第10回「地域共同体―2」
12月22日
課題:「小教区の歴史」
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小教区とはなんだろうか?小教区の歴史を見ていると教会の豊かさが解る。
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parish(英語)parochia(ラテン語)の訳として「小教区」と訳すが、むしろ「聖堂区」と訳した方がピンとくる。この語はギリシャ語のパロイコスから来ている。パロイコスの意味は“よそ者”“寄留者”が原義だ。新共同訳の1ペトロ2:12では“旅人”と訳されているが「この世の者ではない」の意味でつかわれている。(参1頁1)@)
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時代とともにこの言葉の内容が変化してくる。“寄り合い”、“礼拝集会”の意味で使ったエクレシアがパロイキアと同義語なる。教区というよりも“旅する民”=教会を意味する。(参1)A)
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ラテン語の時代になると、行政用語dioecesisが使われ、教会が行政区=ディオチェジスと言う言葉で表現されてくる。それは司教の支配領域を意味している。それにともないパロキアは司教区の最小単位としていわゆる小教区の意味で使われる。寄留者の意味がなくなってしまった。ユダヤ教で発達していた会堂のネットワークを踏襲し、パロキアといわれた。小教区制度の確立はトリエント公会議以降である。(参2頁C)
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初代教会時代には、教会はユダヤ教の伝統によって集団で指導されていた。指導者の呼称としては“長老”(ユダヤ教)と“監督”(ヘレニズム世界)の二つの言葉が使われていたが次第に統合されてくる。エピスコポス(監督)が教会の指導者として明確化され司教となる。司祭と助祭はあくまで司教の補佐であった。使徒の後継者の位置に司教が置かれた。そして「司教―司祭―助祭」の制度が生まれる。(参2頁2)@)
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社会現象的に見てキリスト教運動は都市を中心に展開して行く。キリスト教は都市型の宗教の性格を有している。都市部では司教が統括する信仰共同体が生まれてくる。現在の主任司祭の位置に司教がいた感じで、大きな町にそれぞれ一人の司教がいた。(参3頁2)A)
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問題は地方に共同体が生まれてくる段階から生じてくる。そこにも司教を立てた。但しランクが違う補佐司教のような感じであったが、司教の数が急速に増えていった。この地方専任司教は都市の司教に繋がっていたが、無教養な司教が多く生まれ、教えの理解も不十分、野心のある人もいたり、異端も起こってきた。そこで司教を減らし司祭を派遣するようになる。5世紀には司祭が村落に常住するようになる。教会の発展にともないローマの行政制度が導入される。(参3頁2)B)
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dioecesisという言葉が使われてくる。司教制度の確立とローマの行政制度の導入とが一致している。そのような制度があったから司教制度も確立してきたのだろう。
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都市型の宗教として始まったキリスト教は地方に発展してくると、地方に大パロキアが出現する。司教は全体を統治しているけれども、町の主任司祭の様であったため、地方の大パロキアには首席司祭を派遣し大きな権限を与え任せるようになる。首席司祭を中心に司祭たたちは共住生活をし、各地の聖堂には司祭が派遣された。現在の共同司牧のような形態をとっていた。親教会つまり首席司祭のいる教会を「洗礼教会」と呼ぶようになる。(参4頁2)C)
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住民信徒の生活圏に根を下ろした「洗礼教会」が力を増してくると、都市の司教と互角になってきた。司教座聖堂と地方の中心となった洗礼教会が対等になってきたのが中世の教会の姿であった。都市司教と結ばれてはいたが、分権化されてくる時代になって来た。
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ミサ、洗礼、説教の権限が司教から首席司祭に委任され次第に地方教会の独立を強めていった。首席司祭は責任者であり他の司祭の世話、神学生たちの世話、教会経営の学校の責任者でもあった。
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この「洗礼教会」のあり方はラテン圏のことであって、ゲルマン圏では異なったものの考え方があった。アルップスをこえてゲルマン圏にキリスト教が伝わると、小教区を含めた教会制度が大きく変化する。(参5頁2)D)
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ローマ法には非常に古くから「法人」の概念がある。司教は教会を統治していても司教の所有物ではなかった。自分のものであるとの発想すらなかった。しかし、ゲルマンは封建制度下にあり土地所有が基本をなしていたため、領主の支配下にあるものは全て領主のものと考えられた。教会もその中に取り込まれ、この所有権問題が大きく教会の制度に影響を与えてくる。教会そのものが建物、聖職者、信徒を含めて領主の私有財産とされた。所有権者には様々な人がなれ委譲も出来た。領主にとって教会は収入源として大きな意味を持っていた。「十分の一税」も領主の収入であった。司祭は領主から聖職禄を受けて役務を引き受けることとなり、司祭の役務が仕事となってしまった。司祭達の生活は苦しく農奴の立場に近いもので、司教との繋がりがますます弱まっていく。(参5頁D)
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中世の時代に入ると、教会の私物化が大きな問題となる。11世紀頃には都市の周辺でも聖堂区が出来てくる。「十分の一税」確保の為教会の境界線、地域分割の明確化が促進された。それまでは漠然としていた聖堂区の範囲が明確化された。信徒の有力者が教会を牛耳ることになってくる。(参6頁)
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12世紀になると俗人による教会所有が禁止され、司教を中心とした本来の教会の姿に戻す動きが起こる。しかし、14世紀には信徒の教会への帰属意識が薄れてくる。教会には両面性がある。(参7頁)
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都市部では、人口増加により司教区を分割してあらたに聖堂区を建てて行かざるを得なくなり、小さな聖堂が乱立してくる。貴族達が聖堂区を所有し「十分の一税」も収入としていた。
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そこでトリエント公会議が起こり、教会制度の大改革を行なった。宗教改革運動にはルターの問題だけではない社会学的事柄が関連している。一言で言えば「教会の私物化の廃止」である。また、「信徒の教会行政からの排斥」であった。この反動で教会は聖職者主義に大きく傾き信徒の立場が全く受動的立場にしかおかれなくなった。
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修道会の問題もあった。修道司祭と教区司祭の関係も未解決な部分を残している。補い合うのは当然としても小教区制度とどのように整合性を持たせうるのかが課題として残されている。
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トリエント公会議以降の問題は国家主義との関連である。国家が教会の上になって、教会財産を没収したところもでてきた。ドイツでは現在も司祭は国から給料をもらう準公務員である。国家が教会を牛耳るようになってきたので小教区は司教の影響力だけではなく、教会も社会からの影響力を無視できなくなってきた。
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産業化・都市化の問題から、「ゆりかごから墓場まで」の考えは現実に不可能になってきた。また反聖職者主義も起こり、小教区の機能を維持するのは非常に難しくなってきた。そのため多くの信徒は教会と直接の関係をもたなくなった。19、20世紀に至り、現代にいたっている。
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教会は旅する教会であり、これで良いということはない。いつも前進する。小教区制度の一点からだけ教会を振り返ってみても、そこには紆余曲折があったことがわかる。そのときその時に教会の本来のありようを探ってきた。その実りとして「小教区」と呼んでいる共同体の制度あるがある。これは長い歩みの中で形成されてきたものだ。完全ではないにしても、先祖達が作りあげてきた制度を活用しない手はない。この制度そのものが問題であるかどうかは疑問である。別の新しい制度を考えるのは難しいだろう。従って、この制度をベースに如何すればよいのか考える必要があるだろう。
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他宗教の場合、宗教的リーダーの側から見た人的組織を見てみると興味深いものがある。神道は本質的に地縁共同体を土台とした宗教である。神主は、今でこそ神職制度の下に置かれているが、元来は共同体における輪番制であった。そこにはいわゆる「聖職者」と言う発想がなく、強いて言えば、神がかりする「巫女」が神主とは別に神と人々との橋渡しとされていた。もっとも、今日では巫女さんといえばアルバイトの女の子でしかないが。
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6世紀半ばに大陸から入ってきた仏教は、非常に高度な教義と宗教的実践を兼ね備えた宗教で、わが国に与えた影響ははかり知れない。最初は国家建設に権力者達が大陸からのこの宗教を利用することになるが、神仏習合の動きとあいまって次第に庶民の中に広がり、鎌倉時代にいたって日本化した。その間600年を要している。しかし、一貫して仏教運動は出家した僧侶集団を機軸としていた。しかし、親鸞以後は「半僧半俗」の傾向が浄土真宗の拡大に伴って強くなる。徳川幕府は、切支丹撲滅を口実に檀家制度を徹底し、いわば寺を戸籍管理体制(人民統制)に利用することに成功した。寺の住職を中心にした死者儀礼と墓に結ばれた宗教共同体が、逆らうことを決して許さないお上の意図で作り上げられていくことになるが、その影響は今日まで色濃く残っている。明治以降は政府の肝いりで寺の僧侶の結婚が公に認められ、形は出家の身分でありながら、実際は世俗の生活をしているのが住職のじっさいである。
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プロテスタントの場合はどうであろうか。周知のように、プロテスタント運動はそれまでのカトリックの秘蹟に立脚する位階制度を否定することから始まった。したがって、牧師は根本的には信徒の身分であり、親鸞の「半僧半俗」と同じ立場である。しかも近代「個」を全面に打ち出す信仰ゆえに、聖書解釈、信仰解釈は際限なく文節化し、多くの小教団が続出し続けている。説教に情熱を傾ける牧師中心とした知的・心情的確信者による小さな共同体というのが、今日のプロテスタントの教会の現状である。
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カトリックの場合は、少数の聖職者(全面的な奉献生活者)を中心とした共同体が基本である。しかし、司祭中心といっても独占者ということではない。み言葉と秘蹟に人生をかけたいわば出家者を大切にする信仰共同体がそこにはある。しかし、一聖堂区一司祭という体制は司祭の絶対数の減少のために、その維持が非常に難しくなってきているのが現状である。
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新宗教や宗教カルトの場合は、強烈なカリスマを備えた教祖を中心とした閉鎖的な集団と言うのが共通した特徴である。多くの場合、実体は宗教という名を借りたビジネス集団であることが、今日の大きな社会問題となっている。人々の宗教不信をあおる大きな要因の一つとなっている。
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日本のカトリック教会はヨーロッパの小教区制度を導入した。この制度を度外視するのではなく活用し手直しするところから始めなくてはならない。司祭が何でもするのではなく信徒が責任を担うことが大切だろう。老齢化してゆく社会の中で教会、様々のケアーの問題もある。しかし司祭はゆったりと茶のみ友達にはなかなかなれない。司祭は過労で、多くの場合サービス過剰で、落ち着くことも出来ない。しかし司祭は単なる活動家ではない。あくまでも宗教家である。
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最近は日本の社会全体が人生の通過儀礼、加入儀礼が真の意味を見失っている。成人式もその一つである。大人になりきれない若者達を生みだしてしまった社会の現実がある。結婚についても教会でその意味をきちんと説明できないといけない。葬式も葬儀屋任せでは駄目である。そこにも教会の役割を見出せるだろう。
しかし、葬式カトリックになってはいけない。
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教会は信仰の真実を“どっしりと”“淡々と”“自信を持って”示し続け不動の霊性をもたなければならない。
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経済問題については真剣に取り組まなくてはならない。月定献金をしてい人の割合があまりにも低すぎる。共同体の15%前後ではなかろうか。信仰共同体を支えて行く兄弟愛の実践が必要です。自分達の聖堂区共同体のことだけではなく、隣の聖堂区どうしの交流も大切であるし、海外の信仰共同体の兄弟達に支援して行く必要もある。逗子教会では海外の特定の教会を支える支援を始めている。
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カトリック教会はいわゆる民主主義社会ではない。教区司教の方針を受けて歩んで行く縦型社会である。良い意味での縦関係を維持していくことが大切であると思われる。