二年度第十一回 

10月5日

 

課題:「――国家の意味、そして信徒の国・政治に対する責任・関わり方について学び合います」

 

話したいことはたくさんありますが、先ず「社会保障」の話から始めたい。大学卒業後、厚生省に入りこの分野を担当してきたので専門的な話になるがその内容が今日の話の目的ではない。「社会保障」の仕事をしていく中で福音が政治・経済保障とどのように関わるのかがポイントである。

 

1961年以来40年間「社会問題を福音の光で読む」をテーマにしてきた。それはどう云うことなのか?社会保障の視点からわたくしの思うところを述べてみたい。これはわたしの考えであって、政治・経済・社会問題は一人一人が自分で考えることが大切であると思う。

 

わたしが大学を卒業する頃は1950年代で、大不況で就職難の時代であった。厚生省に入る事になったのは、当時属していた「カトリック研究会」の部長でフランス法の教授から役人になるように勧められたからであった。それ以来社会保障問題と取り組んできた。少し「保健と保障」の話をします。

 

「保険」には「保険の原理」がある。それは事故を予測する「大数の法則」にしたがっている。給付と反対給付は等しくなる原則があります。しかし「保障」は異なった「扶養の原理」に基づいている。それは所得再配分の側面を持つので、給与に応じて支払うことになる。「年金」は定額部分と報酬比例部分に分かれている。医療保険はドイツを模範にして導入されたが日本とは異なった面がある。ドイツでは加入時点で「大きい疾病」と「小さい疾病」の自己選択することを前提にしている。日本では自己責任の部分が欠落している。「自分で考えなくても良い制度」これで良いのか疑問である。経済優先で医療保険も赤字である。診療報酬の問題が大きい。日本の制度では人間のことが考慮されていない。個人差が無視されている。防貧制度か救貧制度か?何を基準にすれば良いのか?国の政策に大きく左右される。日本の場合発想の原点が人間尊重ではなく、健康保険の歴史でも同様である。厚生年金の制度でも戦費調達のために始まったために支払いに関する仕組みが不明確であり、本来集金が目的であった。

 

社会保障の前提は「平和」である。健康保険も戦前には医師も歓迎しないものであった。それが戦後大きく変化した。「社会福祉」に関する考え方は国と社会で異なる。年金制度を大きく変えたのは田中角栄であった。それまでは「資産・預金」が中心で「年金」はツッカエ棒にすぎなかったが、それが逆転した。老後の生活は「年金」が中心になり「資産・預金」はツッカエ棒と考えるようになった。年金給付が、利子でまかなえた時代はよいが出来なくなれば原資を食いつぶすことになる。

 

人間中心主義にも問題がある。以前ある司教がアメリカを視察して帰国談の中で「アメリカでは乞食は人間として扱われていない。働けばいくらでも仕事があるのに働かない、怠け者であるから、救済の必要はない、と彼らは考えている。」と感心していたことがあった。かなり右翼思想の持ち主だろう。

 

カトリック社会政策には不満であるが、「補完性の原理」と言うのがあり、簡単に言うと、自分で自分を助ける、出来なければ家族、家族が出来なければ地域、地域が出来なければ国、という段階を進めてゆく考え方である。

 

国民年金法が1962年に成立した当時、無拠出で年金をもらった人がいた。保険でない部分が含まれていたので「保険」と言う言葉が省かれているのである。

 

歴史的に少し考えて見ると、ギリシャは自己中心的である。理性的に物事を考える。敵を排除する。個人さえよければよいと言う考えがある。ユダヤは如何か、選民思想があり、選ばれた民と考えている。ルツ記の落穂拾いの話がある。中世ではトマスは貧者の自立を世話する発想がある。キリスト教は隣人愛である。それまでの考え方と全く異なっている。人間とは何か。革新的思想である。相当覚悟しないと信者であり得ない。

 

体験談を少し話したい。

1.ドイツにフッカー一族と言う資産家が労働者のために立てた住宅が現在でも保存されている。最も恵まれない人たちの住むための低家賃住宅である。我々の住んでいるところより豊かである。彼はカトリック信者の鑑であったが資産を売り払って施したわけではない。

2.ハンガリーブタペストでの体験である。貧しい汚らしい老人の前を母と娘が通りかかった。娘は老人を見て「嫌な顔」をした、それを見咎めた母親は、娘に、老人のところに行き握手してキスするように戒めた。娘は実行して微笑んで戻ってきた。たまたま行き当たった場面ではあったが、これがカトリック国だと思った。日本は如何だろうか?人間についての考え方が違う。

 

質問に答えて:

1.        国家を超えた社会保障の可能性

アメリカの考えているグローバライゼーションには問題がある。キリスト教的ではない。アメリカはキリスト教国ではない。朝日の今日の朝刊によると「カトリック票民主離れ」共和党傾斜とある。ブッシュは危ないが国家を超えた社会保障は必要である。田中耕太郎は以前、世界が一つになる法律は私法は可能性があるが公法は難しい。神を皆が信じれば可能性はある、と話されたことがあった。国際協定としての年金条約はできつつある。

2.        違反しても罪意識のない制度

国の予算は年度主義で繰り越せない。不正受給に関しても人間が考えなくては制度が考えることは出来ない。障害年金でも矛盾は多い。小指3級、親指2級,子と親で1級、個々の人間の状況は考慮されない。法の欠陥である。生活保護も家族兄弟が面倒を見ないという文書1枚で受給を受けることが出来るなど、法を悪賢く利用する道を残している。

 

以上

二年度第十二回 

10月12日

課題:「――国家の意味、そして信徒の国・政治に対する責任・関わり方について学び合います」

 

1.            社会の様々な問題に対してどのように応えて良いのか分からない:

社会問題に関してこうあるべきであると言う話は出来ない。各自が考えなくてはならない。入り口までは一緒に行けても、中に入り考えるのは自分自身だ。自分の体験としても言えることだが、分からないと言うより考えないから分からないのだと言ってよいだろう。自分で先ず考えて疑問をもったら本を読むとか他者と話すことが大切だ。

 

聖書の言葉も同様だ。今日の資料に上げてあるのはほんの一部に過ぎないが、これらに関しても自分で考えることだ。司祭に聴くにしても一人では駄目で同じ質問を複数の司祭にしてみることである。皆異なった回答をするだろう。最終的には自分で黙想して掴んで行くしかない。聖書を読むときに注意したいのは我田引水である。自分の考えを正しいとしてスタートしないことが大切だろう。それから原理主義に陥らないようにすること、現代には現代の読み方がある。聖書の教皇といわれる教皇レオ13世はレールムノバルンで聖書をよく読むように勧めている。聖書を読むにも仲間が集まって読むのが良い、司祭が参加しても一員として参加するのが良い。

 

2.            「社会の中で信仰を生きる」をどのようにしてきたか:

社会の中で生きていくとき、他者との関係がある。自分の体験として言えるのは、信仰と矛盾することはたくさんあったということだ。社会人になった当初は上の人ばかりであったが段々と下が多くなると上手くやれるようになってきた。しかし、どのような意見をもつにしても、一度決定されたらその決定に従わなくてはならない。決まるまで発言は自由である、しかし決定事項には従わなくてはならない。それが民主主義である。決定後に自分の意見に固執してはならない。それが基本的な考え方である。キリスト者は社会の中では少数意見である。具体的な例を一つ挙げる。

 

行政不服審査法と言うのがある。行政の判断に不服の場合に審査を要求できる法律である。ある婦人(A)が、他の女性と正式に結婚している男性と20年以上同棲し、認知された子供が2人いた。男性が死亡して遺族年金を申請しA婦人に遺族年金が下りることになった。ところが、正妻(B)から不服審査の訴えが起こされ、役所で審査することになった。所内の意見も分かれた。正妻に遺族年金は渡されるべきであるとの意見も強かった。よく調査すると、この男性は死亡前の数年間A夫人に介護され、この状態を知っていたB正妻は無関心で見舞にも来なかった。この20年間殆ど完全別居の状態であったことが判明した。自分はAが年金の受領者になるべきであると主張した。所内にはキリスト者が不道徳な関係を認めるのかと詰問するものもあったが、自分の判断基準はこの男性が自分の年金がどちらに支払われるのを望むかであった。この問題の判断には司祭間でも意見が割れた。法的な最終決定はAに支払われるべきとされた。

 

3.            社会問題を考えるヒント:

新聞を、コラムを含めてよく読むことである。様々な問題の一つを選びカトリック信者として考えてみることである。これを出来れば毎日繰り返し自分の頭で考えることが大切である。実践しなくては駄目だと言うわけではない。実践に対する強迫観念を持つことはない。

 

大変良い発表であったと思います。最後に教会の社会回勅について話して終わりにしたい。1961年にはマーテルエトマジェストラが書かれた。その中でヨハネ23世は信徒がこれからは第一線に立たなくてはならない時代であると言っている。神の民の中心は司祭ではなく信徒であると明確にされた。これが現代社会と教会との対話のスタートである。恐れることなく信徒として生きて行きましょう。司祭に「おんぶに抱っこ」では駄目である。「社会問題研究所」でも司祭は参加しているが協業司祭であって信徒が中心である。平信徒の役割は大きい。

以上


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