学び合い第三回「教会共同体―2」
10月20日
課題:「教会の自己認識」
前回の補足として、公会議が主張した教会のアイデンティティーについてもう少し詳しく話したい。
* 教会は時代と共に歩む、完成に向かってゆく神の民。一つの定義、一つのモデルの枠の中に閉じこめ得ない。教会はいつも新たな理解やビジョン作りが必要である。できあがった定義がない生き物である、常に理解を新たにする必要がある。
* 理解の原点は聖書の福音的譬えである。三つあると思う。脱構築の現代思想に近い。ブドウの木:見えない中心とつながる枝。聖地で見るブドウの木は格好が悪い自由にのびている。当時レバノン杉は一番格好がよかったがイエスはそれを譬えには使わなかった。羊の群れ:牧舎の声によってまとめられる。固い組織的ではない。豊かな牧場に導かれてゆく内に他の羊も加わり地球規模の一致を目指してゆく。小船と網: 沖に行って、大波に直面しながら、網を下ろす、網(ネット)柔軟性がある。網の広がり。
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教会には三つの基本的側面、「神秘体」「共同体」「運動体」がある。
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A−「神秘」体の基本は「教会は神との親密な交わりの秘跡である」(教会憲章)と言える。父に呼びかけられて、集められ、キリストの命にあずかり、聖霊に導かれて見えない力で動かされている。見えない中心、神の現存が大事である。教会は啓示の場である。見えないものが見えるようになる。現在の教会はそのような役割を果たしているのかどうか。日本教会の反省点としては、教会のなかで神秘を感じないと言われているのは何故か反省が必要である。「神秘」よりも「機能」の優先、管理、運営、設備、計画を重んじがちであることに起因する。形式主義への傾向もある。神に心を向けるという姿勢よりも形が優先している。展望と課題としては、感性とカリスマの解放、典礼の刷新による活性化、日本文化の可能性を探る、諸宗教から学ぶことなどが大切だろう。聖霊カリスマを重視しないといけない。理屈や理論だけではだめである。
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B「共同体」(第三シリーズで別途学ぶので詳細は省く)という言葉は新約聖書には見られない。代わりに「交わり」(コイノニヤ)と言う言葉が出てくる。「交わり」(コイノニヤ)は兄弟愛の実践であり、特にゆるしあいです。地位のない人の視点にたつ共同体のありかた。他者を受け入れ、互いの受け入れあい、持ち物の分け合い等で実践される。それは初代教会で大切にされていた。抽象的な共同体ではなく具体的もので地域性を持っている。ある地に根ざした共同体で、地域の人々が身近に感じられる。この共同体は普遍性を持ち全世界の共同体とつながっている。多様性の中の普遍性をたもっている。この点も公会議が強調したところです。一致はプロセスが大切になる。この共同体の真ん中に教導職の必要性を重視している。神の民はその意味では民主主義ではない。つまり、イエスが定めた教皇と司教団の指導の下に集められ指導を受け入れることで成り立ちます。しかし、教導職を受け入れることは単に従順に従うと言うことではない。共同性から見ると、みなが参加し、役割を分担し、カリスマの分け合い、聖霊に導かれ、完成を目指していく。完成までに様々な立場が当然ありその間に緊張関係もある。現実にある教会は理想から遠い。終末に向かってゆく。日本教会の反省点は「教える」(「教」会)に重点が置かれてい点である。それだと表面だけのつながりになりがちである。皆がやさしい、親睦が優先し、議論がない、二つの違った意識の衝突をさける村的共同体になっている。近代市民社会意識が欠如し、組織所属意識が強く自分の所属する小教区は教会の全てであるかのようで、普遍性が出てこない。展望と課題としては、ビジョンの共有のため話し合いの場を増やす必要性、新しい発想の取り入れることである。地域教会の交流を推進し、シノドス制度(共歩制)の実施、信徒や司祭に支えられた司教達の共同責任制(コレジアリテイ)の実現は求められている。日本の司教団が一つになって世界に向けて発言できない状態がある。
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C「運動」体は、「教会は福音を伝え、神の望むような愛と義と平和の種を蒔き、世の中を変えていく使命が与えられ、そこに派遣されている」ことの自覚が基本である。教会はムーヴメントであることの自覚が必要である。初代教会にはイエスの新しい運動に参加している実感があっただろう。方向性は内部へ向けてと外部に向けての二つある。内部に向けての運動は刷新運動等であり、例えば、新共同体、基礎共同体、NICE等である。「学び合い」もこれに属するでしょう。外部にくけての運動には、貧しい人々の側に立ち、あらゆる不正、破壊、差別を弾劾、社会のあり方を問い直す運動等があり、例えば、2000年の債務帳消し国際キャンペンーがそうである。地域的奉仕活動の必要性、因っている人々を助け、小さい人の権利を保覆するようないわゆるボランティア運動への参加、平和と相互理解を目指すあらゆる対話運動等が入ります。日本教会の反省点としては、歴史の視点から見ると、明治時代にはパリミッション会の宣教師は各地を巡りムーヴメントとがあった。しかし、再出発した日本の教会がいつの問にか制度が固まり、教会は仲良しグループになったのではないかと思われる。信仰は心だけの問題になってしまっている。運動は趣味のようなもので特殊な人がやるという思い込みがあるように考えているのではないか。 展望と課題としては、信徒の養成と自立、教会にある既存使徒的運動の刷新、今の時代にあった新しい活動団体の設置が考えられる。
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最後に、以上三つの側面は三つの柱でもある、一つが欠けると教会はキリストの教会ではなくなり、別のものになってしまう。すなわち、「教会は祈りと信心の場だけではない」、「教会は仲良しグループやクラブのような集まりだけではない」、「教会は市民運動のようなものだけではない」、と言うことである。教会は霊性だけではない。教会は共同体だけではない。教会は運動だけではない。資料の裏面に教会のイメージがかかれているので参照にされたい。
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