が少ない。救いは職場の状況かもしれない。良い先輩が見出せる。会社に入って仕事に対して生きがいを見出す若者が多い。
― 教育の状況:詰め込みと進学中心の教育.偏差値 倫理教育の乏しさ
― 職場の状況:ストレス 失業への不安 フリーター生き方の選択
一 地域の状況:共同体崩壊に伴うアノミー(共通膚債競や道徳の喪失)
4) 早いテンポで変わる時代の流れと著者の適応
時代の重さがある。教会の中も時代の流れの中で変化している。大人は自分の心を閉ざし自分を守って賢くやっているが若者は時代に敏感である。時代の流れに負けてしまう。新しい時代の中にも良いものがある。聖霊の働きも時代の中にある。その聖霊の働きを信じることが大切である。
時代は変化するが若者が求めているものは変わらない。「愛」そして「評価」されることである。自分たちの力で自立し、物を考え、正義感をもっている。一方、流行やブランドなどに影響を受けやすい。大人は強い。良いもの悪いものを見分けるが若者はそれを持っていない。今の若者は時代の中で一貫した流れがある。
時代の底を流れ、変わらない青年達の願望:愛、評価、自立、正義感と時代の波や泡を立てる風の向き:流行、イデオロギー、気分。
大人も、皆が時代の影響を受けるが、若者たちが特に敏感に受けている。
時代が去っても、集団記憶の中に痕跡が残る:
* 60年代:燃えたイデオロギーとアクティヴイズム:全共闘、反戦デモ
* 70年代:幻滅としらけ:三無主義、振りっ子、ヲークマン、深夜放送
* 80年代:ブランドによる自己表現、シティーポイ、ルンルンギヤール、
新人類、:会社人間からの解放と新しい個人主義の模索
浅田彰などの新哲学:「意味」と「レール」からの脱皮の勧め
* 90年代:趣味庭先、オタク族、若者文化や連帯の分裂 マヌアル志向
* 95年代:オーム真理教と関西大地震のショック.一時的な目覚め.
* 今(02年)の時代の風?新しいキーワードの普及:自己実現、本物探し?
大人が入れてもらえないメールや携帯電話の独自なネットワーク。一般の傾向:保守化、権威求め、イベント好き、60年代えの回帰?
娘や息子のことは同じ家にいても分からない。彼らの生活のやり方があって神父もはいれない。先週は若者と黙想会に行ったが、言いたいことはたくさんあるが言えない、指導的立場にはなり得ない。しかしかれらは神父が一緒にいることは大切だとは感じている。
一般的にいって現代の大人たちの若者を見る目が厳しい、教会の中でも表面的には受け入れているようでも心の中では厳しい目で若者を見ている人は多いことには驚かされる。現代若者論がたくさん書かれているが病とか悪といった否定的な面から見ているものが殆どである。
先日、新宿の歌舞伎町にある、キリスト教の祭壇を模した飲み屋があり若者と同伴してみた、本物と同じ祭壇や聖画等が置かれた空間に若者が一杯であった。ウエイトレスはミニスカートで冒涜的雰囲気であった。無論信者は一人もいない。若者は楽しんでいた。韓国人は怒っていた。現代の若者は聖なるものに鈍感である。宗教に関して憧れも感じているようでもある。しかし信仰に関して何も知らない、意識が低い、素直であるが、求めているのは仲間だろう。
5) 若者を否定的にとらえる社会世論と社会調査
*
最近行われた社会調査による青年像:
何となく自分が媒だ(嫌悪感)、コミュニケーションの貧困、社会への無関心、現実と虚構の混同。
* 宗教に対して:無宗教への傾向がさらに強りつつ(98年5月調査)
イデオロギーに代わったオカルトによって世界の再構築を行う
宗教に対して信仰よりも、仲間の連帯を求めている(大江健三郎の「音返り」
* 著者の国際仕較:(「日本の若者の弱点」中里/松井 毎日新聞 99年4月)
日本:賢いが自己中心的 道怒のセンスをもたない 人間関係が不器用
6) 私達に考えさせられること:
* 私達が時代の風に身をさらして、風を感じているだろうか
* 時代のテナレンジにどう答えようとするのか 安全地帯に逃げていないのか?
* 今の時代を生きている若者の叫びを聞き、悔みを知り、痛みを共有しているか
*
若者に対しての否定的な一般社会評論に私達の判断が左右されているのでは‥
我々はこの時代の風に身をさらしているのだろうか?教会の中に閉じこもり、時代にチャレンジしていないのではないか?教会の中に逃げ込み、若者の叫びを聞いていないのではないか?若者を拒否して厳しいまなざしを投げかけているのではないか?時代の転換期を危機として、偽りが消え、良いものが残る為には危機が大切である。どのようにしてよいものを残すのか。現在5つの危機があると思う。
U 時代の危機を生きる若者と私達:後退と創造の可能性
1) 知の危:知の情報化や細分化。伝統知恵の崩壊。自分の考えを持つ困難。知識が情報に還元されてしまっている。多くの情報を集めることと知ることにはつながらない。価値観が無いと知識にはならない。
機;一方通行や既存の枠からの知の解放と知の広がりへの可能性。
2) 権成の危:親父、神父、先生権威の喪失。それに伴う反抗期の遅れ、価値観
機:権成主義や封建的社会園係からの解放、真の橿成の再発見
3) 自由の危:レールを走らせられる世代の未来のなき.システムによる心の管理
情報がいっぱいあっても、選択の基準が与えられない。ものだけの豊かさが与えている万能感の危険。与えられ、甘やかされ、自分で苦しんで選択した経験がない。信仰は家族や社会と関係がないと言う。共同体や社会や家庭に受け入れるものがない。正しい基準を持つことが出来ない。信仰を伝えるのは個人の自由を押さえつけるものであると感じる。誤った自由、自由の神話がある。若者は開放感を最も良いものとしている。
機:意志と理性を強調しすぎた自由観に代わるありのままの追求
既成の枠組みからの廃放 個性と主体的生き方への可能性
4) 連帯の危:親子、師弟、世代間関係の断絶 引き篭り 顔のない電子型コミュニケーショ
バラバラで孤独である。大学で教えていて、あるテーマについて隣の人と話し合うように求めプ
ライバシーの侵害であると、抵抗する学生がいる。人権侵害であると言う。片寄った人権主義が
ある。
機:ネットワークなどの新しいタイプのコミュニケーション
硬い組織や制度から解放された出会いと交流の可能性
5) 身体の危:体感なきディジタル文化による感性の麻痺、体力や五感の衰え
機:身体に対しての認識の深まり 環境問題への関心
「危」と−「機」のどっちを重視するかによって、青年を見る目が変わるはずだ
以上で前半が終了し、後半に入る前に「小さな分かち合い」をとなり同士で10分間行なった。以下は後半の発題である。
2. 若者と同伴する教会と私達
T 若者と教会の関係:50年の振り返りと今’の現状
1) 50年の振り返り:
* 共同体の中で(教区/小教区)
50年代 − 70年代:「青年会」の黄金期、共同体の中での若者の動きが活発であった。反発しながらも良い関係が築かれていた。
80年代以降:青年の小数区離れが起きたが、 超小教区的集まりはありよいネットワークがあった。情報センター設置の傾向:KY − Agenda一青年ネットワーク WYD/JWD/TYD-TWG etc
* 運動体の中で
一 青年労働者連盟打OC):1949年スタート 56年138支部 500人参加!
一 学連(48−69年) 全国カトリック学生セミナー(77−91年)、学連の運動は殆ど消えた。現在はゼロである。
* 中央協完全の動き:青少年委員会(72−98年)は数量させられた。
1990年:発想転換への訴え:「問題は若者にあるではなく、教会にある」事を始めて司教たちは認めた。
1993年:「放って(干歩するな!)、いる(共に歩む=)方針の進めに転換し、指導する立場を取らないことになった。しかし若者は大人を拒否しているのではない、共にいる大切さは分かっている。
* カトリック系の大学.2002年現在:23校あるが宣教と信仰の面では成果はない。
2) 今の項状: I
*
小教区;青年会崩壊(海外も同様)が進んでる。小教区の青年離れが見られる。
*
小教区離れの理由:色々上げられている.教区レベルの様々な試みがあるが、96・97年にアンケート調査の結果では「仲間がいない」「ミサやカトリック教会の拒否ではない」と言うことである。現在は少数の大人好きな若者が来るだけである。
* 運動体:深刻な青年の運動体寂れ 従来の運動体に対する青年の違和感
求める運動:自分があり、出会い中心、おもしろさ、霊性、ネットワーク型。
力強い運動は嫌われる。突発的で継続性がない。根気が続かない。一つの成功例は日韓学生交流会である。不思議とその時期になると集まってくる。年二回集まるが直前になって準備するだけだが上手くいっている。30名づつ60名が集まるが素晴らしい交流会になっている。しかし戦争の問題などには触れない。現代の若者はイベント好きであり、教皇が好きで、司教が好きである、神父は駄目である。40年前と正反対である。権威に意味を見出そうとしていることは明らかである。
* 教皇と司教中心に集まる青年の権威求め (youthdayの人気、司教との対話
集会のはやり。
* カトリック系の大学:創設時代と現在のギャップ? ’
色々の制約があって、福音宣教と取り組む先生方の苦労がある。しかし学生は宗教の話を聴くのは好きである。対話もある。
3) どうしたらいいか?
* カを入れても、効果が少ない∴ 青年を放っておいて、教会に対して積極的な
* ニーズの多様化に対して、宣教司牧において多様なアップローチの必要:
* つながりを強く求める教会の青年たち:ネットワークの堆進と共に、チーム
U 青年と共に歩む教会:福音の視点
1 時代(時のしるし)を見分ける目を持つ必要:時代を聖霊によって見分けなくてはならない。青年達は時代に支配されてしまっている。
(ルカ7、31−33;16,18、マルコ8,1―13)
2 若者に対する愛の眼差し:若者に対して低い評価を下しがちの私達。社会の目が冷たい。愛の眼差しを向けて肯定し評価することが必要である。やろうとする意思を評価することである。
「イエスは、彼を見つめ、慈しんで言われた‥Jマルコ10,21」
3 神の言葉「福音」を伝える共同責任の再確認:
私達は何を「福音」として、若い人たちに伝えようとしているのでしょうか。我々が一番大切なこととして伝えたいのは何か。(申6,6−7;マタイ23,1−4)
4 青年に声を掛けることの大切さ:参加への呼び掛けが必要、遠慮しすぎてはいけない。声を掛け
ると良い結果がある。現在は声が少ない。
(金持の青年に呼び掛けるイエス:マタイ19、16−22)
5
時代の危機に応える福音の姿勢:青年の良き同伴者のイエス様に習って。
* 「知」の解放:答えより問いを・問いを受け入れ、問い返すイエスの教育姿勢
主義や独善の枠にははまりがちな大人の偽善を問屋にするイエスの厳しさも掟の細かい情報よりも大切なことを教えるイエス。
* 権威の回復:「み言葉に権威があった.これは新しい教えだ!」ルカ4:31
権威主義態度への猛烈な批判(マタイ23)
* 自由への呼びかけと証し 「自由人と」してのイエス
放彦息子の喩えの教訓 まじめな文化から脱出若者をどう迎え入れるか?
個人の自由をあまりに大切にしすぎている。福音的自由とは何か。青年達は必ず戻てくる。どのような態度で受け入れるのか。
* 連帯の回復 社会から切り持てられた人に社会復帰を促すイエス(マルコ5,41)
出会いと挨拶による網の広がり(ルカ10,3−10)
教会のことを網(ネット)にたとえるのを好むイエス。
我々は若者に与える言葉をもっているのだろうか。
* 心身ともに癒し、生きる力を与える
若者へのイエスの言葉:「若者よ、あなたにいう.起きなさい!」
((ルカ7,14;8,54;9,1マルコ5,41;)
「学び合い」二年度第十四回
10月26日
課題:「教会と若者達」
先週は青年達の同伴者の立場から話をしました。強調点は、もし問題点が青年達にあるとすれば、それは大人の問題であり、現代の問題であり、そして教会の問題でもあるということです。同じ時代にあって、青年達は大人ほど強くは無いという事です。
今日は皆さんからの話を聞きたいと思います。親として、母親として、地域社会に住む者として、同じ教会に属する者として、若者の問題をどのように考えるのか。先週も皆さんから重要な指摘がありました。若者の問題は家庭の問題である。若者の問題は社会の歪みとつながっている。男性の権威とは「やり遂げてきた」と言うことが基本である。若者は大人を見て成長する、等です。
青年が教会に来ない、苦しい無力感がある。がんばっても解決できない。皆同じように感じている。成功例もあるがそれは例外的だろう。自分としては四つの信念を持っている。
1)
何をしても挫折感がある。然し若者が来ない共同体は駄目だ。教会は各世代の交流の場である。世代間の壁を取り外す。諦めないことが大切だと思う。まだまだ工夫の余地はある。
2)
若者は将来の教会の担い手であるといわれるが今の役割が大切である。若者が若者の役割を果さない教会は駄目である。若者には場が必要であるがそれは若者が作る必要がある。大人は譲ることが必要だ。
3)
若者は来なくてもよいという考えの司祭もいる、信者もいる。若者をほっておく意味は二つある。一つは若者の自立を大切にして主体性の尊重であるが、もう一つは放棄である。これは駄目である。
4) 現在一番大切なのは希望をもつことである。希望をもつことと楽観主義とは違う。希望は十字架の道である。教会が破綻してもやってみる、それぐらいの前提が必要かも知れない。毎日青年と接していてもう駄目だと思うときが有る。昨日も青年の集まりがあった。2−3名しか来なくなっていた。もう駄目だと思っていたら昨日は10人もきた。 以上