第十八回「日本の社会と教会ー5」
3月2日
課題:「他宗教との対話」
問題が広く深いから準備した資料のすべてを30分で説明することは出来ない。帰ってからゆっくり読んで欲しい。この問題については今日で終わりということはなく今日から始まるのです。それは前回話した、ミサの最後に”ゆきましょう主の平和の内に”と言うがどこに行くのかとの問いと関係しています。我々は社会に送られているのだと言うことを認識しなければならない。一人では社会は形成出来ない。他の人々と交わりよい社会を作るのが宗教の一つの目的である。現実の社会には多くの宗教が有る。「われわれキリスト者はどのような気持ちで他の宗教を信じている人たちと交わるのか」に焦点を合わせて今日は考えたい。資料の7頁以降を中心にして説明します。
教会の長い歴史の中で、神がイエスを通して世を造られたという信仰の立場に立つと、それを受け入れない立場の異なった宗教を信じている人は救われないとの意識がこれまでもあったし現代でもその意識は我々の心に残っている。諸宗教徒のかかわりを考えるときその意識がふさわしいかどうかという議論よりも、「他の人たちも神様が作られたのなら神がこの人たちを救うことが出来ないものか」との疑問が出発点である。これは真剣に考えなければならない疑問である。
神が私たちを救うためにイエスをこの世に送った。それを信じるようになった人はすくわれる。最近まであったこのような考え方は排他的な考え方である。キリスト教の教えを受け入れていない人は救われないという考え方この見方は狭いのではないかと議論がなされ始めた切っ掛けは、キリスト教への熱意に燃えて他の国々に行って福音宣教し他の宗教を信じている人々と接したからなのです。教会外には救いが無いという考え方は狭いのではないか、これまでの考え方はキリスト教の優越感であると考え始めたのです。宗教を単に自分の信仰を信じるだけではなく、自分の信仰を大切にしながら、他の宗教を信じている人たちと協力してよりよい社会を作り、人間を神様に結びつけるのが宗教の役割であると神学者は考え始めたのです。自分の宗教だけを見て他の宗教を無視するのは排他的宗教の考え方であり、それは神様を信じるよりも宗教としての偶像を拝んでいる。それは本当の信仰ではないと主張され始めたのです。
キリスト教に属していなくとも、キリスト者である、本人の知らないキリスト者である、ヒンズー教徒であっても本人が知らずにキリスト者である、といった難しい考え方が出てきた。その考え方の代表者がカール・ラーナーである。彼はそれを無名のキリスト者と名付けた。しかし問題は、他の宗教の救いを認めるとき、他の宗教の中に救いがあるが、本人が知らずにキリスト者であることによって救われるということである。問題は山ほどあるがそこに深入りする時間がない。この考え方に対する批判は他の宗教にも救いがあると言っても結局、他者の信仰の独自性を尊重していないし、キリスト者でなければ救いが無いという点では変わりがないところにあります。
諸宗教との対話で大きな問題となっているのはこの二つの考え方よりも宗教多元主義です。宗教多元主義とは、自己の立場を相対化し自分の信仰を捨てるのではなく、キリスト教以外の宗教の伝統の内に救いがあると考える立場です。「救いがあるが」ではなく、「救いはある」という考え方です。それは仏教、ユダヤ教、ヒンズー教、イスラム教がそれぞれの宗教の流れのなかで救われるという考え方です。ジョンヒックを代表者としている。彼によれば「すべての宗教の伝統に属する人間がどこまで神様を知っているのか、人間の限られた能力で神をどこまで知ることが出来るのか、すべてを知ることが出来ないし、結局神様について語っているものは伝統文化による一つの答えに過ぎない」。そうなるとキリスト教も、ヒンズー教も一つの答えに過ぎなくなる。そこでなにが問題になるかというと、もしヒンズー教に救いがあるとすれば、「何故わたしがキリスト教徒なのか」という問いが出てくるのです。「何故キリスト教にならなければならないのか」自分の信仰はどうなのか心配になる。その問題に答えるよりも今日の問題は宗教多元主義はすべての宗教を相対化しているのではないかということです。すべての宗教を同じレベルにおいてしまうのは無理ではないかとの問題提起がなされたのです。もう一つの多元主義の限界はもし人間が「究極的な実在」を知ることが出来ないとするならば、多元主義も維持することが出来ないということです。
キリスト者は今まで他の宗教を信じている人を平等に扱ってこなかった。最も大切なのは他の人を平等に扱うことでそれを土台として対話をすることです。その視点から見ると「キリスト教の外に救いが無い」と言ってしまうと大きな問題が出てくるということにあります。自分の持っている信仰を大切にし信仰に忠実に生き愛をもち他の宗教へ心を開きこれらの人々と交わってゆくことが大切ではないか。
宗教多元主義を超えた諸宗教間の対話が大切である。公会議の文章を一つあげると「現代世界憲章22」(資料9頁参照)に述べられている。キリストはすべての人のために死んだのでありキリスト者のためだけに死んだのではない。すべての人に聖霊が働いているということが述べられている。この見方は私たちが他の宗教と対話するときに大切なことではないか。聖書の観点から言っても、ヨハネ福音書で「神は愛である」と言われる、愛であるとすればイエス様が言ったように「互いに愛し合うことによって神がおられることがわかる」のです。行きなさいといわれたとき何しに行くのか神の愛を伝えに行く。マタイを引用すれば「神は善人にも悪人にも太陽を登らせ雨を降らせすべてを包む」。愛と霊との導きによって、社会の建設を他の人々と対話をしながら進めるところに諸宗教との対話がある。
公会議の考え方はすべての人が兄弟であることを認識することとを強調している。神がすべての人を受け入れていることが基礎になっている。だからそれが対話の基礎となることだと言うことです。もう一つはキリスト教徒でない人々も何らかの仕方で神聖な神の体験を持っているということです。この部分は社会に送られたときに非常に難しいところです。社会にはいろいろな価値観の人がいるからその人たちが生きてゆくために関わって行かないとならない。このいろいろな価値観を持っている人たちは復活の秘儀の中に生きており聖霊によって生かされているものです。神は教会を超えすべての人と対話し各宗教・文化的独自性において、復活したキリストのメッセージとの出会いの過程の中で、人間の救いに十分努めているのです。これはニコラス師から昔学んだことです。神は十分働いている、私たちが働く前に神が先に働いているのです。他宗教との対話は尊敬と寛容から始まる。しかし自分の信仰への忠実な愛と他宗教への開きの間には緊張感が残る。創価学会との対話も直ぐに出来るわけではない。
人間として受け入れ友としともに働こうとするならもしかしたら信仰を超えて対話が出来るかもしれない。自分の信仰を超えたところで互いに人間として認め合うところから対話は始まるでしょう。
今日のまとめ頁10(資料参照)諸宗教との対話には様々な形態がある:
@日常生活の中の対話。同じ家庭の中で異なった宗教との対話は家族を大切にすることで神様の心を現わすことが出来る。マザーテレサの主張する愛の反対は無関心。無関心は神が喜ばれない。他宗教の人々に感心を持つことである。
A人間として他の人々との行動による対話。 キリスト者は他の人々と社会の安全と発展のために全面的に努力することが求められている。キリスト者が一人で天国に行くためにがんばって行うのではない。社会がよい社会になるために福音の価値観に基づいて人々の解放のために働くことが求められている。
B神学者レベルの対話。情報交換だけではない他の宗教は何を持っているのか。日本にはいろいろの宗教がある。自分の生まれた環境では生まれたら直ぐに洗礼を授けるのが当然になっている。何故キリスト教を選び取ったのか。キリスト教の存在理由、何故キリスト教で有るのか。信仰神について訪ねられたとき答えられるように。信仰神秘蹟について答えられるようになればよいのではないのか。C宗教体験による対話。(省略)
他宗教と対話を実践している教会があります。プロテスタント、仏教、その他の宗教との集まりをしているのです。それはともかくとして大切なのは、命を与えてくださったのは神であり、命を大切にすることが神様の思いであるということです。キリスト者として要求されていることは。我々神がいかにこの世を造り愛して居られるのか示すことである。
毎年初詣に行く。今年は31日に行った。みなぐるぐる回ってお払いをしていた。清められること。そのとき洗礼を思い浮かべたのです。多くの人が清められることを望んでいる。他の宗教をみてわかることもある。諸宗教というと今の社会普遍的な価値はどこにあるのかこれが見いだせない問題がある。どのようにして苦しむ人がかかわりそのよう問題にたいして解決の方法を考えて行くのか。一人では無理です。カトリックだけでも出来ない。人間として宗教を超えたところで様々な価値観の中でするなら、神様が与えてくださったものを大切にしてゆくことつまり人間の命を大切にしてゆくことで実現してゆく。21世紀は諸宗教の対話の時代であるという。多文化世界になってゆくだろう。普遍的価値を大切にして、諸宗教との対話の問題はこれからも深めていって欲しい。他の宗教との対話を考えながら地域の中にとけ込んでゆく、そこに信仰を生かす場があると考える。生きる人間としてやるべきことである。信仰の大切な一面である”喜びに生きる”ことが大切でしょう。もっと対話が必要です。家族も崩壊しつつある。諸宗教との対話という面から考えるとき、日本のカトリック教会はもしかすると世界の教会に教えるものがあるのではないか。ともかく対話がもたらすものは平和である。