レナード・スゥィドラーさんを迎えて

2007/11/16 16:00-18:00 真生会館

 

学び合いの会がスゥィドラーさんを迎えるのは、一昨年以来これが 3 回目です。スゥィドラーさんは、感謝祭の休みを利用して講義のために香港の大学へ向かう途中でした。迎えるメンバーは既に顔なじみが多く、話はすぐに本題に入りました。

 

•  最近の動きについて

『アメリカではいま、国(国務省)が音頭をとって「グローバル・ダイアログ・インスティチュート( Global Dialogue Institute )」というプロジェクトを推進中。世界で諸宗教対話に関わっている宗教学者や活動家らが、 4 ヶ月間にわたり、アメリカの 8 つの大学で「世界的な対話のネットワーク」作りに取り組み、 11 月末にはワシントンで 4 か月間の研究の締めくくりをする。

私がいるテンプル大学もグローバル・ダイアローグに参加して各国の学者と共に学び、授業(修士課程)でも「諸宗教対話」を取り上げている。』

 

『アメリカ政府がこのようなプロジェクトを支援していることを評価する。  20 数年前に国連でアメリカの人権担当者と話したときは、まだ宗教間対話の大切さは認識されていなかった。当時にくらべれば大きな変化。

この変化は 企業 の世界にも見られる。企業が「宗教的調和」の必要性を経験的に知るようになった。いまでは「宗教対話」の言葉の意味は、諸宗教間の対話というよりも、むしろ「宗教と政治」、「宗教と企業」の対話といった意味を持つようになっている。

 テンプル大学でも、「宗教とビジネスの対話」コースをはじめ、「宗教と科学」「宗教と法律」「宗教とメディア」のコースを予定している。』

 『「対話」は現代世界で今後ますますコアなテーマになっていくだろう。すべての「組織」が対話の重要性を理解すべきだ。ルネサンスに花開いた人間理解は、 19 − 20 世紀に各分野の専門化が進んだ結果失われてしまった。これを取り戻すためには専門分野間の対話が必要。』

 

 

Q. 「宗教対話」を進めるために中心になるのは誰か? 聖職者か? そうでなければ、どういう立場の人か?

A. 『一般的に、宗教のリーダーは冒険を避ける。端(はし)にいる人が準備しお膳立てする。あれこれ試みて、うまくいったら大物を担ぎ出す。新しいことをするのは、権威ある立場にいない人だ。 (学者の中ではハンス・キュングが「宗教と科学」について書いた。ラッツィンガーは、かつては「それは良いことだ」と言ったが、ベネディクト16世になってからは何も言っていない。)』

 『森司教が考えていることも同様と思う。「普通の人が集まって話し合い、新しい現実をつくりだしていく。」 森さんのような人が、未来のリーダーを作るために、間違いを恐れずに試みようとすると、伝統的リーダーはそれを止めようとする。  G. K. チェスタートンは、「多くの間違いを犯す人は、多くを学ぶ。」と言っている。 教会の歴史の中で、新しいものを生み出す役割は、従来、修道会が担ってきた。これからは一般信徒がその役割を担う時代だ。』

 

Q. (参加者の応答) グローバル・ダイアログの意義が良く理解できた。日本でも同様な趣旨の活動が始まり、私もそれに関係しているので、大変身近に感じた。

 

 

(2) スゥイドラーさんの近著「イエスはフェミニストだった( Jesus was a Feminist )」について

( Sheed & Ward 社発刊  ISBN-10: 1580512186 )

スゥィドラーさんは 1971 年に同じテーマの小論文を発表し反響を呼んだ。

本書は、福音書のテキストを慎重に検討し、「イエスは、女性を男性と同等に扱い、当時の風習・習慣に逆らって、女性を重要な仕事に参加させた。」と結論する。その結果、女性は初代教会の発展、宣教活動に大切な役割を果たし、二つの福音書(ヨハネ、ルカ)の執筆にも関わったと推論する。

特に興味を引くのは、「第4福音書(ヨハネ福音書)はマリア・マグダレナが書いた。」という説。 (以下、スゥィドラーさんの説明を文責者のメモに従って記します。正確な内容については、発刊されたばかりの上記著書を参照ください。 Amazon でも入手可能です。)

•  「第 4 福音書の筆者はヨハネではない。」というのが新約聖書学者の共通認識。
•  筆者が 21 章を書いた人物であることは、福音書に明らかに記されている。 

その人物は「イエスに愛された弟子」で、自らの体験を書いたと述べている。 

•  「愛された弟子」は共同体の中で重要な存在であった筈なのに、なぜこのような重要人物の名前が記されていないのか? 答えは『女性だったから。』
•  その女性とは? 

また、なぜ名前を明記しなかったか?

20 世紀に入って初めて知られた「マリア・マグダレナ聖書」がある。マリア・マグダレナはイエスの弟子の中で中心的な役割を果たしていたが、この聖書はイエスの神性を強調するグノーシス派のものとして、正典とは認められなかった。
イエスの死後も女性蔑視の時代は続き、ヨハネ福音書の最終版( AD100 年頃)の編集者は、筆者が女性と判らないように配慮せざるを得なかった。
以上の理由から、現在の第4福音書の“一つ前”のバージョンは女性が書いたものだが、最終版では、女性の名前の代わりに「愛された弟子」と記されることになったと考える。

 

 次に、「ルカ福音書と女性」について。

『 4 つの福音書中、女性に関する記述が一番多いのが「ルカ」。今のルカ福音書を「現ルカ」とすれば、それの元になった「元ルカ」を研究した結果、記されたイエスの言葉の中には女性についてのネガティブな言葉が一つも無かった。「現ルカ」になって初めてネガティブな表現が出て来る。

また、ルカ福音書には、女性でなければ見過ごすに違いない事柄や、女性だからこそ知りえたと思われる事柄が多く記されている。例えば「十字架の元に女性がいたこと」「十字架の道行で出会った女性のこと」「エリザベス訪問の一部始終」「マルタとマリアの話の細部」などなど。 それらから、ルカ福音書の原型(元ルカ)は女性によるものという説が生まれる。』

 

『さらにマタイ、マルコの元になった資料の多くは女性によって語り伝えられたものに違いない。女性の語り伝えが無かったらキリスト教は生まれなかったと言っても良い。新約の中から女性のことばを取り去ったなら、イエスの人間性から血を取り去ったような(冷たい)ものになり、キリスト教はその後 300 〜 400 年のうちに消滅していたかもしれない。

 イエスがこのように女性に関してポジティブであったのに(キリスト教がそのイエスから始まったのに)、皮肉にも、教会は今から僅か50年ほど前まで、女性を抑圧し続けてきた。性別、貧富、身分などに関係なく、一人一人の人間と大切に関わったイエスの姿勢に学ぶべき。』 ・・・

 

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・・・以上が話の本題の要約です。このほかにも、

•  アメリカのカトリックの現状
スゥィドラーさんは最近の状況に悲観的。ローマに忠実な司教ばかりが任命され、また若い人たちは教会よりも魅力のある活動対象を見つけている。(日本と同様)中高年層が教会の活動を支えている。
•  女性神学者について
数は少ない。パートナーのアーリーン・スゥィドラーは女性神学者の先駆。メリー・デイリー、ローズマリー・リューサー、ラッツイの学友エリザベス・ゴスマンらがいる。「フェミニズム初期の歴史」は未踏の研究分野なので、パイオニア指向には穴場かも。

・・・など、話し合いは 2 時間にわたり、そのあとも全員が夕食を共にしながら語り合いました。

 

なお、スゥィドラーさんが昨年春にアメリカの教会で行った連続講話「 WE THE PEOPLE...WE THE CHURCH 」(教会の民主化と憲章づくりの勧め)を学び合いの会の有志が翻訳中で、これを日本のメディア(学び合いの会ホームページ、活字媒体を含め)に発信することについて、積極的な同意をいただきました。

 

                                     以上(文責・記録担当)

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