学び合い二年度第七回「社会の只中でー家庭―1」
6月22日
課題:「家庭」揺らぐ家庭の中での信徒の責任と生き方
この講座の発題を引き受けては見たものの、これまでの「学び合い」の学習内容を見てから、発題をどうしようかと迷い、先週はこの「学び合い」を参観し、何人かの方たちとは話し合いの機会を持ちました。その結果何とかやれるかと、このレジメにまとめてみました。独断と偏見が見られるかもしれません、既にこのレジメを一読して、反発を感じた方もいるかもしれませんが、よろしくお願いします。
37年間の記者生活では主に文部省の担当をしてきました。1972年から学校教育問題を追っかけて来まして、そこから家庭の問題に関心が移り、また学校教育の問題に戻るといった動きをしてきました。その中で非行少年の問題にも関わってきました。現在はその延長線として精神障害者への関心を持っています。今回は「家庭の問題」というテーマを戴きましたが、それをどのように教会につなげて折り合いをつけて行けるのか。ともかくレジメの順に話を始めます。
レジメの1頁目の資料は、3年程前に上智大学で、ルポルタージュ論の講義を担当した時に、学生に「家庭の問題」を自分で取材して、ルポルタージュをまとめる課題を出しましたが、そのときに「家庭の問題」として学生が挙げたのがこの31項目です。
1. 家庭とは何か 2.育児休暇 3.世代間の価値観の違い 4.リストラによる生活の激変 5、性別役割分担 6.家庭内暴力 7.高齢化離婚 8.母親不在による子供の肥満化 9.親離れ、子離れが出来ない親 10.名前で呼び合う“友達親子”11.コミュニケーション、対話不足、人間関係不足、町内会の付き合い不足 12 いじめ、自殺 13. 女子高生のプチ家出 14 青年期の子供たち 15 不登校、家庭内暴力 16 家庭内不和・家庭内離婚 17 老人介護 18 老人と仕事不足 19 教育(学校と壁) 20 女性の位置 21 育児ノイローゼ 22 幼児虐待 23 父親の存在感の希薄さ 24 少子化、核家族、カギッコ 25 早期教育の弊害 26 家庭教育力の低下 27 嫁と姑の問題 28 しつけ 29 若すぎる親 30 長男、長女への過度な期待 31 主婦の第二の人生
おそらくここに参加している皆さん方もここにリストされた問題の幾つかに関わっているでしょう。自分の親に実際にインタビューしてまとめる課題で38人の参加学生の内、レポートを提出したのが9人、そして最終講義に出席したのが5人だけであった。これを見ても「頭では分かっていても、現実の行動としては対応出来ない」ことが分かる。レポートを提出した学生は親子の対話が復活して感謝された。この講義を通じて分かったことは、殆どの学生が親のことを知らないということです。何で親がこのような生き方をしているのか知らされていない人が多い。コミュニケーション不足の実態が判明した。
次の頁の資料は「遠藤心理カウンセラー室」で作成されたものです。昨年一年間にカウンセラリングを受けた人の主訴を統計的にまとめたものです。「家族関係問題」「生活の仕方」「対人関係」の問題が多いことが分かる。
延べ人数2537、「家族関係問題」1030人、「生活の仕方」、「対人関係問題」693人、「食事の問題」435人、「お酒の問題」376人、「思春期の問題」302人、「お薬の問題」254人などであった。
以上の統計のアセスメントは以下の通りであった。家族関係、夫婦関係、AC(アダルトチルドレン、家族関係の問題が起因して生きずらさを感じている人達)、摂食障害、過食、拒食、そして行動障害等が多い。
家族関係679、家族関係184、夫婦関係117、AC373(adult children)
摂食障害374、過食嘔吐242、過食74、拒食58、行動障害355、ギャンブル153、DTSD35、虐待35、暴力38、盗癖17、浪費癖46、アルコール247、薬物188、
思春期問題行動320、非行19、集団不適応34、モラトリアム25、閉じこもり73、家庭内暴力72、不登校66、対人関係194、共依存87、愛情嗜好16、対人関係111
問題を抱えている日本人は孤立している。自分達だけで解決できないでカウンセラーに相談に来ている。アメリカではカウンセラーはものすごく発達している。日本もそうなるだろう。問題の原因は複雑である。しかし結局、家族問題は人間関係問題であると思う。何故いま家族がギクシャクしているのか。その原因は、自分の独断ではあるかもしれませんが、「明治以来日本の家庭が『学校化』してゆき、学校は『「企業化」して来た」ところにあると思います。学校経営と言う言葉が使われている。それ自体がそもそも疑問である。企業社会は課題達成型の社会であって、与えられた課題をうまく達成すれば褒められる社会である。新聞記者も同じである。トップの期待を慮り記事を書く。マスコミでは自己規制が一番深刻な時代である。企業のトップが何を求めているのか部員が感じて自己規制してしまう。効率化重視の問題もある。現在はノンフィクションとかルポルタージュの記事はあまり出てこない。足で歩き時間を掛け、労力がかかり、金がかかるので嫌がられる。新聞でも長期連載が少ない。明治以来続けてきた企業の論理が親から子に、子から孫に、連鎖的に伝えられる。親のようになりたくないと思っていても知らず知らずのうちに親と似たことをしている。この連鎖はちょっとやそっとでは断つことは出来ない。
文部省が発表した文章がある。「民主主義」という国定教科書の中にかかれた文章である。現在の教育問題を指摘していると思われるような内容であるが実は、1949年に書かれたものである。戦後数年経って書かれたのである。教育とはこうあらねばならないと言っているのである。これを読むと如何に教育問題が過去長い間改革されなかったかが分かる。現在また同じことが言われている。これが現実である。戦後の日本の民主主義がメッキであった、自分達で獲得したものでないから身につかない。マスコミもあまり反対しない。市民も反対の声をあげない。現在の政治が小泉、石原などでどんどん進んで行く。アメリカが戦争すれば直ぐに日本は参加する準備が進められている。
「これまでの日本の教育は一口で言うと、上から教え込む教育であり、詰め込み教育であった。先生が教壇から生徒に授業して、生徒が一生懸命に暗記して試験を受ける。生徒の立場は概して受身であった。自分で真理を学び取るといった態度は無く、生徒が学校で勉強するのは、良い点をとるためであり、良い成績で卒業する為で在った。本当に学問をして自分の物にする為ではなかった。良い成績で卒業するのはその方が就職に都合が良いからである。大学で学ぼうと言うのも主として立身出世の為である。そのような受け身な教育や手段としての状況では身についた学問は出来ない。多くの人は試験がすんで学校を卒業すると勉強したことを大半忘れてしまう。」
「その上もっと悪いことに、これまでの日本の悪いところは政府の指図で動かされることが多かったことである。だから自由な考えで自主性をもたせようとする学校の先生がいてもその教育方針を実践することは極めて困難であった。しかも政府はこのような教育を通して特に誤った歴史教育を通じて生徒に日本が神の国であると思い込ませようとし、はては学校に軍事教練を取り入れることを強制した。長いものには巻かれろと言う封建思想が教育の中に残っていて、政府の権限は反対をゆるさない強制的なものであったために日本の教育は権威によって思うように左右されるようになった。元来その時々の政府が教育を支配することが大きな誤りである。政府は教育の発展を出来るだけ援助すべきであるが教育方針を政策によって動かすようなことをしてはならない。教育の目的は責任を持ち真理と正義を愛し自己の法的社会的政治的責任を、身を持って果して行く立派な社会人を育成するところにある。ことに政府は教育機構を通して国民を道徳思想に一つの型にはめるのは最も良くないことである。今までの日本では忠君拝国というような縦の道徳だけを重んじあらゆる機会にそれが国民に吹き込まれそのために日本人に何よりも大切な公民道徳が著しく欠けることとなった。」
1972年に、文部省担当時代のことであるが、現在と同じく新しい学習指導要綱ができ、教科書が新しくなり一挙に難しくなった。小学校の一年生の教科書に集合論や一億という数字が出ていた。数の概念もまだはっきりしていない子供に億の単位を教えようというのである。当時の文部大臣が記者会見で、五年がかりで作った教科書ではあるが難し過ぎると思うとの話が出た。その背景を質すと、「世界の競争に勝つ為には学校教育に力をいれて『5%のエリート』ハイタレントパワーの育成が必要である」との経済審議会の答申に応えるものであった。出来る者が出来ない者に脚を引っ張られるのは不公平である。そのために教科書が難しくなったのだとの説明に皆が驚いたことがある。文部省に対する批判に対し、現在ゆとりの教育と言われているが、一度あがったレベルは下げられないのだ。普通の子供は塾に行かないとついていけない。落ちこぼれが生まれることになった。教えるほうにも学習指導要綱が法的な拘束力が働いていて教え方が厳しくチックされているので自由が利かない。そこで子供の状況は無視されることになる。基礎的なことが分からない内に試験試験で刺激されて無理やり消化させるから、学力低下が起きる。入試システムにも問題がある。塾産業の問題もある。ともかく、人工的に「人材配置のピラミッドシステム」が出来上がった。企業も上の方から人材を選んで行く、そこでシステムが社会的に出来上がってしまった。親達が拒否すればよいのだが親達もそれに乗ってしまった。東大教授の話によると出来る奴は昔も今変わらないが、中間層が昔と今は違うと言う。入学後、中間層が伸びてこない。受験競争で伸びきってしまっている。教師も管理社会にどっぷり浸かってしまっている。それではうまく行くわけがない。中曽根倫教審で盛んに創造性、個性豊かにを言い始めている。偏差値的学力では駄目であるからこの体制を終わらせようとしている。
「本当の学びの場」は、遊び、ゆとり、自由があって子供たちが伸び伸びとして育ち、試行錯誤、様々な価値観があって様々な集団が出来て、教師も自由に自分の教えたいことを教えてその結果尊敬される存在になる。個性や違いが認められる。今を大切にして今を充実させ、本音が出せて、ありのままを受け入れられ、豊かな感情表現が出来て、学校の生成期だけで評価されることなく、自分のもっているものを出し合い、互いの違いを認めてゆく、行動は自分の責任でする。弱さを大切にする。その中で、自分の意見は自由に言う。これが「真に学ぶ場」の必要条件であると思う。
しかし、現実は「学校の企業化」が起きている。管理、競争、均質、標準化、評価、失敗は許されない、教師は内申書を書き成績をつける権力者になり、課題達成を目的とし、努力主情主義で、明日のために今日を我慢する価値観。しかし子供は確りと親の状況を見ている。偏差値一元主義の評価基準。才能はペパーテストだけで人間の優劣を決めてしまう。感情は出せない、本音は出せない、規則校則で縛り考えることが出来なくなる。権威には常に同調する。7−8年前にオランダの教育省を訪れた時、教育省の目的は「現場の先生がやり易いように援助することである」と説明された。訪問した学校で、校則があるかどうか質問すると、あるとのことであった。その校則とは「人間らしく行動すること」それだけとのことであった。何が人間的な行動であるかは子供たち一人一人が考えることであるとの回答であった。日本のような細部にわたる校則があったら子供たちは自分で考えることは出来ない。学校教育は効率と能率だけになり、国家や企業に役立つ人材の育成機関になり、中学、高校、と順次選抜されふるい落とされて行くシステムである。学校の企業化に留まっていればまだ良かったのだが。それは家庭にまで浸透してしまった。
家庭問題の悪の根源は「家庭の学校化」にあると言いたい。家でのんびり出来ない。ごろごろさせてくれない。様々な要求が押付けられる状況にある。少年問題は結局のところ人間関係の歪みの問題である。ありのままの人間を受け入れない。学校の評価が家庭での子供の評価になる。無条件で子供を受け入れる場がない。悲劇である。取材していて様々なケースに出会った。過去数年で事件が多発した。背後にどのような問題があるのか調べてみた。
大分で起きた17歳の少年が風呂場から侵入して見つかったので家族を殺害してしまった事件がった。この少年は長年父親から虐待を受けていた。兄のほうは勉強ができた。何時も比較されていた。少年の問題は暴力でしか解決しないと思い込まされてきたことである。母親は離婚問題で子供の面倒はみない。小学校の頃は先生がその代わりをしたが中学では保護者がいなかった。そしてこの事件が起きた。
岡山県の金属バット事件があった。母子密着が背景にあった。父親が希薄な存在の家庭であった。母親が子供の野球部のトレーニングスケジュールするほどであった。母親は子供がレギュラーに選ばれるように監督に働きかけ、実力が無いのにレギュラーになると、いじめが始まった。そしてバット事件が起きた。
豊川で17歳の子供が主婦を殺害した事件が起きた。アスぺル症候群の子供であった。在学していた学校は豊川稲荷高校で進学校として有名である。そこには特進コースがあり全国から偏差値の高い生徒を集め、トップの50人クラスは授業料なしである。その下のクラスは5000円引き。といった制度で経営されていた。その少年は特進クラスに属していた。アスぺル症候群とは感情機能が低下し理論的に全てを頭で処理する。感情が無いに等しく人間関係は表面的にはまずまずであるが、極端な行動をとる。小学校の時いじめに合い、どうすれば虐められないか考えた末に、全ての人にニコニコすればよいと結論に達し、それを実行した。高校に入ると全校生徒に血液型を聞いて回りそれを人間理解のベースにした。奇妙な行動があっても成績が優秀であると云うことで殆ど問題にされなかった。これは現在の学校教育の典型である。アスペル症候群の子供は規則があり、型にはまっていると安定するが自由になるとどうしてよいのか分からなくなる傾向がある。死について考えていてそれを殺すことと結びつけた。自分は人を殺すこともできる人間であることを実証することを考える。今の教育制度にはまってしまいこの事件が起きたと思われる。
非行、閉じこもり、引きこもり、摂食障害、いじめ、自殺、薬物依存など、事件を追ってゆくと必ずそこには状況の犠牲者の姿が浮かび上がる。学校問題でも、学校不信の親の子供、偏差値第二世代が現在学校に行き始めている。子供は学校で暴れる、教師の言うことは聴かない。学級崩壊は親の敵を子供が討っているような感じさえする。能力のあるものも問題を抱えている。かれらは単なる記憶ロボットマシーンになっている。自分で考えたり表現したり出来ない。常に評価を気にして、権威を気にして成長してきた。自分の意見は言わない、言えない。感情を出さない。権威に従順。役人、官僚にも今では通用しない。東大は今大変な問題を抱えている。論説委員をしていた時、7−8年前であるが、蓮見学長から教育担当記者の授業参観への招待があった。そのときの蓮見さんの説明では、現在の東大入学者は、知識はあっても学ぶにあたっての問題意に欠けている、自分の考えを発表したり表現したりする力がないので、授業を改革することにした。それまで任意に受けていたゼミナールを、入学後直ぐ4―7月に強制的に取らせ、一人の教授に20人の学生を割り当て指導するとのことにした。4人の学生の発表があったが自分の体験は全く語らずに文部省の教科書のような内容であった。質問者も決められていた。最後に評価表が配られ、態度、内容などを点数化するものであった。これが東大の改革なのである。
上野千鶴子さんが東大で教え始めて言っていることだが、東大生は権威主義を内面化した人たちだ。権威に同調する能力が高い人たちだ。権威に従順だから東大生になれた。権威とは、自分より強そうに見えるものには闘いを挑まない。この構造をどうしたら変えられるのか。制度はかわらない、考えれば考えるほどこれでは駄目だと思ったりする。
第二部
アルコール、薬物依存症の自助グループの話をします。自助グループに家庭問題を解決する一つの糸口があると思われる。体験を話し合い、その中で希望を与えて行く。これからの改革の核になると思われます。しかし、それ以上底が無いところまで行かないと方向転換が出来ない。教育問題も同じかもしれない。ドンゾコまで行かないと回復力が出てこない。自らを助ける、「自助」が前提である。日本の学校教育の問題もまだ底をついてはいないのかもしれない。
自分がアディクションに興味を持ったのは、綾瀬の女子高校生監禁事件を取材し「かげろうの家」を書いた時からである。斎藤学先生が、この本の家族は典型的なアルコール依存症家族病理であると指摘されてからである。取材中にはアルコールを毎日飲んでも日常生活がおくれるなら依存症ではないと考えていた。指摘されてみると、父親は酒を飲んだ晩に言ったことは皆忘れてしまう、妻のほうは現実にある夫の姿を受け入れることができず、聞いても聴いているとは認めない、みても見ているとは認めない、二階に女子高校生が監禁されていてもそれを認めない、不可思議な状況世界が出来上がってしまっていた。現在の専門家の基準では「止めたくても止められないのは依存症である」とのことである。パチンコ、ギャンブル、虐待、買い物、摂食、浮気、ワーカホリックなど皆そうである。偏差値もその一つだろう。斎藤先生は依存症が連鎖すると言う。
ダルクの薬物依存症のケースがある。父親に反発して17歳で覚せい剤の依存症になりトコトンまで落ちて最後にダルクで回復した近藤さんのケースである、近藤さんは主催者で奥さんもアルコール依存症の事務局長をしている。その方の話も物凄い。酒びたりになる、ついに離人症になって人がプラスチックのように感じてくる症状にまで至る。そこからダルクで立ち直って行く。そこに自助グループの役割を見ることができると思う。自助グループは互いに悩みを話し合い、彼らは問題から逃げずに問題に直面し、立ち直って行く。取材していて感じたことであるが、問題があるのが人間である、それを認め合うことの大切さである。以前は問題の無いのが良いと考えてきたが、人間の行動が積極的になるには、問題がある方が良い、人間は問題によってより人間らしくなれるのだという発想に変わってきた。
問題に立ち向かう「もう一つの道」はアトムと言う保育園でのケースがある。その保育園では完全情報公開が原則である。取材も自由、参観も自由であった。問題が起きると一人ひとりが発言する。腹に思ったことを全部発言できる。そうなると全ての人が生き生きとしてくる。さらけ出せる場が生まれる。自分をさらけ出すことで自分が変わってゆく。自分が生き生き出来る場であるから。給与は非常に低いが辞めない。退院した精神障害者グループの例がある。浦川のプロテスタントの教会でのことである。過疎地にあるため平日の施設活用として彼らの集まりが出来てきた。何かしようということになって、昆布の袋詰めの仕事が始められた。仕事も多角化して参加者も増え100人に達し、年商1億円に達したが、利益は100万円に過ぎない。これは能率主義で運営されているわけではないから原価が高くつくのである。100人に対しては仕事のパイが小さい。どうするか皆で相談した。精神疾患者の社会的問題は当事者能力を持つ場が与えられないところにある。彼らは集まりを大切にしミーティングを常に繰り返していた。自分達が何時も話している自分達の病自体を30分ビデオに撮り売ることにしたのである。10本1セット6万円で販売した。病院、施設、学校から注文が殺到した。150セットそして300セットに増えた。利益が1000万円に達した。川村先生はしゃべることで病人の発作の間隔が伸びて行くという。自分の感情を話すことが如何に大切か分かると言う。
全ての問題は「語ることが出来ない」ことである。そこから事件になってしまう。歪みや、いびつがあっても本人の言うことを聴いてやらない。いじめに対しても共感ではなく、指示的に対応してしまう。だから心に入らない。「言葉で聴いてやれる場」があったなら避けることが出来た事件は多いだろう。自分の感情を言葉にすることは大切である。
ラルシュ、カナの家:
取材で聞いたことですが、重度障害者と一緒に生活していて、始めは「仕事を覚えさせること」に重点をおいていたが上手くいかなかった時ジャンバニエが来て相談したところ、「最も大切なのは「共に食事をすること」である。食事の時、自分の気持ちを話すこと、自分の感情を言葉にすることが大切なのだ」との指摘をうけた。今は実感をもってその通りだと思うとの話であった。自分の感情を言葉にすることの大切さをお話して私の話を終わります。
横川さんの「著書の紹介」:(今日発題で取上げられたケースが詳細に報告されていますので是非参考にご一読ください。)
1.「もう一つの道―競争社会から共生へー(共同通信社)
2.「心を癒す場―切捨て社会からの脱却―(共同通信社)
3.「不思議なアトムの子育てーアトム保育所は大人が育つー(太郎次郎社)
学び合い二年度第八回「社会の只中でー家庭―2」
6月30日
課題:教会の「自助グループ」的な学び合いの是非
(自分のプライバシーの問題を教会で話すのは是か非か)
今始まる前に数人の方と話しました。宿題の項目1)−3)を全部これからの話し合いで、対象にするには時間がないから、グループ討論の対象として本題の中心が抜けてしまう畏れがあると感じました。そこでこれから始める話し合いのために、私が「何が言いたいのか」を再確認しておきます。
「家庭の学校化」「学校の企業化」の現象が起きていて、能率、効率、課題達成、ありのままの人間を受け入れてくれる場がなくなってきた。おそらく教会もそうだろう。先週の資料に箇条書きにした項目「真の学ぶ場」(資料3頁)人間同士が互いに認め合う「場」、本音で話し、弱さを出して、違いが認められて、無条件で受け入れられ、心を通わす、―――の様な「場」、それこそが家庭ではないか。教会もそのはずである。しかし現実の家庭や教会は、企業化されていて、管理、権威、建前、等で形骸化されているのではないか。それをどう解決して行くのか。それを改めてゆくには「自助グループ」しかないのではないか。互いに問題を抱えた人が集まってグループを作り、心にあることを本音で話し合う。現実を直視して心にあることを言い合うならば、そこにはプライバシーの問題が起こる。家庭の中ではプライバシーの問題は殆ど無いように、教会の中でもプライバシーが殆ど無いというぐらいにならないと、教会の中での信頼関係は生まれないだろう。信者同士が心を通じ合うことも出来ないし、教会では何もできないのではないかと考える。
ですから、これからの討論は、3)「自助グループの必要性」だけに絞りたい。「プライバシーのない場」にならないと教会になれない。自分の体験で言えば。大学を出て就職難の時代に何処も受からずに、家庭にも居場所を失いかけて居たとき、今で言う「共同祈願」の中で「横川君は就職試験に落ちて困っています―――」「主よ、私たちの祈りを聞き入れて下さい」と祈られてしまった。確かに自分としてもプライバシーをさらけ出すのは嫌である。しかし、真剣に祈られて、それを知った方からの紹介やら助けがあって、いろいろの経過を経て、就職できた体験があります。
「記録」の8頁に書いてありますが、「腹に思ったことを全部発言できる。そうなると全ての人が生き生きとしてくる。さらけ出せる場が生まれる。自分をさらけ出すことで自分が変わってゆく。自分が生き生きする場だからである。」自分の真実を出さないと信頼関係は生まれない。以前は精神障害者が自分の病気について話すのは専門家からもタブー視されていた。それは「分裂病とか精神病の人が幻聴とか妄想の話をしてそれを真剣に受け止めると患者の心に固定化するので避けた方がよい」との考え方が精神医学会の主流であった。しかし浦川では、病気の人に積極的に話しをさせる事にした結果、発作がおさまり、自分の思いを言語化することによって今までと違った回復に向かうことが可能であることが分かってきた。松本君は幻聴がありながらも、一対一で話をしているときには普通に対話が出来ても、5−6人のグループで話をしていると、自分にとって面白くない話になると幻聴の傾向が出てきて全体の話についていけなくなって、自分の発言の番になるとトンチンカンなことを言って笑われることになる。しかし、そのトンチンカンな話も皆が受け入れることによって参加者が本音でなんでも言えるようになって行った。みながそうなれたのは松本君のお陰であると言われている。前回の発表の時、皆さんの話を聴いていると、まだ自分の発言がどのように受け止められるのか気にしている感じがする。ベテルのような場、幻聴があっても聞いてもらえる、トンチンカンな話でも皆が受け入れてくれる場が必要であると感じます。
「場」の大切さでは共通していると思います。「ベテルの家」の人達が思いをさらけ出すことが出来るようになるには長い時間が必要であった。「場」は簡単には出来ない。20年かけてやっと100人ぐらいの集まりの「場」になる。「場」作りには時間がかかる。リーダーシップをとる人も必要である。なんとなく、わいわいやっていても駄目である。
今日は家庭の問題がテーマであるが、事件を起こしている少年達の背後には、問題を抱えて孤立して閉鎖的になった家庭がある。「話すことが出来る場さえあれば」事件を回避できたのではないかと思われるケースが多い。我々は今このような状況に接して「キリストならどうなさるだろうか」と考えてみる時、彼は説教をするのではなく行動をとられるだろうと思います。ハンセンシ病の方が先日ある集いで話されたことですが、「ハンセンシ病は5000年前から存在しているが、仏教もヒンズー教も差別をしたが、キリストだけが受け入れたのです。」問題を抱えている人から聞く、状況が分かったら行動をとる必要がある。「場」を設ける必要がある。いまの教会には「場」が無い。これが本当の教会なのか。家庭も孤立していて、普通は見えないがしかしみな悩んでいる。
ここは結論を出すところではないので出しませんが。これから我々が現実の問題に向き合って行く時に、またこの「学び合い」のこれからの流れの中で、私の考えが一石を投じたことになれば幸いです。
以上