第五回「教会共同体ー4」

11月10日 

課題:「日本のこころみ」

 

1.         

* テーマに関連した自己紹介から始められた。松田師はコンベンツアール修道会に属する司祭である。鹿児島教区の奄美大島には32の巡回教会がある。そのうちの7つを受け持っていた。かつては小教区であった。ミサも告白も教会学校も聖書の学びも信仰養成も何もかも一人でやってきた。それは一方的に供給するような感じでした。たくさん受ける信者のいる教会は良い教会、少ないのはだめな教会、良く神父の世話を受けるのは従順な良い信者、受けない信者は良くないといった、典型的な地域でした。そこで17年間仕事をしました。

* その体験から感じることは、司祭は何でもしてあげる、何でも提供する立場にあり、信者はそれらを受け取る側にいる。良い司祭とは多く提供するものであり、良い信者とは多く受ける者、受けないのは悪い信者、といった関係が成立してしまっている。この間「おかしいと思ったことを」メモしてきた。それは今でも役立っている。

* その後名古屋の研修センターで6年働いた。オリエンテーションもなしに行ったので、 Asia Integral Pastoral Approachで研修を3回受けた。これは1990年FABC総会で決定された総合的プログラムです。このコースは、秘蹟から、予算編成、共同体について、祈り、個人の霊的読書にいたるまで含まれている。霊的成長には時間がかかります数年間必要です。この研修は年4回で同じメンバー約40名で4年目に入り今も続いています。

* 教会は変わってどこからどこにゆくのか。“教会とは何か”、シェガレ師の資料に書かれている内容を確り捉えこの資料を大切にしてほしい。

* 小教区といったグループはどのように変わればよいのか、どこから始めるのかをこの点を明確にしないと、いつまでも知識だけに終わってしまう。これまでのレジメにも非常に興味深いものがあるが時間的な制約があるので、前回に山田師が指摘された「見る、判断する、実行する」を今回も取上げて考えたい。

* 「気づきを起こすプロセス」

      「見る」といっても何を見るのか。「判断する」誰がするのか。グループで判断する場合非常に  よい判断でも回避されることが起こる。それをどのように乗り越えてゆくのか。実行したいことが多い時にどのように選択するのか。非常に具体的問題を扱うアジパプログラムの研修には時間がかかります。

* 教会の研修をしたからといて一挙に変わることはない。霊的なレベルで士気が高まらないと変わらない。教会の状況によって差があり、小教区にはそれぞれ具体的な問題があり、改革も同じようには進まない。早いのが良いとか遅いのが悪いとかの意味ではない。「見る」というときには現場を見なければならない。

* どのような雰囲気の中で見るかといえば祈りの中で、聖書に基づいて見る。それは知識ではなく私たちが体験していることを見ることです。変わろうとするとき、知識や学問から入るのではなく、現実問題から入ります。自分の体験から変わるのです。

* 2V公会議の示す教会に変わってゆけばよいが変わらない。教会によって異なっている、変革のスターテイングポイントはみな同じではない。普遍的でどこの教会にも適用できるスターテイングポイントはない。個々の教会の問題であると考えられる。現実を見てゆく方法と判断して行く方法についてお話します。これは「問題発見法」、「コミュニケイションのやり方」等の方法論については世間にいっぱい本が書かれています。専門家は信徒の中にいる。信徒のタレントがあるのに神父に聞くのが現状です。

* 行動させる原動力は何か。教会で何も変化が始まらないのは、原動力が無いからかも知れない。確信がもてないからです。我々が行動を起こす時には、現場を十分に見ることを大切にし、判断し、一つに絞って行くことです。これが問題発見方法です。行動を起こして、其の行動を起こさせる確信を共有すること。そしてその行動を自己評価するプロセスに持ってゆく事が大切です。

* 資料12頁「洗礼によってキリストに結ばれて」は、V2公会議でのべられた「教会とは何かを」どうにかまとめたものです。教会とは洗礼を受けたもの全の者である。聖職者だけが教会ではない。我々の教会の中にはあちこちで、聖職者だけが教会でその他は準会員であるような面が見られる。この事実を見なければいけない。判断して、実行するためです。実行はおそらく愛の実行です。言葉だけでも駄目で、きちんとプロセスに従って見て行くと気付きが起こってきます。「気付きのプログラム」はわたしが手放すことが出来ないものです。アプローチの一つの方法として大切にしているのです。小教区の中でも、何年かにわたってこのプログラムを実践していけば気付いてゆけると思います。

* 図の見方は、真ん中がテーマです。直ぐ下に進み“の”の字の方向に進んで行きます。これは二年ぐらいかけて学ぶものです。公会議の関連した文書などもこれに沿って読んで行きます。皆さんもじっくり取り組んでみてください。

* 現在我々は教会のある状況からある状況に変わりたいと望んでいる。先回第二回目のとき話したことですが、現在ある状況とは、受動的教会であり、そこから能動的な教会に移ろうとしていると言うことです。制度的なものからもっと神秘体としての教会に変わろうとしている。組織と言うものから共同体へ、キリストの体へ、交わりへと変わろうとしている。

* 聖書をベースに置いて兄弟的教会に変わろうとしている。この焦点をずらしてはいけない。どのような奉仕をどのようなリーダーシップを使って行なうのかが問題です。そのためには多くの場が設けられている。小教区、教区、国、国際的な様々なレベルがある。我々が学ぼうとしているのは知識だけではなく霊性である。何が教会に大切なのか、価値あるものはなにか、どのような姿勢態度をとるべきなのか、どのようなスキルが必要なのか、そしてどのような知識が必要なのか、考えなくてはいけない。

* この表の「なにを学ぶのか」の4つの側面が考えられるが。小教区では3番目が普通のようです。個別の行為を依頼することになる。――さん、++そして、―――は***をして。バラバラである。例えば、聖書朗読にしても、定期的に学習することは無い。御言葉の奉仕を通して教会共同体の価値観、奉仕への態度姿勢、新しい気付きの分かち合い、そしてスキルをさらに磨き、知識も深められて行くことが必要です。

* 霊的生活で一番大切なのは、教会に奉仕する動機である。何故奉仕するのか。してあげるのではない。教会の求める奉仕とは何か考えなくてはいけない。それに奉仕者が拒否された時の態度を如何するのか。ワンマンリーダーではだめでチームリーダーでなければ駄目。基礎にはいつも祈りがある。誰かと共に生きてゆく。信仰がキリストの人格に強く結ばれていないと奉仕はやっていけない。

* ある教区ですが、16ある小教区がある。5−6人集まって年に4−5回の研修を4−5年続けているところがあります。センター研修の下に小教区に研修の場が設けられている。現場研修にしてもセンター研修にしても、具体的なガイドブックがないと出来ない。それは教科書ではない。其の集団に適応したものでないといけない。田舎の教会と、都会の教会は違う。意識も痛みも違っている。見なければならないのは属する小教区にどのような痛みがあるのか。

* いまの小教区教会のあり方を図式的に具体的に表現すると。神父は何でも供給する、それが良い神父とされる。供給過剰、燃え尽き症候群に陥る。一方に受けるだけのメンタリティーがある。奉仕職は命令的、権威的、指示的で、信徒は助手が精一杯で使用人。このような関係から共同体に変わることです。イエス様は一つの責任をみなに与えたのです。平等性が大切である。しかし奉仕職の内容の差を否定するものではない。責任には差があるが平等である。

 

* 簡単な試み:

大人は学ぶ時子どもと異なっている側面がある。「大人」の学びをしてみる。其の中で気付きがあるならそれをまとめること。大人の学ぶ時の特徴を最低八つぐらい、プラス面マイナス面あるいは両方でも良いからあげてみて、それを話し合っている内に気付いたことをまとめてみる。

 

変わろうとしている教会でのリーダーシップはどのように変わったらよいのかをそこから始めます。イエス様はなんと言っているか、パアウロは如何言っているか、初代教会は如何であったか、学びは後からです。

 

「見る判断する実行する」は回心を求めている。神秘体である共同体を現す教会に変わって行くには、回心が必要です。講義や知識の量では回心は起こらない。兄弟姉妹の関係に変わらないといけない。ボスと奴隷の召し出しは与えられていない。先生と生徒の関係も召し出しとして与えられていない。主人と僕の関係も無い。われわれはみな兄弟姉妹であるという召し出ししかない。イエスが私自身だとまでおっしゃったこの共同体である。兄弟姉妹の関係がないというのであれば反省しなければならない。理想をどこまでも掲げこれにチャレンジすること。現実が困難であるからといって、理想を下げてはいけない。これらのことは皆さんが既に知っていることです。

 

2.「気付きのプロセス」の試み

「大人」について様々な80−100近い内容の指摘がなされたが、その内容が直接使用されたわけではないので、それらを列挙してもあまり意味がないと思われるので省略する

 

3.補足

 メンバーを変えると内容は変わり、人数を変えるとまた内容が変わる。全てを出し尽くすまですると自分が出てくる。結局は自分のことを話したことになる。弱さが本当に見えるなら同じ行動者として助けあうはずである。これはわたしの信仰である。欠点から補助性が生まれてくる。分かち合うとは見方の違いがわかることである。

 

みな違う、歴史が違う、良い悪いの問題ではなく、認め合うことである。互いを認め合う分かち合いの場を作ることが大切である。これは回心です。テクニックではない。スキルではない。後先のことを考えたりするのは傷つきたくないからである。これから解放されること無くして変わることは出来ない。司祭達の“仕切り的”あり方からどのように開放されるのか。単に反省するだけでは変われない。過剰な供給性過剰な受動性からどこで解放されるのか。結局大切なのは分かち合い。お互いが学び合い支え合う関係に変わらなくてはいけない。過剰提供者が少なくなり過剰受給者が増えると何も出来なくなる。両方が一緒に問題をみることです。一緒に判断することですことです。キリストの奉仕者は一人に与えられたテーマではない。

 

トレーニングを定期的にする必要がある。小教区の信仰講座にも自分の本当の物が見つかるまでユックリユックリやるしかない。リーダーは特別な人になるわけではない。信徒の奉仕職、司祭の奉仕職を互いに危ういものには出来ない。これは現実に行なわれていることです。信徒が出来ることを司祭がわざわざしている。供給者を増やしても仕方が無い。教会に関われば関わるほど疲労感と傷を受ける。しばらく休もうと言うことになる。教会に関わって何故成長できないのか。キリストにおいて知り合って行く。

 

皆さんがどのような奉仕者になるのが良いのか殆ど分からない。しかし、それらの奉仕者たちが教会のあり方や信仰に影響を与えるのだから霊性や祈りや訓練が必要である。定住を前提とするリーダーのあり方と、転勤する司祭とはリーダーのあり方が違う。司祭は外部リーダーという。交代の仕方も異なっている。リーダーは長すぎると良いものも固まってしまうので協力も薄れてくる。段々と「してあげる」が多くなって行く。そして“仕切り屋”的リーダーになって行く。奉仕者はそれでは駄目である。リーダーは変わらないと駄目である。階級を作り出すリーダーシップも駄目である。このメンタリティーからの脱却は難しいかも知れない。

 

キリストを中心にする根をもっていないと駄目である。教会に貢献するのはそれほど容易ではない。聖霊の賜物があろうとも簡単ではない。与えられた賜物に気付いているかどうか。それに感謝しているかどうか。其の賜物が第三者からブロックされているとき、それをどのように乗り越えるか。皆さんの賜物は主からの賜物でありユニークなもの、それに目覚めることが大切である。共同体が豊かになるためにそれを捧げる。タレントを捧げることは非常に難しい。

 

ここに集まった方々は互いによく知り合って欲しいと思います。なんでもないことを続けて行くこと。共同体にならないと伝わらないものがある。教会は組織から共同体に変わろうとしている。命の交わり、対話する教会に変わること。体験しながら学んでゆく。共同体の中で体験する勇気で事柄を変えて行く。考え方を変えて行く。頑固なのは自信があるからである。他者の自信を受け入れない。祈らないといけない。違う確信をもっている人が理解できるように、見えるように、光が与えられるように、祈りが必要である。違うからバラバラなのではない。

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