「学び合いの会」例会記録

2007年6月23日(土)

年間テーマ:「信仰者の真の自立と真の対話を求めて」

本日のテーマ:「教会の中での自立と対話、パートU」

 

参加者: 15名 

 

 

本日の進行: 

1) 10:30−11:00  本日の「学び合い」の進め方についての説明

2) 11:00−12:00  グループ別による学び合い

3) 12:10−12 :55  全体会

4) 連絡事項

 

(1) 本日の「学び合い」の進め方についての説明  (4月例会ではテーマをどのようにとらえて、どう話し合うのか、かなり難しかったという認識があり、これを踏まえて、6月の例会をどのように進めればよいのかの事前準備が5月19日に行われました。6月例会も4月と同じテーマであり、難しさが感じられたことから、今回、司会者の提案に乗って、やってみようということで、最初にその取り進め方について説明がなされました。)

年間のテーマ:『信仰者の真の自立と真の対話を求めて』について話し合ってきました。

自立と対話はカトリックというか自由な人間全員に与えられた本質的な問題です。今日の分かち合いの会をどのような形で進めていくかについて、準備会で話し合いをいたしました。このあまりに大きな深いテーマは、限られた時間で、特に充分な用意もなく簡単に人前で話せる問題ではないでしょう。個人個人によって『自立』や『対話』の意味も違って当然です。そこで今回は原点に戻って話し合ってみようということになりました。

 

何のために私達は、ここ真生会館に集い、さまざまの会に出席しているのでしょうか?

各人の動機も一人ひとりの色々な考えがあると思います。推測が許されるならば、自分のより良い信仰生活を求めて、あるいは精神的により満足のいく生活を求めてあたりが最小共通項ではないでしょうか。

原点に戻って考えてみようという事ですが、私たちキリスト者としての原点は、イエス・キリストです。今日の話し合いは一度、自分を2000年前のエルサレムやガリラヤ湖のほとりにタイムスリップして自分がイエス・キリストと直接話しができるという(夢のような)設定の上で考えて欲しいと思います。少し冒険的ですが、イエス・キリストと出会い、キリストを自分の人生の光、人生を支える力として意義つけた人々の原始キリスト共同体の一員に自分を置いて考えていただきたいのです。1700年前のローマ皇帝コンスタンチヌス大帝がカトリックをローマ帝国の国教と定めた時代の信者としてでもなく、500年前のプロテスタント誕生時代の教会の腐敗と堕落からの教会改革やトリエント公会議にまで続くカトリックの正当性を強調した時代の信徒としてでもなく、教会も教義もなかった2000年前の時代に身を置いて考えていただけたらと思います。

 

教会も社会の縮図みたいなところがありますね。私たちは社会や教会のさまざまなしがらみの中で生きています。しがらみから抜け出すことは大変な勇気が必要です。だから空想の世界ででも教会も教義も司祭も司教もいなかったイエスキリストが生きておられた時代の人と人の集まりの中の自分を想像してみていただきたいのです。大変に失礼なことではありますがこの際空想ということでお許し願い、主任司祭が仰っているから、司教の方針だから、ローマ教皇のお言葉だから、ましてや教会委員会や○○会の会長が言っているから、等などを一切考えないで、キリストに出会ってキリストを自分の直感でとらえたら、自分はどんな行動をとり、どのような会話をし、どのように社会と関わっていくだろうかと思いを巡らして頂けたらと思います。歴史や位階制にとらわれず、人と人の関係で信仰を問い直していただけたらと思います。

 

どんな内容の話し合いでもかまいませんが、年間のテーマの『自立と対話』から離れないでお話していただけたら幸いです。現代の日本に生きている私たちの毎日の生活に根ざした具体的事例から(難しいことですが)現代のしがらみを外して信仰の原点を考えることも面白いかもしれません。(これはあくまで個人的意見です。)

グループに分かれての話の進行に参考になるかもしれないことを最後に申し上げます。

1987年の司教団メッセージです。

•  教会を会員制クラブのように信者だけがメンバーと考える発想を転換したい。
•  内向きの教会から共に奉仕する外向きの教会に変える。
•  日本の教会という大きなレベルで考える、

教義も教会もなく、なんのしがらみもない世界で考えて欲しいといいながら矛盾するような余計なおせっかいですが、もし2000年前のイエスキリストと話している自分だったらどう行動するでしょうか。

忙しい毎日に埋没してしまっている自分、明日は分からない不安。でもこのような分かち合いをしながら歩んでいくうちに何かが見えてくるのだと思います。

それではよろしくお願いいたします。

 

(この提案に対し、参加者の中から、それではテーマが違ってきてしまうのではないかという疑問があがりました。だが、話し合っていくうちに、私たち自身を、イエスの時代に置き、自立と対話というテーマを心にとめて、「福音を生きる」を語り合ったら何かが見えてくるのではないかという結論になり、参加者全員の賛同を得た。)

 

(2) 4グループに分かれて 、学び合いを行いました。

 

(3) 全体会

 (それぞれのグループのまとめではなく、何を感じたかについて各グループから 1名が発表をし、
所属グループの人がそれに補足する形をとった。)
G1 (男性のみ4名)
•  刺激的テーマである。
•  教区、司祭、教義から自由になって話したい。何故私はカトリック信者としてこの日本 にいるのかと考えた時、個人としてキリストとの結びつきはあるが、社会性を持った 個人としてはフラストレーションを感じる。会社の上司や、取引先の言葉に反対しない、 平和と憲法についても行動を起こさない、行動できない自分にもどかしさを感じる。 日本という歴史の中に生きるひとりの日本人として、またすばらしいカトリックを信じて いる者としても、もどかしさを感じる。教区・教会には期待してはいないが 教会の中で 社会的に地位があり力のある人の前では、違うと思っても反対しない、意見を言わない 自分がいる。信徒の力で何かプレゼンテーションをしていけたらと思ってはいる。
•  社会の中で何かやりたいと思ってもできない。何かを正しくないと思い、阻止しようと してもやれない自分がいる。反面、善良な人といろいろな場面で仲良くして、小さな 奉仕活動をすることがある。正しい方向性のもとで出ていくこと、身近なことでやれる ことはやるという姿勢があれば良いのでは。
•  対話とはプレゼンテーションである。カトリック信徒としてプレゼンテーションしていく ときに、キリスト教以外の人との真の対話も始まる。自分をさらけ出して話しをすることと、 相手と自分の違いに目を向けることが大切。自立した自由人同士で、であって いけるように思う。
•  地球の温暖化をとめるのに役立つ思想は何か考える。パスカル、シャルダンより 鈴木大拙の方が興味深い。

  G2 

* イエスの時代にタイムスリップして話しあったのはとてもよかった。福音書の最後は、  

     「全世界に行って知らせよ」とある。福音を告げ知らせることは一番大切な役目であると 思うが自信がない。「私があなたと共にいる」「聖霊を使わす」という言葉に支え られて、福音を伝えていきたい。毎日の念祷を大切にしながら、であう人との対話を 大切にしていきたい。そして聖霊の前を歩かないこと。聖霊の後を歩いていく。
•  聖霊が先に立って導く。自立は恵みである。どんなことがあっても恐れずに歩くこと、 語っていくことが自立。責任をもって自立する。 ありとあらゆることに絶望し、生きることすべてに絶望してそのどん底に立った人が、キリストにであう。そのどん底に立つことが、自立することの出発点にある。
G3  
•  社会生活の中での、人と人との交わりの中にある自立と対話について話し合ったが、 良い自立と悪い自立があるのではないか。良いか悪いか、相手とつきあうことで 現れる自立・活動の姿がある。対話は、相手に発信することで始まり、相手の思いが こちらにも伝わってくる。例えば短歌を詠むことで発信し、その短歌とであった人が 感動する。そこに対話の余地がある。
•  今自分が居るところで、キリスト者としてためらいもなく、イエスの生き方と同じように 生きられるのか。古代教会の中のイエスのように生きてみたい。キリスト者は信じる ものはひとつ、キリストだけ。聖霊に導かれてためらいもなく生きていきたい。
•  小教区の中にはいろいろあるが、さまざまな考え方と共に、自分のできることを 聖霊に導かれて進む
G4
* 対話は難しい。相手を理解することが前提として求められている。が、自立して いればいるほど、どうしても相手を説得しようとしがちである。自立している人間が いると、気になってしょうがない。
   * 相手を理解できないと対話は成り立たないものなのか。
•  ほんとうの対話というのは、相手の話しをよく聴いて、相手に寄り添って、相手との 調和をもたらしていくもの。
•  男は対峙して対話をしていく。女性は相手の立場に身を置いて相手と対話する ことができる。
•  対話の目的は、真理を求めること。対等の立場に立ち、共通の真理を求めていくこと。

           フリートーキング

•  ながいこと弟、次男夫婦とうまくいってなかった。神と向き合い、神との対話に生きる よう努めた。ある日、どちらとも連絡が取り合うことができるようになった。その時が 来たとき、言葉をあまり交わさなくても心が寄り添っていた。対話というのは態度でも あると思った。
•  今の時代、存在するということが価値あるものということが忘れ去られ、負の存在 として扱われているところがある。
•  イエスの時代をイメージして話し合え、イエスの時代にかえって信仰を見直すことが できたようである。キリストから教えられた教えを歩み、考えて、考えて行動を起こし、 それを分かち合っていくことが自立と対話なのではないか。
•  ひとつひとつが身に沁みるものでした。

 

         次回  10月20日(土)10:30〜 

                            テーマ「社会生活における信仰者の自立と対話」

    

 

                                                                    以上           文責:記録作成者

 

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