第九回「地域共同体―1」

12月15日 

課題:「日本の教会の小教区共同体を考える」

 

今日は、共同体とはなにか、日本の状況のなかでなにを指しているのか学びたい。共同体の概念の整理と日本の教会共同体の背景にあるものを探り、現実を見つめたい。

T 聖書的背景

*旧約聖書には共同体(‘EDAH)に相当することばは多い。アブラハムの子孫で、いつも血縁関係に立っている。神の与えられた土地にすむ認識で形成された民族共同体で、属さない者は異邦人(GOIM)と呼び敵とし愛の対象から除かれていた。特徴は契約共同体であり、神の選びに対しての責任を持って応答する、そこに人格的関係がみられる。他の共同体と異なり暗い共同体ではなく神に選ばれた共同体である。霊を神から戴いていて希望の共同体である。

*新約聖書には共同体に相当することばは何処にも出てこない。それなら何故共同体の必要性が叫ばれるのか。地縁血縁と関係なく、神様から呼び集められた人の集まり(ECCLESIA=ヘブQA‘AL)と見るところを新共同体の特徴としている。兄弟達(ADELPHOI)、弟子達METOKOI)

という言葉が関連して出てくる。

イエスの行動をみると地域教会のモデルを提示していないが、明らかに血縁地縁の関係の上に、その種の共同体を形成するのを望んでいなかった。これは非常に大事なことである。資料の裏側に聖書の箇所が挙げてあるので参照すること。イエス自身がご自分を取り押さえようとした親戚に対して、家族の思いに束縛されずに、ご自分の兄弟とは神のみ旨を行なう人であるとされている。イエスはユダヤ教でない民族共同体以外の地域に行って奇跡を行なっている。だからといって、イエスが血縁地縁の社会関係の大事さを否定したわけではない。イエスは自分の家族を非常に大事にした:宣教もナザレから始められた。自分の親戚を先の対象にして宣教を開始されている。しかし家族や地域の虜になるの関係に警戒している。

*も一つ新約聖書で大切の言葉は“交わり”コイノニアです。(資料参照)

これは共同体ではない。霊的な現実霊の働きを意味している。霊による交わりを保ちなさいと言われている。目に見えない霊での一致を大切にするように。コイノニアは共同体の魂といえる。我々の共同体にはコイノニアが無いかも知れない。反省してみる必要がある。

*    イエスは血縁関係の中に家族を作ろうとされなかったと思う。しかし最初の信者達はローマのイエ制度をモデルにして教会を組織しようとした歴史的事実がある。家族間の従順とかいった家の倫理を導入した。長老に対する尊敬などもそこから来ている。イエスの教えから多少の変化が見られる。この家もモデルとして利用したので血縁関係の意味の家ではない。歴史の流れの中で教会の形は変化してゆく。家の次がパロキア(寄留地)、司教座を中心に天国へ向かって歩む集団の寄留の場のイメージです。この言葉が小教区を意味するようになった。始めは大都会中心であったが、教会の発展とともに、農村地域に村落共同体を基礎のした信者の共同体が出来てくる。その後トリエント公会議の頃から教会法が力をもつようになり教会を上から指導する体制が出来上がってくる。共同体の根拠が人間関係ではなくて小教区は法的な関係で設立管理される。それが2V公会議で反省されて、地域共同体地域の人間関係に根を持ったものとする新しい神学構想に変わってきた。地域共同体とはこの意味で使われている。教会は2000年の間に変化してきたが、とっくに17−18世紀に共同体性が非常に薄くなっていった。「お勤めを果たす場所」のイメージが強まって行った。コミュニョンは聖体礼拝の意味だけに限定されたもので他の人との交わりに欠けます。

 

U 社会的背景

これはとても大切なことです。日本独特な面もありそれをもっと研究すべきだと思われる。

*    日本人の頭の中には二つのイメージがある。一つは昔の伝統的村的共同体。それはかなり美化されている。家が宗教的シンボルで統合されている。この共同体はまとまっていたイメージがある。プラスイメージは自然との共生、自分の役割を持つ、誇りを持ち、子供達はその中で守られる、収穫の時は一斉に協力し助け合う。しかし現代人からみると昔の共同体は封建的・閉鎖的・仲間意識が強い・はみ出し者の排除・依存的・自立が無い等全てが良いとは言えないけれども、これが崩壊したことにノスタルジアを抱き、失って寂しさがるものもいる。

 

* 一方、新しい考え方はコミュニティーである。共同体とは使わないでコミュニティーといっている。市民意識、上からの呼びかけ、啓蒙的、近代人の価値観と一致した、契約共同体意識、人権の尊重、リードする人は教育のある人、市民意識で参加する、さっぱりした関係がある、その様なところに魅力を感じている。その欠点は、部外者に冷たい、理知的である、愛しましょう、といった理念的なことは言われているが暖かさが欠けている。現実には日本が「日本の共同体」と捉えるのか「国際社会の市民コミュニテイ」と捉えるのか、大きな議論が行われているが、世界に開かれたものになるのかどうかは注目されている。つまり国際社会で人権擁護などの役割を持つのかである。カトリック教会は関係ないとはいえない。日本の社会的責任との関連を再度吟味する必要がある。

* 30年の日本滞在で経験したことから言うと、日本の小教区には二つの層がある。一つは安全暖かさを求める、家族的で皆が従兄弟同士のように振舞う。外からは入れない。普遍性が無い。家族的匂いが強すぎて入れない。その中で神父は父親役をしている。司祭に全てを任せている。この種の共同体を求めている人は行事に熱心である。役割分担が性別。家の教会意識が強い。もう一つはコミュニティーの意識を持ってさっぱりした人間関係を希望している。個人的自立を求めている。このような人は焼肉とか飲み会には来ない。知的な集まりには来て良く発言する、規約を守る。人権問題にも敏感である。

 

日本の教会内部への課題:

内部で皆がおなじ心を持っていない現実を認めること。二つの層が小教区に存在していることを認めること。どちらにもキリストがどちらにも居られる。互いうけいれあうこと。コイノニアの原点に戻る。交わりの原点に戻り、司祭にも聖霊の働きがある、批判ばかりしては駄目。聖書を聞く、パンを裂く、不完全であってもイエスの教えた愛を実践しようとする兄弟であると言う確信が大切である。一番気をつけたいことは、嫌いな人に対しても誰にでも挨拶をして交わり、公平に付き合うこと。

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