第十六回「日本の社会と教会―3」

2月16日

課題:「複雑な日本の社会の中で苦しむ人々に

対してカトリック教会のミッションとは何か」  

 

1.

ミッションとは何か。皆さんはすでにたくさん学んでこられましたから特に説明は不要と思いますが、かつてはミッションを組織を含む植え付け=

plantationと考えられてきました。異文化つまり非キリスト教世界における他宗教から改宗させることが前提であり、ザビエルの時代などには集団洗礼なども行われていました。非ヨーロッパは異物であり脅威であると考えられ、17−18世紀には彼らと同じように改造されなくてはならないといった考えのなかで福音が背後に押しやられていたのです。

 

教会を植え付けるplantationとは教会を建てそこに人々を集める発想であった。しかし、2V公会議以降はミッションの発想が変わり、異なった文化の中に入っていって内側から変える福音宣教に転換した。目的はたんなる回心だけではなく人類の内部から新しくすることであり、徹底的内的変革である。人類のそれぞれの文化の固有性は保持して諸文化を福音化することである。

資料:「福音宣教」参照 /18/20  (参考に原文を掲載))

 

17 教会の福音をのべ伝える活動のなかには、特に強調しなければならない要素や部分があり、そのなかには、非常に重要なものがあって、それらのみを福音化と考える傾向があります。それゆえ従来は、福音化とはキリストを知らない人々に教え、説教し、信仰教育をし、洗礼その他の秘跡を授けることと定義されていました。

しかし、福音化の真の姿、複合性、その豊かさ、その動的な面を、部分的あるいは断片的に定義することは、それを貧弱なもの、ゆがんだものとする危険があります。すべての必要な要素を一望におさめない限り、福音化の概念を把握することは不可能であります。

この度のシノドスにおいて、これらの要素が強調され、ひき続き研究されています。喜ばしいことに、これらの要素は第二バチカン公会議でわたしたちに伝えられた文書、特に「教会憲章」「現代世界憲章」「教会の宣教活動に関する教令Jの線に沿ったものです。

 

18 教会にとって福音を述べ伝えるとは、「よい知らせ」を人類のすべての階層にもたらし、「わたしは万物を新しくする」とあるように、固有の力で内部から変化させ、新しくするという意味を持っています。しかし、まず最初に洗礼を受け、福音に従った生き方によって新たにされた人々がいなければ、新しい人類は生まれません。ですから、福音化の目的はあきらかに、この内的変化であります、もしこれを1つの文章で表現するならば、教会が人々を回心させようと努める時、教会は福音を述べ伝えている、といえるでしょう。すなわち、教会が述べつたえているメッセージの神聖な力によって、人々各自の、あるいは集団的な良心、彼らが従事する活動、彼らの生活や具体的環境を変えるよう努めるときです。

19 人類の階層の変革でるため、教会にとって、ただ単に福音化の地理的領域を絶えず各区大して、より多くの人々に福音を述べ琉ことだけではなく、神の御ことばと救いのご計画に背く人間の判断基準、価値観、関心の的、思想傾向、インスピレーションの源、生活様式などに福音の力によって影響を及ぼし、それらwいわば転倒させること絵もあります。

 

20 これらのことは、次のように言い表すことができます。福音宣教にとって大切なことは、諸文化と人類の文化をただ薄い布で覆い被せるように装飾的に、ではなく、生活の中心と根源にまで達するように、深く福音化しなければなりません。ここで言う文化とは、「現代世界塩草」で言われているような、もつとも広く多様性に富んだもので、福音化は常に人間自身のあり方から出発し、人間同士の関係および人間と神との関係に帰着すべきものであります。福音、さらに福音化は、ある特定の文化と同じものではなく、すべての文化から独立したものです。とはいえ、文化に深くつながる人々が福音がのべる神の国を生きるので、神の国の建設には文化と人類の諸文化の要素を利用する必要があります。福音と福音化がどの文化にも本来的に所属していないということは、両者が両立しえないという意味ではありません。むしろ、どの文化にも所属することなく、それらすべてに浸透することができるものです。

福音と文化の分裂は他の時代にもありましたが、特に今日著しいことは疑いないことです。だから人類の文化、さらに正確には諸文化そのものを福音化するために、あらゆる努力が肝要です。諸文化は福音と出会うことによって再生されるべきものです。しかし、この出会いは、福音がまずのべられなければ望めないことです。」

 

現代世界憲章53

「文化」は、広義においては、人間が精神と肉体との多様な能力を鍛錬し、発展させるために用いるあらゆる事柄をさす人間は知識と労働とを持って全世界を支配しようと努力し、家庭とあらゆる市民社会における社会生活を習慣と制度の進歩によって益々人間らしいものとし、時の流れを通して多くの人、むしろ全人類の発展に役立たせるために、偉大な精神的体験と期待をその作品の中に現わし、伝え、保つ。文化とは、これらすべてのをいみするものである。

このことから、人間文化は必然的に歴史的社会的な面をもち、「文化」という言葉は社会学的または民俗学的意味を持っことが結論される。この意味において文化の多様性ということがいわれるのである。事実、物の使い方、労働のあり方、表現方法、宗教実践、習慣の成立、法律と法制度の設定、学問と芸術の発展、美の追究の努力、などが様々異なることから生活様式や価値基準の差異が生じる。こうして伝統的な習慣からそれぞれの人間共同体に独特の遺産が生じ、また歴史的な特定の環境がつくられる。どの国どの時代の人間もこの環境のなかに入れられ、また、そこから人間的。市民的文化を発展させるための価値をくみ取る。」」

 

2V公会議までは教え説教を授けることを宣教と考えてきたが、宣教をもっと広くとらえ よい知らせをもたらすことに重点が移された。人類を内部から変革し新しい人になってゆくことにポイントを置いた。個人的な求道者との体験からもそういえる。その方自身が内的に回心していってくださる。それはすばらしい神の御業である。内的な変化を知ることができる。自分自身が福音化される喜びがそこにある。福音の種をどのように育ててゆくのか、そこからミッションは始まる。DEI MISSIO、ミッションの主体は神である。神の宣教の考え方はプロテスタントから始まる。イザヤ以外に自分から宣教に出かけた人はいない。これは召命である。信者になることは召命であり、神から呼ばれるのである。そして神がその人をどのように使うを決めるのである。皆異なっている。ミッションで大切なのは自分自身が新しくなり変えられていく喜びである。ノーハウとかテクニカルなものではない。ミッションを考える時文化は大切である。

 

2 文化を考える(現代世界憲章53資料参照)

派遣されている人たちのことを考えない事態が起こりえる。弟子たちも誤りを犯している。サマリアに対して滅ぼしましょうかといっている彼らはサマリアの文化を知らなかったからである。このようなことがミッションの過程で起こってしまうことがある。文化を異文化とはいわないことである。文化とは芸術だけの話ではない言語もそうである、形だけ表面をまねることではない。プロセスが大切である。文化は可変的であり福音は不変であるから福音は文化をよりよく変えることができる。文化の変化つまり変わる過程がインカルチュレーションである。

「私はーーーをしている、あなたもーーーしなさい」の構造ではない。教会委員会制度が教会をだめにする。その人それぞれのたまものがあり、それが生かされていない現状が、教会の行き詰まりの原因だろう。洗礼者ヨハネのように私は去るあなたがやってくださいということが大切なのだ。福音の根を忘れてしまうと教会にならない。それを育てようとする人たちの集まりが教会である。資料にかかれている適合、同化、改変、土着化、等では不十分である。重要なのは自分が育てられた文化に「聞く」、その文化と「交わる」ことが大切なのだ。

また「支配しない」ことである。体験的に失敗したことだが、求道者に「入門式はどうですか」と聞いただけで、ある人はそれ以降教会にこなくなってしまった。多くの人は他者をコントロールしようとする。自分も多くの失敗をした。皆失敗してみることである。回心させようとしては失敗する。

 

3 視線を超えて

@線を超えることが必要だ。同じ目線でみていては変わらない。さなぎか蝶に変わる。苦しんでいる人がいる。その人の話を聞く、同情して情動的に動いてはいけない。同情は禁物である。巻き込まれてしまう。そして去ってゆくことになる。あくまで聞くことが大切である。福音は情ではない。イエスは動かされない。情動に負けていない。冷静に聞き見抜く。福音の深い理解が必要だ。テロの問題でもそうである同情して泣いていてもだめである。イエスをよく見るとわかる。カウンセラーのようにテクニカルではない。対応するのではなく、祈り福音を通して考えることが大切である。A  福音の中から解釈する。Bケアーの問題をいかにしてゆくのか。イエスの目指したのは「神の国」である。信仰の目標を持って苦しむ人に対しては「神の国」を全面に置いて活動し情動に動かされにことである。「神のくに」の教えの意味を考える。ただその人のためではだめである。最終目標を持つことで対応する。ボランティアーではない。最終目標を「神の国」におくことである。

 

皆さんは情動の問題に引っかかってしまったようですが、情動そのものを否定しているのではない。情動は生まれたときからある。しかしそれだけでは福音が出てこない。我々は信仰を持った成熟した大人だから情動だけではなく、知性、感情、意思を生かし人類が築いてきた文化を総合的に生かし精神活動をするのである。しかし宣教に際しては内的な世界に戻ってゆく必要がある。情動はその入り口にある。その奥には根本的な情動の世界がありそこには罪、欲望がある。その部分にインパクトを与えるのが福音である。知性、意思、に影響を与える情動の深いところにある罪の力に働きかけてゆき知性、意思を変えてゆく。それが根本であり、情動の深いところが変えられてこないと人は変れない。イエスの役目もそこにある。醜いものを変えてゆく。苦しむ人をどうするか。苦しみを見分ける、経済的苦しみ、社会的苦しみ、心理的苦しみ、どういうところで苦しんでいるのかを聞く。その人と交わり、その人の霊的病がどこにあるのかそのケアーを目指しているのが教会のミッションである。ボランティアーを超えて霊的なものを探してゆく。どのようにしたら一緒に歩んでいけるのか。その場に自分をもってゆくこと。そのとき情に流されない、巻き込まれない、活動できる時間には限界がある。再びその人に寄り添うために離れる時が必要である。マザーテレサも同じである。


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