「交わりとしての典礼」

「学び合いの会」例会記録

2005年10月15日(土)
参加者:総数 29名 
 
今年の年間テーマが「“交わり”の中に生きる」であり、第一回目「“交わり”を生かすリーダー」、第二回目「信者同士の交わり」に続いて第三回目のテーマです。

本日の進行:
@  10:30−10:40  開会、祈り
A  10:40−11:10  発題: 3名 各10分程度
B  11:20−12:10  小グループ分かち合い
C  12:10−12:40  全体会、意見交換
D  12:40−12:55  参加司祭のコメント
E  12:55−1300  連絡事項

発題1 
   交わり(人との交わり、共同体)と典礼(聖体の秘跡)について私の考えているところをお話させていただきます。

交わり (コイノニア) 信者の共同体

A. 交わりを聖書のみ言葉に探す 使2/44-47  共有 祈る パンを裂く 賛美      
○ 最後に主は救われる人びとを一つにされた (共同体としての交わりの原型) 

B. 小教区の交わり

排除から共生へ
○ 排除しない(他者を受け入れる 批判しない 抵抗 葛藤 忍耐)
○ 共に生きる(同じ平面に立つ 他者との違いを認める 正当性を盾に対立しない)
○ 大切なのは‘共に生きよう’とする方向性を見失わないこと 教会はキリストと共にキリストのいのちを生きる共同体 
○ 共生が一致へと進むのか  真の一致は聖霊の力による
キリストの御からだと御血に共にあずかる私たちが聖霊によって一つに結ばれますように

                                                           (奉献文より)
○ 交じわりの一つの例  エキュメニズム(教会一致運動) 松戸教会の例
     イエスの名によって集まる朝祷会 (市内の諸宗派の教会 約20年の歴史)
み言葉による分かちあい 共同で祈る 食卓を囲む  エキュメニズムへの関心度は低い

典礼    (ミサとの関わりの中で)

A. 感謝の典礼   パンとぶどう酒を供える祈り 
   神よ、あなたは万物の造り主、ここに供えるパンはあなたからいただいたもの、
   大地の恵み、労働の実り、わたしたちのいのちの糧となるものです。
○ 日々の祈りの導入 身近な自然をみる、すべてのいのちの創造主
○ 創造主によって私も造られた 賛美と感謝
○ エフェ1/4:神は天地創造の前からわたし達を愛してくださった
○ 創1/26:我々に似せて、人を造ろう。海の魚、空の鳥、すべてを支配させよう・
○ 神の豊かな愛を感じつつ、小さくされる自分の存在

B. 叙唱前句
   司祭  主は皆さんとともに。   会衆  また司祭とともに。
○ 復活されたキリストが御父に向かって自らを捧げられる礼拝(ミサ)の中で私たちは一つに結ばれるように招かれている
○ 見えない復活されたキリストを司祭と会衆が囲む キリストに出会う神秘的な体 験
○ 無限な方に目を向ける 傍観者ではない

C. 出来ごととしての記念

○ 最後の晩餐  キリスト自らおっしゃったこと マタ26/26/30、マコ14/22-26、
ルカ22/15-20
これはあなたがたのために渡される わたしの体 これはわたしの血の杯 罪が
赦されるように 多くの人びとのために流されるわたしの契約の血 これをわたし
の記念として行いなさい
○ パンとぶどう酒の中に人類のためにご自分を捧げられたキリストがいる神秘
○ 信仰を保つために秘跡の中でくり返しキリストに出会う 
○ キリストが体をさかれ血を流された記念 そこ迄人間を愛した記念
○ やられてもやり返さない愛 敵も愛する愛 人を愛することを貫かれた愛 その神の愛の記念
○ 復活されたキリストはいつも私たちに向かい、わたし達もキリストに向かっていく相互の体験 そしてキリストと共に外へ向かっていく力を頂く

聖体拝領
○ 自分の弱さ 不安などはパンとぶどう酒と共に捧げて変えて頂く パンとぶどう酒の中には無限の力がある。
○ 食べることにより自分の考え、思いはキリストの考え、思いの方向に変えられていく
○ 変えられるといっても弱さや不安が消えるわけではない 受け入れる力 それを乗り越える力を頂く
○ 拝領するとキリストが自分の中に入る 同時に私がキリストの体の一部となる これはキリストは一つであるため 
○ 内側から清められ強められていく 希望と力を頂く
○ キリストが私を招き私はキリストに向かう ダイナミックな力となって外へ向かう

拝領前の信仰告白
    司祭  神の子羊の食卓に招かれた者は幸い。
    会衆  主よ、あなたは神の子キリスト、永遠のいのちの糧、あなたをおいてだれのところに行きましょう
    

聖体拝領で主の食卓を囲む私たち
○ 黙3/20:見よ、私は戸口に立ってたたいている。誰か私の声を聞いて戸を開ける者があれば、私は中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、私と共に食事をするであろう。
○ 家族の交わり 私は娘、息子の家族と共に食卓を囲むのを大切にしている
○ み言葉のように復活をされたキリストと共に分かちあう

閉祭
    司祭  感謝の祭儀を終わります 行きましょう、主の平和のうちに。   
    会衆  神に感謝。
○ 信徒の召命は福音宣教と思っている 変えていくには先ず自分が、そして教会共同体も変わらなければならない
○ 信徒のあり方が問われる : バランスのとれた信仰  成熟した信仰
祈り 霊性を深める : 世の光 地の塩 行動にでる
○ ヤコ2/14:自分は信仰をもっているという者がいても、行いが伴わなければ、何
の役に立つでしょうか
○ マタ28/20:私は世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる 
○ マコ16/15:全世界に行ってすべて造られたものに福音を宣べ伝えなさい

   私は、このみ言葉に励まされ最後まで宣べ伝える者でありたいと思います。
「交わりとしての典礼」 : 初代教会の「交わり」は、使徒言行録2:43-47によく表わされている。松戸教会では、聖書と食卓の分かち合いをエキュメニズムの集いを過去19年続けてきている。(これでよいのか、疑念も起こることもあり、ある機会に白柳枢機卿に訊ねたら、「共に祈ることが大切です」との励ましを受けた。「典礼」については特に「感謝の祭儀」において創造主の恵みを実感する。「信じること」は自分の側よりは「恵み」として与えられるものと、感じられる。


発題2 
 

次の7項目についてレジメを作成しましたので、これを話させていただきます。

1.交わりについて
@ ラテン語のcommunio(コムニオ)は「交わり」、英語のcommunion(コミューニオン)は「交わり、霊的交渉、相互の一致、聖体拝領、聖餐式」などの意味がある。

A 英語のcommon(コモン)は「共通の、共有の、共同の、相互の」、union(ユニオン)は「結合、結婚、和合、一致」などの意味がある。 

B ラテン語のcommunicare(コムニカーレ)は「共有する」、英語のcommunicate(コミュニケイト)は「伝える、通じている、聖体拝領を受ける、聖餐を受ける」などの意味がある。

2.典礼について
@ 神を礼拝するための儀式を典礼という。礼拝を意味するラテン語のriturgia(リトゥルジア)、英語のservice(サービス)の原意は「奉仕、給仕」である。
 

A 使徒言行録20の7「週の初めの日、私たちがパンを裂くために集まっていると、パウロは翌日出発する予定で人々に話をしたが、その話は夜中まで続いた。」主日のミサ典礼は信者が食事をするために集まって行われる儀式で、話題によって説教が長引くことがある。
 

B 出エジプト記3の12「私は必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣(つか)わす印(しるし)である。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」神がモーセに言われた言葉である。信者は「共にいる神」に感謝し、「神に仕える」ために神の山に集まる。

3.キリストについて
@ キリストは光である。使徒言行録26の13「王よ、私は天からの光を見たのです。」孤独な、淋しい私の魂を癒して下さったのは、家族でも友人でもない。魂の救い主キリストだけであった。 

A キリストは救い主である。使徒26の16「起きあがれ。自分の足で立て。」罪に満ちた暗闇の世界から、命の道に引き上げて下さったのは、神が遣わしたキリストだけであった。

4.信者について
@ 信者は奉仕者、また証人である。使徒26の16「あなたを奉仕者、また、証人にする
ためである。」


A 信者は恵みの分け前に与る。使徒26の17「彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち帰らせ、こうして彼らが私への信仰によって、罪の赦しを得、聖なる者とされた人々と共に恵みの分け前にあずかるようになるためである。」

5.私の証(あか)し
@ 信仰の薄さ
  岩手の前任校(ミッションスクール)の関係で、東京のホーリネス教会に32歳の時から
通うことになった。自信過剰な私を受け入れて下さった牧師先生たちには申し訳ない
気持ちでいる。この教会の祈り会は、日本一だと思っている。火花のように聖霊を感
じさせられた。

  教員という仕事柄、カメラを手にすることが多く、明泉学園、頌美学園、東京聖書学校などの写真を撮らせていただいた。タキシードを着て出席した謝恩会においては、ホテルの従業員からは専属カメラマンと間違えられ、一般客からはホテルの従業員と勘違いされたこともある。専門学校の入学式や、教会の結婚式の集合写真もプロのカメラマンが現場におらず、ピンチヒッターで引き
受けたこともあった。こうして、礼拝や伝道集会においても、カメラ(ビデオ)やテープレコーダー(デッキ)を持ち込んだので、私自身の魂は落着きや平静さを常に欠いていた。よく動くので『中村屋のボーイのよう。』と前任校の牧師先生に云われたことを思い出す。

  ある聖日、夜の伝道集会に出席していた私は、『教会にいるのに、魂の救い主イエス・キリストと私の魂が結びついていない。』ことに気づいて、愕然(がくぜん)とした。その瞬間、砂上の楼閣(ろうかく)であった私の信仰はガラガラと崩れてしまった。

  「マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。マルタは、いろいろのもてなしのため、せわしく立ち働いていた・・・・・  主はお答えになった。『マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ1つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。』」                      (ルカ10の40〜42)

   『バリバリの熱心なクリスチャン』と自負していた私であったが、『10年たったら卒業クリスチャン』の言葉どおりになってしまい、彷徨(さまよ)うことになった。それでも、通勤電車の中で、聖書を読む習慣だけは残っていた。


マタイ17の20「イエスは言われた。『信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。』」
 

A キリストがおられる場所
   私の入信のきっかけは古本屋で聖書を手にしたことからである。そして、聖書の通信
教育を受けるようになった。ローマ書を中心とした聖書の内容はよく理解できるのだ
が、キリストをこの胸に住まわせるまでには至らなかった。
   

詩篇41の2「涸(か)れた谷に鹿が水を求めるように、神よ、私の魂はあなたを求める。神に、命の神に、私の魂は渇く。」

 下北沢駅で下車した私の足は、この日に限って、家のある北口ではなく、教会のある南口に向かった。そして、右側のプロテスタント教会ではなく、左側のカトリック教会に踏み込んだ。赤々とストーブの燃える部屋で聖書(教理)研究会が開かれていた。
  

 ストーブの脇に座った私は、聖書と教理を解説している黒い服の男性(神父様)の話に耳を傾けた。1987年の2月の寒い金曜日の夜であった。1988年4月2日の復活徹夜祭に私は堅信を受け、カトリックに改宗した。


B プロテスタントの聖日礼拝と、カトリックの主日ミサの比較
   プロテスタントの聖餐式は、キリストの記念あるいは想起(アナムネーシス)としての聖
餐であり、過去のことで終わってしまって、現在や未来を取り上げることが少ないよう
な気がした。それは形式的儀式で軽い意味しかもっていない。
  

 カトリックの聖体拝領は、キリストの現存あるいは臨在としての聖餐であり、祭壇上のパンとぶどう酒が聖変化するという神秘である。それは実際的儀式で信者に奥深い体験を与える。


  「この水を飲む者はだれでもまた渇(かわ)く。しかし、私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」

ヨハネ福音書4の13・14


   私にとって、プロテスタントの聖日礼拝は渇く水であり、カトリックの主日ミサが渇かない水に思えた。これは結婚と同じで、相性(合い性)の問題なのであろう。

C エキュメニカル(教会一致)運動の喜び
  2005年9月22日(木)の夜、日本聖書神学校の礼拝堂で「多様な礼拝伝統に学ぶ」と題するシンポジウムが開かれた。会衆席で私の隣りに座っていた男性は熱心なクリスチャンで積極的に自分の思いをマイクで述べていた。終了後、「カトリック教会に是非いらして下さい。」と勧めたところ、10月2日の主日ミサに出席して下さった。関根英雄神父様が対応した時、この男性は「感情的な心よりも、静寂な魂が礼拝においては必要であると百瀬さんが語っておられたので来てみたのです。」と仰っていた。つい私も嬉しくなって、下北沢駅でお別れすべきところを渋谷まで御一緒した。横浜在住の方で、私に心を開いて下さり、いろいろな相談をして下さった。

6.信徒の交わりあるいは親交としてのミサ典礼

@ 主の平和(平安) 
  1980年頃のことであったが、高田馬場のプロテスタント教会の聖日礼拝に出席した時、牧師先生が「互いに平和の挨拶(あいさつ)を交(か)わしましょう。」と言い、会衆がお互いに「主の平和、主の平和、主の平和」と唱えて、親睦の挨拶を交わしたのを見て、何かしら違和感を感じた。今は分かるのだが、それはカトリックを真似ていたのであった。
2005年10月10日(月)、山中湖のサレジアン・シスターズ修道院のミサにおける「平和の挨拶」の場面で、前の席の佐藤正文さん、隣りの席の長江修司さん、そして私が「主の平和」を唱えながら、交互にガッシリと握手した。父と子と聖霊の内在的三一論のように、3人が1つになった。相互の一致とはこのことをいうのだと確信した。
 

A 主の祈り
  「私たちも人を赦します。」これは非常に難しい。タクシーを飛ばしてお祝いの席に駆け付けたのに、相手にされなかったりすると不満が憤りになってくる。その時に、「神はどのようなお考えであるのか。」「かつて自分も同様のことをしていたのではないか。」と思うと何とか乗り越えられた。以後は少し思いやりのようなものが身についたようで、保護者や学生さんに親切になった気がする。
改宗して2年目、信徒委員長に任命された。壮年会の会長を兼ね、任期は2年であった。信者からは失礼な仕打ちを受けることが度度(たびたび)あった。怒鳴られたり、あまりにも非常識な態度(私自身も非常識なのだが)なので承服しかねた。それでも争いにならないように口をつぐんでいる。赦しは難しい。一旦は赦したつもりでも、相手の顔を見ると以前のことを思い出して冷淡になっている自分の姿がある。司祭は「教会に平和と一致をお与え下さい。」と唱え、会衆は「アーメン」と言う。私も、平和を作り出す人になろう、心の度量を広げよう、丁重に挨拶をしよう、と考えて一応は実行する。気持が少し楽になる。

7.まとめ 
  ミサ典礼は、神と聖徒全体との交わりの場である。私は家族を代表してミサに与っており、教会は被造物を代表してミサを開いている。祭壇上のパンとぶどう酒は、信ずる者にとって、キリストの体である。キリストはその場に今生きておられる。

 感謝の賛歌において、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、」と歌う時、前の席から後部の席にかけて、聖霊が津波のように押し寄せてゆく。記念唱において、「信仰の神秘。主の死を思い、復活をたたえよう、主が来られるまで。」と歌う時、バターが溶けて広がり、浸透してゆくようにキリストと私が一体となり、一致してゆく。


 第2奉献文の「キリストの御からだと御血に共に与る私たちが聖霊によって一つに結ばれますよう。」が唱えられる時、私たちはすべてを乗り越えて、和合し、一体化する。

詩篇133の1に、「見よ、兄弟が和合して共におるのはいかに麗しく楽しいことであろう。」

(口語訳)と表現されているとおりで、天上の教会が地上に実現しているのである。

追記  平成17年10月4日(火)の朝、私の担当テーマが「交わりとしての典礼」でよいのかを再確認するために、横浜の友人に電話した。学び合いの会の世話人の一人であり、親切に教えて下さった。この日は夜7時までに千駄ヶ谷駅にゆかねばならず、下北沢駅で下車するつもりはなかったのだが改札口を出た。すると、切符売場に長江さんが立っておられる。下北沢で太極拳を学んでの帰りであるとのことであった。朝、電話した人が、今、目の前にいるというのはまことに不思議なことである。すべては神の経綸の中にある。

 

発題3. 具(クー)師(司祭・上智大学・神学部):
 

 皆さんと一緒に考えたいと思うのは、少し理論ぽくなりますが、私が担当している授業の内容を10分ぐらいに何とか短くして話して、それを一緒に考えたいと思います。先ず初めに取り上げる言葉はラテン語の「communio」そしてギリシャ語の「 koinonia」です。この言葉は「一致」とか「交わり」とか「ご聖体拝領」とかの意味でキリスト教が使って来ました。

 これらの言葉を「典礼」とのかかわりの中で考えてみます。そのひとつはInitiationです。今は「洗礼式」と言わないで「入信式」と言いますね。Initiationは洗礼、堅信、初聖体の三つを中心にする儀式です。Initiationは復活徹夜祭のような一つの儀式で終わるのではなくて、この儀式を行うために長い準備の期間があります。3年ぐらい勉強をします。祈りとか信仰内容とかを勉強した後で、復活祭の夜に洗礼を受けるのですが、その後もInitiationのプロセスは霊的講話として続き、復活節の期間は特別な関心を払って、新しく授洗された方がケアーされます。このように全体の流れの中でInitiationが考えられています。全体として目指しているところは、新しい信者が共同体の中に完全に入れるように配慮することです。

 このプロセスを一つの言葉で表してみればMetanoiaでしょう。一番初めに「来て神の国を信じなさい」と言われ回心して「神の国」を信じます。そして、「喜びの知らせ」を信じて教会にあつまるのです。「一致」と言う言葉が教会の典礼の中でどの様に実践されてきたのかを神学的に見ますと、矢張り、「一致」という言葉には、人間は神の恵みによって、「全く新しい人間」に変わるのだ、と言う信仰が大前提になっていると思うのです。そして、Initiationのプロセスが秘蹟や典礼と共に終わりますと、信者たちはそれぞれの教会の共同体の中で、Metanoia(回心)を深めて行くプロセスに入ります。ここまでをInitial conversion と言っても良いでしょう。一番初めに起こる回心のことです。教会に入ってから、キリスト教の信仰で言う「一致」の意味を経験できるのは先ず、「ユーカリスチア」(ミサ)です。このミサが教会典礼の中心に位置しています。

 けれども、それ以外に、人間の様々な状況に応じて、たとえば病気の時に死と戦うために「塗油の秘蹟」を受け、自分の罪深さを特別の意味で赦して貰う「告解」とかがありますが、教会の中ではそれらは典礼としてあるわけです。これらの典礼はMetanoiaというプロセスを深めてゆくために教会に与えられているのです。ここに一致を深めてゆく経験が係わってくるのです。

 三番目には、これまで申し上げた「一致」は教会の中での一致ですが、この一致は、ただ教会の中に安住するための一致とか、神様の恵みが嬉しいと自分たちが満足するためだけではないのでね。それはミッションという面をもっています。ミッションとして伝えてゆくプロセスとしてOrdinationがあります。わたしは司祭として叙階されましたが、そこには、共同体と共に歩む宣教活動としてのミッションがあると思います。結婚式も召命としては同じですね。あるいは修道生活もおなじです。最近は修道生活と言う形でなくても世俗に生きながらも特別な形で献身して派遣される形もあります。ここで体験した神さまの恵みを世に伝えてゆくプロセスとして考えられます。共同体というのを何か丸い物として考えると、初めに自分がそこに入ることによって、神様の恵みによって、完全に生まれ変わるのです。そしてそれが、ある種の時間的空間性の中で、徐々に深められてゆくのです。そして、それが結果的には、世界とその恵みを分かち合うものとして発展してゆくのです。そういう点から理解して行くとcommunioで言う「一致」や「聖体拝領」が持っているダイナミズムがうかがえると思います。 

グループでの学び合いの後で代表による発表(要約):

G1: 「交わり」は、「自分と神」との交わりの関係に始まり、さらにそれが「共同体との交わり」に結ばれる、と思う。自分はプロテスタントであり、典礼には、カトリックとプロテスタント、またそれぞれの教会、共同体の指向性があるが、厳しい試練を社会的に受けるサラリーマンである自分には、カトリックの典礼には、イエスを中心とする交わりの中で、慰めと励ましを与えられる。そこにおいても、プロテスタントとの違いを超えた「交わり」が感じられる。

G2: 全員男性のグループであった。習志野教会では、外国籍信者が2割以上いるが、通常ミサは日本人向けであり、年1回だけがブラジル人との合同ミサとなっている。このあり方に対する問題意識をもつが、具体的解決方法には至っていない。ミサの中での「一致」には、その前段階からの心の準備が大切であり、また、一人ひとりの意識が大切で、初めて教会に来た人を迎える係として、どのように迎え、参加者を全体の一致に導くかも、大切なことと思い、努めている。

G3: 男性は1人のグループであった。典礼について学ぶことと、その本質を感得することには違いがある。学ぶことだけでは頭でっかちになる。といっても知識と体験のバランスが必要。3G内のプロテスタントの方から、カトリックの典礼には深みがあるとの感想が述べられたが、それはカトリックに固有なことなのか、これがエキュメニカルに開かれていくことが必要なのではないか、との意見もあった。

G4: 全員女性のグループであった。それぞれが長く教会活動に参加するメンバーで、それぞれに深い分かち合いがあった。典礼は、共同体の中で生きる。形の典礼が、生きているものになり、ことばが・・・
G5: 参加者が、典礼の中で与えられる「キリストの現存」と「恵み」を「交わり」の中で実感しているのか、が大切であると思われる。さらに、その恵みを、典礼のときだけではなく、自分の日常生活の中でどのように生きているか、が「交わり」の中で問われる。

司祭のコメント:

増田師:

  「交わりとしての典礼」のテーマですが、みなさまの発表や発言の中で感じたことをお話します。我々は典礼をするために共同体を作っているのですね。共同体は典礼のためですね。古代の教会でユスティヌスなどの証言にありますが、主の日に「パンを裂く式」のために集まってくるわけです。典礼をするために人々が集まってくるのです。そこに共同体ができるということですから典礼のない共同体はない。

 しかし、教会というのは単なる人の集まりではなくて、超越的次元があります。神との超越的次元が具体化する場が典礼です。最もリアルに具体的に体験される場が典礼です。その典礼が共同体を作り上げるのだと思います。しかし同時に典礼と言うのはそこに集まる人々の日常の集約でもあります。典礼はマジックではないので、ある言葉を唱え祈れば必ずこうなると言ったようなものではありません。典礼の前と後が大切です。そこに集まるひとの信仰のセンスが典礼を作り上げ、典礼の質をきめてしまいます。典礼が共同体を作り上げるのと同時にそこの集まる人々の日常生活のあり方が典礼の質を決めてしまう。ただしそこには超越的な次元があるので人間の動作や罪だけが残るのではなく、典礼において「神の癒し」や「力づけ」や、「希望」をいただく場であるということです。

 交わりとしての典礼で大切なのは、教会の信仰は共同体的次元を含むので、信仰宣言も日本語では明らかになっていないが、「わたしは信じます」ではなく、「私達は信じます」と唱えるところです。主の祈りもそうですね。私達と言う言葉が何度もくりかえされます。

 そこには当然私達と神との交わりがあり、神が人間になったと言うイエス・キリストの神秘は、逆に私達が「神化」されてゆくためでもあるのです。神になると言うと誤解されるので「神化」といいますが、典礼によって「キリストの体」をいただいた私達が、今度はキリストの体になっていくのです。わたしたち一人ひとりが社会や家庭の場や様々な場でキリストの現存になって行くのです。そのように秘跡は私達を聖化してゆきます。一人一人が秘跡になって行くのです。このような意味でキリストが人間になったのは私達が「神化」されるためであるといえます。

 これは結局どういうことかというと、一番目の発題者が指摘したように、パンとぶどう酒と言うのは神からの恵みであると同時にそこには人間の手が加わっているわけです。自然の恵みであっても人間の手がそこに加えられて初めて、ブドー酒になるしパンにもなります。神が創造主でありますが、神は創造の場にわたしたちを招いているということです。人間の協働がなければ神の創造は完成しないと言うことです。そこに招かれているのです。このことが大事なポイントではないか。そのことを実感し体感する場が典礼であるということです。

具師:
 今日のお二人の発表や皆様の発言から感じたことは、このように素晴らしい集いがここにあるということを知っただけでも勇気付けられる体験であったということです。私自身がこのような教会の共同体のなかで実際に体験し話し合うのは自分の勉強のためにもなると思いました。その意味でも感謝で一杯です。

 わたしの発題では時間もなかったので巧く説明ができなかったので少し補足させていただきます。典礼を交わりと言う観点から小教区で具体的に考えるときのヒントになりそうな言葉をあげて見ます。全部挙げられませんが四つ挙げておきます。この言葉を基準にして共同体全体や一人ひとりの信仰を見直してみるのが良いのではないかと思います。

 初めに「癒し」(Healing)と云う言葉です。神の前に生まれ変わろうとする人間には大きな課題です。聖書を読んでみますと、イエス様に出会ったたくさんの人々がイエス様から癒される奇跡がでてきます。わたしたちの人生にはいろいろな負い目があります。それらの記憶を典礼の中で神さまによってどの様に変容されてゆくのか意識することが大切です。変容のダイナミズムを一人ひとりが、そして共同体が、どの様に意識し、また実践しているのか、考えてみたらよいのかもしれません。

 次は「Judgement」(判断力)ですが、これは裁判の判決ではなくて、わたしたちのキリスト教信仰を、知性ある人間として正しく判断するためには、信仰者として確りと、健全な信仰の知識を深めてゆく必要があるのです。アメリカで体験したことですが、信仰は深い人なのですが、知的バランスがないために、原理主義的になってしまう人がいます。聖書に書いてあることを文字通り解釈してしまうとか、キリスト者以外はみな地獄に落ちるのだとか、誤って考えている人がいます。私達が持っている知性を働かせてどの様にバランスをとって信仰を深めてゆくのか考える必要があります。教会の組織に対して、あるいは、司教様や教皇様のような牧者達の意見に対しても、わたしたちが、日本の中で、健全な知識を持って、それをどの様に判断してゆくのかと言った次元の問題もあります。

 三番目は「Moral Commitment」(道徳的決断)です。イエス様がこの世に来られて私達に提示された倫理があります。「神の国」と言うテーマで取り扱っていますが、簡単に言えば、イエス様が来られて神様を信じるようになった人々がどの様に許しあっているのかということです。「七の七十倍ゆるす」とか書かれていますね。そのような倫理です。わたしたちが実際に生きている現実において、持つべき価値のことと言えるでしょう。そのために生きるのですし、必要ならばこの価値のために自分の命を捧げる。そのような態度が私達を深めてゆくのですが、そのような意識を英語では「MORAL CONSCIENSE」といいますが、それを深めてゆく必要があるとおもいます。極端な表現ですが、イエス様は「わたしに従う人はあなたの十字架を背負って従いなさい」と云われますね。「いのちを得ようとするものは失われる、失う人は得る」。このようなメッセージに含まれているのは神様の愛による倫理ですね。それを共同体の中でどの様に実践してゆくのか考えてみるのは大切です。

 今日の話は、次の4番目で終わりにしますが、「良心の具体化」英語では「Conscientization」と言う言葉です。これは解放の神学で使われている言葉です。良心が具体的にあらわられると言う意味ですが、文脈的には、私達の生きているこの世は個人のレベルだけではなくて、社会全体に組み込まれている構造的な悪があって、私達の共同体がどの様にそれに立ち向かうのかを問題にします。言い換えると、共同体的良心をイエスキリストの良心に変えて、社会の構造的な矛盾、人々を圧迫する力に対抗することです。

 解放の神学では、飢えている人がいるのに、つまり、社会的な解放なしに、正餐はあり得ないと考えます。少し極端かもしれませんが、「飢えている人のいる状態では、正餐でいただくパンは完全なものではない」といわれたりします。そこで云っている深い意味は、イエス様が自分の体をパンとブドー酒として私達に与える意味が、この世の中でどの様に実践されていくのか問うところにあるでしょう。その点で、マザーテレサは一つの大きな模範かもしれないですね。

 このような四つのカテゴリーを提示したのですが、これらのヒントが、共同体の中で一人ひとり、今日のテーマを深めてゆくヒントになれば嬉しいですね。

 

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