「いつも困った状態にある教会」 増田師
(「学び合い全国合宿」2005年10月9日(日)講話)
文責:「学び合いの会」記録係
自己紹介
イエズス会の増田祐志と申します。北海道の出身です。洗礼は大学の一年の時に受けました。その後修道会に入って司祭になりましたが、小教区にはかかわることがないまま大学で神学を教えています。担当している科目の一つが教会論です。教会は何かと学生に教えているのです。教会についてのいろいろな概念を使って教えます。
わたしの小教区体験
わたしが洗礼を受けたときには家族で私だけが信者であったのですが、あとで両親も洗礼を受けて教会に行っています。父親はある教会の信徒会長を昨年までしていました。年に何度か実家に帰りますと、夕食のときお酒がはいると、両親から教会のことをマシンガンのごとくいわれます。あの神父さんがこんなことを言っていたが本当なのとか、それは第二バチカン公会議の精神に基づいていることなの、あの神父さんのやり方はおかしいとか、いつも 3時間ぐらいは話を聞かされます。これが教会の現実なのだと思いながら、こんなやり方で一寸とした小教区体験をしているわけです。
話のテーマ
今回のテーマ「教会は頼りになるか」の意味ですが、何かを「頼りにする」のは困った時です。困っていなければ頼る必要はないわけです。頼りにするはずの教会や共同体が困った状態になってしまう、教会の歴史はこの連続です。教会は困った状態にありながらそれを乗り越えてゆく歴史でもある。このことをこれからお話します。
常に不完全な教会
教会が完全な共同体であったことなどはこれまでもなかったと、どなたかが先ほど言っておられましたが、その通りです。教会の完成は終末まであり得ないのです。教会共同体は人間の集まりです。そこには必ず超越的次元があるから単なる集まりとは申しません。しかし人間の具体的な集まりです。具体的場所の中、具体的時間の中、具体的文化風土の中にある集まりです。ですから、文化や場所や時代が変わればその影響をもろに受けます。常に変化に晒されているのが教会です。変化の中で困った状態に陥り、それを乗り越えてきたのが教会共同体の歴史です。
教会の基礎であるイエス・キリスト
教会共同体の基礎はイエス・キリストにあります。イエス・キリストとは、救い主として告白されたナザレのイエスのことです。そのイエスへの信仰が教会共同体を産み今も支え続けているのです。イエス自身はどのような教会共同体の経験があるのでしょうか。イエスはユダヤ教徒として生まれ、その中で育てられ、彼の体験したユダヤ教の中でアッバである神を体験するわけです。そしてユダヤ教徒として死んでいく。イエスも当然彼が所属していたユダヤ教の中で、自らの神体験と言うものを深め、ついには彼の神体験が当時のユダヤ教の枠組みを突破してしまうことになります。
幼子のイエスが成人したイエスと同じことを語っていたわけではありません。子供の頃は子供のユダヤ教の信仰を持っていた。彼に神を伝えたのはその時代のユダヤ教です。しかし彼はそのユダヤ教の枠組みのなかで、彼自身の深い神体験、宗教体験を経て、イエス自身のイエス独特の神体験に到達します。
そこで困ったことがイエスにおきてきます。イエスの時代のユダヤ教が語る、特に当時のユダヤ教エリートや指導者たちが語る「神」や「神の愛」「正義」「救い」と、イエス自身が体験した「神の愛」「神の正義」と言うものがずれ始めていきます。結局、イエスは律法中心主義的ユダヤ教の「救い」の考え方と衝突します。特に宗教指導者であるファリサイ派やサドカイ派の考え方と衝突してしまいます。それはユダヤ教の人々にとっても困ったことであったでしょう。当時のユダヤ教はとりあえずうまくいっているのに、イエスが変なことをいい始める。当時の社会は宗教と政治が完全に一致している社会ですので、宗教の秩序が破壊されるということは、社会秩序そのものが破壊されることです。イエスは、当時のユダヤ社会に秩序転覆をもたらす危険人物と見なされていくようになります。そこで何がおきたのか。イエスは結局彼が所属する共同体から殺されてしまうわけです。
イエスの弟子たち
イエスの宣教の途中に、イエスの活動に加わっていた弟子たちがいます。弟子たちもイエスに対して自分なりの希望を投影し、イエスこそは自分たちの希望をかなえる者であると思って従って行きます。しかし、イエスは弟子たちの期待を裏切るような形で死んでいってしまう。弟子たちも困ったことでしょう。イエスの受難時、弟子たちは離散してしまいます。イエスの逮捕の瞬間から、女性たちをのぞいて、男弟子たちはイエスの元から逃げ去って行きます。弟子たちにとっては、自分の身が危ないという困った体験でした。
ところが離散していた弟子たちが再結集し、イエスの宣教を継続し始めます。これが弟子たちの復活体験と言われるものです。それまでの弟子たちの生き方を根底から覆すような深い宗教体験に見舞われます。そして、イエスが伝えたかった「神の国」「人々に開かれた神の愛」「神の正義」、つまり「貧しい人々、罪人、社会の底辺にある人々を愛する神の愛と正義」を伝える「イエスの宣教」を、弟子たちは継続していくことになります。それも力強く行っていくようになります。
ユダヤ教内のイエス運動
弟子たちも初めはユダヤ教と宗教的アイデンティティーが異なるキリスト教という違う宗教を創設する意志はなかったのです。自分たちはあくまでユダヤ教の一部であって、その中でイエスの宣教活動を継続していこうとします。使徒言行録の初めを読むと弟子たちはユダヤ教の神殿にお参りする箇所が出てきます。これはまさに伝統的なユダヤ教の信仰形態です。しかし、イエスの宣教のそのものに潜むダイナミズムが、結局は、弟子たちの共同体をユダヤ教の枠を突破するキリスト教という別個の宗教に成長させていきます。弱かった弟子たちは、深い宗教体験によって強くされる。しかし、生き方を変容された弟子たちが始めたイエス運動も、すぐに仲間割れが起きます。
ヘブライオイ(ヘブライ語を話すユダヤ人)とヘレニスタイ(ギリシア語を話すユダヤ人)
使徒言行録の 6章1節から6節までを読んでみましょう。
そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである。そこで十二人は弟子をすべて呼び集めて言った。「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。それで兄弟たち、あなたがたの中から、霊と知恵に満ちた評判の良い人を7人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。わたしたちは祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」一同はこの提案に賛成し、信仰と聖霊に満ちている人ステファノと、ほかにフィリッポ、プロコロ、ニカノル、ティモン、パルメラ、アンティオキア出身の改宗者ニコラオを選んで、使徒たちの前に立たせた。使徒たちは、祈って彼等の上に手を置いた。
この物語は単純です、ギリシャ語を話すユダヤ人とヘブライ語を話すユダヤ人の二つのグループが初期イエス運動に存在しており、この二グループの間に対立が生じてきたということです。
パレスチナに住んでいるユダヤ人はヘブライ語を話します。が、パレスチナ以外の土地に住んでいるユダヤ人はギリシア語を話しています。地中海の交易都市、アレキサンドリアやアンティオキアや小アジア(今のトルコ)などに商売のためなどに、多くのユダヤ人が住み着いていました。その町で自分達のグループを作ります。今で言えば横浜の中華街のようなものです。そこに移住した第一世代の人々はヘブライ語を話しますが、子供や孫になると当然その土地の言葉を話すようになります。しかしユダヤ人ですからエルサレムの神殿が中心であるとの意識もあります。エルサレムに行けばイエス運動に加わるものも出てくる。日々の分配のことで仲間の寡婦たちが軽んじられていたと言うことは何かと言うこともあるでしょうが、もう一つ大きな問題は、同じユダヤ人として律法をどの様に守るのかということです。ヘブライ語を話すユダヤ人は厳格な律法遵守を当たり前のこととしています。ところがギリシャ語を話すユダヤ人というのは、異国の地に住んでいますから律法を厳格に守りたくとも守れない状況にあります。守っていたらその土地に住み続けられない状況もあります。律法をどこまで守るのかで、両者の間で相当の開きがあっただろうと思われます。イエス運動に参加している人たちの中に、律法の守り方に関する態度の相違があったのです。
イエス自身は律法をまったく否定していません。「心を尽くし精神を尽くして神を愛しなさい、そして自分自身のように隣人を愛しなさい、これが最も大切な教えである、他の預言や律法はこの最も大切な掟の前には相対化される」と言っていますが、律法はいらないとは一言も言っていません。「人を愛するためなら安息日の規定は相対化される」とは言いますが、安息日の規定がいらないとは絶対に言いません。イエスのライフスタイルの中に、伝統的ユダヤ人の厳格な律法遵守主義と一線を画するものがあったのは事実です。そのイエスの生き方を継続しようとするイエス運動の人々は、イエスが律法に対し持っていたセンスにおいて、自分たちが継続してどの程度イスラエルのライフスタイルを守れば良いのかというところで、ヘブライ語を話すユダヤ人とギリシャ語を話すユダヤ人の間で大きな対立が起きただろうと考えられます。
ステファノ殺害と迫害
最初の殉教者ステファノの殺害もこの文脈の中で理解すべきです。彼はギリシャ語を話すユダヤ人です。イエス運動に参加していたヘブライ語を話すユダヤ人にとっても、ステファノは我慢のならない人物であったでしょう。彼を殺したのはイエス運動に参加していないユダヤ人であったでしょうが、イエス運動に参加しているヘブライ語を話すユダヤ人も、ステファノへの迫害を積極的に阻止はしなかったようです。
さらにステファノの殺害の後、エルサレムの教会に対して大迫害が起こると、使徒たち以外はみなユダヤとサマリア地方に散っていきます。エルサレムの教会に大迫害が起こったのなら、普通はそのリーダーをねらうはずです。しかし、使徒たちはエルサレムに残ることが出来た。これは、ヘブライ語を話し、律法遵守においても従来のユダヤ人たちと似ていた使徒たちに対する迫害はなかったとことを意味しています。逆に、この迫害はイエス運動に参加しているギリシャ語を話すユダヤ人を対象にしていました。このように初代教会においてもイエス運動の極初期から、意見の違いや習慣の違いから直ぐに仲間割れや対立が起こり、ある場合は殺し合いにまで発展していったということです。
ペトロ・パウロ
次に、パウロとペトロです。ステファノの迫害にパウロは手を貸します。その後パウロは回心を経験して、イエス運動に加わり、パウロの活動によってイエス運動は地中海沿岸に広がって行きます。しかしパウロが必ずしもすべてのイエス運動の人たちから歓迎されていたわけではありません。パウロの加入は共同体を強めたという側面もありましたが、共同体に混乱を持ち込むことにもなっています。
パウロ本人が書いた手紙であると考えられている「ガラテアの信徒への手紙」(1:13−2:14)の部分を読んでみます。
あなたがたは、わたしがかつてユダヤ教徒としてどの様にふるまっていたかを聞いています。わたしは、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。(中略)しかし、わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされたとき、わたしは、すぐ血肉に相談するようなことはせず、またエルサレムに上って、わたしより先に使徒として召された人たちのもとに行くこともせず、アラビアに退いて、そこから再びダマスコに戻ったのでした。それから三年後、ケファと知り合いになろうとしてエルサレムに上り、十五日間彼のもとに滞在しましたが、ほかの使徒にはだれにも会わず、ただ主の兄弟ヤコブだけに会いました。
回心後アラビアに三年間引きこもり、それからリーダーであったペトロに会うためにエルサレムへ上り、主の兄弟ヤコボに会ったということです。
その後十四年たってから、わたしはバルナバと一緒にエルサレムに再び上りました。その際、テトスも連れて行きました。(中略)わたしは、自分が異邦人に宣べ伝えている福音について、人々に、とりわけ、おもだった人たちには個人的に話して、自分は無駄に走っているのではないか、あるいは走ったのではないかと意見を求めました。
初めの十年間は、パウロはバルナバと宣教旅行に行きます。ところが十四年後に「無駄に走ったのではないか」と、意見を聞きに行っているのです。当時のパウロにはこの宣教が成功しているとはとても思えなかったということです。彼に全然手ごたえがなかったということでしょう。自分は間違っているのではないかと不安に駆られてエルサレムに戻るのです。意見を求めるために。「わたしと同行したテトスでさえ、割礼を受けることを強制されませんでした。潜り込んで来た偽の兄弟たちがいたのに、強制されなかったのです。」この意味は、テトスはギリシャ人でユダヤ人ではない。割礼は律法遵守の最たるものです。ユダヤ教の中心であるエルサレムでさえテトスに対しては割礼を求められなかったということです。律法をギリシア人にも求める「偽の兄弟たち」とパウロが表現する人々がいたにもかかわらず、テトスは割礼を求められなかったということです。そしてエルサレムの主だった人たちと話をした。その結果、「ペトロには割礼を受けた人々に対する福音が任されたように、わたしには割礼を受けていない人々に対する福音が任されていることを知りました。」つまり、ペトロにはユダヤ人、パウロには異邦人への宣教が任されていることが確認されたということです。主だった人々から言質を取ったと言うことです。エルサレムの主だった人々はわたしの恵みを認め「ヤコブとケファとヨハネ、つまり柱と目される主だった人たちは、わたしとバルナバに一致のしるしとして右手を差し出しました。それで私たちは異邦人へ、彼らは割礼を受けた人々のところに行くことになったのです。」
問題は次です。
ケファがアンティオキアに来たとき、非難すべきところがあったので、わたしは面と向かって反対しました。なぜなら、ケファは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだしたからです。
初めイエス運動に加わったのはユダヤ人です。それもファリサイ派の人たちだったと考えられています。ギリシア語を話すユダヤ人とヘブライ語を話すユダヤ人と対立があった。それでもユダヤ人はユダヤ人です。だから同胞として一緒に食事をします。ところが、ユダヤ人は異邦人とは絶対に食事を一緒にしません。汚れるからです。しかし、使徒言行録の中には、コルネリウスが異邦人でありながら洗礼を受けたという記述があります。ペトロが授けるわけです。イエス運動に異邦人が加わってくるわけです。コルネリウスの物語の描写の中で、ペトロは異邦人にも聖霊が下るのを見て異邦人にも洗礼を授けます。そして当然異邦人とも兄弟として食事をするわけです。ところがエルサレムの主の兄弟ヤコブ−使徒のヤコブではありませんが、ユダヤ人としてイエス運動に加わったもの達のリーダーです−から、ユダヤ人が遣わされてきます。彼らはイエス運動に加わっていましたが、ユダヤ人として律法を守っていました。その結果異邦人とは絶対に食事をしない。そこでユダヤ教の圏内にあるアンティオキアに初めて異邦人を含めたイエス運動の中心が生まれます。そこでは初めの頃は異邦人もユダヤ人もともに食事をしていました。ペトロもそこに来ると異邦人と一緒に食事をしていました。そこに主の兄弟ヤコブの下から厳格に律法を遵守するイエス運動の仲間がきて、ペトロが異邦人と共に食事をするのを見て非難するわけです。ペトロは彼等の非難の言葉に引きずられて異邦人との食事を避け始めます。それを見て今度はパウロが怒るわけです。これがペトロに面と受かって反対したと書かれている状況です。この辺はパウロの性格が出ているところです。ペトロは面目丸潰れになったでしょう。ペトロの異邦人との食事を避けだしたという行動が他の仲間にも伝播してゆきます。たとえば、バルナバさえもこのような態度に引きずり込まれてしまったようです。
エルサレム教会の「主の兄弟ヤコブ」は凄い影響力があったことがわかります。ペトロよりもあったのは本文の記述から明らかです。だからみな彼の言うことを聞いてしまいます。ユダヤ人がみな異邦人との食事を避けだすことなります。
使徒会議
このとき、パウロは彼らが福音に従って真っ直ぐに歩いていないのを見て、みなの前でケファにいいます。「あなたはユダヤ人でありながら、ユダヤ人らしい生き方をしないで、異邦人のように生活しているのに、どうして異邦人にユダヤ人のように生活することを強要するのですか。」パウロの考えではユダヤ人が律法を守るのは当たり前です。パウロも律法を守っています。ところがイエス運動に加わった異邦人が律法を守る必要はないという考えを、パウロは彼のイエス体験ゆえに持っていました。初期のイエス運動はユダヤ人がほとんどでしたから、律法遵守の考え方が強かった。しかし、異邦人が加わり、異邦人の比率が増大していくと、異邦人に律法を守らせるべきなのかどうかという議論が起きてきます。そこで、使徒言行録十五章に出てくる「使徒会議」というものが行われます。この会議の結果異邦人には律法を守らせなくとも良いということになります。それでユダヤ人でない異邦人が仲間に入りやすくなります。そして数がどんどん増えればユダヤ教的な色彩は薄くなって来る。結局は、ユダヤ教とは別のアイデンティティーを持つキリストの教会が出来るようになってくるのです。
当然原始教会はいろいろなことが決まっていませんし、いろいろなイエス体験を持ち込んで来ます。その中で意見が合わない、仲間が殺されるのを黙って見ている状況さえもありました。教会のリーダーの一人と言われる人でさえ、ふらふらした態度をとってしまいます。ペトロはある意味では司牧者であったともいえます。現実を見ていて態度を決めて行くところがある。ところがパウロはエルサレムの主だった人に意見は聞くが、自分のイエス体験を確信し、主張し続けます。その結果パウロは偉大な人になってゆく。彼のおかげで、イエス運動はユダヤ教を突破して行くことができたとさえいえるかもしれません。
その後の困った教会
しかし、教会は困った状態をずっと続けていきます。使徒言行録や書簡を読めば教会は、困った状態の連続です。初代教会を経て古代教会に入って行くわけですが、その後の教会もお互いに困ったと言い合うことの連続です。迫害のあった時代にはキリスト者になると言うことは、殉教を覚悟しなければいけないのですから、それなりの覚悟のある人が入ってきます。テルトリアヌスの時代(三世紀初期)の人たちは、聖なる人々の集まりが教会であると考えていました。聖なるといっても、完璧という意味ではないのですが、すくなくとも殉教を覚悟している人たちです。教会が聖なるものという意味は、本来は、教会に集まる人が聖なる人々と言う意味です。教会の聖性はその構成員の聖性に支えられていたという理解です。だから教会は聖なる場所なのです。
しかしローマ帝国から教会が公認されて、キリスト教徒であることがローマ市民として生活するうえで得であり便利である特権を得るようになると、状況は違ってきます。キリスト教は殉教を覚悟するような恐ろしい宗教ではなく、むしろそのメンバーになっていれば市民生活において得する宗教というステイタスになっていきます。そうなると、どんどん入信者が増えます。しかし一方で、そうなると教会の構成員の倫理レベルが低下していきます。そのような状況下では教会の聖性の根拠を、構成員の聖性に置くわけにいかなくなります。
そこで神学も変化します。秘蹟とか超越的次元だとかに持って行くことになります。ゆるしの秘蹟の実践の仕方もかわってきます。迫害があった古代教会では生涯一回だけ罪が赦されました。しかし、雑多な人たちが教会に来るようになると、一回だけの赦しではうまく機能しません。教会生活が成り立たなくなってくる。ゆるしの秘蹟のあり方も教会の歴史のなかでその実践は変化してきています。聖体拝領の回数も同じです。中世では信徒はほとんど聖体拝領をしなくなります。それでも十分満足なのです。罪の状態で聖体拝領すれば地獄に行くと脅される。みな怖くて聖体拝領ができない。時代が変わり周辺世界も変わり、文化が変われば、人々の意識が変わり、それ以前の教会の制度やあり方や考え方や、実践は適用できなくなってきます。適用できなくなる状態は困った状態です。試行錯誤を繰り返しながら、教会は何とかその状態を乗り越えていくわけです。
歴史的にみると100年とか200年とかのスパンで教会が陥った困った状態を、なんとか乗り切っています。教会のリーダーたちの倫理レベルの低下している時などには宗教改革が起きたり、カトリック教会内改革が行われたりします。教会と社会との関係、特にフランス革命などが起きて教会が大きな打撃を受けて、いろいろなその時代に合った修道会が誕生し、教会と社会のギャップを埋めていきます。あるいは近年ですと一般社会から背をむけてしまって自分たちだけが「完全な社会」 (societas perfecta)であると言っていた教会、第一バチカン公会議の後の時代ですが、ものすごく硬直的な教会の時代がありました。教会が言うことと周辺世界の人々のメンタリティとが、あまりにも乖離した時代になると、今度はヨハネ23世と言う人物が神の摂理によって送られ、第二バチカン公会議が開催されるわけです。しかし、第二バチカン公会議が全ての問題を解決したわけではありません。個人的にはこの公会議は歴史的に最も影響力のあった三つの公会議の一つであると思います。それでも第二バチカン公会議が、あらゆる問題を綺麗さっぱり解決したのではないと思います。教会は相変わらず社会の変化人々の変化の中で困った状態を必ず抱えているものです。
しかし、頼ってみても頼りにならない教会は、ある時代のスパンの中で50年、100年、ある時には200年300年かけながらそれを乗り越え、そして人々の信仰に対するニーズに応え続けてきたわけです。信仰を世代から世代へと伝えていく仲介機関としての役割を何とか担ってきたという現実があります。初代教会のギリシャ語を話すユダヤ人とヘブライ語を話すユダヤ人との対立から始まり、ステファノの殉教、あるいはペトロとパウロやその他の人たちとの理解の違いから来る困った状態を、今現在も引き継ぎながら、私たちも今困った状態にある教会の一翼を構成しつつ、信仰を世代から世代へと伝えています。この意識はとても大事であると思います。
第二バチカン公会議(1962−1965)
第二バチカン公会議が歴史上初めてはっきりと教会とは何かと語っています。それまでは、教会について書かれた公文書はほとんどあまりありません。中世になってやっと教会をテーマとした文書が出てきます。第二バチカン公会議の「教会憲章」は、教会教導職が教会について語った文書としては、その量においても内容の充実としても歴史上最大のものです。このバチカン公会議が教会について何を語っているのか、細かく言えば毎週授業をしても一年では足りない内容があります。ポイントだけをお話します。
第一バチカン公会議(1869−1870)では教会を考えるとき教皇を先ず考えるのです。教会イコール教皇というのは聖職者中心主義の最たるものです。しかし、第二バチカン公会議では教会を「神の民」と位置づけます。聖職者中心主義の教会理解から「神の民」としての教会理解です。その意味するところは、教会に属する者みながこの教会に対して責任を持っているということです。聖職者の言うことを「はい」と黙って聞いていれば良いということではないのです。
アメリカの冗談で「よき信者の定義」として言われるのが、 PRAY, PAY、OBEYという三つの言葉が挙げられます。よき信者は「献金を良く払い」「祈りを良く行い」、「神父に良く従う」と言う意味です。第二バチカン公会議の教会理解はこのようなものではないということです。もしこの言葉を使うとしても内容的には、信徒も聖職者も共に良く祈らなければならない、役職や役割分担を担う人はお金だけではなくて自分のもてるエネルギーや時間を使って教会に奉仕するという意味ならよいでしょう。そして教会共同体の中でお互い(立場を越えて)よく聞きあわなければなりません。お互いに聞き合うことによって、最終的には神の意志に従う。そのために対話する教会のように理解するならこの言い方もあながち誤りではないかもしれません。「神の民」とはみながそれぞれの役割の中でそれぞれの立場の中で責任を持ち、違う立場の人に対して尊敬を払う教会です。
二番目は、第二バチカン公会議で「神の民」と同じぐらい強調されている教会の定義ですが、「救いの普遍的秘蹟としての教会」と言う定義があります。これは教会が世界の中で「救いのしるし」であると言うことです。教会は「しるし」です。教会の存在目的は自己目的ではありません。世界の人々に対して救いの「しるし」として仲介しなければならない教会です。「普遍的」と言うのはいつどこでも画一的にということではありません。逆に多様性がなければ普遍性は表現できません。誰にとっても救いの普遍的救いとなるためには、一人一人が異なるように、教会は多様な形で救いを仲介して「しるし」とならなければならないということです。
日曜日の度に教会でミサがあるのは教会の伝統ですし、尊重すべき教会の信仰生活のあり方です。それだからといってそれを画一的にどんな状況にある人々にも適用する強制となれば、それは「救いのしるし」ではありません。それは「つまずきのしるし」になるでしょう。一人一人の人生の課題というのは、人生のその時々で異なります。毎週ミサにいかれる環境の人もあれば、そうでない環境の人もいます。だからといって、その人々の間に信仰の差を見るのは間違いです。教会が「普遍的救いのしるし」となるためには、多様で柔軟な理解とあり方が求められるのです。
三つ目は「旅する教会」です。前半でお話したように、初代教会から2000年にわたって、教会が完全な教会であったことは一度もありません。常に神の創造の歴史の中で、終末に向けてもがきながら旅をしている教会です。旅をするということは完全でないと言うことです。常に清めを必要とする教会ということです。教会こそが正しく絶対であるという意識をもったら、キリストの福音に反してしまう。我々は常に謙遜さを求められています。
教会はこうであらねばならないという絶対的モデルなど、歴史上に存在しません。その時代に「しるし」としてもっとも機能するような教会のあり方というのは存在するでしょう。今の教会制度が、現代日本において多くの人の「救いのしるし」になっているのかどうか、つねに反省を求められます。多くの人がそこに「救いのしるし」を見出せる制度というものはあるでしょうが、どの時代どの文化、どの人々にも絶対的に最良に「救いを仲介」出来る絶対的制度や構造というものはありません。ですから「旅する教会」は清めを必要とします。清めを必要とする教会は変化を必要とする教会です。変わっていかなくてはいけない。変わって行くことによって教会はイエス・キリストへの信仰、イエス・キリストによって証された
救いを、世界に、そして世代を超えて伝えていくことが可能になります。
四つ目は、第二バチカン公会議の精神から導き出されると私が考えている、わたしなりの教会理解です。教会をわたしは次のように定義します。「教会は聖霊にいぶかれたイエスの弟子達の共同体。」「教会」には、いろいろな次元があります。小教区、教区の次元、国単位の次元もあります。日本の教会という次元にはプロテスタント諸派も含まれるかもしれません。日本のカトリックと言った次元も無論あります。それを最も包括的に含む定義が「聖霊に息吹かれたイエスの弟子達の共同体」ということです。現在性においても歴史性においてもこの中で教会は変わって行くのです。変わって行くことによってのみ、イエスにおいて表された救いが、世代から世代へと仲介されて行くのです。
以上