二年度第一回「信徒の召命とその意義―1」

5月10日

課題:「聖書の中に、司祭・修道者・信徒の使命の根拠とその意味について探り学び合う」―「司祭と信徒はいかに協力できるか」

 

この種の集いで、皆が参加意識をもって、まとまって歩んで行くのは容易ではないのです。教会の話し合いは、気持ちよくはあっても、ディシプリンに欠けた話し合いが多い。話が「漂う」傾向がある。ナイスの会議の時、参加していた信徒からクレームがついたことがある、「教会ではいつもこのような(まとまりのない)話合いをしているのですか?」。会社などの打ち合わせと異なって、テーマが絞られて行かない傾向があるのです、方針に合った話合いに絞っていく必要があります。2年目はこの辺をもう少し配慮して、テーマを深め方向性の合った話合いにして行きたいですね。

 

第一部

発題T

今日のテーマは、「司祭と信徒はいかに協力できるか」である。歴史的に洗礼と堅信による信者の使命は少しずつ減少してきた。これは歴史の事情によるのです。未だ現在でも福音の理想には近づいては居ない。一つの妨げは自分達の抱いている司祭のイメージにあると思われる。どの様なイメージを自分が持っているのかを考えそれを改めなくてはならない。「どのような教会を建てたいのか」「司祭とのか関係はどの様なものなのか」を聖書に基づき考える必要がある。

 

発題U

これから聖書学者Vanhoyeの“La Novita del Sacerdozoi di Cristo”を参考にして考えてみたい。「古い司祭像」について彼から学んだことにこれらの疑問に答える鍵があると思われます。我々の司祭イメージにはどこかに旧約以前の祭司のイメージが入り込んでいるのではないか。洗礼によって皆に与えられている祭司職をあらためて認めることが大切でしょう。

 

古い司祭、旧約の司祭は要らないが、殆どの文化や宗教には存在している。それは神と人との仲介者であり、媒介する者です。司祭をいらないと言う人でもイザと言う時、祈ってもらうという、心のどこかで神との間に誰か入ってほしいと言った感情があるのです。遠い、恐い、恐ろしい、といった感情が仲介者の必要性を生むのです。生贄を捧げる人が司祭。神は奥義であって恐いというマイナスの面があるが苦しみをなくしてくれる神の力がある。ゆるし、汚れ、清め、癒しを得るための力を求めてそこに司祭が入ってくる。そのことは仏教以外の多くの宗教についていえることです。人は心理的にどこかでそれを望んでいる。自分の力が不足している時にそれを望むのです。旧約では如何であったか。聖書の全体の流れとしてはこの種の司祭職から出発したと言えるだろう。タブー禁止されたもの死者の汚れの清め、仲介者としての司祭です。司祭だけが神殿に入れる。神殿を見るとその社会が分かる。脚萎え、女性などが入れない地域、信徒男性はここまで、司祭しか入れない場所が設けられている。そこにはヒエラルキーが生じている。

 

新約では異なっている。旧約の中でも二つの過程が始まっている。変化が生じ預言者、捕囚の時代、知恵文学と進んで行く。預言者の生贄・儀式批判、大切なのは心である。神は儀式生贄に飽きた吐き気がするといわれる。それは生活の中で人を無視していたからである。心が入っていない。心が入っていれば全てが変わる。外的にだけ行っても価値はない。イスラエルの預言者の批判は現代の教会の秘蹟にも当てはまるでしょう。自動的なものは一つもない。カトリック信者だから救われるのではない。ミサに行っても心がなければ意味がない。心が変わらなければ無意味です。ミサの中で心が変わる。タブーは儀式で清められる、そこではじめの頃は儀式が強調された。戦争の死者の汚れを清める。しかし、捕囚の時代になると儀式がなくなり心が中心になる。捕囚の預言者で深まってくる。司祭は三つの柱「媒介者」、「聖別される」、「生贄をささげる」で理解されている。現代でも同じように理解されているのです。

 

2−3世紀になり段々と司祭が強くなる。聖別された者、普通の人から離された者、中世から独身制がひかれ、セックスは穢れたものと見なされた。イスラエルのユダ・レビ族と同じである。8世紀からは服装も特別で当時の偉い人と同じものとなった。セレスティノは唯一引退した教皇であるが「司祭は服装ではない」と言った。古い司祭のイメージが教会にはいいてきたのである。第二バチカン公会議の後でもその構造は残っている。

 

第二部

発題V

今は神父と信徒との区別で考えないで欲しい。新しい司祭像を聖書、特に新約に戻って考えましょう。自分も神学生の頃に聞いて驚いたのですが、4福音書やパウロの書簡の何処にも、先ずイエスは司祭と呼ばれてない、ご自分も司祭とは呼んでおられない。イエスは信徒であった。ユダヤ教の信徒として神殿に行き祈り、シナゴーグで話を聞き祈っていた。新約ではヘブライ書だけがイエスを司祭と呼ぶ。司祭職を考えるときは何時もヘブライ書の内容を話すことにしています。自分が神学生の頃までは最後の晩餐で使徒たちが叙階されたと言われていたのですが今ではそれを誰も認めていない。そのようなことは何処にも書いていない。叙階式が始まったのは最後の晩餐ではなく、2−3世紀でした。

 

神学生のころ教えを受けた先生で世界一のヘブライ書の専門家が、最近98年に発表した論文に基づいて話を進めることにします。彼は我々には三つの要素は必要であると言います。人は危機の時どうしても仲介者を必要とする構造があると言われる。奉献は人間として自然に出てくる、神からいただいたプレゼントに対するものとして出てくる、奉献とはプレゼントの交換である。だから犠牲と言う言葉は相応しくない。祝い、喜ぶ時です。聖別は聖化でも良いが、特別な神とのつながりが構造としてなのか組織としてなのか人物としてなのか問われても良いのです。「古い司祭と新しい司祭」の日本語の翻訳が無いのは残念です。この論文を参考にしてヘブライ書では何を言っているのか学びましょう。(資料3参照)

 

仲介は必要であるが、古い司祭は要らない。唯一の司祭はイエスキリストしか居ない。このキリストは仲介者で奉献されて聖別されているが意味が異なる。そこに新しさがある。古い司祭は神に選ばれ、神と人間の間に居るが神のために居る。例えばユダ族のように捧物をし、怒りを和らげる。だから神殿の中で生活する。新しい司祭は人のために尽くす。イエスキリストの仲介は人のために選ばれたのである古い司祭は特権がある。新しい司祭は僕で特権が無い。フィリピ4章でパウロはイエスキリストのような心構えで互いに付き合うようにと言う。神の子でアリアガラ僕の姿になったのはわたくし達の中で十字架につけられるまで着きるためであった。特権が無い苦しみ苦悩し、パウロに言わせると罪は無いが罪にまでなられた。犯罪者として殺される。仲介者の役割は残る、我々が人間である限りいろいろな意味で我々は互いに仲介者である。

仲介者は偉い人ではない。僕である。

 

聖化の意味は司祭に限られたものではない。ヘブライ書では聖化についてなんと言っているのか。古い司祭は文字通り聖別された人で特別な人、特別な訓練を受けた人、特別な生活をする人、特別な部族に属している人であった。新約聖書で見るイエスの姿は人の仲間になる、人と一緒になる、人と同じレベルになり歩む。古い司祭は外的なもので聖別された。イエスの清めは何処にあるのか。人間と同じ連帯性を持つって人と共に苦しみ侮辱され、人と共に十字架まで歩む。これがイエスの聖別であり、イエスの聖化である。だからイエスの聖化は現実の中に於ける聖化といえる。

 

奉献するとは何を意味しているのか次ぎに考えましょう。古い司祭の奉献は神を慰め、神を喜ばせるものであった。しかし神は生贄を必要としない。我々が奉献を必要としている。新しい司祭は自分が変わるのです。3世紀までイレネウスなどの教父が強調していたところですが、神は生贄をいらないが人が生贄を必要としている、何故ならば、私たちは変わらなければならにからである。わたくし達が変わり自分を捧げるのが奉献です。これはイエスの奉献なのです。人が変わるのであるからブライ書では動物やその他の捧物は要らない、自分の身体・心・世界を捧げると言う。捧げる中身は古い司祭は物、新しい司祭は自分であり、捧げる方法は古い司祭は火を燃やした、新しい司祭は聖霊によるのです。聖霊によって変わるのです。結果として、古い司祭には和解が無い。これはヘブライ書にはっきり書かれている。古い生贄は役に立たない、効き目が無いから何度も何度も繰り返さなくてはならない。羊を殺すことと自分の罪とは関係がない。キリストの場合は和解をつくりだす。わたくし達と共に新しい人類を作っていきそこには和解と一致がある。

 

ですから聖別・聖化は残りますが意味が違う。古い司祭のイメージには儀式が中心にあり何処の宗教でも聖職者が歴史的にも強くなっていきコントロールするようになる。全てのことを司祭がして権威をもつようになる。これが古い司祭です。新しい司祭は人と共に神へ歩む。人を神へ導く。自分も回心しながら共に歩む。だから憐れみや慈悲の心での人との出合いになる。コントロールの代わりに連帯性を持ちその中で仲間となり共同体を作り共同体が神の心に合うようにする。これがヘブライ書の第一のポイントです。第二のポイントは「この司祭職は全ての信者の祭司職である」と言う事です。我々の祭司はイエスキリストである。そのイエスが今はキリストの体に生きておられる。すべての信者が洗礼によってその祭司職を生きることになる。このへんのところが2V(第二バチカン公会議)で強調されたところです。この点でカトリックとプロテスタントはより近づいたのです。つまり全ての信者が祭司職にあずかっているのです。そこに第一の祭司職の意味があります。それは皆さんのことです。そこから信徒の使徒職がうまれてきます。そしてそこから信仰生活の霊性が生まれてくるのです。我々皆がキリストのものになるのです。キリストのものになると言うことが聖別されるということです。以前は修道者のことを英語でreligiousと言ったが、その後修道院に入らない信徒のいろいろなグループができたのでconsecrated (聖別された)といわれたが今ではこの表現でも駄目だと言うことになっている。聖別された聖別された生活と言っても全ての信者が聖別されているからです。洗礼によって全ての信者が聖別される。その聖別が本物かどうかはその信仰の生き方によるのです。変な人は何処にでもいます。生き方は心の問題です。

 

司祭の構造は残りますが意味が違うのです。キリストが中心です。信仰生活そのものが祭司的なものになるのです。私達は聖霊によって聖別される。仲介者は何処に居るのか。私たち全ての信者が仲介者です。神様はこの世を神の国としたいと考えておられる。全ての人が神の国へ入る。愛のうちに許し合いながら神へと歩んで行く。その仲介者は私達です。それが信者の使命です。そこが信仰のあり方の根本的なところです。仕事、家庭、遊びの中に新しい世界が見えるように、遊ぶとき神の前で遊び、仕事のときは一生懸命人間のために働き、友情を大切にするのです。家庭を心底から大切にするそこは神の愛が具体化されるところです。我々が仲介者になるのです。仲介者として新しい生き方で人生を神に捧げるそれが生贄です。ローマ書(12:1)でパウロは、「自分の生きた生贄を捧げなさい」といっています。我々の信仰の霊性はそこにあるのです。日曜日のミサの時だけでなく、月曜から日曜日まで朝から晩までを捧げるのです。人生を神に捧げるこれが信者の生贄、生きたミサになるのです。それが我々信者の霊性です。休む時も神を讃える。それが信仰生活ということです。苦しんでいる時には祈れませんが、頭で祈っていなくとも身体が叫び祈っているのです。寝ている時も休んでいる時も神を讃えます。喜びも働くときも神と共にする、これは神が喜ばれることで、人が生きていると言うことです。

 

司祭の構造は残っていますが、我々の霊性の全てはそのような生き方にあるのです。霊性の中心はtransformation変化にあります。今日はミサについて詳しく触れることはできませんが、ミサはその変化を表現しています。それを祝いそれを養うのです。パンの変化は我々の変化を現わし、聖変化は“我々の変化“の“しるし”です。これは初代教父たちが言ったことですがアウグスチヌスは「祭壇の上に我々の変化がある。一番大切なのは信者の変化です。それを秘蹟的なしるしとしてパンとぶどう酒が現わしている」と言います。ミサで一番大切なのは変化です。信者が変わることです。そこに新しい司祭職の中心を置いていると言うことです

 

2Vの後で教皇様と神学者が集まり論議しまとめられた書物の中では、司祭の祭司職と信徒の司祭職の両方を肯定し認めています。両方が必要であるが、云うまでも無く、司祭の司祭職と信徒の司祭職の比較では、信者の司祭職が一番であり根本であって、司祭の司祭職は“しるし”と組織としてのものです。信者の司祭職は洗礼の秘蹟から来るのです。大切な秘蹟は洗礼、堅信、聖体です。洗礼が一番大切な秘蹟であってキリストの祭司職に与からせるのです。カトリックとプロテスタントとの共通性は洗礼と聖体を大切にするところにあります。しかし残念ながら叙階式を洗礼式より荘厳盛大にしてしまい司祭のイメージに大きな影響を与えてしまった。中世には大きな秘蹟と小さい秘蹟と言った言い方がありました。大きな秘蹟とは洗礼堅信聖体です、その他の秘蹟を小さい秘蹟と言ったのです。洗礼が一番大切な秘蹟で生活の全てがそこにあり、生きた生贄となり同時にこの世を変化させるのです。暴行、苦しみ、悪の多いこの世をもっと神の国へ近づけるようにする使命が我々の司祭職にはあります。芸術も文学も人の心を変えさせる役割を持っています。我々も司祭職に与かる所に我々の霊性の根本があり、そこから泉が湧き出てきます。

以上

 

学び合い二年度第二回「信徒の召命とその意義―1−2」

5月18日

 

先週少し触れた1985年の神学委員会で「信仰と生活の中で信徒の司祭職と神父の司祭職の差は何処にあるのか」が論議され長い文章にまとめられた。その結論として表現された構造を以下に掲げてある。信仰生活の共同体の「目的」と「遂行」から判断すると、信徒の司祭職が先で優先される。「見える組織」と「秘蹟」からみると聖職者が優先されるということであった。

    教会共同体の側面:(上に行くほど全体的で中心的である)

      目的――――――信徒の司祭職が優先      

      遂行――――――信徒の司祭職が優先

      見える組織―――司祭の司祭職が優先

      秘蹟――――――司祭の司祭職が優先

教会の意識が聖書に戻り、プロテスタントとなどとの対話が良い結果をもたらし、「キリストとの一致」が信仰生活の中心であり全てで、組織とその役割は二次的であるとの理解を取り戻したと言える。教会は大きな組織であるからいろいろな役割が出てきますが、一次的なものは、キリストと一致し現代にキリストの命を生きてゆくことです。そこには受身の人はいない。皆が司祭職に与かっているのです。

 

先週紹介した書物のタイトルが「古い司祭と新しい司祭」でした。古い司祭は複数形で書かれ、新しい司祭は単数形です。それは新しい司祭はイエスキリストただお一人だけだからです。皆が洗礼によってキリストの身体に加わり、唯一の祭司職に与かるのです。これこそが先週のポイントです。

 

信仰生活そのものは、仕事・家庭・遊び、一日中が生きた生贄となり世の変化の仲介者になることです。そのように信徒の使命を理解するならば、「信徒の司祭職と神父の司祭職との関係はどのようになるか」が今日のテーマです。資料で言いますと、6 「カトリック司祭の意義と位置付けと役割」6−1です。 

「司祭の任務」:教会が必要とする大事な任務であり、永続的に公に認められている任務です。一度その任務を引き受けると生涯死ぬまでその任務を引き受けます。プロテスタントやいかなるグループにもリーダーがいなければまとまりません。しかし、それは組織の必要性から来る任務でありますが、組織の中心ではないのです。中心はキリストの信仰、聖霊の力、命、光のように燃えるものです。聖職者に特権は無い。洗礼によって与えられた役割が中心でそれを活かすために、役割を持つ人が必要なのです。信者がいるから司祭がいる。司祭の偉大さは信者の信仰生活にあります。信者が祭司として社会でその役割を果たしていくための助けでとして存在している。教会全体を活かすのが神父の役割である。だから役割は限定されているのです。

 

歴史の流れの中で二つの役割が大きくなってきた。「共同体を生かす」ことにポイントを置く時そこに出てくる司祭の役割と、「司教への協力者」である。資料6−2参照。新約聖書には今の司祭の姿はない。共同体が生まれたとき誰かが監督にならなくてはならなくなった。共同体のまとめ役である。だからパウロもペトロも共同体の監督になる者を表現するのに旧約で使われていた表現を避けている。宗教から取れられた言葉ではない。宗教からとれば昔の司祭のイメージになって誤解が生ずるからである。社会の中で使われていた言葉エピスコポス(エピ=上から、スコポス=見る)つまり監督である。長老は共同体で尊敬されていた人たちであった。日本語で司祭と訳したのは残念であった。プレスピテレスは長老と訳した方が良かったかも知れない。英語のプリストはそこからきている。

 

司教の役割は共同体を信仰に生かすことにある。そこでカテケジス要理教育や、信仰告白の役割が出てくる。同じ信仰を告白する。神学は異なっていてもシンボル的「信仰宣言」=信仰のシンボルは同じである。意見は違っていても同じ信仰を告白する。心が一つになるシンボルである。正しい信仰が伝わるようにする役割が司教にはある。その監督である司教と神父は協力する。講座などを司祭がすべてする必要性は全くない。信徒の誰でも出来る。現代では神学を学んでいる信徒も多い、また信徒の信仰生活から来る知恵を生かし分かち合うことは誰にでも出来る。それを活かすことです。神父は一生懸命働くが、神父が全部するのではない。司祭が一生懸命にやっていても教会が生きているのかどうかは分からない。司祭は自分の役割を本当に果たしているのか考える必要がある。

 

10年ほど前に「神学生の小教区ゼミナー」を担当したことがある。四つの教会を訪問した。修道会担当2、教区担当2であった。そこで信徒と司祭を交えて話しあった。受けた印象では、修道会の方が修道院からの協力者が多いので教会にプログラムは多いが信徒が受身、教区のほうは、プログラムは少ないが信徒が積極的で生き生きしていた。この印象を一般化は出来ないかも知れない。

 

使徒の時代に教会の中心は「みことば」であった。「聖書を読む」ことが初代教会から大切にされてきた。聖書を「読んで」「生きる」これも司教・司祭の責任です。それが生かされるようにするのであって、聖書を読むとはこの場合は研究するのではない。研究は講習会や神学講座や大学などですればよい。教会が良くなる為の出発点は一緒に聖書を読む、分かち合い、祈る、心の勉強です。生きる糧とすることです。教会では「キリストの身体」と「みことば」とが同じく尊敬され大切にされるようにというのが2V公会議の考え方です。聖書の理解を深める、自分でするのではなく。それが生かされるように。現在では信徒の中には司祭より聖書に通じているものが多くなってきている。

 

2V25周年の祝いにあたって教会のイメージとして言われてきたのは「コンムニオ=一致」であった。教会は共同体、一つの身体として理解されている。和解の共同体、ゆるしと聖霊を分かち合うならば経済も苦しみを分かち合う、そのように教会が共同体となるようにするのが司教司祭の役割である。しかしそれは司祭だけの役割ではない、皆でやって行くのです、共同体を生かすように。神の国の福音を社会の中で証する為に、仕事でもう少し神の国が近づくように、人間関係がキリストの関係でよくなるように、家庭では神の愛の中で生かされるように、社会が愛によってもっと生かされるように信者の生きる場で助けになるように、信者が使命を果たしているようなところで助けになり、元気付けられるように協力することです。

 

社会問題に教会の関心が向くとき福音の視点から社会問題に力をいれる必要がある。そのとき司祭はどうするか。司祭は自分で社会問題に入るのも一つの生きかたかも知れませんがそれだけではない。信徒と共にあって信徒を力づけることである。歴史的に司祭が全部する事になってしまったところが問題である。バランスを取り戻すことが大切です。

 

聖霊は自由です。風の様である。どちらに吹くか分からない。聖霊はいろいろな賜物を与えている。これを認め活かすこと。聖霊降臨の福音に注意してみると、一つの火が、それぞれ分かれて行くイメージが描かれている。同じ火である。パウロは一つの霊一つの信仰といっている。この火を識別し生かすのは司教・司祭の役割である。司祭が全部やるのではない。自分の賜物に自信があればこわい、これは困りものです。それは賜物ではない。霊の働きには恐い面がある。イグナチオも霊の働きの中に確信はあっても未だ疑問を持って、自分の考え我儘が入り込んでいないか疑い識別している。この識別の役割も司教司祭にある。

 

全てのカリスマと全ての役割を神父のものと考えて、教会の3職を司教・司祭の役割として司祭職、預言職、奉仕職と考えてしまうのは誤りです。そうすると全てを司教・司祭がする事になってしまう。それは教会全体の共同体の中にある。それを認め、活かし、力づけてゆくのが司教・司祭の役割である。その役割は2次的である。

 

今の教会は司祭に頼り過ぎています。教会をどうすればよいかと言うと、直ぐに問題は司祭がこうすれば、司祭にこうして欲しいということになってしまう。これこそバランスが取れていないことの現れでしょう。バランスの問題は欠陥の問題ではなくて、バランスの関係であって、力の関係でもない。司祭に特権があるように振舞いそれが当たり前と思い込むのは危ない。今はする人がいないから自分でするなら良いのだが。今日のテーマには「まとめ」をするようなテーマではなく、これからの課題でであると思います。

 

司祭と信徒の関係の問題は何処にでもあります。一般にアンケート調査で「司祭に求めるもの」と質問すれば、フィリッピンなどでも日本でも、司祭は聖霊の導きで祈れるように、霊的指導者として求められています。管理者としてではないのです。司祭が忙しいとは思わないで欲しい。信徒の場合は決められた仕事や生活上しなくてはならない「決められた忙しさ」それをせざるを得ない本当の忙しさの中にいますが、司祭の場合は「自分で決められる忙しさ」です。司祭は自分で忙しくしている。友であり、預言者であり、信徒の現実を知り、共に歩むのが司祭です。

 

ユーカリスチアのあり方をみると、極端に言えば信者は朗読するだけで準備には参加していない。現在の日本の社会がどうなっているのか、人々はどんな問題を抱えているのか、皆がどんな悩みを抱いているのか、何を神様に聞いて欲しいと願い叫んでいるのか、どうすれば「みことば」が今日の信者の心に響くのか、教会のミッションをどうすればよいのか、共同体としてどのように生かされなくてはならないのか等を考えなくてはならないでしょう。

 

ユーカリスチアは信仰のシンボルです。一週間の生き方がユーカリスチアになるようにするのです。ドミニコ会のコンガール神父は信徒神学を啓発した神学者ですが、「信徒の現実生活の意識がミサに入らない限り、ミサは信徒の力にはならない」と言った主旨のことを書いています。説教もプロテスタントから学ぶことは多いでしょう。現在日本の教会には外国人が多くなって来ていますが、彼らには説教しか信仰教育の場がありません。説教は司祭が時間をかけて準備すべき中心的奉仕です。準備は月曜日から始まります。土曜日の夕方からでは遅い。日本の状況信者の状況を確り把握することが前提です。説教が良くなる為には信者から注文を出す方が良いのです。言い方には配慮は必要でしょうが、「おせいじ」では駄目です。司祭の養成を待っては要られません。

 

以上

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