二年度第五回「信徒の活動―1」

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課題:教会内外の信徒活動の現状と評価

 

教会内外の信徒活動の現状と評価

今日の課題を考えるに際しても新しい情報に基づいて現状を「良く見る」そして「評価」することが大切です。直感だけでは駄目なのです。また「評価」に際しても独自の標準があります。今回の「評価標準」は、私が来日して34年間日本に滞在し現実に関わった体験を中心にします。したがって独断に満ちたものとなる可能性もあります。反対意見の人も居るでしょう。反論も大いに歓迎します。

      

私は函館、札幌、板橋、真生会館、などで司祭として活動してきました。この間、労力的に大変負担の大きいことではありましたが、小教区だけではなく信徒活動団体の担当・顧問司祭として同時の関わりをもってきたのです。この体験から感じることを話します。この二つの集団、小教区と活動団体は雰囲気が全く違います。小教区では地域社会の人々と共に生き学び、信徒の暖かい協力などがあり幸せでもありましたが、反面、信徒の行動は無方向的であり、信徒の甘えがめだちました。自分にとっては主任司祭として全能感に酔う日々もありましたが、同時に完全な孤独を体験したのです。この孤独感は大変辛いことでした。 

 

信徒活動団体ではJOC, 国際学連、社研と関わってきました。司祭にとってそこでは信徒のリーダーシップを受けることのきびしさがあます。この種の団体には、家庭問題の解決、社会問題の改善等明確な方向と目標があります、それに協力しなければ司祭であっても排除されてしまいます。また国際的連帯があってネットワークがあります。そこから国際社会の複雑さが見えるし、団体の片寄りとか、こだわりが見えてきます。そこにはイデオロギーがあります。そのため一致し難く分裂し易いのです。この活動に関係している時いじめにあったこともあります。意図的に根拠の無い中傷批判をアジアじゅうのネットワークに流されたのです。本当に苦しい体験でした。分裂と虐めさ自己疎外の体験でした。

 

T 信徒の活動団体の現状分析

下からの動きとして以下の三つの大きな流れがあります:

1) 1920年代のカトリック・アクション

2) 新共同体

3) 小教区の中の信徒の動き

 

1)生活の場で福音を語り合うカトリック・アクション系の活動

教会の歴史を振返った前回の発題の資料の「結びの言葉」に「教会は正当性を守り、社会と世界の動きに防御的な姿勢を続けた。これでは信徒の出番はない」と、また先週には「今の教会にある教義や秘跡が生活から遊離しているから、それを生活の場に戻さなければならない」と指摘があった。

しかし幸いに1920年代にやっと我慢できなくなった信徒の出番が見られた。

第一次世界大戦の直後で共産主義の思想が広まり教会は反共であり、さらに教会は内向きに内部がために向かって行ったの時です。変わらない教会に失望して多くの信者特に労働者階級の信者、が教会から離れてしまった。生活があまりに苦しい、教会の言っていることについていけない人達であった。何かしなくてはならないと感じた一部の司祭と信徒の動きが始まったのである。「生活の中で福音から光を受けよう」といった動きであった。カトリック・アクションの典型はJOCから始まります。1924年の設立です。それが社会各階層に広まってゆきます。生活の見直しを行う運動です。その運動の基本は、現状を良く「見る」て、み言葉に照らしあわせて「判断」し、「行動」することでした。

 

利点と功績

小教区の中ではできないことであった。小教区では説教しか聴けない。この種の運動が無かったならば第二バチカン公会議は起きなかったであろう。このような運動は教会の歴史のなかて初めてであった。この運動は60−70年代に盛り上がりました。信徒の活動団体の特徴は組織的で目標が明瞭であることです。労働者に福音を伝え社会各階層に広げて行く、教会はそのお陰で一新されたのです。メリットは大きかった教義や理念や司祭の説教ではなく社会の現実から出発する、生活の中でみ言葉を聴き、分かち合う。カトリック・アクション団体は、司祭は発言するが、信徒によって運営され、方向付けは皆で議論して決める、民主的に組織化された団体です。新しい司祭/信徒の関係が生まれてきた。聴き、黙り、同伴する司祭像の誕生である。ロを閉じ信徒の生活のことを聞かなくてはならない。聴くと言う事は大変なことである。司祭は福音を読むとき聖書個所を選んだり話をするだけになる。現実的社会問題、性の問題、家庭の問題などを取上げて行く。国際社会、市民の姿、市民の問題が見えてくる。自分の小さな小教区の中だけでは視野が広がらない。異議申し立て能力や、良い批判能力が養われない。説教に対する批判能力も必要である。教会や社会への良い意味での批判力が大切である。小教区よりも、社会運動と国際運動との連帯を強め、政治/経済の分野で発言する。社会に対して異義申し立ての精神を育て、具体的な行動を示し、信仰の証を行う。

 

カトリック・アクションが展開していくうちに現れた様々の問題

欠点も同時に見えて来た。司教たちとはうまく行かなかった。司教はこれらの運動を利用しようとした。「委任状」(mandate)の問題、ヒエラルキーかーらの「委任」の問題が発生した。信徒が司教と司祭に協力すべきものなのか、どこまで自立を保ち、ヒエラルキーから独立して発言し、行動できるか、といった問題が発生したのである。1965に起きた学連事件のいわゆる「委任状事件」などがその例である。

次に、司祭がこの種の問題に不慣れであった為に起きてきた事柄もある。自分が司祭であるといった意識の中には「権限を持っている」といった意識が潜在している。指導的な立場から、ただ「聞くだけの協力司祭」となると司祭のアイデンテイテイ危機が起こってくる。今でもそのような司祭はいるだろう。

次に、活動団体と小教区の摩擦が起きてきた。活動団体の闘士(Militant) と日曜日にミサ信心に来る信徒、教会常習的実行者(Practitioner)の対立である。社会運動をしている人から見ると彼らは偽善的に見えてくる。ミサに来るだけで月曜から土曜までは何もしていないように思えてくる。また、活動団体では事務局常任メンバーのサラリーマン化と官僚化の現象が起こって来た。専従事務局の人たちは現場と接触のないまま、現場で活動する人たちを理解することができなくなって行った。また給与の問題も絡み本来のボランティア精神を喪失していった。階級闘争と結びついた運動の論理は、福音体験から離れ、ことばはイデオロギー化し、スローガン化したため、言葉の空洞化が生まれてきた。生きた霊性が減少してゆく。JOCなどでもその傾向が出てきた。秘跡の軽視、霊性のないまま、ただの社会運動に変わる活動団体は衰退してゆく。

 

1990以降に起きてきた、カトリック・アクションの衰退

の一般的な原因は、ソ連の崩壊によるイデオロギーの崩壊であった。「闘志」精神の衰えで若い人がついて行けなくなった。信仰が個人の問題となりいわゆる、信仰の「私事化」によるものである。信徒団体は60年代の黄金時代の体験にこだわって時代についてゆけなくなった。特に日本ではその現象が強いだろう。新しい人達が入れないので、世代交代の失敗に伴う高齢化が起きてきた。このように活動団体の時代への不適応と団体内の分裂が起きてきたのである。また同時に、85年のシノドス以後にみられる、ローマ中央集権主義的姿勢がある。その後カトリック・アクションはバチカンで評判を落すことになる。各教区の委員会が教皇庁の評議会の下請けとなる傾向をみせ、従来の批判的な信徒運動体にとって代わり、管轄下にある運動体が強化される。ワールド ユース デイなどはそうである。青少年委員会がすべてを決定し上から指示が流されるのであって下からは何も上がってゆかない構造がある。青少年の声は聴かれない。無論良い面もあるが、青少年活動がワールドユースデイ一本に絞られてしまったような感じがする。

 

気になることは、社会に預言的な役割を果たしたアクション・カトリックの跡

継ぎをするような、社会の不正義に対して異議申し立てをする、信徒の活動団体は日本には出てきていないことである。戦前のような軍事国家が再び現れたら、教会のどこから声が上がるだろうか。司教も自由ではないし、意見が一致しているものでもない。信徒も個人では誰も発言できないのである。発言の場が無いのである。現在あるのは社会問題研究所だけであるかな。教皇文書では盛んに信徒の預言職を強調しているが、キリストの預言職に預かっている信徒の預言職を発揮できる信徒は何処にいるのか。

 

2)新共同体の登場である

欧米ではカリスマッティック運動、フォコラーレをはじめ多くの流れがある。聖霊によるカリスマを生きようとする信徒新共同体が70年代アメリカで起こり、このペンテコスト運動がヨーロッパに広まり、新共同体の形を取っている。「新生運動」とも、「聖霊刷新運動」とも呼ばれる。80年代には日本にも上陸した。     その特徴は教祖的で中心となる指導者が居て共同生活を実践する。指導者は大抵は信徒である。聖職者も一人のメンバーとして参加する、信徒と対等な関係にある。子供も老人も参加する。職場は異なっている。熱狂的な霊性、証言、信心行の重視が見られる。古い伝統を掘り起こし、ローマへの絶対従順があり、教皇の全面的な支えを受ける。ワールドユースデイでは数万人のこれら新共同体のメンバーが教皇を取り囲んでいる。彼らは、社会批判を避け、福祉に専念する。エキュメニカルと諸宗教対話へ積極的にかかわり、音楽が好きで、楽しく、祝祭的雰囲気に満ちている。彼らはイベントつくりがうまく大集会を好む。司祭の召命が多いといった特徴をもっている。祈り、もてなしのよさもあり、たくさんよいところはあるが、カトリック・アクションとは正反対である。新共同体はキリスト教的アイデンテイテイである十字架、イコンを愛している。「世の灯火」「地の塩」の視点から見てどうだろうか。様々なグループが存在しているが幾つか挙げると以下の通りである。「エマヌエル」「新しい道」「新世界」「命のパン」「ネオネオカテクメナー」。社会的視野を持つ団体としては「エウジデイオ」「テゼ」「ラルシュ」「フォコラリ」などがある。 

 

新共同体の評価出来る点は、教会の中に新鮮な空気を吹き込んだことである。それは否定できない。社会に解け合うよりもキリスト教のアイデンテイテイを強調する傾向があるので地域教会との関係は難しい。小教区とは関係をもたない、小教区の人達を見下すようなプライドがあり、自分たちはキリスト者として生き残れるのだといった意識をもっている。しかしヨーロッパでは時間とともに協力関係に変わりつつある。自分も新共同体の体験をしたが、このような共同体に合う人と合わない人が居ると思う。司教たちは始めは否定的であったが、ヨーロッパでは今では無視できない存在になっている。教祖が居なくなると普通の共同体に変わってゆく。日本では少しちがっている。四国にそのグループがある。将来の展望としては、教皇の大きな支持があるかぎり、これからも大きな影響をおよぼし続けるだろう。

 

3)小教区の中の信徒

第二バチカン公会議以後、信徒が各委員会へ積極的に参加する傾向が見られるようになった。従来、司祭の仕事とされていた教会運営上の様々な事柄、会計、典礼、福祉、信仰教育などに信徒が大いに関わっている。ヨーロッパでは司祭が何処にいるのかわからなくなってしまっているところもある。司祭館に信徒が住んでいるところもある。信徒の教会になりつつあるのが分かる。参考になるのは、新しい試みである、小教区の司牧チーム(Pastoral Animation Team PAT)がある。(資料「ヨーロッパに普及しつつある小教区の理想像」表を参照されたい。末尾の参照資料1)この構造の新しい小教区がヨーロッパに普及しつつある。特徴はピラミッドが無い。主任司祭の周りに「司牧アニメーターチーム」が居る。チームの信徒は「派遣状」をもらっている。役務ではなく任務として公式に任命されている。司祭は5−6人のパストラールアニメーターと相談しながら何時も動いている。次の囲いの「司牧委員会」の信徒には「派遣状」は発令されていない。役割が異なっている。これが信徒のエリート集団を形成している。他の信徒はどうなるのか。「日曜信徒」ミサだけの信徒と見なされている。「日曜信徒」も大切である。「行事信徒」も居る。焼肉にしか来ない。遊びにしか来ない信徒も無視しては駄目である。「冠婚葬祭信徒」教会としか関わっていない信徒も居る。それも大切な信徒である。彼らを熱心な信徒ではないと決め付けるのはファリサイ的である。すべての信徒は皆欠けることのないフル信徒である。無視してよいわけは無い。修道者も小教区で大切な一員である。カトリック施設と小教区の関係も考えなくてはならない。いろいろなタイプの信徒があって良い。その点で、ヨーロッパ特にフランスでは進んでいる。確かに現実は理想通りにはいってない面もある。中継(ラリー)基地として小教区で無くなった聖堂施設が使われている。ノルマンディーで近頃このPATの反省総会が開催された。信徒と司祭の関係が変化してきている。良い面としてはチームスピリットが生まれてきているが、反面それぞれの役割が不明確になるし、能率が悪い。エリート化の問題もあるし、一般信徒の嫉妬心を生んでいる面もあるし、チーム内に権力争いがある。また、家庭、仕事、小教区を掛け持ちするのは大変である。委員とアニメーターの関係や、司祭の位置付けが分からなくなってきている。主任司祭が見えなくなってきている。自分の部屋に閉じこもっている人も居る。評価出来る点は「決定に信徒も参加できる」ことである。しかし、世俗の中に居る信徒の聖職者化が見られ、アニメーターが神父のような人になってしまう恐れがある。また女性が多すぎることも問題である。フランスでは90%にも達している。

 

他の活動団体

世界的にたくさんの信徒国際活動団体があり、その数100以上で、二千万人以上の信徒が関わると言われる。この数字は少し疑問であるが統計資料にはそう書かれている。教会当局に公認されている団体と許可だけを受けている団体に分けられる。司教の同意がなければ設立できない。その後公認の手続きをすることになる。

日本の現状:各国からたくさんの活動団体が輸入され日本に上陸した。始めは急激に参加者が増えるが、大抵10年たつと横這いとなり、減りはじめる。92年に25ほどの活動団体が記録されていたが、2001年から整理が必要となり、公認団体への手続きが求められてきた。最近17ぐらい登録されているようだが、登録の基準がわからない。

日本カトリックの印象:信徒の時代と言われる今、皮肉的にも信徒の活動団体が著しく弱まってきた。信徒の手で運営され、活発にやっている信徒の活動団体が日本にあるだろうか、疑問である。信徒の公の発言は、特に政治、経済、倫理、文化の分野で、少なくなったような気がする。新共同体への関心はまだ少ない。小教区の信徒が、相変わらず、アンケ−トや調査に、色々意見が求められているが、決定の段階に参加せず、従順で受け身的であるように見える。日本信徒の中性化が気になるところである。

 

U 信徒の現状

上からの動きと発言:

20年代に下からの運動が盛り上がった。この信徒運動の盛り上がりに対して、教会がそれを承認して、積極的に励ました。そこで信徒活動団体の分類と識別、整理、調整の動きが起きてきた。それは必要なことであった。

 

日本語でも「信徒」と呼ばれることに問題があるが、欧米でもこの呼び方の問題が起きた。信徒を "fideles"(信じる者)と呼ぶか/ "laici"(=laypeople 対" cleri"=clergy)と呼ぶかの問題が論じられた。Fidelesだと司祭も含まれてしまう。Laiciは民の意味である、また普通の人の意味間ある。歴史の中ではlaiciは低い身分の者、指導されるべき者、平民と言う意味であった。Clergyはすべてを知っているものという意味である。現在では教会の公文書などではfideles とlaiciの二つのことばを使い分けている。

 

1.        信徒の存在を始めて認めた公文書は「信徒使徒職の教令」である。その中で「キリストの祭司職、預言職、王職に参与するもの」と認められている。信徒とはどういう人なのか。「世の中にあって、福音を生きる人である。何時も人格の聖性に与かり、世にあって福音を伝える人である。」1983年の新教会法のなかでも正式に信徒によって運営される信徒活動が認められている。1987年にシノドスで司教が集まり「信徒の召命と使命」について論議した。内容は素晴らしい面もあるが既に古くなっている部分もある。その中では信徒は司牧から外されているが、現在ヨーロッパでは多くの信徒がそれにかわり活動している。既に信徒が司牧チームの一員であることをバチカンはみとめている。また、聖霊運動、カリスマ運動に対する期待も書かれている。この文章が書かれた当時はそれらの運動が盛んな時代であって教会刷新のチャンスであると思われていたらである。その中で「信徒とは」どのように書かれているか資料を読んで欲しい。

2.        1976年には信徒評議会が出来て信徒活動はローマ中央の管轄下に入ることになった。信徒の意見を聞き識別し情報交換をする目的で設立された。現在、2325人の委員が参加している。インターネットで情報公開している。1998年には大会を開いている。教皇の信徒への期待もあるが、同時に信徒の管理の面も少しでてくる。確かにある程度の調整は必要である。

 

III これからの課題

前回の発題では「意識転換」の必要性を強調されたが、それも大切ではあるが、自分としては、「組織構造」の面も大切にしたい。個人の意識が変わっても、新しい「制度」が見えるようにならなければ機能しないだろう。現在の教会に最も欠けているのは、現代人に通用する、良い「構造」良い「組織」である。これがなければ力は発揮できない。どのような「構造」「組織」が良いのか考えなくてはならないというのが私の主張です。

1.自分の目から見ると日本には新しい信徒の運動はない。社会問題を改革しようとしている団体には新しい人は入ってこない。現在の信徒運動は時代に合っていないと思われる。改革が必要である。美しい理念だけでなく、意識転換だけでもなく、信徒使徒職を支えてくれるような、時代に合うような新しい活動や運動の組織づくりが必要である。新しい活動の現代条件は上からの洗脳でなく、各自に自分があり、自分の思想を持ち、硬直したイデオロギーでなく、詰め込みや縦関係でなく、生きた霊性がある、自己実現できる活動体が必要なのである。自己疎外タイプのものでは駄目である。霊性が必要である。ミサに行く時間が無駄であるといった考え方では駄目である。ミサを大切にする霊性を持たなければ、イデオロギーになってしまう。それに今の時代にはネットワークが大切である。情報の共有や楽しみがないと人は集まらない。JOCを批判してもほかに無いのだ。

 

2.司祭と信徒の問題がある。司祭/信徒の区別を超え、福音書に示されている構造を現代の教会に当てはめさせてみる。イエスは弟子を司祭にはしなかった。普通の人達であった。福音書では、イエスは使徒たちと同時に婦人たちと同行している(図頁3参照:末尾参考資料2)。これは「司牧チーム」の感じである。弟子は「委員会」のようなものである。それに72人の弟子がいて、イエスの時代から身分化が見えている。この弟子とは誰のことであったのか。それを異邦人が囲んでいる。この図式を現代の教会に当てはめると何が言えるか?

 

3.信徒の発言の場が無い。政治/経済/文化において信徒が自由に発言のできる場の設定が必要である。小教区では講演会はあっても信徒の声は出てこない。小教区の中では相互関係が無くバラバラである。互いに知り合い刺激しあう場がないのである。

 

4.小教区内の信徒団体と小教区外の信徒活動団体の関係を作ること。

 

5.シノドスなどでも養成が強調される。信徒の養成も司祭の方が養成されていなければ無駄である。司祭には権限がある。信徒と司祭の養成を同時に推進することが大切である。

 

6.信徒の霊性についてはイデオロギーが崩壊した後では特に必要である。 信徒の霊性の多様性を認め推進すること、今もたくさん存在しているはずだ、家庭、夫婦、労働:一致、和解、ゆるし、諸宗教対話:貧しさ、質素、小さな道、その他である。         

次回の「分かち合い」のためのガイドラインとして、自分の考えを整理するためのメモを配布。次回までに記入してくること。項目は以下の通り:

 

1. あなたが参加したいと思うような信徒団体のイメージを考えてみてください

2. 現在「ヨーロッパ教会が目指している小教区の理想像」をそのまま日本にも取り入れられますでしょうか?何を、どういうふうに変えたらよいでしょうか?

3. 将来、司祭/信徒の身分構造関係に変わりうるものがあると思いますか。福音に照らしあわせて、変わりうるような関係を考えて見ましょう。

4.              信徒固有の霊性が必要でしょうか。貴方のスピリチュアリティーのポイントは何処にありますか?                        以上

学び合い二年度第六回「信徒の活動―2」

6月15日

発題者:シガレ師

課題:教会内外の信徒活動の現状と評価U

資料:分かち合いのガイドライン

 

「集められた私たちが聖霊の恵みによって、心を一つにし、互いを尊重し、受け入れあい、良い分かち合いの時を持つことが出来るよう導いてください」と、アニメーターの祈りによって開始された。

 

今日は「これからの信徒のあり方、信徒の活動のあり方」をさらに深めて行きます。分かち合いの時間を充分にとっているので小グループでの話し合いの中で深めてください。グループに別れる前に、先週の発題に関連した疑問、質問があればどうぞとのことで、二つの質問があった。1)「霊性とは何か」簡単に説明しておいて欲しい。回答:時間的に今説明するのは難しいので本日の最後に少し触れましょう。2)「ヨーロッパの小教区の理想像は信徒運動から生まれてきたのかそれとも上からなのか?」 回答:シノドス(共に歩むの意味)で信徒代表も交えた教会指導者が集まり5年かけて論議して生まれてきたものです。信徒だけでも、聖職者だけでもありません、信徒の声が取り入れられています。

 

発題

それでは小クループの「分かち合い」に入る前に、先週話したポイントを確認しておきます。一年度の「学び合い」で「教会は「キリストが中心」であり、教会は「交わり」であり「ムーブメント」でもある」といわれてきましたが、現実の教会は「交わり」にも「ムーブメント」にもなっていない。日本のカトリック教会では活動団体が充分に機能していない。また、小教区の中では信徒のカリスマが生かされていない。それには様々な原因が指摘されてきました。そこで今日は、「「良い交わり」「よいムーブメント」となるためにはどうしたらよいのか」の問いが我々に投げかけられています。

 

森さんが前回の発題で強調されたのは、自分の理解するところでは、「一人一人の意識改革が必要であり、受身とか従順とかではなく、一人一人がキリストに出会った自分の福音体験を互いに語って行くことの大切さ」であったと思います。確かにそれは「良い交わり」「良いムーブメント」の形成の為には大切なことです。今日私はそれに加えてもう一つの大切のことを指摘したいと思います。それは、我々は人間であるから、何らかの媒介的構造がないと一人一人はキリストに出会っていてもバラバラになってしまうという点です。そこで今日は個人的な意識とか回心を離れて、構造的側面に目をとめ、良い構造を見出したいのです。今日は過去の批判ではなくもっと積極的にイマジネーションを働かせて考えて欲しいのです、「カトリック教会の想像図」はどんなイメージになるか。

 

これから一時間強、6グループに分かれて記入済みのガイドラインに添って、分かち合いをします。ガイドラインの主旨を簡単に確認しておきましょう。

1)        活動団体など必要はない、と考えている人も居るでしょう。それでも良いのです。参加するならこんなイメージの活動団体になるだろう、その目的と構造はおおよそこんな具合になるだろう、と言ったことでよいのです。

2)        ヨーロッパの小教区の構造が日本の教会に取り入れら得るだろうか。どの点を変えたら新しい日本の小教区に適用出来るだろうか。イメージとして「信徒中心型」信徒のカリスマが生かされる小教区のイメージを描いてみてください。

3)        「交わり」に於いて一番の障害は、司祭/信徒の二分構造でしょう。これでは交われないし、ムーブメントにはならない。「パートナーシップ」を考えないといけない。司祭という言葉・概念を再構築する必要があるかもしれません。イメージだけでも結構です。

4) 霊性を一口で説明するのは難しいので、最後に少し触れることにして、考えて欲しいことは、「良いモティベーションを持たなくてはならない」という事です。その「モチベーション」が重要だということです。これからの分かち合いのためには、「霊性とは、その良いモティベーションである」と言ってもよいでしょう。何処にアクセントがあるかです、家庭とか、労働とか、・・・自分のなかにある原動力を探してみてください。

以上の4項目ですが、これからの分かち合いで全部について話合うのはとても無理でしょうから、そのうち2項目だけ選んで話し合っても結構です。

 

6グループに別れ、一時間10分ぐらい真剣に話あった後、意見発表があった:

*    高齢化社会の中で司祭も信徒も高齢化してゆく、それに対応する活動団体が必要だろう。

*    「おにぎり運動」を展開している。公園や駅のホームレスの人達と接触を深めている。

*    三谷で活動していてもキリスト教を言葉で伝えることは出来ない。

*    自分達の現実の苦悩から、小さい仲間を作り、輪を広げる必要がある。

*    信徒として特別な霊性は必要ない。多様性を尊重すべきだろう。信徒、司祭、修道者も霊性を通して人間的成長が大切だ。

*    ヨーロッパのPATを形だけ真似るのは反対。聖職者中心主義が残っているなら、信徒は司祭の手足になるだけだ。

*    信徒の使命は社会に生きるところにある。神は直接信徒の生活の中で働かれ、信徒を離脱させ、単純化し、許しをあたえ、連帯性と一致へと導かれ、平安をあたえられる。その恵みを教会に集まって分かち合い育てあう共同体にならないといけない。

*    教会は「神が人類を愛し、人類が共同体として生きる」「しるし」「道具」とならないと駄目だ。

*    教皇、司教、司祭は人々に仕えるために社会の中で奉仕職を果す、そのあり方を抜本的に考え直さないと駄目だ。

*    信徒のこの世での特性を信徒自身も教導職もより深く再認識しないといけない。

*    プロテスタントの信者から見ると、カトリック教会は多くの問題を抱えていることが分かった。

*    カトリックもプロテスタントも教会の中ではそれなりの活動はしていても社会の中には入って行かない。

*    この「学び合い」の参加者は熱心で意識も高い、このようなうねりを10―20年の単位で続けていく必要があるのではないか。

*    教会には秘蹟の施行者が必要である。しかし、秘蹟については再検討が必要だろう。司祭・信徒の二分法は全く無くすことは考え難い。

*    信徒の30%程度しか教会に来ない現在の教会の状態では民主主義は導入できないだろう。委員会も固定化してしまうだろう。

*    司祭も司教も信徒も共に横断的に学びあう制度が必要。資格制度的養成の全体プログラムを作成すること。それに加えコンビニ的カリスマ活動を推進することである。

 

発題者:

豊かな分かち合いであったと思います。キーワードが幾つか出て来ました。現実性がどの程度まであるのかは分かりませんが、養成、成熟、福音的価値、コンビニ体制等。

 

昔の考え方には、聖なる空間は聖職者のものと言った発想があった。そうであると教会には多様性がなくなってしまう。ヒエラルキーの全てが悪いとは思われない。この言葉の反意語はアナルキーで自由勝手ほうだいと言うことになる。それでは何も生まれてこないだろう。共同体もありえない。イエスも12人を選んでいる。一方的に抑圧したり一方的に教えたりする為ではない。皆が一致を保つ為である。その意味では、ヒエラルキーもアナルキーも駄目なのです。その中間が「交わり」です。それでも「交わりすぎると」窒息してしまう。勝手なことをしながらつながっていることが良いのかも知れない。そんな意見も、私が回ってみたグループの中には出ていました。小教区のリーダーは司祭である必要性は必ずしもない。司祭という言葉そのものを問い直すことも必要があるかもしれない。イエスは司祭を設けなかった。しかし、共同体を生かすという意味での司牧の中核は必要です。

 

いくつかのグループを回ってみて、皆さんの話し合いの中で、活動団体の印象が非常に悪いのに驚いた。それに関わってきた者として悲しいことです。このような団体が無かったら信徒の声は出てこないでしょう。確かに活動団体には改革が必要でしょう。仲間を集めてそれを広げて行くという生き方も良いでしょうが、活動団体にはイデオロギーとか色とか旗印が必要です。さもないと活動団体としては現実性が無くなる。人間の世界だから閉鎖的な面も出てくる。方向性を持っていれば当然全ての人を参加させるというわけにはいかない。イデオロギー的なものがあっても良いと思います。大切なのは互いにそれを認め合うことです。

 

霊性について最後に触れましょう。霊ですから聖霊の働きが根本です。我々の心は聖霊によって動かされている。共感も聖霊の働きです。家庭を大切にするとか、労働を大切にするとか、自然との共生、仲間との連帯、みな見えない聖霊の働きです。それぞれ心の動きは違っている。それは聖霊の働きだと思います。聖霊の働きは現実性がある。霊性があると活動に力がでてくるのです

 

全ての意見が発表されたわけではありませんが、発言されたものだけでも素晴らしいものでした。それらを大切にして次回の課題に向かいましょう。次回は「家庭」の問題です。朝から参観して下さった横川さんが来週は「発題」してくださいます。

 

(横川さんは次週の発題準備のため、「学び合い」を参観してくださっただけではなく、朝始まる前に30分、終了後昼食をとりながら1時間、アニメータやその他の参加者十数人と話し合いを持ってくださいました。貴重な一日を我々のために捧げて下さり感謝します。)

 

以上


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