第十一回 「地域共同体―3」

1月12日

課題:「信徒と聖職者の関係」

 

テーマが広すぎるので絞る必要がある。継続的に来年度も検討される課題です。

問題はデリケートで聖職者と信徒の関係について構造的に問題は何処にあるのか、それをどうするのかを考えていきたい。聖職者中心主義の限界についていろいろ言えますが、「どうすればよいのか」学び合いの実りとし出せるよう期待します。殆どの問題は歴史に根がある。問題はいろいろある中で大切な問題は何かに絞って話します。信徒と司祭の関係がどうであったか話し合えば切りがないのでそれを避けたい。「問題が何処にあり」自分にとって「一番大切な問題はなにか」を見出し、それに対して「どう乗り越えられるか」分かち合いを通して考えましょう。

 

教会の歴史を大雑把に見れば、この関係がどれほど大きく変化してきたかがわかる。新約時代には信徒と司祭は存在しない。イエスもユダヤ教の枠組みから見れば信徒であり、信徒として活動されまた話された。共同体の中に人間関係はあるが、そこに聖職者を見出すのは難しい。それだからこの制度が悪いとは言えないが、20世紀に見える教会の姿は新約時代には見出せない。どうしてあれほど変わって来たのか。今でも小教区では司祭は全権を持ち、教区では司教、教会では教皇が全権を持っています。

 

ローマで学んでいる時の体験ですが、教皇に対し3人の司祭が公に批判すると言う出来事がありました。日本の大使館員がそれに関心を持ち3人の司祭から話を聞きたいと申し込まれたことがあった。この世に絶対主義はバチカンにしか存在していないと思われた膝元に起きた司祭が教皇を批判すことに対する政治的関心であった。全体主義国家では起きない出来事です。同じような出来事は教区や小教区にもあるだろう。

 

冗談としてではあるが、公会議である司教が言った話として伝わっている信徒の定義があります。信徒とは「祈って、払って、従う」者。公会議で教会刷新の為には福音に戻ること、その根本精神に戻ることが、信徒と司祭の関係を考える基本になった。信徒は教会の全ての次元に与かるものとされた。それは初めからキリスト教の基本的精神であり、そこにもどったのです。

 

「信徒――」と題された本がたくさん書かれた。信仰の面で意識されるべき前提は、いのちとか愛とか言った信仰は自動的に起こることではないということです。信仰は自然には伝えることは出来ない。次の世代にも信仰は伝えることは出来ない。各世代が信仰を発見して自分のものにしてゆかなければならない。ヨーロッパの歴史のある時期にはヨーロッパに生まれれば信仰が伝わると考えられてきたがそうではない。悟りとか目覚めとか言った信仰は自然に世代を通して伝えられることではない。自然に伝えられるのは平均的人間になることであって、「信仰に生きる」ことはそれ以上のことである。自動的に伝わるのは文化的要素でだけです。しかし生きた信仰は常に発見してその世代ごとに活き活きさせていかなくてはならない。それは人間関係と同じである。

 

教会の歴史の中にもいろいろな社会的文化的心理的要素が入ってきた。それによって神の霊が無視され、信仰が自分達の都合の良いように飼いならされ自分の都合に合うように変えられることになる(domesticated )。具体的な例を挙げると、独身制度自体は他の宗教にもあることであるし、それ自体は評価出来る。しかし文化的要素が入り込んで、組織の側面からの必要性もあって、神学者が議論していくうちに、結婚より独身制を高く評価してしまったところに問題がある。自分も神学生時代にそのように教育された。これは何処から出てくるのか。独身制を高く評価したところに公会議前まで司祭召命が多かった一つの理由があるだろう。これは福音的発展ではない文化的な問題である。女性への見方や教会内での立場も社会的偏見によって形成されている。福音的教会の本質から来るものではない。結果的に様々な矛盾も起きている。

 

歴史的に見てゆくと理由は様々であって悪意もないが、信徒が大切なところから離れ遠ざかってしまった現実がある。先ず始めに、1−3世紀頃に信徒が礼拝から遠ざかることになる。ローマ書12章にあるように「生き方そのものが新しい礼拝になるように」とされている。旧約聖書の「生贄」は過ぎ去った。動物の生贄によって神を喜ばせるのではなく清い心で自分の命を捧げることが神を喜ばせるのであると預言者も言っている。人の一日の全て、料理、育児、仕事、遊び、を神に喜ばれるように生きること。しかし、いつのまにか旧約聖書の意味で生贄が再び使い始められた。ミサは新しい生贄となり、そのために司祭が必要になって特別の役割を持つようになる。礼拝は聖職者の支配の下にあって結果的に信徒は離される。信徒が中心でなく司祭が中心となる。その傾向は中世には劇的に強まってくる。祭壇にもいろいろな部分が出来て信徒は近づけない障壁が設けられて、聖変化も信徒には鈴を鳴らして知らせるしかなくなる。こうして礼拝は司祭のものになってしまった。異端の問題も発生してくると教会を守るために神学が発展してきて、これは良いことでもあったが、正しい教えの判断は司祭や司教のものとされてしまった。初期には神学者の中に信徒もいた、有名なオリゲネスは信徒神学者であった。しかし次第に神学も聖職者のものとなっていき信徒は神学からも遠のいていった。それは現代まで続いていたが、やっと近年信徒神学者が出始めてきた。言葉の面でもラテン語が教会の公用語になると、それが出来ない信徒は離れていった。7世紀から12−13世紀ごろまでに教会は政治権力を持つようになると他の権力との間に問題が生じ、教会の自由を守る必要も起こってきた。信徒は欲望や野心の中にあるので危ないとされた。神学校ではグレゴリオ7世の勝利と教わった。その後聖職者の力がものすごく強化されていく。それは教会を守る為であった。歴史的必要性はあったが結果として、信徒は教会の意思決定のプロセスから外されていった。現在の教会法でもその点は変わっていない。小教区の意思決定でも最終的には主任司祭にあることは今でもはっきりしている。誰かが最終的に決定せざるを得ないことではあっても中世からの流れがそこにある。信徒に任せたらどうなるのかと言った惧がある。霊性の面でも福音に生きる点でも弱くなった。キリスト教の広がりが急速で、支配者が改宗すると配下の者は全員それに従う、広くはなったが深まりが薄くなっていった。入信の過程もなかったし、霊性、心の道、聖書もラテン語であり理解も不十分であった。

 

一方信徒運動は盛んになってきたがアシジのフランシスコやドミニコなど信徒運動から始まったが、成功するとすぐに司祭修道者に組み込まれていった。フランシスコは勧められても司祭にはならなかった。サンモールも貧しい人々を助ける女性の信徒の集まりであったが修道会にさせられてしまった。信徒の良い運動でも修道者の仲に組み込んでしまった。結果として信徒は霊性から離れていった。信徒の霊性には関心が払われなかった。20世紀まで霊性を求める人は修道院に行かなければならない状況が続いていた。

 

しかし、日常生活の中にこそ霊性がある。アビラのテレジアも指摘しているように料理しているときにも神に出会わなくては本当の祈りではない。何処から自分の信仰を育てられるのか。慈しみの手段は殆ど司祭の下に集められてしまった。秘蹟は司祭に任せても良いかも知れないがそのほかにも様々な恵みがある。その一例として挙げれば祝福です。親から、先輩から、祝福は互いに心から祈りあうことで、恵みの泉はみなの手の中にあるので聖職者のものではない。恵みの仲介は皆のもであるのにいつのまにか司祭だけものにされてしまった。信徒にはつまらない仕事しか与えられない状態になってしまった。現実生活では大きな社会的責任を果たしている信徒のあり方と教会内での瑣末な仕事のあり方が誠にアンバランスに成ってしまった。神父の代わりに何かをするのではない。信仰はもっと大きなことであり、教会の行事を引き受けることだけではない。教会の使命の見直しが必要であり、信徒の社会におけるミッションを大切にする信徒の召命に生きる、その力となりそれを表現する秘蹟・典礼にならなければならない。

 

グループの話し合いに際しては、1)分離の8ポイントの内一番大切と思うのはどれか。2)それを「どうすれば」教会に取り戻せるのか。資料の5と6に纏められているので参照されたい。

 

教会構造のイメージ図 5段階の説明があったが省略します。

1)        三角形 2) 縦型 3) 円形 4) 三つの円 5) 多数の円

複雑になるのは、社会が複雑であるからではなく、人間が複雑であるからです。

 

 

 

 

 


システムとしても教会は変わらなければならない。現代のニーズに応えられない。小グループを活かすミッションの為にどうすればよいのか。信徒が絶対的中心になること。日本の文化の中で日本の全てを生かすようになること。歴史には希望の種がある、歴史を受け入れ日本的にならなければいけない。

 

何処に福音が生きているのか。必ずしも神学者や聖職者が決めた枠組みの中だけに生きているのではない。自分を忘れて人のために働く多くの人々の中に福音は生きている。真の愛のあるところに神はおられる。それを見出すことによって私たちの生き方がどれほど変わるか。福音の言葉を使うことと福音に生きると言う事は全く違う。福音が生きるのは心、そして人間の関係において、つまり、生活の場、仕事、家庭、社会に生きるわけです。信徒使途職は言葉を使うのとは違う。

 

信徒の霊性とは、人間の一番当たり前に生きている場、神から与えられた場、家庭、社会、仕事、人間の生活全体の場であり、そこで元気に捧げられた生き方が出来る力が来るところそれが霊性です。霊性とは修道院に入ることや何か特別なことをすことではない。信者が自信を持って一日元気に生きるために必要なことです。日常の中で神に会って神とともに働いているその様な意識を養うことが大切です。

 

入信の過程が弱い。心の問題よりも公教要理など頭の問題に力が入る傾向があり、心にある神の恵みをどのように日常に生かせるのかと言った事柄について教えられていない。受洗後のフォローもされていない。洗礼の恵みがどのように生きることを照らしているのかなど、心の問題が疎かにされがちです。1)社会、生活の場での使命だ第一番 2)教会ではそれを先ず認めてからそれを教会共同体としてどのように活かし支えあっていくのか 3)典礼でもその辺のところが理解されていないといけない 4)信徒使徒職は聖体奉仕者ではない。社会生活を終えて聖体奉仕者になっても誰に奉仕したらよいのかわからなくなる。初代教会の助祭の役割は現実の必要に応えるところから始まっている。自分の生活から出発すること。典礼から出発するのではない。典礼から出発するから物足りなさを感じてしまう。生活から出発して典礼を生かす。典礼も現実から始まっていった。抽象的な司祭がいて始まったわけではない。

 

信徒もイニシチブを取ること。そうすれば教会がもっと豊富になってゆく。もっと自由に悟ったところから気のついたところから始めることです。二年目の時もこの課題について深め考えてゆくことになるでしょう。


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