第十二回「地域共同体―4」
1月19日
課題:「世界各地の小教区」
前回は突発的な出来事の為出席できませんでしたがそのとき作成した長い資料も今日のテーマと関係してきます。教会は2000年の間歩み続けその都度ありかたを変えてきた。教会は時代ごとに新たにされていく。時代ごとの問題意識をもっていた。同じ全体教会の中ではあっても教会には地域ごとの集まりがあり地域ごとに問題意識も違う。この地域性があるから福音は宣べ伝えられる。この問題は広すぎていまここでは短時間では扱えない。
イギリスの教会でも一時期は司祭も信徒も教会学校のリーダーも子供もたくさんいたが現在では激減している。何処の国でも日本と同じ心配が見られる。その原因は何か。方向の誤りか、時代が厳しかったのか、やり方が間違っていたのか、甘すぎたのか、信仰を育てなかったのか。信仰で全部解決がつくと思い込んでいたが、物質文明の中でそうではないことがわかってきた。人間の関係の全てが信仰では説明がつかない。今信仰とは何か問われてくる。小教区とはどう云うものなのか。既にシェガレ師や小笠原師が小教区の問題と教会の歴史について良くまとめられているのでくり返しは避けたい。
神学生の頃は「教会法」は嫌いであった。イエスは二つのこと「神を愛する、人を愛する」しか教えなかった。 教会法の内容は古いユダヤ教の掟より多い。新教会法でも1752条ある。これを信者として守ることが出来るのかと疑問に思っていたが、日本に来て稲川神父と学び直した。神父と信徒の関係、共同体とはどう云うものであるのか、そこから学び直した。日本で起きている小教区の再編成のような現象は全世界で同じように起きている。今日は特に信仰共同体について考えたい。コンゴーでは信徒の夫婦が教会に住んで仕事をするケースもある。
発題のうちポイントと思われる事項を箇条書きにする。
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初代教会時代の教会は「一定のキリスト者の共同体」であり教会は建物ではなかった。或る信者の家で集まったのが教会であった。
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4世紀ごろからは地域的に拡大し、信徒が増大し建物が増加してゆく。主任司祭に司教の一部の権威を与えた。司教を増やさないで済ます為に司祭が作られた。
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16世紀になり教区領域内の信徒の必要を満たす為に小教区を増やした。それに合わせて司教と司祭の関係が再確認された。司祭を司教の協力者、助手、道具、神の民への奉仕者との共通理解が明確にされた。
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教会憲章28では司教と司祭の関係を父と子の従順、尊敬と友情の関係においている。小教区は教区ほど絶対的な存在ではない。小教区の目的を宣教においている。
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V2公会議の理解する小教区の設立の条件は、人間社会の現実、教区の宣教方針、そこにいる人材である。教会の管理運営よりも、人間の集合、共同体を中心に考えている。
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小教区の理解は、トレントでは「地域が中心」であったが、2V公会議では「人の集まり」が教会であるとの認識に変わってきた。信徒は教会の一員ではなく教会そのものである。
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教会にはいろいろな賜物がある。信者は全面的に宣教の使命に参加することが求められている。信者は司教の下にミッションに参与する為に集められたのである。
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信仰と信仰の確認は異なる。あなたと神様の関係が原点である。
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教会で一番大切なのは洗礼、仲間を選んで洗礼を受けた人はいない。
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小教区は何らかの形で地域との繋がりをもっている。外に出てゆく共同体でなければいけない。イエスは門の外で死んだ。人々とのかかわりをもとめて。信仰を生きる場は教会の建物の中にあるのではない。支えあうこと、ひとりで頑張って天国に行く必要はない。ひとりでは入れない。
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神父の信仰を強めているのは信徒である。互いに支え合うこと。
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世界の教会は共通した問題を抱えている。フランスでも交わりの教会にする為に悩んでいる。どのように建物を生かすのか。そこに属する人たちの信仰をどのように生かしてゆくのか悩んでいる。コンゴーでもよそからきた人たちの受け入れの問題がある。
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三つのポイント 1)教会は天国への道ではない。イエスと同じに人を救ってゆくところ。喜びを持って生き生きしているところでなくてはいけない。イエスはしてはいけないことを教えはしなかった。なすべきことを教えた。宣教のための教会。2)地域の交わり。地域との協力。現在の小教区は地域との関連性がない。 3)いままでの財産、建物、人等をどのように維持して行くのか。争いなど考えないで、自分の共同責任は何処にあるのか考える方が良い。神父だけの教会ではない。神父との争いや、信徒どうしの争いではなく、家庭を守っている信徒は共同責任をどのように果たすのか。集まりが教会ではなく、人が生きている環境そのものである。捧物は現金だけではない。コンコーでは結婚し夫婦が教会で責任を担っている。フランスでは機能していない教会は廃止している。
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これほど大人の信仰がある教会は日本だけであるのに、日本では何でも神父。コンゴーでは初聖体の準備や新しい信徒の世話等そ神父はしない。
信仰を分かち合い信仰を如何にまもり続けるかということよりも、門の外に出て地域と協力していくことが大切です。共同体は仲間を自分で選んだのではないとの意識が必要。人間とのかかわりはいつもスムースには行かない。いつも信仰の原点イエス聖書のみことばに力づけられて再出発する。いろいろのものが入ってきているので消化するのが大変ですが、議論があってもまとまりがあればよい。議論だけで終わってはいけない。信仰の喜びがなければ福音宣教にならない。