第六回「宣教の歴史―1」
11月17日
課題:「切支丹時代の教会の宣教方針と問題点」
16,7世紀のキリシタン史を学ぶ際に、教会の中で信仰者の立場から学問研究の前に、考えておかなくてはならない点があります。資料には6つ挙げておいた。
1.
聖と俗
キリシタン時代を見るとき、二つの傾向が見られる。一つは殉教者や聖人を讃える立場だけから見る。他方、キリシタン時代の宣教者を植民地政策の下にだけ捉える立場の人がいます。これら二つの見方は全く異なっている。われわれはどちらか一方に組することは出来ない。スタンスの問題を考えなくてはならない。後者の中には慶応大学の高瀬弘一郎氏がおられ、其の立場から「キリシタン時代」と言う本を書かれています。高瀬師の研究は全て貿易関連資料を用いています。正確に訳して論じている素晴らしい本ではあっても、それだけでは十分に宣教者を理解できない。しかし教会側の文章も宣教師達をあまりに美化しすぎている。それを高瀬師は学問的に客観化する努力をされてはいますが、問題も残されています。ザビエルの発言の解釈も信仰的理解がないと全く逆になってしまう事実が学問的にも指摘できます。(「戦国時代のキリシタン―」p2)キリシタン時代を見るときどちらに偏りすぎても真実に近づけない。
2.
キリシタン禁教・迫害の原因論(「福音宣教」5月号)
豊臣秀吉が1587に宣教師の追放令を発布した。このときの原因論を見てみたい。なにが一番秀吉を怒らせたのか。教会側の態度対応が当時の為政者に対し非常に悪い影響を与えている事実がある。当時の政治情勢から判断して全く不適当であったと考えられる。それは1580年の長崎における教会領所有である。1570年代当時石山戦争があり、武装した一向宗徒と信長は熾烈な戦いを展開していた状況があり2万人以上の首がはねられたと言われる、政治権力化した宗教と政治権力の争いであった。其の様な状況の中にあったポルトガルを背後に持つキリスト教が領土を領有することが権力者にとっていかなることを意味するのかを当時のイエズス会の指導者バリニアーノたちは理解できなかったのである。長崎における教会領の所有を教会は喜んでいる報告書が本国に送られている。しかし、契約書類の訳文はあるが日本語の本文は存在していない。
3.
キリシタンと他宗教の関係
キリシタンに改宗した人々はそれまでは他の宗教の信者であった。それらの人々はどのような過去を持っていた人たちかは書かれていない。キリスト者の対外的メンタリティーを検証してみると、18世紀の彫像にはカルバンを卑しめてものや、他国の王たちや他宗教の仏釈迦を卑しめるものが現存している。信徒が自分達の過去の宗教を捨てたことを証する意味で、寺院や聖なるものを破壊した事実がある。宣教師も加担している例もある。過去の教会が他宗教に対してどのような振舞いをしてきたのか事実を見なければいけない。他の国での宣教でも同様な事件が起きていた。8世紀ごろのベネディクト会士たちが宣教地で神殿を破壊していてそれを当時の教皇が止めている文書が存在している。16・7世紀にも同じ誤りを犯している。
4.
キリスト者となった日本人の考察
1593年には212,000人の信徒がいた。1587年の禁教令の後も信者は増えている。秀吉はそれほど本気になって迫害を始めたのではない証拠である。当時は43人の司祭しかいなかった。6000人に一人の割合でありそれに地域も広大200箇所ぐらいに教会が存在していた。修道会司祭を含めて現在は200人に一人の司祭がいる。16世紀の信徒は逞しかった。司祭がいなくてもやっていける組織が存在していた。司祭無しでもやって行けるヨーロッパ生まれの日本化された組織があったのです。
5.
宣教の対象と方法
権力者の命令により大量改宗させたという主張がなされているが本当か。YESでありNOである。1570年に大村領で2万人以上の改宗が一度になされた事実がある。しかし、初期の1570年代までの宣教師が対象とした人々は病人と貧しい人々であった。身分の中に入らない貧民やハンセンシ病の人たちであった。1550年に三つの病院を建てているが其の一つは重い皮膚病専門病院であった。また当時最も穢れて忌み嫌われていた死者の埋葬を専業とする“ひじり”がしていた死者の埋葬をキリスト者はしていたのである。ライ病患者はこのような人々に預けられたのである。13世紀以来のフランシスコの思想もあり、教会にはミゼルコルディアの業(慈悲の業)として、病人を見舞い看護する愛徳の伝統があったのである。
キリスト教は貧者と病人の宗教と言われていた所以である。日本のタブーに触れている宣教師たちがどのようにして日本で受け入れられていったか良く見なければいけない。クリスチアニタスchristianitasと言う16世紀の愛徳の実践、其の行為をする人がキリスト者であり教会はそのような人たちで成り立っていると言う考えがあったのです。
6.
教義史として考える
これまでのキリシタン史は殆ど言語学的な研究であった。教義史的研究が殆ど無かった。信仰の側面からの議論に乏しい。「コンチリサンノリヤク」という書物が発見されている。司祭がいないときの許しに関する書き物である。許しの秘跡の構成はコントリション(痛悔)、コォンフェシオ(告白)、サティスファクチオ(償い)、コンスルチオ(許し)ですが、告白する司祭がいないときには、秘跡を受けなくても、いずれ「告白」するとの覚悟を持って真の「痛悔」をする者は、どんな大罪でも許されるというのである。この「コンチリサン」が、迫害が迫り司祭のいなくなった信徒にどれほどの力があったことか。迫害が強まり司祭がいなくなる状況に際して宣教師達は残された信徒の為に本国に問い合わせを1592年に行ない1598年に回答を得た上で1600年にこの文書が作成されているのである。現在までヨーロッパにも原本は発見されていないので日本独自のものであると考えている。教義史を知らないとこの意味の重要性は理解できないのである。教義史を知らないと当時の人々の悩みとか「コンチリサン」の意味がわかってこない。
発題の材料が多かったので話し合う時焦点が定まらないで纏まり難かったと思います。時間的に質問に全部答えられないので幾つか取上げてみます。影が良くかけないとよい絵はかけない。信徒の自立性に関しては残念ながら日本の教会では神父でなければ話を聴こうとしない傾向を体験的に感じています。聖体奉仕者から聖体を受けない人もいる。聖職者主義と言われるけれども我々はキリシタン時代のあり方から学ぶべきものがあると思います。当時は共同体の長老、つまり看坊または毛坊主と言われる人が共同体の中心になっていた。浄土真宗で使われていた名称である。地域共同体が日本の社会にも当時は存在していた。現在の東京のような都会でこのような共同体を持てといっても殆ど無理でしょう。月曜から土曜までみなバラバラなことをしている日曜日だけ来ても何で信徒会長は威張っているのと言うことになる。それじゃ神父を立てておこうかと言うことになる。そのような状況下では大変難しい。現在は地域社会の共同体の形成は難しい。16世紀のキリシタンの共同体は社会の共同体でした。現在の教会では、信仰の話し合いをしないでバザーみたいな行事をしている。それでは共同体にはならない。一緒に祈らない、何で教会にきたのかも話し合わない。それで行事中心になっています。共同体は先ず祈らなければ駄目です。その次に行事です。地域共同体の前に信仰共同体です。其の努力をしなければだめです。「祈り」そして「宣教師」になることです。私と神様との関係が確りしていなくては始まらない。それから外向きのことができるのです。16世紀の時も先ずいのりの共同体から始めている。説教の内容をみなで話し合う。それから埋葬とか活動に移る。共同体の自発性は祈りから始まるのです。
他宗教に対する考え方に注意する必要がある。あらゆる宗教は其の中に入るのを救われるとし、入らないのは救われないとするのが普通です。これは避けたい、「教会の外には救いは無い」(キプリアヌス)これは異教徒のことを言ってはいない、教会を離れた人に対していっているだけです。それが段々に16世紀頃に異教徒を指すようになってきてしまった。ギリシャ教父の時代には教会のうち外の考え方はなかった。教会の中に救いがあることは確信してよいが、彼らのことを何も知らないのだから、他の宗教については何も言う資格はない。自分達の素晴らしさを見せることは出来ても、他宗教が誤っているとは決して言えない。
「コンチリサン」は隠れキリシタンの精神的支柱であったと考えられる。素晴らしいものである。「コンチリサン」をもっていたキリシタンはその後教会に戻ってきたがこれを持たない集団は戻れなかった。離れキリシタンになってしまった。心からの痛悔でどのような罪でも大罪でも許される但し、司祭が来た時に告白すると言う覚悟が条件付けられていた。だから戻ってきた。マリア崇拝、独身、教皇の下にあるのが司祭のしるしとして伝えられていた。「コンチリサン」があったから転んでも信仰に戻ることが出来た。コントリシオン神の愛からの完全な痛悔、アトリシオンattritio地獄の恐れからの不完全な痛悔の両方ともカトリック教会は許しの条件として認めている。
イエズス会はポルトガル系のは人たちであった。東回りでインド中国と言った文明圏への宣教に向かった。イスラム教徒がいたのでいつも敵のことを考えながら作戦を立てながらやってきた。一方スペイン系の人たちは西回りで来た。割合簡単に征服できる人たちしか居なかった。日本に始めていた宣教師は東回りできちんとした青写真を書いてから計画的に事を進めてきた人たちであった。ところが、50年後に日本に来た西回りの宣教師はフイリッピン経由で殉教しに来たのです。十字架によって信仰を示すという考えの人たちが来た。ですから両者が喧嘩することになるのは当然でした。そして26聖人の殉教が起こった。イエズス会の作った像ではみなイエズス会の服装をしている。イエズス会は3人だけでした。フランシスコ会の文書には23本の十字架しか書かれていない。これは宣教のメンタリティーの問題でしょう。どちらが正しいとはいえない。参考資料を読めば概略は分かります。現在書いている本が一年後くらい後に出版されますがそれを是非読んでみて下さい。より詳しく書かれています。
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