「学び合いの会」例会記録
2006年4月22日(土)
参加者:総数21名
本日のテーマ:
年間テーマ「信仰者は自分のミッションをどう生きるのか」の第一回目として、
本日は「いま、福音によって変えられるとは?(福音化)」でした。
(後述のテーマ選定の経緯をご参照ください。)
本日の進行:
1) 10:30 初めに 2006 年テーマ選定の経緯
2) 10:45−11:15 シナリオ PART T 福音とは
3) 11:15−11:45 シナリオ PART U 公会議とナイス
休憩 15 分
4) 11:50−13:00 シナリオ PART V 社会と福音化
(注: 各 PART の終了後に参加者間で意見交換をし、司祭コメントは司祭不参加のためありませんでした。)
1) 「初めに」 2006 年度テーマ作成に関する経緯
毎年テーマ選定と例会の進め方に関して準備会の中でも多くの意見があってまとめるのは容易ではありません。 2006 年に関しては「信仰者のミッション」という基本テーマが決定されるまでに、多くの議論がなされました。テーマが決定された後もその取り扱いについて準備会で多くの論議が交わされました。準備会は通常 10 数名のメンバーが出席して検討されますが、 4 回の準備会が開催され毎回2−3時間の論議が交わされました。その結果次の通り今年の年間テーマと副題が決定されました。
「信仰者は自分のミッションをどう生きるのか」 1) 「いま、福音によって変えられるとは? (福音化)」 2) 「いま、なぜ福音を語るのか? (使命)」 3) 「いま、福音をどう伝えるのか? (宣教)」 4) 「いま、福音を誰と共に生きるのか? (派遣)」
1 テーマを選んだイキサツ
今年は信仰者の本音で「福音宣教」について率直な意見を出し話し合う場にしてはどうか、との提案がなされ、それを取上げることにしました。
第二バチカン公会議以降度々“「福音宣教」は信仰者全ての人の任務である”と言う説明がなされてきましたが、「福音宣教」を考え始めると直ぐに様々な疑問が浮かんできてしまいます。「福音」てなんだ?「宣教」て何すること?「宣教」は司祭や宣教師がするものではないの?信徒が「宣教」などできるわけがない?・・・「福音宣教」はそれ自体が自明なものでものではないことが直ぐに分かります。
日本の教会でも過去数十年の間にナイスなど幾度か運動を起こそうと企画されたが、結果は期待されたものではなかったといえるのではないでしょうか。すくなくとも洗礼をその成果とするならばそういえるでしょう。それは何故でしょうか?問題が容易ではないからだと思います。関連はあるにしても、其れ自体の疑問に答えるのが今日の課題ではありません。
しかし、 2006 年のテーマを「福音宣教」という言葉を使って、課題としたのでは、信仰者一人一人の生活に密着した課題とはなりにくいので、その本質を汲んだ言葉でテーマとしたいと考えました。沢山の言葉がこれまで使われてきたことが思い出されました。布教、伝道、宣教、等がありますし、新しい表現では、派遣、福音化、などでしょう。「福音宣教」という言葉が示す意味内容は広がりを持っていると思われます。歴史的にみれば「誰がするのか」「どの様にするのか」「その内容は」などに関して多くの変遷があるようです。
準備会の経緯の詳細は述べ切れませんが、様々な議論の末に、今回のテーマを「信仰者は自分のミッションをどう生きるのか」に決定しました。
2.テーマをどの様に理解するか:
「福音宣教」を考える視点は多いと思われますが、今回は洗礼を受けたものは「派遣」されている者である、との立場から考えてみようということです。しかし、チラシにも書かれているように、「ミッション」という言葉自体が理解しにくい面を持っています。
「ミッションと言う言葉は布教、宣教、派遣、福音化など多面的な意味を含みます。しかし、歴史的経緯もあって、我々は素朴な疑問、思い込み、誤解を抱かされています。」と書きました。
また、今日のテーマ「1) いま、福音によって変えられるとは? (福音化)
の「福音化」という言葉も容易に理解できる言葉ではありませんね。
「聖書は読者が福音化されることを期待して書かれています。教会も絶え間なく福音化され、教会に触れる者を“福音化”に招く使命を持っています。」と述べていますが「福音によって変えられるとは?」どのようなことでしょうか?現代人として、我々はこのことをどの様に受け止めることが出来るのでしょうか、また、現実にはどの様に受け止められ体験されているのでしょうか?
また、何故“いま”とそれぞれの副題の頭につけたのでしょうか。それは、この課題が時代と共に変遷して来ましたし、我々は現代に生きる者として、新たに現代人として、この課題に取り組みたいからです。
3. テーマの目指しているもの
チラシにも書きましたが、「今年のテーマは信仰者の生き方の最も根源に触れるものであり、目指すところは、「信仰者のあり方」、ひいては「教会のあり方」を現実に密着した我々の生活の場から、人生体験を通して互いに学び合ってゆくことにあります。」
それに、今回の発題の目的の一つを「それぞれの例会の副題に関する“正解”を求めるところに置くのではなく、テーマに関する考え方の現実的な多様性をみなで実感したいと考えました。
4. 発題の形式の変更
テーマの重さから来るとは思いますが、例会でこのテーマをどの様に取り組めば良いのか、準備会でも決定的なものが打ち出せませんでした。ロールプレイ的な発題を検討しましたが、実際に作成を試みると、今回のようなテーマでは、役割演技を目的とする即興性に特徴を持つロールプレイでは対応できませんでした。
その結果、参加者の方々とこのテーマを考える一助として、現代において典型的と思われる 5 人の人物を登場させてテーマに関する考えを語らせるシナリオを作成することにしました。(読み役を担当する当人のご意見ではありません。)
このシナリオの目的はその中に正解を探すというのではなく、現実に様々な考え方があるということを感じていただき、自分の考え(本音)を意識化させることを目指したつもりです。目的が作成されたシナリオで達成できるかどうかは準備会へ参加したメンバーにも自信がもてませんが、最終的には、不完全でもこれでやるしかないとのことで決定されました。
これから演じられますシナリオには、分かりにくいところもあると思いますので、より良く理解していただくために、シナリオは参加者には事前に配布いたしました。
5 進めかた
今日、これからの進め方については司会者の方から説明していただきますが、 2006 年度全体として、現時点で検討されている予定について説明いたします。
年間の最終回は合宿に出来たらと考えています。各回では、それぞれの課題への“正解”をあえて求めませんが、「ミッション」の理解は信仰者全てにとってそれぞれの生き方に直結する重要課題であると考えますので、合宿で時間を十分にとって、一年間学び合った最終的な意見を出し合いながら「信仰者は自分のミッションをどう生きるのか」考えたいと思いますし、またその時には、顧問司祭がたからの総合的なお話を聞かせていただきたいと考えています。
シェガレさんは宣教師そのもので一生をその道に捧げておられ、日本における宣教生活 30 数年から来る貴重な体験を分かち合っていただけるのではないかと期待しています。また増田さんからは、現代宣教神学の動向や宣教の神学的本質に関してお話いただけたら良いなと期待しています。森さんからはナイスは何であったのかについてお話いただければと期待しているところです。
2) シナリオ(読書会形式)
発題:シナリオ「いま、福音によってかえられるとは?(福音化)」
場面設定
ある小教区でミサ後、壮年部と婦人部の合同の集まりが終わって、数人の人たちが、今日の司祭の話しに疑問を投げかけているところ。その日の集まりのテーマは「これから教会は何をしたら良いのか考える」でした。司祭の話とは「福音に接して変えられた信徒には、使命として福音を宣べ伝え、社会を福音化してゆく役割がある・・・・・」ということであったが、この「福音によって変えられるとは何か」「福音てなんだ」「何で信徒の役割なのか・・・・?」・・・と様々な疑問が投げかけられました。
登場人物紹介(役者敬称略)
@ A氏 70歳代後半 公務員で安定した人生をそれなりに過ごしてきた、教育教養もあるが、古い考えのいわゆるまじめな信者で、信徒会会長を長年していた。主張される要旨は、「福音」はイエスご自身のことでその内容はカテキズムに明確に書かれている。カテキズムを学び、受け入れ、洗礼を受け、変えられた。秘跡によって変えられ続ける。ミサと秘跡が中心。信者を増やすのが福音宣教。それは司祭の使命である。信徒は未信者を司祭に紹介すれば良い。教会は聖職者中心でよい。
A Bさん 女性 50 代 ナイス時代に熱心に参加し。新しい教会の動きにも通じている。意欲的に宣教活動を試みた時代もあったが、小教区の司祭や信徒から理解が得られないで、一人で空回りし、数年で挫折。今では司祭にも信徒にも不信感を抱いている。個人の福音の体験と教会の教えは違う。
B C氏 40 代男性サラリーマン 青年時代に洗礼を受けた。教会には来たいと思っているが、殆ど教会には来られないほど忙しい。仕事で欧米にもしばしば出張して海外のカトリック事情にもある程度通じている。社会の福音化など現実にはできない。アメリカのカトリックの動きに疑問と関心がある。
C Dさん 60代女性主婦 福音宣教など自分のすることと考えたことはない。人に優しく、老人施設や障害者支援のボランティアーを出来るときにしている。 40 過ぎの精神障害の子供を抱えている。人生の殆どは家事労働に忙殺されている。教会にも月に一度程度しかこられない。幼児洗礼を授けた子供の宗教教育に困難を感じている。
D E氏 20代男性 ワールドユースデイに参加感銘 司祭志望 教皇主義者 権威にあこがれている。
2) PART T
場面1 「福音」は時代によっては変わらない?
40 代男性:
ところで今日の集まりで神父さんが言っていた「福音化」って一体なんだろうな「福音によって変えられる」ともいっていたけれど、先ず「福音」ってなんなんだと思いますか。
70 代男性:
「福音」の理解は 200 0年間変わっていないと思うよ。イエス様が言われる福音とは「神の国が近づいた」ということですよ。イエス様について教会が教えてきたことを正確に知識として持っていて、それを伝えるのが「福音宣教」でしょ。イエス様の教えは「カテキズム」に詳しく書かれているから先ずそれを覚えることが大切なんだ。つまりですね、「福音」とはイエスによる全人類の救いが十字架上で実現したということであって、イエス様への信仰を抜きにして「救い」はないという人類へのメッセージですよ。
どうもこの辺のことが、第二バチカン公会議以降不明確になっていて、ローマも引き締めに入っているのは当然なんだ。現在の教会が盛んに強調している福祉だの弱いものへの奉仕とか、ボランティアー活動を福音宣教のようにカン違いしている人が多いのは問題なんですよ。
40 代男性
福祉とか弱い人々への奉仕を僕は、反対はしない。福祉は教会の 2000 年の歴史の中で重要視されてきたことだと思います。アメリカの教会では日本よりはるかに信徒が活発ですよね。でもね、福祉が福音宣教であると考えられていたわけではないと思いますね。その意味で 70 代さんに同感です。
70 代男性
福祉の問題は後で話すとして、まず「福音」ですが。「福音」とは我々の生きているこの世で実現することではなくて、イエスにおいて約束された死後に与えられる永遠の救いを云うのだと僕は思っています。この世での「救い」は秘跡、とくに「洗礼」と「ミサ」によって与えられるものであり、それを「福音」と呼ぶこともできるだろうね。
だから、「福音によって変えられる」とは、秘跡によって起きる神秘的な出来事なのであって、内的出来事と言って良いと思うのね。使徒たちだって、復活されたイエスに出会っているのは内的な神秘体験としてでしょう。その意味では我々と変わらないのね。ともかく今では「福音」は教会を通して司祭から与えられるのですよ。司祭をないがしろにするようでは「福音」は体験できないのね。なぜって秘跡は神父様からいただくものなのだからね。
今日のテーマは「福音によって変えられる」ということだから「宣教」には深くは触れないけれども、「宣教」は 2000 年来司祭の仕事であったのですよ。信徒が宣教などして喜ばれると思いますか。されるほうだって嫌だと思うよ。誰だって、資格もないし、専門的教育も受けていない人から説教されたくないものね。
40 代の男性
それではなぜ最近の教会は「信徒が宣教をすべき」だと言ったり、信徒は「福音によって変えられた者」であるといったりするのだろうね。
70 代の男性
それは司祭の数が減少してきたからさ。公会議のあとには信徒の一部の人が教会で教えたりしていることもありますが、問題も多いいからね。自分の限られた信仰体験だけで教えられたら困るんですよ。教えの内容を明確にしておかないと大変なことになるとローマは心配して「カテキズム」を新たに書いたのさ。だから、信徒が確りとカテキズムを学んで教皇の話をまじめに聞いてそれを伝えるなら、問題は少ない。しかし、教える人は、その前提として、ミサにあずかりご聖体によって変えていただき、「ゆるしの秘跡に」しばしば与ることが大切なのだということですよ。
公会議以降のカトリック教会は伝統からかなり逸脱しているのは嘆かわしい。宣教は神父様とか司教様とかにお任せておけば良いのです。信徒が宣教をした時代など教会の伝統には殆ど見られないでしょう。これは専門家の担当領域なんですね。信徒に出来ることは教会に関心を持った人に出会ったら神父様をご紹介することですよ。全ては聖霊の業なんですよ。その辺のところが一番大切だと思うのね。だから、聖霊によって導かれて新しく教会に来られた方を案内する「案内役」が充実している教会には洗礼を受ける人が多いのね。これこそが信徒がやるべきことですよ。
「福音によって変えられる」ということに関しては、洗礼を受けることで「救われるのを新しく生まれると」表現しているのですね。洗礼が「福音によって変えられた」しるしでしょう。
使徒たちに、今で言えば聖職者達にといえるのですが、使徒に命じたマタイ 28 章の「宣教大号令」によれば、「教えを宣べ」、「全ての人を弟子にして」、「洗礼を授ける」こととが求められている。我々はその命令によって、広められた教えを受け入れて、洗礼をうけたものなのですね。三回めのテーマに少し触れますが、福音宣教の目的は「洗礼」にあることは聖書にキチッと書かれているのですよ。それを疑ってはいけない、「福祉」ではないのですよ。
場面2 自分が「福音によって変わる」なんて思ったことはない:
40代の男性
僕は大学時代に洗礼をうけたんだ。ある意味で 70 代さんの言うとおりです。教会の教えというものがあって、フランスからはるばる来られた立派な宣教師の方が、親切にして下さり、精神的に苦しんでいた私に、やさしく悩みも聞いてくれたしね、それで何かこころが晴れたような感じで、洗礼を受けたんだ。何か大変「聖なるもの」に与ったといった感じでしたね。
でも、「自分が変わる」なんて考えたことはないな。その時は福音宣教が信徒の使命で義務だなんて聴いたことはないな。信徒になると「自分を変えて、 他者 ( ひと ) に「福音」を伝えなくてはならないなんて聞かなかったとおもうよ。「新しく生まれる」という言葉は確かに聴きました。それは教会の一員に加えられるということで、教会からみて新しく生まれた仲間という意味じゃないかと思いますね。洗礼式の式文にも「宣教をしなさい」という言葉はないんじゃないか。聞いていれば洗礼を受けなかったかもしれないね。自分には出来ないことだからね。
「キリスト者として生きるとはイエスに従って生きること」と教わったのですが、そうありたいと願っていますが、うまくいかないであれから 20 年たつのです。だから、僕の場合「福音」て何かと聞かれるとこまるんですよ。「福音によって変えられたか」と聴かれるのも困りますね。洗礼を受けて変わったとも感じていないし、多分殆ど変わっていないのではないですか。
サラリーマンやっているので人とあまり違ったことは出来ないですよ。サラリーマンやってきた人にはわかると思いますが、現実には、なにも出来ないのですよ。チヨットした親切はもちろんします、悩みのありそうな人には声をかけ励ましたり、病気の人のために祈ったりはしますよ。
場面3. 信仰体験としての「福音」が真の福音
50 代女性
「福音宣教とは福音に接したものが其の体験を伝えることである」という話を聴きますが、誰か福音を体験した人がいたら話して欲しいな。(みなを見回すが、みな黙っているので話し続ける)
洗礼を受けたのは福音体験をしたからなんでしょうかね。体験をしてわかったからではなくて、分かりたいから洗礼を受けたのではないのでしょうか。つまり最近よく言われている、「生涯教育」ですよ。生涯かけて「まなび」の道を歩むということなのではないですか。其の過程で「福音体験」をする人も当然少なくはないでしょうね。
私は 他者 ( ひと ) に何か自分がわかったからそれを伝えることが出来るとは思われないのね。しいて言えば「共に歩もう」とかいった感じではありませんか。教えようとする姿勢があると、一番大切な「他者を大切にする心」をなおざりにしてしまうようなところがあるし。こちら側はわかっているのだが、そちら側はまだ分からない人といった区別が引かれているような差別意識を感じてしまうのでしょうね。他者に優しくするといっても、たまに会う人にはできても毎日接している人にはむしろ出来ないことが多いのね。
それにね、最近は情報化の時代といわれて、福音宣教のやり方や、あり方が違ってきているんじゃないの。最近のカトリック新聞に書いてあったのだけど。「心のともしび」が先月終了しましたよね。 40 年間続けて成果を挙げたようですね。「マスコミ宣教」というらしいのね。インターネット宣教にも関心を払い新しい時代のやり方を考えなくてはいけないんじゃないかと思うのね。
意見交換
(意見交換の内容は聞き取りにくいところがかなりありました。記録は記録作成者の理解と判断の範囲内で書かれたものですので誤解や抜け落ちがあるかも知れません。文責は記録作成者です。)
私は授洗の前と後とではものも見方、考え方、生き方が変えられたと思います。人生の基本となることがもてたと思うのです。自分にとって大切なものは何かがわかったと思います。つまりそれが人生の土台となりました。はっきりとはいえませんが自分がとても大切なものをいただいた気持ちがいたしました。
成長してある年齢になってから自分から求めて洗礼を受けた人と幼児洗礼ではニュアンスが少し違うとおもう。長年教会の中で育ってきた私ですが、変わったとはいえないのではないか。自分の育った教会では家庭集会が二週間に一度開かれていました。各回ごとに聖書を分かち合い学んでだことを次の会までに生活にどの様に生かすことができたのかみなで次回反省して、もっと確りと福音に行きましょうねとみなで約束して、また新たに学び合う集会が長年続けられていました。しかし振り返ってみると、自分の生き方は変わってきたと感じられないのです。自分なりにこれだけ成長しているのかわからないのです。
完全さを求めてなどととてもいえなくて、今年も家族でみなで反省したのですが、自分自身が情けなくてしかたがないのですが、それでも洗礼を受けていろいろなものをいただいたと感じます。最近になって、洗礼を受けてからどの様に生きてきたのかと過去を振り返って見て、信者として最低だと思いますが、洗礼を受けていただいたもので生きてきたように思えます。でもそれを人に伝えることは出来ません。しかし、もし可能であれば自分が生きてきた生き方で周りの方に少しでも何か考えるきっかけを与える、それを自分では分からなくても、何か気が付いてくれたらそれで良いのではないかと思っています。
40 年近く音楽教員生活をしてきました。宗教は学校の中ではご法度です。何も言うことが出来なかった。しかし、シナリオでも言っていたように、助けを必要としているこども達の面倒は良く見たつもりです。あるとき自分の担任でも無い一人の卒業してゆくこどもから「先生は何か信仰しているの?」と聞かれ驚いたことがあります。教員生活でこどもたちから学んだことは「話を良く聞く」ということでした、今で言えばカウンセリングの精神でしょうか。
成人洗礼ですが、自分は変わったなと思っています。先月 94 歳の父親がなくなりました。親戚もみな仏教徒で仏式の葬儀をしました。洗礼も可能でしたが自分の心はその方向に動きませんでした。通夜の晩にはみなで写真を撮る慣わしがあります。みな数珠を手にします。自分は数珠は持っていないので、葬儀屋さんが渡そうとしたのですが、自分はカトリックだからと言いました。兄貴もそうだよね「お前えはカトリックだよね」と言ってくれたのです。この出来事で自分で何を言いたいのか分からないのですが、宣教ということを考えながら思い出しました。
福祉は社会に生きる人間が制度の中でやれることに限度がある、一方、福音のほうは人間の力だけで伝えられるものではない。福音の方は失敗しても許していただけるところがある。福祉と福音はかなり違うと思う。幼児洗礼のことでは、福音化されてゆくプロセスというものがあると思います。こどもたちに幼児洗礼を授けてこどもたちから成長過程で反発されたことがあるます。こどもの云うことを聞きながら祈りました。待つことも必要でしょう。自分の生き方の証では、信仰の仲間の中でいかされた実感を持って居ます。これは幸せでした。福音に従うとは神さまが使って下さっているということで、喜びは人によって違います。人と人とのかかわりの中で、相手の喜びが互いに伝わりあって行くような伝わり方が良いなと思います。してもらいたいように人にもしましょうというということですが、神様がして欲しいと思われているのは何なのかとおもってかかわりをもてたら良いのかなと思います。
自分のことというより周りの方の体験からのことですが、しばらく教会にいけなくて、行ったとき、席が一番前にしかなくてそこに座った。その席は神さまが自分のために用意してくださったのだと感じたと仰った方があります。子供の友達が交通事故で頭を打ったと聞いて祈った一週間で回復された祈りの力を体験した方の話もあります。困った時に神さまは本当にきいてくださる。ある熱心な年老いた信者が臨終の時に司祭を呼んでほしいというのに司祭がおられなくて、起き上がられて神父様が来ないといわれた。やっと神父様が来られると安心したようになられその日のうちになくなられた。その様子を見ていた子供たちはお祖母ちゃんは本当に信仰に生きたのだなと感じて、孫たちも教会に来るようになった話があります。神さまはそれぞれの場を用意してくださっているのが分かります。人間の業ではないと本当に思います。
3) PART U
場面4. 歴史的に考えてみる − 公会議前まで
40 代男性
「学び合いの会」でもホームページを開いていますよ。アメリカでもインターネットの力はすごいですよね。信徒の積極的な発言がそこでなされていますでしょう。
ともかく、少し歴史的に見てみたいですね。植民地時代の開始と共に云われ始めたのが福音宣教ではないのでしょうか。それ以前にはヨーロッパ世界は宣教という考えは必要がなかったと思います。植民地世界に司祭が派遣されたのが宣教師でしょう。つまり宣教は宣教師の仕事であったわけです。植民地に金儲けのために乗り込んだ信徒達がひどいことをたくさんした。彼らは福音によって変えられていなかったということでしょうね。一部の宣教師も同調したかもしれないが、殆どの宣教師は文字どおり「霊魂の救い」のために命を捧げて頑張ったんでしょう。
50 代女性
ところで宣教師が宣教をした結果、日本にも数は少ないが信者がいるのは確かですが、それでも、本当に「福音」は伝わったのかな?
40 代男性
宣教師は日本に来て一生懸命働いて、信者が増えたでしょう。ですから迫害が起こると多くの信者が殉教して聖人もでましたね。転ぶ人もでましたけど。しかし、宣教師の目指していた宣教方法は権力者に近づいて一括して信者化するような手法であったようですね。これはヨーロッパでのキリスト教勢拡大の手段と同じでしょうかね。ヨーロッパ全体のキリスト教化は殆ど政治の次元でおこなわれたと思われるのでね。今日言われているような「福音によってかえられる」的な発想があったと思われないのですが。第二バチカン公会議以前には、このような考え方で「福音宣教」を実践した人は殆どいないのではないでしょう。
ほとんど強制的に、むしろ暴力的にキリスト教化された人々を先祖の持つ人々は南米では特に多いでしょう。植民地時代の宣教の考え方と現代とは全く異なった考え方をしていると思うのですが、現在の 10 億人のキリスト者のうち、ヨーロッパ以外の地域の信者のほとんどは、それら植民地時代の落とし子たちなのではないでしょうか。
我々も含めて、彼らには福音が伝えられているのだろうか?確かにキリスト教文化は伝えられて今でも続いています。 「福音によって変えられる」とか「福音とは」を考える前提として歴史的現実を理解しておく必要があると思うのですが。
− 公会議以降
50 代女性
第二バチカン公会議までは、ほとんど信徒の役割など語られたことはなかったでしょう。公会議後盛んに信徒の役割が論じられた時期があって、「信徒使徒職」ということが云われ研修とか黙想とかが東京教区でも企画実施されたのですね。しかし、この動きは小教区には反映しなかったと思うのね。しばらくすると、公会議の反省とか反動とかがあって、運動が停止して、現在ではほとんど聞かなくなりましたね。
其の時代に新しい教会を信じて積極的に参加した当時の若者もかなりの年配になっている。みな挫折感を味わったのではないでしょうか。期待は裏切られたといった感じね。いまさら「社会の福音化が信徒の役割ですよ」なんて、若い司祭に言われたくないね、と言っていた高齢者もさっき何人かいましたよね。でも帰ってしまったのかな。
40 代男性
その後にナイスがありましたよね。日本における福音宣教に関する公会議以降の主な出来事をザーッ ト 振り返って見た方がいいと思うよ。
1968 年に公会議が終了。 1977 年にパウロ六世勧告「福音宣教」翻訳。 1986 年に第一回福音宣教推進全国会議。 1988 年 NICE 2と続く。
日本の教会をあげて「福音宣教」に取り組んでから20年がたちました。しかし、その運動の評価分析が未だされていない。これをチャント ト しないとみなが前に進めないんじゃないかな。
50 代女性
わたしはナイスに積極的に参加したひとりです。文章に書かれたこととしてはパウロ六世の勧告「福音宣教」にも、 NICE 1,2の解説書にも知識として必要なことはみな書かれているのですよ。「福音宣教とは何か」、「福音宣教の内容」、「福音宣教の方法」、「福音宣教の対象」、「福音宣教の働き手」、「福音宣教の精神」について。
ナイスの主張した要点は「みんなが福音宣教者になること」「宣教の場は日常生活の中に」「具体的な方法は様々」「信仰体験を語る」「信仰の内容を紹介すること」「教会共同体と一致して行う」「信仰の遊離から抜け出す」「社会と共に歩む」「生活を通して育てられた信仰」「福音宣教をする小教区」・・・・・・・チャント ト 書いてあるのだから。ポイントは福音宣教には歴史的にも現代的にもいろいろな考え方があって、それをどの様に融合して、一般信徒に分かる様にするかにあったと思うのね。それを今更ここで復習しても仕方がないでしょう。だって、ナイスは成果がなかったといって言うんでしょう。
4 0代男性
森さんはナイスの反省と評価をすべきだと最近のカトリック新聞でも書いていますよ。それはそれとしてちゃんとやりたいですよね。
50 代女性
教会のやり方は官僚的体質というのかな。結果責任を明確にしないでしょ。日本の官僚と似ているな。やりっぱなしなのね。これじゃ民主主義社会の考え方に訓練された庶民はついていけないよね。
4 0代男性
ナイスの成果が上がらなかったのは、頭だけで考えているからでしょうね。実践しながら結果を常にフィードバックするようなやりかたが必要だと思うのね。現実の世を体験しながら、試行錯誤するやり方が必要なんだろうね。そんなこといったって現実にはできないけどね。専業としてやれるわけじゃないしね。ともかく、体験的に理解していた人が参加できないからじゃないのかな。わかんないけどね。
60 代女性
この運動には信徒もかなり参加していたのではないですか。
4 0代男性
そうなんですよね。でもね、日常生活にくたくたになっている人はそんな集まりに参加でいませんよね。それはともかく、これだけ司教達がやる気を起こしたことは、これまでの日本の教会では始めてのことでしたね。
どこか何か決定的なところで食い違いや誤解などの問題があるのだろうね。それを見つける必要があるだろうね。もしかすると矢張り一般信徒が福音宣教など考えるのは無駄だということかもしれませんね。安易に考えすぎていたのかもしれないですね。立派な修道会がかなりの勢力を、人的にも経済的にも投入しても、駄目だったのだから。修道会の人たちからはナイスはかなり冷たく眺められていたんじゃないですか。
ともかく、個人の福音化と社会の福音化を区別して考える必要があるように思うな。「福音によって変えられる」は個人を前提に考えるときは良い表現かも知れないけれど、社会を対象にするときには「福音化」のほうが分かりやすいように思われるんですけど。
意見交換
自分の父親は教会に甘えているタイプの信者でしたが。あるとき「信徒使徒職」ということを言い出してとても嬉しそうにして、教会に盛んに行っていたのを思い出します。信徒使徒職も司教とか司祭が言うからその会議にでるというような発想では駄目だと思ったのです。それでは教会は変わらないのです。権威に依存する発想でやっているのでは変わりません。そのようなタイプの人が集まってやっても教会は変わらないのでは無いでしょうか。ナイスも同じでしょうね。
植民地政策と連動した宣教が行われたというシナリオの部分がありますね。そこで、宣教の方法と福音化の本質的な内容は関係するものなのか疑問がわきます。植民地化による信仰は違ったものであったのか、あるいは同じものなのか。別の言い方をすると、教え方によって、神父様によって、信仰の本質が異なるのか、ということをどのように考えたら良いのでしょうか。
南米の植民地時代の宣教のあり方は事実ひどいものが沢山あります。その伝統を引きついでいる南米の信者たち、現在のカトリック信者の多くを占める人たちが、、違った信仰を持っているとはいいにくいところがある。シナリオでは文化は伝わったけれどもという言い方をしていますが、分からないところがある。神さまは歴史の中で善も悪も使われるという考え方があります。そのような理解で分かったように思うならそれで良いかもしれないが、もチョットこの辺のところをキチット出来ないかと思うのです。歴史にこだわるのと、歴史を無視して信仰の凄いものに飛躍してしまうのは両方ともまずいのではないのか?歴史的にしてきたことと信仰の本質とを見直す必要があるのではないのか。現代日本にはこれらの歴史にもかなり通じている人々は少なくない、彼らにどの様に答えるのか。
それは悪であると言えば良いのではないですか。
それも一つの考え方でしょ。いろいろ考え方を出してみるのが良いのではないでしょうか。福音化の方法と伝わる内容の問題は重要なのでは無いでしょうか。
「学び合いの会」はこれまでもそのような話し合いをしてきましたね。
教会には人間的な面が沢山ありますね。先ほどの司祭の差と伝わる信仰の内容は、現実には様々な司祭がいる、かなり異なった教え方がされているだろう。信仰に違いがあるのかと問われればそうでもなさそうだと思いますが、根本的なところでリーダーシップを発揮されている方は神さまなのだということですが、でも、そちらだけを云ってしまうと。もう何も話などしなくても良いということになってしまうのではないでしょうか。
その通りですね。そうなりますね。
キリスト教化された人々とキリスト教文化というものがある。教義を優先させた宣教があった。聖書に基づいて日々に福音化をされながら生活するのを大事にしようというのが現在。福音化は大切ですが、南米の人々が否定されることではないでしょうね。このように簡単にしてしまって良いのでしょうか。
話は簡単にしないと理解できないから簡単にすることは良いのでは無いでしょうか。福音化の問題には個人の側面の社会の側面から考えられるので、個人が福音化されるならば社会は福音化されるはずだと考える考え方もありますが、そうでも無いと言うところもある。社会を変えるということを盛んに教会でも言っておりその役割が信徒にあるというけれども、どのようなことを社会の福音化ととらえているのかもう一つ良く分からないところがあるのではないでしょうか。 2000 年もたってどこかに福音化されたところがあるのかと問えばどうでしょうか。無いのではないでしょうか。福音化を考えるとき何をイメージすることが出来るのかみなで考えたいですね。
+ その問題は PART Vに係わりますので次の方のご意見をどうぞ。
良く体験することだと思いますが、知人から、キリスト教には関心はあるけれども、キリスト教の過去には沢山の問題があると言われた経験はみなあると思いますが、ときにどのような返答が出来るのでしょうか?
人がやったことと神様がやられることは違う、その辺のところが不思議だ、という言い方が一つあるでしょうね。わたしの知人には知的な人が多くて自信を持っている無神論の人が多いのですが、そのような人からはそのような問いがでますね。その反応は「全くくだらない」というのと「そういうこともあるだろう」で不思議があることまでは認めるがそれで終わってしまう。その辺が福音宣教の時の悩みですね。
健康で今大きな問題が無いときにはそのような反応になるのでしょうが、そうでないときにはまた別の反応があるでしょうね。苦しみのあるような場合にはなにかそのような疑問はスーッと通ってしまうところがある。問題があるときや死に直面したときとにはまた違う形がある。福音宣教をするという意識ではなくて自然に行うことがある。その意味でみなそれぞれの場に派遣されているのであって、必要な時に誠実に答えることが大切になるでしょう。
自分の生き方ということが係わると思いますが、そこではパワーが無いのですね。人間的な面から云えば宗教団体としてのカトリックといった立場で話をすると何がパワーなのかそれを支えている組織などにかかわってくると事柄が生々しくなってくる。
現在の日本のカトリック信者は 40 万程度で海外から来た人の方がその数よりも多いといった状況を考えるとき、日本での福音宣教に妨げになっているものは何か。ある人は数が問題ではない質が問題だといったりする。
福音宣教という問題は日本の状態、 40 万程度しか居ない中での宣教を考えると強烈な問題意識が出てくるけれども、ヨーロッパなどで福音宣教を考えるのとは全く違ってくるのではないか。欧米のキリスト教の国で福音宣教を考えるのではなくて、日本でこそこの問題を考え直さなくてはならないのではないかと思うのです。ともかくこれまで云われてきたことではなく、それを一度壊してみて、考え直したいと思うのです。一年間掛けてみなで考えいろいろな考えはあるにしても一人一人が自分なりに、福音とはこうなんだ宣教とはこうなのではないかと言うイメージがもてれば良いと思います。
アメリカの一般信者が福音宣教を考えるあり方は、日本人の私達とはかなり違うとおもうのですね。福音宣教は彼らにとって意味は持ちにくいのではないか、だから宣教と言う時に福音化を意味するエバンジェライゼイションと言う言葉が通常、使われていて、それは信仰者は絶え間なく福音化されなくてはならないと言う考え方として理解されそれは意味を持っている。一方、日本では自分が変えられてゆくと言う以前に、福音を伝える必要のあるものとしての福音宣教が問題にされるのでかなり違うのではないか。
歴史的に考えてみようと言う部分なので、もう少し歴史的な側面から話し合って見たいのですが、一度に沢山の人が改宗させられたような宣教の方法には問題があったかもしれないが、その時何を伝えようとしたのだろうか?また公会議でいろいろなものが変わったわけですが、それと福音宣教とはどの様に関連するのか。ナイスなどでは福音というものをどのように考えをどの様に伝えようとしていたのでしょうか?
公会議では神の民はみな同じであると言うところが強調されたのではないでしょうか。派遣された宣教師は植民地でその民族の必要に応じて語りかけ説教が出来たと思います。その地方の状況に応じて伝えられたのではないかと思います。
別の観点からの発言ですが、南米はスペインとポルトガルですね。北アメリカのほうはドイツとフランスとイギリスです。物の考え方が違って居ます。ヨーロッパの現状ではフランスよりもスペインやイタリーなどの方がカトリックの信仰があるように思われます。そのような民族的な違いがどの様に関連しているのでしょうね。
宣教と言うのは中世以前のヨーロッパにもあったでしょう。
ローマ支配と関連して植民地支配的な動きと似ていた面が強いのではないか。ともかく政治的に一括して改宗させられた人の方が宣教活動によって改宗した人よりはるかに多いのは事実だと思うのですね。権力者を改宗させてその支配下にあるものを一括して改宗させる手法は、日本の宣教にも適用されている。プロテスタントとカトリックが戦争状態を終結する時にも領主にはカトリックかプロテスタントの選択権はみとめられたけれども庶民には認められなかった。
公会議以降に洗礼を受けましたのでその前のことには発言する資格はありませんが、第二バチカン公会議は 20 世紀最大の革命だと思います。それが徹底するかしないかは時間の問題でしょう。カトリック教会が過去の歴史に関し懺悔したということは決定的なことでしょう。それを日本の信者がどの様に徹底させるかの問題はあるでしょう。現在の自分の所属する教会では日本人とフイリッピン人は殆ど同数です。彼らにとって福音宣教とは何で彼らを支えているのは何であるのかはっきり認識できます。それは植民地があったキリスト教が伝わったのは彼らにとって凄い恵みであったと思います。その信仰の深さは残念ながら日本の信者には無い。福音に対する喜びも日本人には無い。彼らと日本の信者との差はそこにあると思う。歴史的に問題にするのは自由だが、自分にとっては彼らが真の信仰を持っているのを知ることが出来たのは大きな励ましになります。
4) PART V
場面5. 「社会の福音化」も考えなくてはならない
50 代女性
はい第一の疑問です。「社会の福音化」というけれど、 2000 年たってみて、 10 億人の信者がいて、キリスト教信者が大半の国がいくつもあるのに、「福音化された社会」は“ここだ”と云うように国とか地域を挙げられますか。
歴史的にみてもヨーロッパはキリスト教国であって、キリスト者以外生活できないシステムが長年存在してきたのに、これらの国は「福音化」されたの?それに信者たちは「福音によってどの様に変えられた」のだろうか。
70代男性
近代社会は教会の教えをないがしろにして、みなが自分勝手に判断するようになってきたから、混乱がおきてきたのさ。それまでは政治的にはいろいろのことがあったかもしれないが、一般信者は教会の教えを信じて、ミサに毎週行き、秘跡に与り、一般人としての信徒はそれなりに安心して生き死んでいけたのさ。困ったことがあれば教会が面倒をみてくれたし。修道会も福祉事業を熱心におこなっていた。
学問にしろ医療にせよ、みなカトリック教会が始めたものさ。個人主義とか自由主義や民主主義の反キリスト教的な力が増してきたから、こんな状態になったのだと僕は思いますね。教会というところはこの世とは全く違うのね。権威を取り戻してもらわないどうしようもない。みなが勝手な考えを言い合っているのでは解決しないでしょ。
50代女性
「社会の福音化」ですが、問題は個人が福音で変えられるなら必然的にその人たちが属する社会は「福音化」されるのですか。教会の教えている説明の中にはそのように考えているように理解されるものがありますよね。
歴史的にみて、彼等の属している社会自体は福音化されたのかどうか疑問であるだけではなく、「教会」そのものが「福音化」されているのだろうか、という疑問もあるのじゃない?正直言って、「教会」が社会の福音化の模範とかモデルになりえているのか疑問を感じているんですよ。
其の点から言っても、「社会の福音化」を考えるなら、現代のホットな問題にも応えなくてはならないじゃないですか。司祭の独身制の問題・性的虐待の問題・避妊堕胎の問題・特に性の問題は大きいのではないでしょうか。
表向きこの問題を語る人が日本の教会に殆ど見あたらないのはどうしてでしょう。教会の教えに忠実なんでしょうか。日本では夫がキリスト者ではないご婦人は多いと思いますが、結婚しようとしている娘や息子にどのように説明できるのでしょうか。勝手にやってくれているから良いようなものですが。最もホットな現代的な福音的テーマかもしれないですね。
60代女性
教会の外に向かう前に、教会の内部、家庭で既に問題が起きているということですね。夫は信者ではないのだし、私達自身も福音で教えられているような生き方が出来ているわけではないし。自信をもって、家族にすら、福音を述べ伝えられるという人がどれだけいるのでしょうか。教会が「福音で変えられた」人々の集まりであるとは、恥ずかしくて到底いえないし、「社会を福音化」すべきなどと言えるのでしょうか。
50代女性
教会の不完全さや信者達の不完全さに関して、途上にあるので絶え間なく回心が必要であるといわれていますよね。でも2000年の歴史がすぎているのですよ。これをどの様に考えます?
40代男性
信徒がもっとチャント福音に従って生きないから駄目なんだという考えは強いですよね。一寸ずるいかもしれませんが、それはさておいて、話を現実に戻して、「社会の福音化」といえば、最近の出来事では、アメリカのブッシュ再選とカトリック教会の姿勢が問題にされていますね。教会の強権を持って、「中絶に賛成の政治家は秘跡に与れない」といったようなやり方は問題と思いますよ。避妊・堕胎の問題が政治に利用されて良いのだろうか?
それに、ブッシュの政権を結果的に支援してしまったカトリックは、アフガニスタンやイラクの戦争に関してどの様に責任を負うのか?「福音と政治との関係」をよく考えておく必要があるのではないか。アメリカのニュースを見ると盛んにこの辺が論じられているのですよ。日本にはカトリック政治家は少ないので現実的問題ではないだろうが、他人事では済まされませんよね。
50代女性
教会の言っていることの中には信仰者が疑問と思う事柄は少なくはないですね。避妊に代表される性の問題もその一つでしょうね。中絶の問題も論議されなくてはならないでしょうが、中絶の問題は避妊の問題と直接関連していますよね。避妊の問題をみなで考えるべきではないでしょうか。これこそカトリック信者の夫婦にとっての「福音」になるのではないかと思います。なんとなく後ろめたいような生活を続けていると、人生に自信がもてなくなりますよね。
自分も出来ないし納得もしていないことを人に勧められるのでしょうか?友達の中にはカトリックも悪くはないが、避妊も離婚も認められないのでは躊躇してしまう、という人がたくさんいるのです。教会が教えていることを福音として自信を持って伝えられる人がどれだけいるのでしょう?
40代男性
制度的にも納得できないことが多々ある。教会の権威が神学者に対する、やり方は、福音的とは思われないことが多い。第二バチカン公会議以降で破門になったのは殆ど司祭だろう。
50 代女性
今の時代では破門になっても生きていける良い時代になりましたけど、昔は死刑と同じほどの意味があったのではないですか。神学者はカトリック大学以外で教え続けられるから良いでしょうが、今でも一般司祭は破門になったら食べていけないのではないですか。信徒はその辺安心していられるので有りがたいですよね。
40代男性
本当に信徒が安心していられるのだろうか。僕はそう思わないな。カトリック政治家に対して圧力をかける教会が秘跡を政治的に利用しているアメリカの現在の状況を見ると安心などしていられない。ローマはこれまでは神学者を対象にして圧力を行使してきたが、これからは、政治家、それに医師とか技術者など一般信徒に対しても圧力を強める傾向にあると思うのですが。
50代女性
信徒一般が確りしないととんでもないことになるのではないか心配ですね。「ローマの発言が、自分には関係ないと思っているなら、危険である」とドイツの教会法学者が数年前に云っている記事を読んだことがあります。
「疑問に感じたら発言しなくてはならない」とその神学者は言っています。信仰生活に直接影響を与える事柄が多いので、まじめに信仰をとらえる人ほど大きい影響をこうむるのですからね。そして、我慢できなくなれば、教会を離れてゆくことになるのでしょうね。「カトリック教会に留まりたいなら、教会の指導者の言うことに耳を澄ませて、おかしいと感じたことは疑問を投げかける必要があるのです」と云っています。放置しておくと、ローマが発言したことは教義と同じように解釈されて運用されてしまうからなのです。今回のアメリカの政治家が思い知らされているのが其のケースでしょうね。
40代男性
言ったって聞かないでしょうが、何も云わないで不信に陥るのが一番まずいのではないでしょうか。疑問と不信とは違います。疑問を疑問として明確な言葉として問いかけるべきでしょう。その疑問は、教区長に向けて発信すべきでしょう。制度的な責任者ですから。
60代女性
わたくしのこれまでの人生は、子育てと、両方の親の介護、そして過労から精神をわずらい職につけない夫の面倒をみながら、パートで働いて何とか食べてきました。次から次に起こる問題を抱えていて、教会にも月に一度もこられませんでした。
ただただ、イエス様におすがりするしかどうしようもないのです。教会の教えとか、信仰とか、福音とか、宣教に関しては全く、意識をしたことがありません。ですからこの場で何か話す資格はないのです。
ただただ時々お聖堂で静かにイエス様に苦しみを訴えて祈り、力付けられてこれまで生きて来られたと思います。でもね、久しぶりに教会に来られても、神父様のお説教で厳しいことを聴かされて、もっと十字架を担えと言われると、その通りでしょうが、辛いのです。神父様は役割としておしゃっておられることでしょうが、帰り道では涙が出てしかたがないことも多いのです。
子供は4人幼児洗礼を授け、小さい時には子供の聖書を読んで聞かせて、自分にとっても大変勉強になりました。毎晩寝る前の祈りをしたものですが、障害のある子供だけが、今でも教会に一緒に来ているだけで、残りの3人は全く教会から離れています。一人は結婚も教会ではしていません。もう一人は教会でカトリック信者と結婚して離婚しました。教会に戻りたいと本人は言いますが教会が受け入れてくれません。こんな状態で、家族にすら信仰を伝えることが出来ていないのに、どうすれば福音宣教など出来るようになるのでしょうか。だれか教えて下さい。
でも、私は、うまく説明は出来ないのですが、大丈夫のような気がしています。イエス様の愛は人間には推し量ることが出来ないぐらい大きいのです。私のような教会の教えについては昔の公共要理を少し学んだ程度で、そのほかには何も勉強していないものにでも、それは分かるのです。
それに神さまは日常の出来事の中で、本当にしばしば助けに来てくださいます。数え上げたらきりがないくらい、助けていただきました。感謝、感謝です。それを信仰体験と言うのかどうか分かりませんし、人生の出来事は人には言えないようなことが多いのですね。無論自慢に出来ることは何もありません。イエス様が教えられたことは、「人が大切にされなくてはいけない」と言うことではないかとおもいます。
わたしは周りにいる人で同じような苦しみにある人に出会うと、話しかけたり、話を聴いてあげたりします。そして、いつも夜にはその日に出会った人のために祈ります。悩みが解決したかどうかは分からないことが多いのですが、私を助けてくださったイエス様はあの方を見捨てることがない。かならずイエス様のやり方で助けてくださっていると思っています。
苦しんでいる人に接するとこの方もご聖体をいただけたらどんなにか素晴らしいのにと思うことがあります。子供が登校拒否だとお聴きしたり、優秀で期待していた息子さんが統合失調症になってしまい絶望している方とか、ご主人がリストラで仕事を失ったとか、介護している親に盗人扱いされたとか、様々な方がいらっしゃっても、私には殆ど何も出来ないし、本当に悲しくなって、お祈りするだけです。なんで、なんで、と叫びたくなることが多いのです。
20代青年
先ほどから、皆さんのお話を一寸立ち聞きしていたのですが、僕にも云わせてください。
カトリック教会が目指しているのは、教皇様を頭にした、絶対権力の構造です。その中でこそ、安定した個人のキリスト教信仰と、イエス様の教えに従ったキリスト教社会が構築できると教会の指導者は考えているとおもうのです。この構造とあり方はイエス様が使徒達に示された教えに遡るので、単なる人間の知恵で考え出したものではないということです。
カトリック信者でありながら、今の大人達のように、教皇様や司教様の言うことを疑うのは不思議です。神さまからの言葉として、従順に受け入れ自分の信仰を確かなものにしようという気持ちになぜなれないのですか。
僕は昨年ワールドユースデイに参加したのですが、参加した多くの若者達は心から教皇様や枢機卿様に信頼と愛情を寄せているのですよ。自分でも愛の情熱を教皇様に感じました。聖霊の息吹に満たされた体験ができました。
ワールドユースデイに参加して、教皇様に従いたいとの篤い思いで司祭になった若い司祭達は、ローマンカラーをぴちっと着こなして、みな生き生きとして権威に満ち自信に満ちていましたね。僕もあのような姿でまちを歩きたいですね。日本でもローマンカラーで黒い司祭服を着ていれば未信者だって尊敬のまなざしてみてくれますよ。僕も神学校を目指すつもりです。
確かに司祭への招きも信仰体験ですから、様々なあり方があると思います。僕のケースが普遍的であるなど主張するつもりは全くありません。ですから、司祭になった動機にせよ考え方にせよさまざまです。ただ共通していることもあると思うのですね。それはイエスキリスト様への忠誠と教会の指導者の方達への忠実に矛盾がないことではないでしょうか。
教会の過去に関していろいろな批判はあるかもしれませんが、それぞれの時代にそれなりの理由があって判断されたことですからね。確かに教会指導者にも人間的な限界があります。
しかしですね、どのような根拠で自分の考えの方が正しいと思うのですか?信仰体験が大切だというものは分かりますが、それだけでは多様性が大きいので、それをいくら集めても正しい教えにはなりません。「カテキズム」よりも皆さんの信仰体験の寄せ集めの方が真理であるとどうして言えるのですか。イエスキリストの代理者として、神様が選ばれた教皇様と司教様への絶対信頼がカトリック信仰の核心なのではないでしょうか。
ですから、司教の分身である神父様の手足になって、教会活動に熱心に努めることこそカトリック信者のありかたではないでしょうか。そのように振舞えるような人になるのが「福音によって変えられる」と言うことだと思うのです。イエズス様は福音そのものです。ですから教皇様が「福音」だと思って従うのです。
さっきブッシュの問題が出てきましたので一言もうしますが、ローマの指導者の方達は世界の福音化に関する戦略をチャントもっていらっしゃると思うのですよ。その一つが、アメリカへの戦略でしょう、教会の教えに反対する政治家を処分したのもその戦略の一環だと思います。教会の教えに反することを公に発言すれば破門されて当然です。信徒でもそうです、特に、公の仕事についている人には厳しく監督すべきなのです。
教会が政治に圧力をかけるのは問題であるようなことをいわれた方がありますが、教会は初代教会の頃から政治権力に対して親和的です。権力者に接近して政治的に教会の勢力を拡大してきましたね。現在でも同様な考え方は続いているのです。これは正しいことなのです。洗礼を受けて教会のメンバーになればそのルールに従うのは当然でしょう。僕も司祭になって教会をもっともっと確りと管理して、忠実な信徒をはげましたいのです。現代の若者は自信に満ちた権威に憧れを持ち、厳しさを求めているのです。
現在世界で一番力があり権力のある国はアメリカです。この指導者達をカトリックの権威のもとに置くことは、世界の福音化への一番近道なんですね。だからブッシュと手を組むこともするのです。教会を「はと」のようなイメージだけで理解してはいけないのです。「蛇のように敏い」のカトリック教会の特徴です。
この次の教皇はアメリカ人だと思いますよ。そうなれば教会の力は絶大なものになるはずです。現在西欧世界で最も宗教的な国はアメリカであるといわれますね。カトリックも増えています。そのようにして「世界の福音化」へむけて次の歩を踏み出すでしょう。
意見交換
+ これまで話し合ってきたことは、これから今年取上げるテーマ全体にかかわりがあるものです。今日は全体をもとおすような話し合いで良いと思います。話は広がってきました。個人が福音化されると社会は福音化されるのか。そうであると言う考えもあるが、現実をみると、教会にしても、社会にしてもそうといえないようにも思われる。家庭の中でも様々な問題を抱えている。教会の権力の問題、憧れの問題もある。
過去の歴史への謝罪に関してですが、自分がカトリック信者であるが故に、カトリック教会の過去の歴史の問題でひどく叩かれ続けた自分の体験を思い出します。自分の夫は最後には臨終洗礼を受けてなくなりましたが、教会の歴史的事柄に非常に厳しい批判を私に向けて続けておりました、夫婦の絆が危うくなるほどの戦いが夫婦間にありました。ヨハネパウロ二世の歴史に対する謝罪を聞いて、夫は正しかったのだと、今はいない夫に対して喜びを感じました。また、同世代の男性から、戦争に関してカトリックを徹底的に批判されたことがあります。もう一つ性の問題ですが若い医学生がカトリック信者であるために病院の産婦人科からはずされるような困難を感じている方がおられました。
自分はプロテスタントに対して違和感を持っているわけではありませんが、プロテスタントの方からはっきり指摘されたことがあります。教皇、ヒエラルキー、マリア崇拝、などです。教えについては、プロテスタントは「イエスキリストが私達の罪のために身代わりになって十字架に掛かられた。流された血によって私達の罪はゆるされたのだ」と言うローマ書に基づく考え方です。カトリックは少し違うみたいです。あまりイエスキリストと言わないみたいです。神様は愛である。どのような罪でもゆるしてくださる。人を殺したような場合は違うと言った考え方のようです。イエスキリストの十字架の救いと言うのが何か強調されない。カトリックの考え方は広いと感じます。今日の本題に戻りますが、何らかの苦しみの中でキリストと出会う信者とそうではない二代目のクリスチャンがカトリックの場合うまく言っていると思う。自分の家族でも息子の方が良く分かっているのではないかと思います。あるマンションを建てる時地鎮祭をして欲しいといわれたことがあります。あるプロテスタントの牧師さんに頼みました。してくれましたが息子に叱られてしまった。
プロテスタントの人たちはカトリックに関心を払い大変良く勉強していると思います。牧師さんの説教にも影響が現れています。良いものは取り入れようと、非常に前向きで勉強しています。先ほどおっしゃことは発言された方の印象だと思います。
時間内で終わらせたいので本題の教会に戻りたいのですが、教えていることを自信を持って伝えられるかと言う問題にはどの様に思いますか?避妊とか堕胎とかに関しても、福音的であると理解する事柄が人によって差があるのではないかの問題などいかがでしょうか。
ある修道会が、強姦されて生まれた子供を養子にするということが言われたときに、感じたのですが、凄い無責任な話だと思いました。その生まれてくる子供の心の傷をどの様にかんがえているのかと。中絶しろと言いたいわけではありませんが、そこには飛躍があって、非常に嫌な気がしたのです。現実の問題を見ないで理想論を言っているところが感じられます。
以上