二年度第三回「信徒の召命―歴史的背景―1」
5月24日
課題:「歴史を振り返りながら、どのような歴史的背景のもとで、聖職者中心主義の流れがうまれたかを確認し、何故、第二バチカン公会議が、信徒の召命とその役割を強調するようになったかを、学び合います」
発題T
歴史的流れの中で、どのようにして司祭中心主義になってきたのか、そして信徒の召命は何処にあるのかを学びます。先週のニコラス師の話では司祭がキーワードであった。「信徒の司祭職」について説明されたと思いますが、教会の過去の歴史を振り返って、聖職者中心主義がどのようにして刷り込まれてしまったのか、そのような教会のイメージ、教会理解、に縛られているその原因が何処にあるのかを解きほぐしましょう。
新約聖書の教会定義
司祭のとらえかたも信徒のとらえかたも、教会のイメージに原因がある。新約聖書の教会の定義はどうなっているのか一寸確認しておきたい。パウロがそのつもりで定義をしたわけではないが、Tコリント1章2節に書かれている所によると、「――教会、即ち、いたるところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めている全ての人と共に、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々――」。ここでは教会は役割として捉えられてはいない。キリストとの出会いが人生を変えてしまった人達、キリストこそ主であって自分たちの人生を引っ張っていって下さると考えている人達の集まりが教会であるとパウロは考えていた。人生の中でのイエスとの出会いはさまざまである。聖書を見ても、マグダラのマリア、徴税人マタイ、姦通の女性など様々である。人生にこそイエスとの出会いがある。
キリスト教の本質である十字架や復活に於いても女性が重要な役割を果たしている。女性は人生で逃げ場が無い。男は逃げ場が残っていた、だから男達は十字架の本当のことが分からなかったのかも知れない。イエスと共に居た女性にとってはイエスの死は人生の唯一の支えがなくなることであった。それらの女性たちは墓守でもして人生を生きようとしていたから復活の証人になれたのだろう。男達が逃げ出したのはまだ自分の何かを守ろうとしていたからだろう。キリスト教の本質である「いのち」と「恵み」の体験は女性がしたのである。司祭でも男性でもなかった。これは教会理解のポイントをなしている大切なところであると思う。信仰の伝承はそのような人たちの信仰体験が中心になっていて、そこに原点がある。ヨハネ福音書の復活体験の証人はマグダラのマリア独りである。其れが復活伝承の宝となっていった。女性の信仰体験は大きな役割を果たしているが、そこにはまだ役職は現れていない。教会が発展してきてパウロはTコリント12章28節で教会が組織化されつつあることを暗示するところがある。「神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行なう者、その次に病気を癒す賜物を持った者、援助する者、管理する者、異言を語る者、―――」。これは歴史的に出てきたものであり、組織化がなされだしたことが分かる。その中に長老の動きも見えてくるが、長老については今でもどのような人達であったのかはっきりしない。その後、按手によって派遣される人々が現れる。パウロが按手によって人を派遣するところがある。秘蹟、一つの特別な儀式で認定された人が教会の長として現るの。
教会の制度化
長老ははじめには“人望のある人”であったが、次に「按手による人」が現れ、その後、按手によって特別に任命された人と同じになった。そこに聖職者主義の原点にあったのではないかというのが聖書を読んでいての感想です。長老だと人格的面だけですみますが、按手の問題が出てくると、特別職になります。教会の歴史の中で段々と按手された人が教会共同体の全体を治めてしまう動きが出てくる。秘蹟によって任命された者が教会を司る流れがそこから歴史的に出てきたと考えられる。
次いで教会は地域的に広がって行く。多文化、多言語、多民族の中での教会が誕生してくると、それを一つに統治してゆく課題が出てくる。そこでローマ帝国の分割統治方式が利用された。政治的統治方法としてローマ法典が作成され、共通のルールで一つにされていた。ローマ帝国が400年続いたのはこの法典のおかげであったと言われている。
これまで述べてきたことを歴史的発展段階的に整理すれば次のようになる:
1)
身分が無い時期――生活におけるイエスとの個人個人の出会いを大切にし、それらの体験がイエスへの信仰伝承となって行った時期。
2)
身分化と組織化・役割化――長老が秘蹟を受けた人になり、司教が長老
の役割も担って、それを一つにまとめていった時期。(聖職者と共同体を引っ張ってゆく人が一つになってしまったところに今日の問題もある。)
3)
「教会法」の成立――世界に広がって行く教会をひとつにまとめてゆく
ルール作りとしてローマを中心とした教会は法典を完成する。その中で身分化が明確にされてくるのである。
ところで、「信徒」という日本語が使われるようになった背景にも教会のメンタリティーが現れている。“徒”のつく言葉はいろいろあるが、あまり良い意味では使われていない。本来は歩いている人のことであり、馬車に乗っている人と対比される。主体性が無い、積極的には役の立たない人、信仰の生活では役に立たない人、誰かの後について行く人、などの意味になっている。出発点ではペトロよりマグダラのマリアの方が尊ばれている。福音の原点であった体験は次第に“徒”の方にはいってしまって表には出なくなってくる。
プロテスタントとカトリック教会
この流れが加速したのは、プロテスタントとカトリックの分裂を決定的にした中世である。
教皇・司教が腐敗堕落したスキャンダルの中で、ルターはこのような堕落した聖職者を介して神に向かうのはおかしい。これらの聖職者は不要であるとした。彼の主張を極端に言えば、信仰があればよい、聖書があればよい、告白すればゆるされるのはおかしい、儀式・形式に縛られる必要性はない、と主張したといえる。トリエント公会議の始めのころは、教会は対話による解決をはかろうとしたがうまく行かなかった。ルターは「信仰、聖書、恩恵」のみで教会像を作り上げた。当時の教会の状況ではこれぐらいのことを言わなければ駄目だと言う状況であった。これは教会にとって恵みであったと言えるかもしれない。しかし、自分とイエスのつながりだけにすると、主観的、個人的な信仰に流れてしまう可能性が出てくる。トリエント公会議でのカトリックの解釈は、「信仰、教義、秘蹟、掟、生き方の大切さ」に置き、それがカトリックのIDカードとなった。カトリック信者の保証であり、トリエント公会議の教会像であった。曖昧さがあったものが聖職者主義へとジャンプしてしまった。トリエント公会議の決議事項の後には、各項目ごとに異端と言う言葉が出てくる。これも状況から判断すればいたし方の無いことであった。プロテスタント運動の中で注目されるべきことは、信徒一人一人の役割とその責任が非常にはっきりとうち出された。逆にカトリック教会においては、信徒の自主性、主体性、積極性がそがれた。結局、秘蹟を司るのは司祭となってしまって、カトリックのアイデンティティーのためには秘蹟が必要となり司祭の力が増大し、それに依存する形が生まれたのも仕方のないことであった。そこに司祭に依存する形が誕生し其れが明確にされていたのです。そして教理も司祭の役割にはいってしまった。
カトリック教会はこれまでの誤りを改革する為に神学院制度を作った。それ以前には簡単に司祭になった。少し頭の良い者は教会大学には行きエリートコースを歩んだ。総じて司祭は勉強をしていなかった。司教になるのも当時は大概お金であった。司教の中には、ミラノ大司教区の司教のように、フランスの宮廷の役職にあった者を、フランス王の野心でミラノ司教区長に任命したが、36年の在任中一度もミラノに行くことはなかったような例もある。司教の総代理制度が存在したのである。またある司教は25年間の在任中に2度しかミサを捧げることが無かった。叙階式と銀祝の2回である。司教も勉強をしていなかった。そこで司祭の養成を制度化して、掟を守らせる者と守る者との関係が生じてきた。信徒は制度的に受動的な者にさせられてしまったのである。このことが我々の心の中に今でも刷り込まれてしまっている。また、異端審問制度が復活し、強化される。11,12世紀の異端取締りは地方の教区長の責任であったが、それが世界レベルの問題に成ってしまったので教皇の責任とされた。制度化されて、教皇の責任を遂行する任務を帯びたものが現れる。ドミニコ会員が任命された。
16世紀に異端審問制が出来、信徒が一人で聖書を読むことが禁じられ、禁書目録が出され、ローマミサ典書がまとめられ、それは400年間改定されることは無かった。司祭が一語でも誤って読むと大罪とされた。当時はラテン語で壁に向かい背面形式で行なわれた。ニコラス師が説明された内容を聞いても直ぐには抜け出せない。400年も続いた制度の中に刷り込まれてしまっている。其れはトリエント公会議の影響である。司祭にも使命感として与えられているのである。皆の信仰を守らなければならない、皆の信仰を育てなくてはならない、皆を教会に来させなくてはならない、教会で結婚をさせなくてはならない、教えを伝えなくてはならない―――これらの使命感を司祭はインプットされているからそこから脱皮できない。このようなあり方がは司祭の責任ではなくて、其れは教会全体の理解の仕方から来ている。信徒の生き方を育てるには、極端にいえば、過去の歴史で作り上げてきた教会像を破壊しないとそこから解放されないと言えるのではないか。この「学び合い」も、その意味で「過去の教会像の破壊」「この種の神学の解体」であるといえるだろう。既成の言葉を使わないで表現することが大切である。我々が常日頃当たり前に使っている「祈りましょうーー」「教会に行っていますかーー」と言う言い方にも問題が含まれるからやめようという考えもある。「祈っていれば良い」「教会に行っていればよい」と言った意味合いが残されるからである。ともかく、トリエント公会議で作り上げられた教会像のこれらのイメージを解体しないとどうしようもないのである。司教に対してもこの教会像の締め付けがある。教会像をどうすれば捨てられるのか。自分達の中にこのような残像がどのぐらいあるのか10分ぐらい話し合ってみて欲しい。
発題U
近代社会と教会
次のステップは「教会が世界から離れてしまった」ことである。これまでの話は、プロテスタントの問題からカトリックのアイデンティティー明確にする背景があった。その問題意識から教会改革が進められてきた、つまりプロテスタント運動に対してのカトリック教会のアイデンティティーを守る発想であった。その中で、司祭の役割、司教の役割、そして信徒のおかれている立場が明確にされてきたことを話した。これから話すことの方がもっと致命的なことのようである。つまり、今の「教会を支えているもの」と「教会が置かれている近代社会」との違いである。
近代社会は1)民主主義、国家主義、2)自然科学、3)産業革命、資本主義、経済活動、の3つの柱で一応考えることが出来る。それと教会の関係はどうなっていたのか。現在我々がインプットされてしまっている教会のイメージは、社会から、世界からの遊離されているイメージがある。どうしてそうなってきてしまったのか。民主主義、国家主義が形成される原点でカトリック教会はそれらに対して否定的であった。フランス革命前の教会はある意味で、王制の中で国家の中の国家であった。教育や社会福祉事業は教会に委ねられ、誕生、結婚、死亡の全てが教会に委ねられていた。王権神授説によって王制を支えてきた。自由・平等・博愛がフランス革命の精神であるが王や貴族が持っていた権力を奪い返し、人間は全て平等である社会を建設しようとしていた。当然其れは貴族や王制を支えてきた教会にとっても邪魔であった。この新しい社会の流れも教会には邪魔であり敵対関係にあった。
フランス革命で多くの教会は破壊され財産を奪われた。司祭達も旧体制と新体制に分裂した。革命の力が強まり、教会はめちゃめちゃにされてしまう。近代国家の出発点である民主主義や自由主義を教会はその内面から理解したとは言えない。徹底的に社会は教会を排除し始めた。1週7日制の廃止、1週10日制への転換、キリスト教の祝日の全面廃止、このような状況が2年ほど続いた。司祭の独身制はいかがわしいものとされた。フランスには10万人の司祭がいたが2万人近くは還俗した。教会がこの新しい運動・思想を理解したとは言い難い。近代国家の成立して行く過程でその理念が理解できないうちに教会は歩み始めた。自由・平等・友愛は信仰に反するとされた。信仰は従順であるとされたのである。この世は毒である。アメリカニズムに反対し、独立に反対した。アメリカはピューリタンやアイルランドから逃げてきた人々が建てた国で宗教の自由が基本であった。この自由は教会にとって考えられないことであった。
ピオ9世は唯一絶対の教会はカトリックだけであり、カトリックは多くの宗教の中の一つではないとした。アメリカニズムは危険思想とされ弾圧され、近代思想の基本を否定したのである。1864年にピオ9世は回勅を出し、「誤謬表」を発表した。その中には当時の進歩的な司教や神学者が主張していた説も誤謬とされている。例えば、カトリック教会が他のあらゆる礼拝行為を排除して国家唯一の宗教として扱われるには適さない、つまり他の宗教と同じように扱われるべきであるとする主張は誤りであるとされた。またある司教が、ローマ教皇は進歩主義・自由主義・近代文明と和解していかなくてはならない。其れを行なうのが教皇の使命であると発言したことは誤謬とされた。教皇は頂点に居てコントロールする役割であり理解とか協調とかは教皇のやるべきことではないと考えられていた。この様な項目が80もリストされたのである。その中で徹底的にたたかれたのは自由主義であった。自由主義と平等を否定し国家の中でカトリックを唯一の宗教として認めるべきであるとした。
実証科学と教会
次に、現代社会を動かしているのは科学であるが、科学に対して反対した。ガリレオやコベルニクスの例のようにそれを否定した。教父の神学に反するとされたのである。この弾圧に対して250年後になってやっと現在の教皇が誤りを認めたのである。教義のアイデンティティーが近代的科学的学問で破壊されてしまうのを恐れたのである。このようにして近代科学との敵対のまま来てしまったのである。
合理主義と教会
次に、合理主義者が出てくる。歴史書などでは啓蒙主義者と言われている。この出発点はデカルトであると一応言われている。そこでは物事は実証的で合理的に考えるべきであるとされる。そうなると、理性で考えられないことは全て、例えば、三位一体、マリアの処女懐胎、聖変化、を疑う合理主義が出て広がって行く。教会はそれらを危険思想として弾圧する方向に行く、「従順こそ信仰である」「個人は考えてはいけない」と強調される。その流れの中で、「誤謬表」が現れてきたのである。各教区に検閲制度を徹底させている。異端制度、検閲制度の強化が行なわれた。出版に際しては司教の許可を必要とすることになった。司教が認可しても保守的な司祭がバチカンに直訴するものも居る。今の日本にも居るのである。この時期にローマは締め付けのために、ローマに国際神学院を作った。そこで諸外国の神学生を教育して、神学をそこで学んだ司祭を司教にするならば信仰は守られると考えた。そこには仕方の無い事情もあった。自然科学などの発達には世界的に対応せざるをえなかったのである。このような状況にあてって司教は個々の時代の流れは分からないから教皇に伺いを立てることがおきてくる。19世紀はこの傾向はさらに強められてゆく。其れは教皇にとっても好都合であった。この頃からローマでの一般信徒や司祭が直接訴えることも多くなってきた。そこにローマ中心主義が生まれてきた。各国の神学院もローマに作られた。修道会の本部をローマに置き教区の管轄下から外れてしまったこともこの流れを育てたのである。ピオ9世は週一度の謁見の日を設けた。行政的に優れた人とであった。教会主義が生まれ独立して完全社会を作ろうとした。
資本主義と教会
資本主義は物質主義と思われ理解されなかった。この当時の国家の誕生はゆりかごから墓場まで保証するものが国家の役割であるとした。教会の方が完璧な社会で国家は天国の保証は出来ない。教会のほうが完全性を持つ社会としたのである。近代の動きが教会にとって毒であるとした教会像を完成させるのがバチカン第一公会議である。レオ13世は「社会教説」を出すが、其れも教会の中での発想であった。この考え方を固めて行く裏づけとしてスコラ神学、ネオトミヅムを教えることを神学の中心とした。中世の人は歴史を踏まえていない、神学は永遠の神学といわれて不変である神学を確立し、カトリックの正統性を固める為であった。それを伝えるのが司祭の役割であるとした。教会の中で生きるためには、社会に背を向ける必要が生じてきた。教会の中に入るのはこの毒から守られることであるとの発想であった。近代の教会はこの社会から信者を守る為の要塞であった。この流れは2V公会議まで続く。2V意向は未だ良いのであって、それ以前は「社会の毒から教会を守る」ことでありそれが司教・司祭の役割であった。信徒は従えばよいと言った教会像を破壊しようとしたのが2Vであり、ヨハネ23世はこの世との対話を求め要塞の窓を開こうと呼びかけたのである。「対話」で一つの流れは説明できるが不十分である。パウロ6世の国連での演説は画期的な出来事であった。対話だけでなく世界に根を下ろし、世界を創り上げて行く責任を担う、そのためには要塞を解体し、世界の中に身を置いて、自分の脚で立ち、皆と共に泥まみれになって生きなければならない。その中で司祭、司教の役割を見直しするしかない。現代社会に全く経験の無い司祭や司教が神学を勉強し説教をしても現代社会に通じ無い説教になってしまう。彼らにはそれしか出来ない。14・5歳で社会経験の無いままに純粋の信仰を守るように育てられていても現実社会では通用しない。司祭の養成を皆と共にして、現代社会とどのようにしてゆくのか、現代社会を体験して行くことが大切である。教会像の破壊がないと新しい司祭像や信徒像は生まれてこない。今日の課題は信徒のムーブメントはどうあったら良いのかといった次のテーマに続いて行くのです。
以上
学び合い二年度第四回「信徒の召命―歴史的背景―2」
6月1日
聖職者主義がどのように歴史的に成立し、其れが信者にどのように刷り込まれて言ったのか、先週の発題をまとめた資料を作成しましたので説明します。
司教、司祭、信徒の役割を考えるのは教会のイメージからである。奉仕者としての司教、司祭もそれぞれの時代の教会像に基づいて考えられ、働いている。11世紀の頃は仲介者として教皇は天と地を結ぶ全権を持つ王と大祭司と考えられその役割を果した。司教、司祭も当時の教会像にしたがって役割を果したという意味では同様である。自分達の中に刷り込まれていた教会イメージの理解に基づいて、皆一生懸命やってきたので司祭達が悪いわけではない。
T 初代教会・・・キリストの名を呼び求める人々
信仰伝承の豊かさを担う人々・・・マリア・マグダレナ、マタイ、サマリアの女性、病んだ人々などの信仰体験が貢献・・・この観点からは、信徒も司祭もない。
福音書の中には具体的な例はたくさんある。それが福音の中身を豊かにしてくれているのである。これらの人々は聖職者ではなかった。これらの人たちの信仰体験が中心になって福音書はまとめられている。「すべての人々の人生体験が大事にされていた」これが出発点である。
2 組織化が始まった教会・・・信仰者の共同体の責任を担う者とそうでない者・・・
役割分担・・・1コリント12章。長老から、按手された司教に・・・統治する者の誕生、宣教へ派遣から、統治・管理への派遣
本来は、信仰伝承の豊かさを人々に伝える為の役割分担であった。伝え、深め、中身を豊かにするための奉仕者であって、その中心に長老がいた。その長老が司教に代わってゆく。責任者であり統治する者へと変わっていった。そこに歪みが出てくる。長老であれば生活のバランスもあり皆に奉仕出来るが、按手がポイントになると、司教はバランスのある人というよりも叙階にウエイトが移り、管理者、統治者となってゆく。宣教への派遣も按手された司教が派遣されることになった。司教・司祭は管理する責任が期待される聖職者中心主義が生まれてくるのである。
3 プロテスタントとカトリックに分裂した教会
聖職者の役割・・・ローマ・カトリック教会のアイデンティティーを守る役割
聖職者の管理のもとに秘蹟・教義・掟・・・信徒は受身、受動的。
プロテスタントに対してカトリックの正統性を守る為の役割が司教・司祭の職務になってくる。真にキリストを継ぐ者は誰か。教皇・司教・司祭もカトリックの正統性を守らせる奉仕者になってしまった。この期間に明らかに聖職者中心主義が確立する。信徒は明らかに受動的な立場におかれ、秘蹟を与えられる、教えられる、指導される者となった。異端審問も生まれ、秘蹟施行の制度化され、神学院の充実もこのような役割を果す司祭の養成機関になってしまった。信徒が教えられる側に置かれた一因はラテン語の問題もある。一般信徒でラテン語に通じる者は限られていた。公式用語であるラテン語の出来ない信徒は発言できなくなったのである。
4 近代社会の毒から信仰生活を守る要塞としての教会
教皇中心とし、司教、司祭、修道者、信徒を底辺とするピラミッド「共同体の完成
聖職者の役割・・・近代社会の毒からローマ・カトリック教会のアイデンティティーを守る役わり。
16世紀に教会が分裂し、18世紀に入り、合理主義、自然科学、フランス革命、自由主義と近代社会が現れる。この近代社会のエネルギーは教会にとって毒であるとされた。信仰の魂は従順であるとされ、自由に考えるのは教会の正統性にとって危険であるとされ、それから守る為に司祭は育成された。内側から信仰の正統性を溶かす毒が入る恐怖心が教会内に出てくる。教会は新しい運動を弾圧する。自然科学も危険、産業革命は物質主義、教会は精神的な事柄を考えるところであるとされ、近代に否定的であった。この時期に教皇制が明確な形をとることになった。新しい動きに対して司教は対応出来ない。信徒、司祭、司教も教皇の力で対処しようと図った。教皇の力が増し、ピオ9世はその流れをうまく掴み教皇中心のカトリック教会を作った。ローマ神学院で司教を育てる、修道院本部をローマに置く、一般謁見日の設定をする、教皇中心にこの世と対置しようとした。信仰生活はこの世から離れることになり、司祭の役割は信仰の純粋性を人々に伝え、家庭、社会の毒から逃れる為に司祭から学ぶことになった。
5 これからの教会像(教会理解)のなかでの、信徒、司祭、司教、教皇の役割
信仰意識、世界に開かれた教会へ・・・教会外の世界との対話
世界の現実の中で・・・世界の人々と問題の共有・共存・・・キリストと共に
そのための信徒、司祭、司教、教皇の役割は???秘蹟の意味付けの見直し、宣教理解の見直し、地域共同体の見直しなど・・・
教会像を明らかにする必要がある。司祭の方でも期待するイメージがはっきりしていない。新しい教会像の中で自分の位置付けをどうしてゆくのか?信徒の役割を大切にすると云う流れは2Vの中に新しい動きとしてあった。来週シェガレ師から世界の信徒運動の動向について話しがあります。
2Vでは「対話」の線を出した。しかし其れは「自分」と「相手」の関係でありまだ「自分」を守っている。これからは世界の「現実の中にあって」、世界の問題を「共有」することである。「キリストが人々の中におられたように」である。その中でそれぞれの役割を見直すことである。
「まとめ」をどうぞとのアニメーターの求めですが、「まとめ」ではありません。皆さんと同じ参加者の一人として、自分の夢を語らせて貰います。指摘のあった聖職者に対する呼び方ですが、この真生会館に来ている若者からは「**さん、**さん、と呼ばれています」「少なくとも、この学びあいの中では**さん、**さんと呼び合いましょう」。
ピラミッドの中で教義・秘蹟を中心にして正統性を守るのが司祭の役割であったが、現実社会の中に其れを戻す必要があります。生活の場があって、イエスと出会い、その体験が信仰伝承として福音書が出来たわけで。いま教会にある教義や秘蹟が生活から遊離しているから、其れを生活の場に戻さなければいけない(図の説明省略)。つまり福音体験をした人々の生活する場に戻すことです。
「正統性とは何か」とか「教義とは何か」と言うのではなくて、生活、人生で出会ったイエスとの出会いの物語を伝える、一人一人の福音書があっても良いのです。教会とはまさに其れを育てる場です。教会のイメージを明確にしないと司祭も信徒もその役割がはっきりしてこない。
2V公会議で典礼は変えられた。トリエントのように「恵みを与えるしるし」というと生活から離れてしまうし、聖職者中心主義になる。2Vでは「キリストの現存に触れる」と考えるようになった。一人一人をキリストと結びつけるのが秘蹟であり、典礼であるとした。「秘蹟はキリストの現存の場である」と云う考え方に変わった。そう考える時、教会は何よりも「原秘蹟」であり、各秘蹟の前に、教会の中にキリストが現存する。その教会からいろいろな秘蹟が出てくると言う考えである。この理解も一つのステップとしては理解できる。抽象的なものからキリストへ戻ったのは進歩であるが、その説明に欠けているものは「生活」である。生活の中でキリストに触れたのである。この私がキリストの触れる、こんなに病んでいる私に、こんな状態にある時にキリストに触れたという信仰宣言信仰告白、個々の人生における信仰宣言が本当の教会の豊かさになる。生活の中でキリストを語り伝えて行くのが共同体である。そうなると教会と言うのはそれぞれの信仰を語り継げる信仰宣言の場である。そのように変わってゆかなくてはいけない。そうなると、教皇も、司教も生活の場におりなくてはいけない。ヨハネパウロ2世の福音書、森福音書、結婚した信徒の福音書がある。そこでキリスト教の多様性が見えてくる。
教会共同体の役割について言えば、もっと民主化の余地はあるでしょう。教皇選出に関してももう少し民主的にすることは出来るでしょう。司教の選出も同様です。小教区の管理は司祭の必要はない。皆で選ぶことです。管理者、統治者は必要が無い。しかし現在の教会法では司教になっている。小教区は司祭になっている。福音書には其れが無い。教会の正統性が崩れることへの恐怖からそのようになっている。そのためすべての委員会は諮問機関であり決定権は無い。そこには民主社会への信頼感が欠けている。教皇は別のところで力を発揮すればよい。女性司祭の問題も過去に縛られているからである。
一人一人の人生の中でキリストに出会うことが大切である。確信があれば人に伝えられる。基本は確信である。自分の人生で喜びを与えられた、だから他者にも喜びとなるはずである。一人ひとりが誠実にキリストに向い合て行くことが大切である。次の流れは信徒がどのように動くかである。公会議以降の共同体の発生に関して来週シエガレさんから話がされるはずである。教会を内側から変えてゆく流れがどのようになっているのか。 以上