第八回「宣教の歴史−3」
12月7日
課題:世界大戦後の教会の歩み
今日の歴史は我々が体験してきた時代であって話し難い。歴史家ではないのでまとめた教会史の紹介はしない。自分が体験してきた日本滞在1961年から現在まで40年間に感じたことで、見方が偏っているかも知れない、偏見もあるかもしれない、ともかく限界があって自由な立場からの発題ではないので、100%正しいとは断言できない。問題は皆さんが「自分で体験してきた歴史からなにを学ぶか」です。歴史を話すときには評価が入り込みますが、今日の資料の評価に関するところは個人的判断ではなく4年前に司教団の集まりで行なわれたものです。この評価は将来に向けてのものであり単に批判するためではない事を承知しておいてほしい。1984年の司教団へのアンケートも資料に含めてあります。従って、今日は皆が体験した歴史ですから考えるヒントだけにします。レジメで一通り60年の歴史の流れを辿ります。
戦後の20年、1945−64、貧しさ、戦後の厳しい状況で落ち込みがあった時代ですが、福音宣教にはキリスト教全体として希望があり力があった。キリスト教の愛、思いやりとか、暖かさに感動した人も多かった。カトリックもプロテスタントも当時、日本の教会には巨額な投資が、金銭的にも人材的にも、行なわれた。イエズス会のアルぺ師は欧米を歩いて日本は回心の時代を迎えているといって回ったはど日本への宣教イメージが楽観的であった時代です。この巨額の投資が成功した例もたくさんある。大学を含めた教育事業には成功例が多い。しかし振り返ってみると日本人の文化の複雑性、日本人の心の複雑性に十分配慮していなかった点もあり、対応に深みが欠けたきらいもある。
大きな変化は60年代に起きている。2V公会議があったことは既に学びあってきたので省略します。数日前に出された神学ダイジェスト91号に「事件としての第二バチカン公会議」(VATICANN U as an event)と言う記事が載っています。事件はeventの訳でが、社会的に大きな影響のある出来事を意味しており日本語のイベントと少し違います。2V公会議は当時世界教会のイベントであり、世界の司教たちに大きな反響を呼び起こしたが、日本ではイベントにならなかった。それは日本の教会の歴史を考えるときの一つのポイントだと思います。社会にも問題となることなく、教会からの説明も殆どなかったといえる。日本では十数年後にイベントが始まった。以前の教育を受けた人が何処までその新しさが理解できたか疑問であるし宣教師にとっても同じであった。オリンピック後日本の経済成長が始まる。68年には学生運動が世界的に起こってくる。文化、社会、教会にも大きな影響をあたえて危機感が広がった。「しらける」と言う言葉が流行した。言葉自体の「しらけ」、システムの「しらけ」、教育、政治、教会、等すべてが疑問視された影響は誠に大きかった。教会では宣教師が問われた時代でもあった。この事件は教会にも大きな影響を与え、世界各地で司祭や修道者の召命が急激に減少し、アメリカ、カナダでは40%、アジアでは15%減少した。日本では40%であった。経済の進歩による意識の変化があったと思われる。若者が教会から離れていった。各大学のカト研も潰れて二度と立ち上がらなかった。教会は内向きになった。70−90年代にはセミナーや研究会や勉強会が多く開催された。典礼の変化も説得力が無かった。外面的変化だけで心が伴わなかった。
80年代に入ってから2Vの影響が日本でも見え始める。1984年に司教は基本方針、優先課題を出す。1986年アジア司教会議が東京で開催された。それまで日本の司教はアジアの関係に積極的ではなかったが、このときからアジアとの関係が始まった。1986−87年ナイスに信徒が関わり始めた。これによって日本に2Vが入ったと考えている。しかしそこからも「元気」を見えることは出来なかった。1975年ごろから外国人が日本にきはじめる。
90年代に入り、司教と修道会は日本の宣教の徹底的見直しが必要との意識が高まり始める。そのときの合同集会の要約が8項目にまめられている(資料4−5頁参照)。この内容は個人的評価や判断でまとめではありません。合同集会の総意です。
歴史的ハンディキャップもあって日本の教会は他のアジアの国々と比較して組織や施設が多く重い。才能のある信者や司祭が組織に飲み込まれてしまう。アイディアがあり創造的仕事が出来そうな人が出てくるとどこかの組織に飲み込まれてしまう。「長」にはそれなりの役割はるが、創造的な仕事は出来ない。若く思想が完成する前に組織に取り込まれて活動の場から消えてしまう。歴史的に隠されてしまっているハンディーもある、伝統的考え方、先人達の判断、霊的な問題などもかくれているすでしょう。どのような自己イメージで教会は生きているのか。福音宣教に際して何を優先させてきたのか、教会を考えたのか人を考えたのか。
ポイント
@
他宗教の問題
否定的な立場が変化し、他宗教における神の働き救いを認めるまでに変化がおきた。他宗教との対話からなにを学ぶか。
A
預言者の使命
迫害から生まれてきた教会はシャイであった。危なくって自分を出せないそして自信が無い。社会の苦しみへの共感の薄さがある。静かな善業に留まるだけで共感憐れみに広がりが欠けていた。現代の子どもを誰が守るのか。教育の問題も預言者的立場から見直しが必要である。預言者は「長」にはならない。自由で場合によって「長」とぶつかる。この種の緊張関係に創造性があることを思い起こすことは大切でしょう。
B
信仰と文化
初めはadaptationを考えていたがもっと深いところまで入る必要がある。祈り礼拝や神学が日本的になっているかどうか。もっと深く人の心に入る必要がある。
C
日本における教会の構築
日本の教会はアジアの他の教会と比較してバランスが取れていない。修道者が組織面や人材面で強すぎる。教区が弱い。修道会はビジョンが無い。自己組織の為に努力している。地域教会が弱い。
D
信徒と聖職者
聖職者主義的傾向は世界に見られうにしても日本の場合は強すぎる。司祭が大切にされ過ぎている。声も大きすぎる。力を持ちすぎている。信徒の教会と言われていても実際はそうなっていない。信徒が教会を担う信徒がすべてのレベルに参加して責任を持つとアジアの司教団の中で云われているが、云っているだけで現実が伴わない。
E
神学と生活
神学に霊性が欠けている。頭が中心になっている。信仰が生かされる言葉が無い。心から来る神学が無い。
F
良い人の教会
日本韓国台湾に共通している問題だが、明治以降に入ってきたキリスト教信仰はプロテスタントでもピューリタン、カトリックはヤンセニズムであり不完全な教会の姿が伝わらなかった。完全主義から解放されて憐れみの共同体でなくてはいけない。
G
日本の福音宣教
日本に適した福音宣教があるはずである。福音化は教会自体もその途上にある。教会が福音化されつつ福音を伝える。歴史的背景、隠れた問題、文化的側面、聖職者の教会、深さがかける教会、霊性の問題、福音のあり方、問題の取り扱い方が不徹底でコミットするところまでやらないで言葉だけで終わってしまう、司牧的な面でのプログラムの不足、行動が遅い、言葉と祈りだけ、行動実践が遅い、などなど考える必要があるでしょう。
1.
発表の中でピントきたことを幾つかあげておきます。グループに共通する問題は、日本の教会では信徒と司祭がうまく行っていないことが伺えることです。確かに召命と言うと司祭か修道者になってしまっている。社会を人間的にする、平和の問題に取り組む、心の癒しは誰がするのか、その辺から召命の問題は考えなくてはならない。信徒の生き方を100%認め評価しない限り、信徒と司祭の関係は健全にはなれない。さもないと人間として可笑しくなる。どの宗教にでもいえることですが、「代替(substitution)」の誘惑である。愛する代わりにミサに行く、他人を許す代わりに告白に行く、秘跡もそうなり得る、本物の代わりに宗教的な事柄に置き換えてしまう誘惑である。中心が何処にあるのかはっきりさせてから、聖職者の関係も考えなくてはいけない。最も根本的なところから考えることが必要です。このテーマについては1月12日(地域共同体第三回ニコラス師担当)の時引き続き考えたいと思います。
2.
霊性の問題が次に取上げられていたと思います。深さが不足している。教会からエネルギーをえる。心を生かす場が大切である。40年間日本での教会で歴史を体験した者として感じるのは、日本の教会には「生きる」という点が不足していることです。公教要理はあまりに観念的であり、生活の中で要理を使いすぎる。“神のことば”ダバール(単数形の“ことば”)が生きるところに信仰がある。司祭も信徒も、ダバールに活かされて、自信を持って活き活きとしている人が少ない。活き活きとしている姿を他者が見てその価値観に気がつくような生き方です。典礼も言葉が多すぎて消化不良になる。日本は沈黙の文化と言われているのに、典礼は言葉だらけ。頭も心も疲れる。何処で落ち着けるか、何処でこころがエネルギーに満たされるのか考えてみる必要がある。言葉がいっぱい頭に詰まっている聖職者には無理です。本当の信仰は心と体です。心と体で信仰を活きている信徒の声が届かなければならない。声をあげる事が大切です。福音は活きる事を求めている。