対話と異議 」:アメリカのカトリックの使命

 

Leonard Swidler Dialogue and Dissent An American Catholic Vocation Leonard Swidler

 

アメリカの教会の民主化運動の中心的な活動家である信徒神学者テンプル大学教授 Leonard Swidler の「 The Church in Anguish 」(苦悩する教会)が投げかけているアメリカのカトリック教会の現状は日本のカトリック信者にとっても大変多くの問題を示唆していると思われますのでその記事を紹介したいと思います。以下の文章は原文の訳でも要約でもありません。作成者が原文を読んで理解した事柄を日本語にしもので、文責は日本文作成者にあります。

 

書かれている内容は数年前にボストンを中心におきた聖職者による性的虐待事件を契機に活発化して信徒運動「信徒の声」のうちでも最も重要な 「信者の異議申し立て」 が、教会当局から強い反対にあっていること。この権利は教会が歴史的にも人間として犯してはならない伝統と考え大切にしてきたものであり、それが教会的にどのような意味を持ち、歴史的事実はどのようであったのを解説しています。この権利は、初代教会から大切にされ、公会議においても再確認されたものです。それは教会の「真理に関する『決定』のプロセス』である。その権利が現在危うい状況にある。「熟慮」、「判断」、「議論」、「対話」、最後に『決定』のプロセスが教会にとって如何に大切であるかを再確認させてくれます。本文は以下のように理解されます。文責は本文作成者にあります。

 

聖職者の性的虐待スキャンダルの中で、司教たちの管理不行届きとその隠蔽に多くのアメリカ人は憤り「信徒の声」が組織されました。組織の目標は3つあります。 @ 被害者への支援、 A 善良な司祭への支援、それに B カトリック教会の構造改革への働きかけです。最初の2項目にはだれも異論はないが、 VOTF (信徒の声)を含む改革諸運動への強烈な反対が「伝統主義者」によってされてきました。この攻撃にさらされ今では、多くのカトリック信者は「 教会への異議申し立ての権利 」を失ってしまったと感じている状況にあります。この権利は教会が歴史的にも人間として犯してはならない伝統と考え大切にしてきたものです。

 

第二バチカン公会議では、共同体にとって重要なのは「時のしるしを読む」ことで、「時のしるし」は「熟慮」、「異議」、「対話」、「決定」によってなされると指摘しています。また、「人間が持つ信教の自由の権利」を宣言している。真理の探究は「自由な研究や対話によって遂行され、人間は良心に誠実に従うべき」とされています。 1973 年には、教理省も教会の教えの理解は変更可能であり、教会が伝えようとしている“教えの真理”は現代的概念の枠組みで再表現され得るという主旨を表明しています。ヨハネ・パウロ 2 世は教皇になる前には、責任ある異論を励まし、自由な神学者の奉仕を貴重なものとして支持しました。「熟慮」、「判断」、「議論」、そして「対話」、最後に「決定」する、このサイクルの繰り返しは自然法なのです。教会法( 218 条)でも「自己の意見を表明する権利及び義務を」認めており、それは「議論」を保証するものです。

 

歴史的に振り返ってみますと、旧約聖書の中では預言者たちが主流派に対し異論を大声で唱え殺されまし、イエスご自身も預言者と呼ばれ同様に宗教的主流派に挑戦しました。弟子と使徒もこの伝統を引き継いだのです。初代キリスト教から、熟考、異論、対話、決定の実践があったのです。たとえば、初代教皇ペトロは、パウロが異邦人との食事の問題で異論を直接ぶつけペトロは考えを改めたのです。教皇大レオは「治める人は、全ての人に選ばせよ」と言い、 14 世紀には最も独裁的な教皇と言われた Boniface 8 世でも「全員に関与することには、全員の承認が必要」と言ったのです。

 

最初の3世紀と13−15世紀の6百年以上もの間、カトリック教理を決定したのは神学者たちでした。歴史的に見ると、教皇と司教は必ずしも真のカトリック教義の最高の教師ではなかったのです。20世紀前半に伝統的な教義として教えられたマニュアル神学の中でさえ、信徒の総意は信仰のある種の基準と言ったことが書かれています。

 

現代を考えて見ますと、産児制限の問題議論されその判断を親の責任とし考えるきっかけは、1950年代にベルギー人司祭 Louis Jansens が書いたある論文にありました。そのおかげで、カトリック信者は正しい良心で産児制限を判断することが出来るようになったのです。

 

その後教皇パウロ6世が小数の産児制限反対側につき回勅「 Humanae vitae 」が出されたのですが、回勅「 Humanae vitae 」に対してベルギー、ドイツ、カナダ、アメリカでの司教会議は公式見解を発表ました。カトリック信者の夫婦は人工的産児制限の問題について最終的彼らの良心に従ってよいと述べています。現在の世論調査では、アメリカのカトリックの四分の三以上が人工的産児制限を承認している。教皇の公式教義に対して異議を唱えるのは過激派だけであると考えてはならないのです。

 

「カトリックの信仰」は過去をひたすら真似するのではない「生きている信仰」です。具体的な世の中に生きるカトリック信者として、時代の疑問や問題に直面して考え、生きる意味を考えるのです。キリスト者は、何をイエス・キリストが考え、教え、働いたのかを、今日の言葉で、他者に分かるように、自分で実行できるように生活に組み入れることです。教理省の機能の一つは、熟慮、異議、対話をやめさせることではなく、それを励まし、促し、方向を示すことにあるはずです。従って、わたしたち「信徒の声」は教理省に審問」やそれに類似した手続きを廃止し「対話」に置き換えることを提案しました。

 

「対話」は関係する問題の専門家たちが作業を重ね合意形成の決議文を作成できるまで努力して努めることです。それはまさに第二バチカン公会議で適用された手順でした。教皇とバチカン官僚が「対話」の必要性を書き対話の進め方を述べているのです。教皇パウロ6世も最初の回勅 Ecclesiam suam (1964) で対話を求められています。

 

最後に、今日信者のなすべき事は、このような状況のなかでも、教会を愛し離れずないことです。それは教会と共に人生を生きることを意味し、それはさらに人間的な生き方にわたしたちを導くと思うのです。

 

 

この文章は「学び合いの会」のメンバー数人の協力で作成された紹介記事ですが、作成者が理解には不十分なところもありますので、関心のある方は是非直接本文をお読みください。文責は恩文作成者にあります。

http://arcc-catholic-rights.org/dialoguedissent.htm

 

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