「学び合いの会」例会記録

2005年1 月1 日(土)

文責は記録作成者にあります。

 

本日のテーマ: 「社会との交わり」

2005年の年間テーマが「“交わり”の中に生きる」であり、第一回目「“交わり”を生かすリーダー」、第二回目「信者同士の交わり」、第三回目「交わりとしての典礼」、そして2005年度最後のテーマは、「社会との交わり」です。
 

本日の進行:

@   10:30−10:40  開会、祈り

A   10 :40− 11 :1 0   発題: 3名 各10分程度

B   11:20−12:10  小グループ分かち合い

C   12 10 12 40   全体会、意見交換

D   12:40−12:55  参加司祭のコメント

E  12:55−1300  連絡事項

 

発題 1:

秋田生まれで主婦として4人の子供を育てました。子供の歳がはなれているので、19年間小学校にも関係があったし、27年間弁当つくりを続けて最近それがやっと終わったところです。そのような意味から云うと、自分は家庭の人であって、いわゆる社会との交わりや関係は薄かったのでこのテーマでの発題には相応しくないとおもいます。 しかし、いわゆる社会との関係が薄くとも交わりとしての信仰に生きていけるのだと言う考え方もあるのでその辺りから話してみてはとの意見も聞かれましたので引き受けました。

雪国の教会でしわだらけな老人に出会うとその方はどこで信仰をもらったのかなとふと思うことがあります。家族でも地域でも一人信者だろうなと思います。いつの間にか名も知られずに静かに消えてゆかれるのだろうと。いわゆる社会とのかかわりが薄く一生を過ごす人は多いのではないでしょうか。教会でそのような人との連帯を持つのは大切だと感じます。

信徒としての社会との交わりを考えているとき、信仰を持たなくともよいこととか善意とかを行動にあらわしている人は多いし、また、宗教を背景とする人と宗教を背景としていない人の社会での差はなにかと思ったりしました。災害時に真っ先に駆けつける人たちや NGO活動している人の中にもこれといった宗教の信仰を持たない人も多い。優しい心を持った人たちがたくさんいる、キリスト者とどこが違うのだろうか。考えてみましたけれど分かりませんでした。

自分は、信徒として、だれが模範かというとマザー・テレサの生き方だと思う。信仰が彼女の生き方の原動力となっていた。信仰と生き方が一致し、しかも他人の信仰を認めていた。信仰が毎日の原動力になっています。すべての行動が祈りのうちにあって絶えず祈っていることを考えました。

自分の告解の準備の中で、最近気づきを与えられたことがあります。それは「光をともすこと」という言葉です。今まで自分は、信徒として「平凡」でいることがよいと思っていたのですが、社会の問題について思い、考えて、祈るだけでは、いけない。「神さまのご計画の実現のために具体的に働くこと」が大切ということに気づいたのです。そして、それを、信仰に基づいて、具体的にそのように働いている自分の知人の生き方の中に見出したのです。「自分のできること」でよいのだと思いますが、自分たちの生活に塩味をつける必要がある。これが「社会との交わり」ということの中で申し上げたいことです。

 

発題 2:

(1)「交わり」について

 まず言葉の定義から入ります。いまさら交わり定義でも無かろうと思われるでしょうが、この「交わり」の意味を再確認しておくことが、とりもなおさず「社会との交わり」というテーマの展開につながると考えるからです。 そこで・・・

交わりとは、互いに理解し合い、影響し合う関係である 。」  ・・・としてみました。

 これを、よく似た意味を持つ「インカルチュレーション」の定義(中川明師による)と並べてみると、分かりやくなります。

「― インカルチュレーションとは、私たちの文化が生み出す苦しみにあえぐ人々との連帯を通して、キリスト教自身が自らを再考し深化し、同時に、文化に影響をおよぼし福音化するプロセスである。 」(中川明師) 

この定義の「インカルチュレーション」を「社会との交わり」に、また「文化」を「社会」に読み替えることができると思います。   

(2)「交わり」の相手

次に、「交わり」の相手を考える場合、この日本で、一億総中流意識の社会の中で、「社会が生み出す苦しみ」にあえいでいるのは、一体誰なのか?ということになります。私は、自分が先ず交わるべき対象を「 引き裂かれたモラルに留まり、それに耐えて生きる人たち 」と考えます。

いま私たちの社会を動かしているのは「経済至上主義」です。このシステムの歯車を動かしているのは、とても単純で一面的なモラル、つまり「経済がすべてに優先する」というモラルです。政治家・学者・企業経営者は、「もう、そんな時代じゃない。社会的責任を果たさない企業は存続できない時代になっている。」と言いますが、それは表面だけの話で、現実は毎日のニュースで見るとおりです。

このモラルの支配は、幼児期から「お受験」という競争で始まり、ほとんど人生の終わりまで続きます。私たちは気付くと気付かないとに関わらず、それに支配され、人生の貴重な時間を浪費しています。もしかしたら、ニートと呼ばれる人たち、或いは青いビニールのテントで暮らす人たちは、そのようなモラルに耐えられず、或いはそれに抗議して、あのような生き方を選んだのかもしれません。

しかし大多数の人は、これに気付いても、そのモラルの中に留まって、いわゆる「引き裂かれた状態」に耐えて生きています。そこではわたしたちの「人間性」までもが経済活動のための道具・ツールと見做され、軽く見られているのです。

わたしたちの周囲で大勢の人が、社会と「調和」出来ずに、常に「違和感」、「居心地の悪さ」を覚え、いわば精神の「酸欠状態」に陥ったまま生きています。この状態こそが最大公約数としての「現代社会が生み出す苦しみ」と言えないでしょうか?                                   

(3)「交わり」の実践

ここから先が、実はよく判らないのです。今お話した「交わるべき相手」は、他の、助けを必要としている人たちのように、わかりやすい信号を発しているわけではなくて、むしろ一見有能で、満ち足りているように見える人が多いように思います。そしてその人の苦しみは「交わって」みて始めて理解できるものです。したがって、信号は「こちらから発する」しか方法は無いということになります。それも、控えめではなく、はっきり判るように発信しなければなりません。(具体的な方法はいろいろあると思いますが、いずれにしても勇気がいることだと思います。)

しかし、このような交わりの実践には限界があります。つまり、私と、その相手との間で当面の「癒し」、「救い」或いは「解放」が得られたとしても、私たちを取り巻く社会が相変わらずの状態であってみれば、本当の調和、癒しは、いつまで経っても得られない、ということになります。ただ、中川神父の定義を借りれば、その「プロセス」に意味がある、とも考えられますが。

(4)「交わり」に市民権を

交わりは、互いが無防備になる関係ですから、危険な状態と言えます。交わりには勇気が必要ですし、責任も伴います。   *1

ところで、社会との交わりで傷ついたときに、果たして教会は、優しく迎えて、その傷を癒してくれるでしょうか?深く社会と交わろうとしている人たち・・・解放の神学のリーダーとか、あるいは私たちの身近にいるそうした人たちが、教会の中では、どちらかといえば「辺境の地」に置かれがちなのはなぜでしょうか ? 教会が社会との交わりの意義を認め実践していくためには、現実の社会を正確に捉えた神学(神学の再構築)が必要だと思います。信徒の意識ももちろん変らなければいけませんが、教会も、「自らを再考し深化する」 ことによってその責任を果たすべきだと思います。 *2

最後に、学び合い会が翻訳を進めているバーナード・ヘーリングの著書から、お許しを得て引用します。

―― カトリックの道徳教義は、「人は国家に対し必要とあれば不服従を貫き、場合によっては抵抗すら要求される。」と教え続けてきました。しかし (ナチの時代には)カトリック信者もヒトラーに追従し彼を受け入れたのです。なぜでしょうか?それは、当時のカトリック教会の中に大人の判断や権力に反対する勇気の生まれる余地が全く無かったからです。

教会には、成熟したクリスチャン、真の自由と責任をめざす先導者、そして社会正義と平和運動の分野でのパイオニアが必要です。(それは独裁者を嫌います。)そして当然ながら、 教会内で、とりわけ道徳の多様な分野で、成熟した自立の精神が開花しなければなりません。それは、カトリック信者は決して他者を搾取するゲームに加わらず、また他者の搾取も許さないという姿で開花しなければなりません。これこそ、危機に瀕する世界にあって、わたしたちが癒しと解放の存在であるための唯一の道なのです。」

B. ヘーリング「教会への希望 (仮題)」より (下線発題者)

[注記]

* 1 「――危機は「他者」に自分を開くときに起こります。そしてそれは自分の知性、心、そして想像力が「他者」によって影響(や豊かさ)を与えられたときに起こります。」

    アドルフォ・ニコラス 「危機にあるキリスト教:アジア、どのアジア?どのキリスト教?どの危機?」  Cocilium誌 2005.3 「危機にあるキリスト教」から (堀江幸雄訳)
* 2 「――現実というのは解釈するものではなくて、変えていくものだということです。」    弘田鎮枝 「ラテンアメリカの民衆運動と解放の神学」講演から

 

発題3 英 隆一朗師  (文責は要約作成者にあります)

教皇ヨハネ・パウロU世が新しい世紀をどの様に生きるのかについて書かれた「新千年期の初めに [43交わりの霊性]」 の中で、「“交わりの霊性”で生きていきましょう」と語りかけています。それ以降教会内では“交わりの霊性”という言葉が盛んに使われ始めています。

“交わり”は現代に欠けているものの一つです。経済至上主義にとらわれ、家庭を含めた広い社会で“交わりの崩壊”から来る、孤独老人、核家族、家庭崩壊、等の問題が起きている。現代社会で「神の国」の建設を考えるとき、“交わりの霊性”をよくよく考え、“交わり”をどの様に再構築してゆくことを考えなくてはならないのです。

この文章では「教会を交わりの家・学校にする」ことを求めながらも、衝動的に“交わり”の具体的計画を立てるのではなく、その前に「交わりの霊性」を促す必要を説いている。「これは神のご計画に忠実でありたい、世の期待にもこたえたいと望むならば、わたしたちの目前に迫る大きな挑戦です」と述べでいます。私達は“交わり”とは何であるのかを正しく理解する必要があります。さもないと“交わり”を求めていながら違ったものを作り出してしまうおそれがあります。

誤った“交わり”の具体例を挙げます。日本社会の高齢化の中で、多くの定年退職した人々が、教会活動に自分の場を見出そうと回帰してきている。どこの教会でも同じような傾向にある。彼らは教会委員会にも社会の価値観や論理を持ち込もうとしている。社会的な規則を持ち込んでくるようなことも多い。 そこには本当の“交わり”はないのです。教会を変えようといっても“交わりの霊性”を先ず深めないと駄目なのです。

この文章の最後では「幻想を抱かないようにしましょう」と言われています。“交わり”と言う言葉を使っていても“交わり”でないことが行われることがあるということでしょう。“交わり”とは何かを確りと理解するところから始めないといけないということです。

それでは“交わり”とは何でしょうか。一番弱くさげすまされている人から本当の“交わり”は始まります。一つの具体的例をあげます。

知っている方も多いでしょうが、北海道の「ベテルの家」の事例を挙げます。それは幻聴のある精神的苦しみを持つ方達の集まりです。その集まりでは自分のあるがままの弱い姿を出すことが出来るのです。その集まりを通して多くの方々が快復され、それが福音となって広がって社会を照らす光となってきているのです。そこで始まった“交わり”は社会を変えて行く力があるということです。一般社会とは全く逆のことをしているのです。

その集まりでは、幻聴を病として取り除くことを考えるのではなくて、「幻聴」を「ゲンチョウさん」と親しく呼びかけるというところから始まる。「ゲンチョウ探偵団」と言うのもあります。先ず、自分の弱さを認め、それを分かち合って、幻聴の一番激しい人にプレゼントをあげる。“徹底的に弱さを認める”のです。互いにそれを認め分かち合う、それが“交わり”です。立派になるとかよくなるとか言っているから交わりにならない。

確かに自分の弱さをさらけ出すのは確かに危険なことでもあるのですが、それを出来る場を作って“交わり”を始めるならば、そこから社会が変わっていくのではないでしょうか。先ず自分が自分の弱さを認め、そこから自分が他者に助けを求めることができるようになる。専門家の助けを求め、一人では快復できない、一人では生きて行けないことを認めます。それによって他人から助けられることで、孤独から脱して交わることができるようになる。交われる仲間がいると言うことが大切なのです。“交わり”はそこからスタートするのではないかと言うことです。これが“交わり”の霊性の大切なところです。

 

一方、「交わり」には注意も必要である。必ず「悪」も入り込む場でもあるからである。何が悪なのかを識別することが必要となる。また、効率主義や成功主義が入り込み交わりの場が崩壊してゆくので注意しなければならない。多くの交わりの場で、最悪のことをする者は信者である場合が少なくないことにも、用心しなければならない。我々も注意が必要です。「交わり」には、ヒーローは要らない。スパーマンが要らないところが交わりの根本ではないか。

 

全体での意見交換

(司会者よりグループ内の「話し合い内容の報告でなく、自分の感想を中心に」との助言有り)

 

第一グループ:

・ 「社会」の定義がまだ不明確である。

・ 「引き裂かれたモラル」(の危険性)が話に出た。「無防備な交わりの危険」については理解できないところもあるが、おもしろいと思った。

・ 福音に徹底できない自分を認めることが大切。 

第二グループ:

・ 家庭もひとつの社会と考える。社会の一番小さな単位である「夫婦」が、自分と相手の

弱さを認めて対峙することにより、交わりが生まれ、それがより広い社会に広がっていく

のだと思う。

第三グループ:

・ 話し合いは、教会の中の交わりに偏ってしまった。テーマについて未消化だった。

・ おにぎり活動の中に交わりがあった。

・ 外部から教会を訪れる人への対応が大切。

・ 相手があっての交わりだが、「社会」は「相手」なのか? 社会の中の自分の位置を見

極める必要がある。

第四グループ:

・ 自分から発信することの必要性を感じた。

・ 自己反省の際、肯定的なことを想起して感謝することも必要。

・ 年齢とともに「生と死の境」「教会と社会の境」が無くなっていくのを感じる。

・ 自分の霊性を養うための小さなグループがあればいいと思う。

・ 社会のモラルの低さについて、夫の言葉を思い出す。「僕がキリスト信者になったら仕

事ができなくなる!」

第五グループ:

・ 英神父の話に出た「一番小さな人との交わり」は自分のテーマでもある。(オリーブの会

紹介)また、教会活動に参加していない人たちのために「野の花」の集まりを続け、人

の話に傾聴することの大切さを学んでいる。

・ その他、このグループでは「交わりのために霊性を養う必要があるが、司祭にも指導の

責任がある。」との意見が出た。

第六グループ:

・ 信徒同士の交わりの難しさがある。

・ 小さなグループの祈りで霊性を高め、信者同士の交わりを深めてはどうか。

・ 自分の属する教会から逃げ出さないために、祈りが必要。

その他自由発言:

・ まだ究明が浅いと思う。より深めるために具体的な「交わり」についてもっと話し合いた

い。

・ 援助の場合、お金をあげてスポイルしないよう、自立を助ける姿勢を意識すべき。

・ 「自我」は家庭、社会のコミュニケーションの障害。しかし自我を無視もできない。

・ 「交わりに悪が混じる」ことについて、識別のためには自分を解放する必要がある。

 

参加司祭のコメント (文責は要約作成者にあります)

英師:

・ 無防備になる危険について。教会のなかに「交わり」がない。それが現実。だから自分

の弱さを話せない。信頼関係の厚さと「噂」の伝わる早さは反比例するもの。

・ 教会、家庭、職場・・・すべてが「社会」。そして一番弱い人たち一番虐げられている人

たちの間に一番「福音」があると思う。家庭でも弱さを認め合うところから“交わり”が始ま

る。

・ クリスチャンの特徴は「回心して生きることができる」ということ。自分の弱さを認め神様

に率直にあやまりそこから出発する。さもないと傲慢になる。

・ 回心からどのような交わりが可能になるかというところから始めないと駄目。自分の弱さ

から成長の糧を得るように、「悪」を受け止めて、成長することができる。

・ 現実に向かえば向かうほど、祈りが必要になる。今直面していること“交わり”がないこと

に対してどれだけ真剣に祈れるのか。祈らなければならない課題は山のようにある。自

分には出来ない現実を認めて真剣に祈り“交わり”を求めてゆくことです。

 

増田師:

・ 主婦の方が家庭内のことだけをしているから社会とのかかわりがないと思うならばそれ

は既に経済至上主義の影響を受けているといえる。家族も社会であるし愛を持って家

庭を営むのは素晴らしいことです。

・ 家庭のいちばん小さな子が大切にされない場合、それは家庭とはいえない。それと同

様に、社会のいちばん小さな者が大切にされない場合、それはよい社会とはいえな

い。

・ 不自由を助け合った昔の良き時代に比べ、今の社会は「交わり」を断つ方向にある。

個人情報に過敏になりすぎると「交わり」が減ってゆく。

・ 教会のメンバーは社会で責任を果たす生活をしている。イエスの価値観を持っており、社会の中で福音に反することには「ノー」と言わねばならない。経済そのものは必要であるが、経済至上主義ではいけない。人間は経済に隷属するものではない。

・ 信徒は「王職」「預言職」「祭司職」の召命をいつも意識しなければならない。たとえ主

婦であってもこれらの召命に預かっているはず。家庭の主婦は素晴らしい神様の目からどれほど喜ばれる存在であるのか。他者を励ます人になること、それは普遍的秘蹟である教会の役割である。

・ 社会の中で起きているおかしなことは社会の中でそれを指摘することは大切なことであ

る。すべての人が、自分にできる小さなことで召命に応えていくことができる。

 

 

以上  文責「学び合いの会」記録者

 

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