二年度第九回「社会の只中でー職場―1」

 

課題:「職場における労働、信徒の責任と生き方」

第一部

 

1.              労働の多面的側面について

@ 人間のアイデンティティーの根拠としての労働

先日、シェガレさんから「働くことについて」ヨハネパウロ2世の回勅を紹介された。最近の回勅はあまり読んでない。この回勅を読んだ感想は、カトリック教会の弱点が見られ、これでよいのかなと言う印象でした。その回勅が強調していることは「労働は多面的であるが、人間が主体であり、労働は人間の本質的なものであり、人格的なものである。人間のアイデンティティーの根源をなすものである」そして「労働は神の働きに参与することである」としている。「働くことによって人間になる」と理解することはクリスチャン以外でも納得できることであるが、「働くことによって神の働きに参加する」との意識はキリスト者であることによって始めてできることである。

 

回勅には直接関係ないが、「BERUF」(職業)と[BERFUNG](召命)(転職calling)の関係について考えておく。マックスウエーバーは「プロテスタンチズムの倫理と資本主義の精神」のなかで言っている事だが、BERFはルターが聖書をドイツ語に訳す時使い始めた。「職業は召命につながっている」との理解である。プロテスタント、特にカルヴィン派の人々は一生懸命働いて、そして蓄え、それを人のために使用する。このことが救いの根源にあると云うことである。それが資本主義の発展につながった。資本主義の発展には地域差がある。何故そうなるかと言う議論がある。東アジアの資本主義の発展について経済学者の森嶋師は儒教との関係を指摘する

 

要するに「働くことで人間になる、働くことで神の働きに参加する、働くことが人間のアイデンティティーの根拠である、働かないとアイデンティティーが見出せない」と言うことである。

 

A 労働の経済的側面について

近代社会の中で段々と労働の本質から、経済的側面に重点が移り、労働力を商品としてみる面が肥大化する。経済学的には「労働力商品」と普通に使う、特殊の商品である。経済学では商品としての労働の考え方が強くなる。賃金はコストと考えられ、企業のコスト単位になる。コスト計算の中で賃金は重要である。経済学的にはコストと考えられる労働は、労働者にとっては賃金によって自分と家族を養っていく手立てである。賃金は多い方がよい。賃金はいくらがよいのか客観的な基準はない。賃金は何によって決まるのか。日本の賃金には明確な理屈はない。初任給から始まる賃金カーブには理屈がない。労働者にとっては多いほうはよいが、経営者にとっては低い方がよい。日本経済の空洞化は何故起きるのか。中国やベトナムの賃金は日本の1/10だから外に出てゆく。経営者は賃金は低く、労働者は高く。交渉は一人では出来ないから労働組合が出来る。賃金はある面で力の関係で決まる。客観的理論によって決まるのではない。経済学といっても最終的には力の関係で決まる面がある。

B        労働の社会的側面について

労働には社会的側面がある。労働は社会的関連の中に成り立っている。回勅にはこの辺の事は書かれていない。労働は昔のように一人でするものではない。近代社会では、労働は大組織の中で行なわれる。そこのところが回勅には出てこない。個人的性格が強く出てきている。組織の部分が弱い。労働によって社会組織を分担している。

C        労働の政治的側面について

労働組合だけでは限界があるので政党を作る。イギリスでは組合があって政党が出来たが、ドイツでは党がさきである。ともかくヨーロッパには労働組合と関係のある政党がある。労働組合と政党とは少し目的が違う。労働政党があり、それを支える組合がある。回勅には職業別組合のことにしか触れていない。組合を職業団体としか見ていない。それは一昔前の話である。認識が古い。回勅には政治経済体制をどうするのかが欠けている。全体としては一応書かれていても政治経済の全体的展望がない。どのような体制がよいのか。

D        労働の文化的側面

労働は文化を創造する。芸術家、サッカーもそうである。トフラーが「第三の波」で指摘している様に、産業主義社会では、「インダストリアリズム」という文化がある。トフラーによれば、産業主義文化の中では女性も一つの「労働力」として扱われ女性も外で働かないと、例えば年金などで損になるシステムであると云う。また家族を養って子供を育て教育することは文化を継続させる重要な部分である。この点でも回勅の発想は古い。基本的にどのような政治組織体制を作るのか展望がない。

 

産業主義の中で人間がコストとして見られる人間労働が、「人間的労働とか」「神の働きに参加する」ようになるためにはどうしたらよいのか?韓国の金枢機卿は労働運動で改革運動のかばい手になっている。97年ごろから労働法の改正が検討されている。大統領がカトリックであるのでかれのブレーンにカトリック信者も多くカトリック社会理念が働いていると思われる。「経営協議会」の設立に関しても日本よりも韓国の新労働法は進んでいる。政治経済体制の展望を持つことは大切である。

 

第二部

「職場でキリスト者、人間として生きる」

 

1.どうして職場のことに取り組むことになったのか:

労働者を意識して労働者として生きる決断したのは、人との出会いであった。東京にでてJOCに参加した。労働者を意識して生きることになっていった。指導者からあなたは労働者の子、あなたは労働者ですといわれた。はじめはその意味がわからなかった。労働者の子供が出世して何が悪いのか。猛烈に反発した。時代は60‐70年代初めで全共闘の時代であった。そこでイエスの生き方を学んだ。そして「労働者として人間の輝きを増したい」と自分の理解が変化してきた。この変えられて行くところが大切だと思います。労働者としての意識が湧いてきた。人との出会いが大切である。

 

キリスト者として職場で生きようとしても、少し目線を変えてみると、自分自身が抑圧者の側に立っているのを見出すのです。そこで今は野宿労働者とのかかわりを持っています。この話は今日の発題に関連が無いので省略します。

 

職場のことですが、労働者ですから長時間働くのは当たり前なことです。またJOCに参加することは、なにか特別のことをすることを意味していない。当然のこと、普通の事をするだけです。普通週40時間働くが残業を入れると60‐70時間職場にいることになる。問題はそれをどう考えるのかです。自分が生きている、長い時間いる場をちゃんと見ることが出発点です。「福音の光」を職場にといった意識ではない。労働の真っ只中にいて、生活と信仰の一致は当たり前なことです。

 

キリスト者でなくとも「利害が対立する中で、人間らしく生きたいと思っている人はたくさんいる」ことが分かってきた。キリスト者が考える前に、職場の中で人間が大切にされるために命をかける人がいる。そのことが分かってきた。信仰者としては、イエスのメッセージを解放の概念で捉えて、様々なわずらいから解き放たれ、人間らしく生きることに向けたのです。それがキリスト者として私が受けたメッセージでした。

 

自動車部品工場で働いている。200人ぐらいいる。自動車会社本体は3直でやるが、自分の職場は1直です。だから残業しなければならない。夜の1時まで働くこともある。長時間労働はあたりまえである。そこがわたくしの職場である。早く作業をする。効率よく働く。そうなると、労働者が労働者を差別することが起きる。手の早い人が遅い人を抑圧する。イエスのメッセージはどうか。このような状況も見逃せない。

 

2.行動することで見えてきたこと:

ACOには20人の男女が参加している。男女の労働者、独身の女性労働者が多い。月に一回会を開く。15人ぐらい参加する。生活の分かち合いをする。どんなことをしてきたかこれからどうするか話す。「分かち合い」という言葉は早い時期から使ってきた。労働者であるから普段はあまり難しい本や聖書などは読まない。しかし幾つかのことは分かっている。「困った時に水をくれる人は友人」と言ったような理解であるが、それよりも行動基準は何か「この人たちのために私は何ができるか」「この人たちとどのように接するのか」「イエスならどうするのか」を問うのです。そのように言ってもイエスの様に行動は出来ないのが現実です。

 

時々黙想会に参加して時間があるので聖書を読んで仲間と話合う。段々と聖書が物語ではなくなる。聖書の人々が動き出す。「イエスの立っている立場」が分かってくる。しかし僕達は「現実を先に見る」。一つの現実に対して現実の見方はいろいろある。次に「イエスはどうされるか」考える。自分がどのように行動するのかが問われる。そのときこそ「自分の選択」が問われる。人にとっては「今が大切」である。ひとは今助けを必要としている。

 

職場の中では仲間を思いやることが大切だ。既にそれを実践している人がいる。他者から学ぶこと、仲間から学ぶことの大切さがわかってくる。これも気がついたことであった。「キリスト者が旗を持って先頭を歩くのではない。リーダーになる必要はあまりない」。自分のペースでゆっくり歩んでいけばよい。立派な人はたくさんいる。人間的にも能力的にも優れている人はいる。

 

3. 仲間から学ぶ、励まされる:

中小企業の場合、納期に遅れたら大変なペナルティーを払わなくてはならない。納入先のラインが止まったら数千万円払わなければならない。だから残業しかない。そのような状況の中で何が出来るのか。身近な問題しか出来ない。サービス残業はしない、有給は出来るだけ消化する。企業はあめをあたえる。有給をとらなかった者には別の名目で褒美が出る。休めないようになっている。どうしようもないと思われることもある。しかし、出来ることからやるしかない。そのことによって自分らしさが生まれてくると思われる。

 

一人では何も出来ない。有給休暇をとると朝礼でみなの前でお礼を述べなくてはならない企業もある。有給休暇が取り難く仕組まれているのである。月に一回の休みが取れない。仲間が必要である。職場の仲間が主な仲間であっても、職場以外の仲間も大切である。先ずそこで具体的な問題を話す。

 

愛と正義は通じない。言葉が違う。若者が新聞と言えばスポーツ新聞のことである。仲間の言葉を理解することからはじめること、何を言いたいのか掴まないと駄目だ。キリスト者でなくとも感性の鋭い若者もいる。「そこに神がいる」と理解するようにACOの仲間は訓練されている。ほんとうに困った時に仲間が出来る。それは職場の仲間だけではないかも知れない。

 

4.キリストの民として救われる:

教会の価値観は今の世の中では異質である。人間関係としてもそのようにいえる。経験的に言っても仲間がいないと何も出来ない。人とのつながりがないと何も出来ない。キリスト者としては共同体に確りつながっていないと派遣された職場で働けない。小教区の中でもそれを強調しています。しかしその意味をなかなか理解されない。信者はバラバラになっている。自分だけで問題を解決できる人が教会には多いのかもしれない。或いは職場でそれほど大きな問題にぶつかっていないのか。ともかく仲間達からの励ましが必要だ。近所付き合いも同じだ。

 

「民」と言う概念に気がついた。個人では出来ないが団結するとできる。企業側でも個人は相手にしない。法的にもそうなっている。固まれば弱い労働者が力を持てる。「民」の概念、聖書とか現代世界憲章を多少勉強したからこの言葉を使う、そうでなければ別の言葉を使う。

 

「一人は万民の為、万民は一人のため」マルクスの言葉だが真実は真実である。これを認める必要がある。自分なりに矛盾を解決して、自分自身が生き抜いて行く、ちゃんと学校を出て、ちゃんとした企業に勤め、ちゃんと家庭をもって、毎週教会に行き教会の仕事を一寸手伝って、そのようにして自分の問題は解決できたとしても、自分の仲間は苦しんでいる。この不況下では残業料は出ない。労働組合も大手では専従者がいるが中小では残業の後で組合のことをしなくてはならない。労働組合は労働者の生活の質を高めようといいながら当人達の生活はひどいものになる。それを30年やってきた。皆が良い思いをしなければならない、「民」として。神はあなただけの解放を願ってはいない。人が人として関係を作るとき初めて「イエスの問い」に答えられる。「共同体を持たないとイエスの愛や正義は実行できない」というのが僕の結論です。愛と正義とは具体的に「差別が無い」ことである。

 

教会も共同体を持たないと何も出来ない。東京教区の再編成でも教区として三つの目的を設定している。教会の福音的使命にたずさわる信徒の養成、外国人の司牧と困難を抱えた外国人へのサポート、心の病や傷を負った人々へのサポート。そこで小教区の宣教課題は何かと質問したら。それは皆さんが考えてくださいとの回答であった。それはないだろう。小教区として共同体を作るのか、それとも別に作るのか良く分かりませんが。自分としては小教区共同体と別に、労働者として語り合える仲間を作ってゆく。ともかく共同体の支えが必要であると考えています。労働者の仲間として活動するには、「村」のイメージは悪い、陰湿の感じがする。隣組のような感じがしてしまう。そのようなイメージから解放されるには具体的に何かをしてゆくことが必要だと思う。ボランティアでも何でもやってみることである。そうすれば仲間が必要になってくる。

 

5.生き続けるということ

何かすれば確実に今の社会とぶつかる。自分も今の会社に生産管理者として事務系に入社した。労働組合運動をしてゆくなかで職場を異動するたびに、人が周りにいなくなって減って行った。現在は倉庫に二人で作業をしている。当たり前なことをしてきた男がここにいると彼には分かっている。

 

人間らしく生きると必ずぶつかる。しかし確実に何か見えてくる。そしてえられる。しかし、このような生き方をしてきた僕でも自分が資本主義の中にどっぷり浸かっていると思う。それは仕方がないと思う。資本主義の力は大きい。それをわきまえていることは大切である。仲間つくりをしようと何年も努力しても、出来たのは一人だけであった。その人も家を継ぐために故郷に帰ってしまった。今の思いとしては、僕の世代で出来なくとも、自分の生き方を語り継ぐこと。誰かにきちんと引き継いで行くことです。

 

今の日本では新しい戦前が始まっているといわれている。自分が生まれたのは昭和18年である。前の世代の人たちが何で、あれほど容易に戦争が賛美したものかと思う。調べてみると韓国人にも反対者がいた。クリスチャンで戦争に反対した人もいただろう。次の世代への希望の「光」「しるし」となるために何をしてゆくのか。このような生き方をした人がいるということ。若い世代に期待したい。

 

大手の労働者でも頑張っている人がいる。沖電気の田中哲郎さんである。78年に1500人の首切りがあった。20年間一人で闘ってきた。「企業との関係は何か、良心まで売ったのか」を問うている。彼はシンガーソングライターでもある。門の前で歌いビラを配る。労働運動の現状を見ていると絶望的に思えるときもある。しかし100年前と比較すれば、人権問題でもはるかに良くなっている。困難の中で闘ってきた人がいたからである。これは職場へのメセージでもある。そのようにAC0の役割を理解している。

 

ACO=ACION CATHLIQUE OUVIREURE

カトリック信者の労働者で構成されている労働者運動である。

 

学び合い二年度第十回「社会に只中でー職場―2」

課題:「職場における労働、信徒の責任と生き方」

 

前回、回勅には幾つかの欠けている点があると指摘しました。そして最後に私の問題意識は「どんな政治経済体制を目指すのか」というところにあると申し挙げました。宗教と政治の関係は微妙である。日本国憲法でもそれが区別されている。それは第二次大戦での苦い経験があるからである。回勅には一応一つの体制が想定されています。例えば、私有財産は認められています。それは現実にはどう云う意味かと言いますと、そこには物凄い幅があるということです。現実を見渡すと、カトリック者が首相になっていても違う。いろいろな政治がある。司教によっても考えや行動は異なっている。韓国の金枢機卿の話を先日したのはその意味でした。彼は労働運動に物凄く積極的で労働運動を保護している。世界にはそうではない司教は一杯いる。幅はあってもよいとは思います。Rerum novarum (労働者の環境)、Quadragesimo anno(社会秩序の再建)、Mater et magistra(キリスト教の教えに照らしてみた社会問題の最近の発展について)、そして、Laborem exercens(働くことについて)を読んでゆくと、そこには一定の社会制度、政治経済制度が想定されていることはわかります。具体的に申し上げますと「働くことについて」書かれたのはソ連崩壊の直前の1980年でした。その後資本主義は変化してきています。

 

資本主義といっても大きく三つの型に分けて考えることが出来る。もっと多くの分類も考えられますが、IMFの分析によれば、「アングロサクソン型」、「ライン型」、次いで、「東アジア型」に分けられます。「アングロサックソン型」とは、市場絶対主義、競争原理絶対視する資本主義です。「ライン型」とは、ヨーロッパ大陸型の資本主義です。「東アジア型」はクローニン資本主義とも言われます。クローニンとは情実資本主義で仲間内を大切にします。財閥とその下にある企業グループで仕事をやり取りします。日本の談合もその一つだろう。IMFは韓国に対して改善を強く要求しています。

 

ヨーロッパ型の一例として、ドイツの資本主義についてもうしあげます。ドイツの資本主義には「共同決議法」があります。アデナウアーが首相の時成立した法律です。彼は信仰の厚いカトリック信者の家庭に育ちました。兄弟の何名かは司祭のはずです。西ドイツ再建の時カトリックの社会理論をベースに政治をした。そのうちの有力な制度の一つが「共同決定制度」である。よく社会民主党が作ったと誤解されている。労働者の経営参加はドイツでは銀行も含めてドイツのあらゆる企業で労働者が経営に参加していると言うことです。幾つかの方式があります。経営組織は取締役会、執行取締役会、監査約会で構成される。監査役の権限は非常に強い。従業員2000人以上の企業は労働者代表が監査役の半数を占める。鉄鋼、石炭などの特定企業では監査役の議長には労働者側の推薦者がつくことになっている。またこの法律に従って、人事労務の担当取締役は労働側の推薦人が就任する。

 

またその他に「経営組織法」というのがあって、従業員5人以上の企業は必ず従業員代表委員会を作らなければならない。これがドイツの資本主義である。現在EUの法律が出来つつあり[Directive ](指針)が出されている。それを見るとEUもドイツ型になっている。「従業員代表組織」を取り入れている。ヨーロッパ企業として会社を経営するならそれが適用される。同じ資本主義といっても1980年以降、特に、1990年以降、には資本主義間に違いが出てきている。日本の場合はどうだろうか?

 

発題:

乱暴な発言を前回してしまいましたが、僕は職情的活動家ではないので、人々にある可能性、人間を信頼して行こう、仲間を信頼して行こうと考えています。第一に「仲間と共に歩んで行こう」というところにポイントを置いています。直ぐに結果は出なくとも「仲間と共に歩む」それを目指して来ました。「一人の百歩よりも百人の一歩」が大切です。第二には、周りに誰もいなくなっても、自分の持っている価値観、つまりイエスから戴いた価値観、解放された価値観、を持ち続けてゆく。この二つをどのように保って行けるのか。それは具体的なかかわりの中で考えてゆくことです。自分自身であるためには孤立も恐れない。

 

これからの「話し合い」では四つのヒントの内@とAを中止にしてください。神からの命はどこでもいつでも大切にされなくてはならない。

 

一つの失敗談をして終わります。僕には2人の子供がいて、都営住宅に住でいる。家族と祈りをしているとき、何時も「自分たちが貧しい」と言ってきた。子供たちが、貧しさを誇りにして欲しいとの願いがあった。しかし先日既に成人して27歳になった息子と話をしていて分かったのだが。「家は貧しい」といわれることは、子供にとって大変な心の負担であった。むしろ出世を考えさせる方向に向けてしまったことが分かった。つまり、僕の言いたいことは「言葉の問題は難しい。キチンとしゃべる必要がある」と言う事です。言葉はその人の歴史を含んでいる。その人がどうしてその言葉を使うのか注意しないと相手を理解できない。そのことは「分かち合い」でも大切です。

 

回勅全体を通しての原理は、solidarity principle連帯原理、とsubsidiary  principle補足原理の2大原理がある。この原理をどのように適用するのか大きな幅があります。「補足原理」がある限りそれは資本主義であると思います。責任は最終的には個人にある。個人がまかなえないところを家族が、家族が守れないところを、地域コムミュニイティが、それが出来ないところを、より高次の組織が補完するのを「補足原理」といわれるものです。回勅の問題と言うよりか、我々は具体的にどの資本主義を選択するのか、現実の教会自体がもっと明確にものを言わないと何も出来ないと言う事です。

 

以上

 

課題一覧
トップページ
後期11+12回