「教会の民主化を考えるための民主主義の概説」

 

 

新しい何かを言ことは出来ない。これから述べることは、誰かが既にどこかで言ったことがほとんどである。ともかくテーマが大きすぎてうまく整理が出来たとは思わないが、これまでに調べ直したことを以下に出来るだけ簡潔に述べるよう努めたい。

 

「教会の民主化」と言う言葉に対して賛否両論であるが、信者も司祭も含めて拒否反を示す人が多いのです。最近のカトリック新聞にも正義と平和全国集会のこのテーマに関する意見がいくつか出ていました。私が現在属している真生会館の 21 世紀の教会を考える「学び合いの会」でこのテーマを取り上げたときも同様でした。

 

それぞれの「民主主義」「民主化」への考え方があって、その考えによると誤解を招くおそれがあるという指摘であるようです。「民主主義」とか「民主化」の全体像が不明確の中では話がかみ合わないことはたしかでしょう。そこで民主主義の歴史や思想の変遷そして現代の問題点など全体像を出来るだけ整理できないかと考えたわけです。

 

議論の混乱を避けるために、先ず初めに明確にしておきたいのは、この一文ではどんな意味においても「位階制」そのものに反対する意図は毛頭ないということです。その権威の行使のあり方について考えてみる時に、前提となりそうな情報を幾つか整理してみたいということです。

 

われわれの住む現代社会は民主的社会といわれています。ですから、現代の教会のあり方がこの社会から見て、どの様に考えられるのかと問うて見ることはた大変意味のあることだと思われます。現代社会と深く交わることを教会の使命をしているならばなおさらその意味は大きいでしょう。

 

 

初めに、この一文をまとめる際の、私の視点について触れておきたい。ここでは第二バチカン公会議の教会憲章で規定した、教会は「神の民」であり、位階制はその中にあるという教会理解を前提にしたい。第二バチカン公会議の範囲内であれば自由に安心して意見を交換すべきであると思われる。第三バチカン公会議まで見据えて、意見を出したい方は別の慎重さが必要と思われる。ここでの意見交換はその範囲内であるから安心してよいのではなかろうか。

 

「民主主義」そのものに関しては、比較政治学的な判断基準は別にあるのだが、ここでは「民主主義」そのものをとらえるのではなく、より現実な民主的社会とは何かということを考えることにしたい。民主的社会とは一言で言えば、「一般市民が社会の政策決定に影響をおよぼす機会が与えられている社会」だといえるだろう。それに加え、民主主義思想を考えるなら、思想家たちがどのような時代的文脈で何を語ったのか明らかにしてゆく作業抜きには出来ないので、到底ここで扱える問題ではない。しかし最後の参考資料として、重要と思われる思想家について、政治学者からの孫引きに過ぎないが、簡単に触れておきたい。現在の民主主義については、「民主主義はこれまでに人間が考え出した最良のシステムであるが、さまざまな経済的社会的文化的事柄との関連から、その理想は未だ実現の途上にある」という考え方に置くことにする。

 

 この文章の目的は、「教会の民主化」を考えるときに話し合いの前提になるいくつかの事柄を整理してみたいと企画されたものであって、多少主張めいたものが張り込んではいるが、何か主張することを目的としてはいない。不勉強からくる誤解も多いかもしれない。それぞれがこのテーマについて自分の考え方を吟味し続けることが大切であると思われる。この一文が教会のありかたに関心を持つ方々に少しでも参考なれば幸いです。

 

同じ情報を持っていても必ずしも同じ結論には至らないのがこの世の現実のようですので、皆が同じ結論に達することを期待しているわけでもありません。チョムスキーは「自分と財界を支配している人たちとは情報という点では全く同じものを持っているが彼らと私は結論が違う」といっています。しかし、情報が異なれば考えもより一層異なってきてしまうでしょう。

 

この資料は「学び合いの会」の一員として「21世紀の教会」を考える一参考資料として作成したものです。政治思想史の専門家ではありませんので誤りや重要事項の欠落があるかもしれません。)

 

 

T.何故「教会の民主化」が叫ばれたのか

 

第二バチカン公会議が打ち出したものは何か

過去と異なりこの公会議が打ち出した新しいことは「権威主義」のスタイルの変更であり、「権威の機能の仕方の再定義」と言えそうである。あり方、スタイルの変化としては、トップダウンから「協働」「パートナーシップ」への転換であり、この範囲は全教会のあらゆる階層間に及ぶ。そして教会を「支配」「統治」ではなく「奉仕」「僕」と言う言葉で再定義していると言われている。この公会議自体は、教皇の権威を再確認し、その意味で、制度としての教会の民主主義化を望まなかったと言われる。

 

しかし、第二バチカン公会議で大活躍されたスーネンス枢機卿やカスパー枢機卿などが、現代の教会の改革を「民主化」という言葉でとらえたことは、事実であって、その理由は、明らかにこの公会議の打ち出した「権威の再定義」に関してだと思います。良かれ悪しかれ現代と言う時代を「民主主義」と言う言葉で象徴的にとらえて現代人の感覚に合わない現在の教会を現代人の感覚に合わせる必要を感じたのだと思われます。

 

カスパー枢機卿は、教会を語る時は団体統治の構造を語るべきで、民主主義という言葉は多義的である、教会は特別の使命を持っているので、民主主義という言葉を同義的に教会に当てはめることは出来ない、しかし、団体統治構造を具体化するさい、多くの民主的形態を取り入れるのは相応しい、そうすればかつての封建的、専制的形態よりはるかに正当な形態となる。この意味で古代中世を通じ長く伝統的に教会内にそのようなあり方は保たれていた。「すべてのものにかかわりあることはすべてのものによって決済すべし」を言う諺を一例としてあげている。

 

教会の改革の方向を民主主義の理念から示唆しているのは、それだけではなくて、近年では 1993 年のアジア司教総会では「第二バチカン公会議では教会の内部構造が、交わり、協働責任、そして教会に属するすべての人々の自由、尊厳、平等であることが尊重される組織のあり方の実現を提案する」といっています。この自由、人の尊厳、平等は民主主義の思想が打ちだした最大の理念の特徴と言われているのですから、その意味ではこの司教総会は教会の民主的組織のあり方を提案したといえるでしょう。

 

「教会の民主化」に関連した、最近の教会の動きとしては、私の知りえる情報は非常に少ないのですが、「教会の民主化」を表きって主張しているのが、 ARCC Association for the Rights of Catholics in the Church )です。この組織は教会に対して民主化に関し具体的な提案を文章の形で提示しています。それは最近の神学ダイジェスト 96 号に翻訳が載せられています。この団体は数年前に起きた司祭による性的虐待問題がおこり数百億円の損害賠償問題や数百人の司祭の司祭職停止や教区が他の教区を損害賠償で訴訟を起こすといった事件を機会に積極的な活動を展開しています。その活動の方向を一口で言えば、その事件の原因を「信徒が信徒として教会内で取るべき責任を果たし来なかった、すべてを司祭任せにしてきた信徒の責任でもある」とし、これからは信徒がその責任を果たさなければならないという運動ということです。

 

その結果、教会自体も各種の委員会を新たに設立するなどして信徒が直接教会の事柄に参加する場が拡大されて来ていると言われています。 ARCC の運動を率いる信徒神学者であるスイドラー教授が来日し昨年講演会が 2 回開催されていて、その講演内容がカトリック新聞にも報道されています。そのほかに 2003 年カミロマチセ、カルメル会司祭が「教会内暴力」で人権問題を訴えており、 1987 年に倫理神学者のヘーリング師も遺書的書物「教会への希望」で教会の民主化を訴えています。まだまだ関連した書物はあると思います。

 

つまりこれらの人たちは皆、教会の現状、中央集権的で専制主義的な教会のあり方に対して、その改革の必要性を訴えたかったのだと思うのです。一寸表現にはきになるところがあるかもしれませんが、これまで人々の話や、読んできた本のなかで言われた来た表現を集めると、司祭中心主義、対話説得(説明)の欠如、命令的姿勢、支配的態度、独善的判断、人権無視、権限の集中、責任の不明確さ、チェック機構の欠如、一方的人事権、その他さまざまな非福音的構造と運営のあり方などを問題にしているのでしょう。これらの言葉の中身を拾ってゆくと、女性差別、身分制度、一方通行的専横、秘密主義、などさまざまな問題に広がって行く可能性があるでしょう。

 

教会が世俗政治制度に影響さえるより、ヨーロッパの近代の政治形態は教会制度に大きく影響されていていると指摘する政治学者もいます。選挙制度にしても、王権神授説自体も、主権の問題にしても教皇権と密接に関連しているとの指摘です。また自由にしても始まりはむしろ世俗権力からの教会の自由であり、平等にしても福音的な神の前における人間の平等から来ていると云われます。しかし、教会と世俗権力や政治体制とは本質的に全く異なったものであるに違いありませんが、人間が作り上げた制度としては、世俗制度と似たところが沢山あることは確かでしょう。そのへんのところを少しでも明らかに出来ればと願っています。個別に民主主義の歴史や理念や制度を整理してみる前に、教会の本質と政治制度の共通点と差異を大筋として言えそうなことを簡単に整理しておきます。

 

政治思想としての「民主主主義」と「福音」の共通点と差異

先ず初めに、政治思想としての「民主主義」と「福音」の共通点があるとすれば、「人は皆神によって創られ神の前に平等である」と言うことにあるようにおもわれます。民主主義の「国民主権」の根拠も教会の定義である「神の民」の根拠も「神によって創造された人間」と言う、一見同じところにあるようです。しかし民主主義の方は国民一人一人が神に従うという義務が欠落していると指摘されていますが、一方教会の「神の民」が目指す「神の国」は一人一人が神に従うことによって実現するものです。

 

現代民主主義政治国家の憲法には「神に従う」ということが国民の権利の前提として権利とバランスが取れるほどの明確さを持って義務がうたわれていることは殆ど無いと思われます。「民主主義」が現実にめざしたのは「神様を可能な限り放擲して政治体制を実現しようとした」とも言われています。神との関係から見る限り、王政の方が神に対する王の義務が、現実に果たしたかどうかは別にして、理念上は明確にされていたと思われます。

 

王政の根拠は、教皇権の源泉と同じで、その根拠を神に置く考え方です。無論秘蹟的な違いはあるにしても、神から来るという考え方は同じで、それを王権神授説といったわけです。この世俗権力の正統性の主張の根拠は、教皇権の主張の世俗版であると思われます。簡単に言ってしまうと、その王権に反対して、市民の権利主張をして誕生したのが近代民主主義であるわけです。その意味では、市民権はその王権に変わる権威の根拠を明確にしなければならなかったわけですが、それは神の前にすべての人は平等であるという考え方にその根拠を置いたわけです。従って、現代民主主義の現状を見て民主主義体制を批判する政治学者は「神さま抜きの市民の権利による政治体制が本当に可能なのかと問い、一方民主主義社会で制度優先的政治体制の中で荒廃した「理性」の復権を主張しているようです。確かに現代の民主政治の実態は選挙に勝つことが大前提になっていて、勝ち負けが優先して、仕組みとしての民主主義の中には人間理性の登場する場面は少ないようです。

 

どのような社会でも、支配と被支配の関係は避けられないと言われます。民主主義制度では支配者の独裁を抑制する装置として、不完全であっても、さまざまな工夫が試みられてきている。選出・任期・分権・チェック・リコール・議会制度・司法制度などなどが考案されてきている。これらの装置は殆どが民主主義社会の発明ではなくて以前から存在していたようですが制度としての教会にも適応可能かどうか慎重に考えても良いと思われます。

 

政治制度と教会制度の決定的差

「神の国」の実現を使命とし、それを願い、それに向けて努力しようとしている教会が、福音から言っても本質的に正しいと思われる「支配被支配の関係を排除した権威」を共同体の中に実現しようと真に願うならば、現実の教会制度を真正面から見直して一歩一歩勇気を持って相互信頼のうちに、多くの人間的努力をする必要があることは確かでしょう。

 

教会は支配・被支配の関係に基づく秩序ではなく、信頼と僕としてのリーダーシップによる秩序であることが求められているのであれば、「教会の民主化」とは、「僕」「奉仕」としての「権威の再定義」の下に、つまりカトリック教会の命である位階制度の枠組みのうちに、民主主義のこれらの装置をどの様にすれば取り入れることが可能なのかが問いであるように思われます。

 

過去の教会は、神から来る権威の名の下ではあっても、現実社会の支配・被支配の政治制度を大幅に導入して今日に至っていますが、現実社会で支配・被支配の制度の下で喘ぎ苦しむ多くのこの世の人々が、カトリック教会を模範としたいのは、如何にすれば「支配・被支配ではない社会制度が可能かどうか」というところにあると思います。これこそが“神の国“のこの世での建設ではないでしょうか。

 

教会の使命を共有するために

何はともあれ信徒の立場からすれば、支配・被支配の関係ではない教会改革の第一歩は、信徒の教会の意思決定への参加ではないかと思うのです。何故なら、神の民として教会メンバー意識を正しく持つためには、先ずは、教会の決定事柄に参加していることが必要だからです。全く「意思決定」に参画していないならば、決定を共有することは非常に困難ではないでしょうか。参加していないところから出される決定は一方的であると受け止められるのが普通で、権力による罰則的条件が付けられていない限り無視されることが多いでしょう。基本的に信徒が教会の運営意思決定に参画しているという実感が抱けるような教会の運営がなされていないならば、教会の方針や決定は共有されるものとはなりにくいでしょう。

 

司教や司祭との信徒の協業や責任分担に際しても、司祭や司教の選任に全く信徒が関係ないのであれば人間的な共同体としての関係を形成するのは難しいと思われます。少なくともどのような基準で選出するのか基準作成のプロセスには何らかの形で信徒が参加するほうが良いと思われます。司祭の移動や評価に対しても個別の人事に関与するのではなく判断基準の作成や運営のありかたには参画できると思われます。全然関与することなく派遣されてきた司祭や司教の場合と何等かのあり方で自分たちがその方の任命に関与することは信徒がわにもそれに対する責任を意識させると思われます。支配・被支配の関係ならそのような選任に関与する必要はないでしょうが、一致と交わりを目指すならば、必要なことであると思われます。

 

共通の目標が存在しその目標自体が「共同体のリーダー」となり、一人一人の忠誠心はその目標自体に対する忠誠心であるという経営学の考え方があります。企業内でもチームが自分たちで初めから考えた目標はそのチームに共有されておりそれがチームを引っ張ってゆくことは現実に体験できることです。 NHK の番組プロジェクト X にはその例が沢山みられます。この目標設定のプロセスから信徒が排除されている現状では、この「見えざるリーダー」が不在であると言えるのではないでしょうか。

 

誰が権力を握るとか平等とか権利といった問題ではないのです。参加意識、当事者意識を確りと抱けるようになるためには制度をどの様に変える必要があるかではないでしょうか。生きた共同体ではすべての人、大人もこどももそれなりに共同体の出来事に生きたかかわりを持って共同体の出来事を自分の問題として実感できないならばその集団は共同体ではないといえるかもしれない。意思決定、目標形成、問題処理の過程に全員が何らかの形で参加し、自分のこととして協働してゆくことが大切でしょう。現在、共同体論が盛んに教会で言われていますが、「共同体」自体がこのようにして形成されるのではないだろうか。先に「共同体」が存在するのではないとおもいます。それに、教会内での、真の「協業」を目指すならば、このプロセスを抜きにしては、「協業」の実現は不可能であると思われるのです。

 

この項をまとめると、

第二バチカン公会議は、教会を「支配」「統治」ではなく「奉仕」「僕」と言う言葉で再定義したと言われている。一方、この公会議自体は、教皇の権威を再確認し、その意味で、制度としての教会の民主主義化を望まなかったと言われる。従って、第二バチカン公会議を前提にすれば、現在の教会が目指しているのは、教皇の権威の下に、教会を支配・統治ではなく権威の奉仕と僕という言葉で制度やあり方を見直すということになるだろう。

 

この了解の下に、 スーネンス枢機卿やカスパー枢機卿などが公会議直後に、現代の教会の改革の方向性を「民主化」という言葉でとらえ「教会の民主化」を提唱しているし、また近年では 1993 年のアジア司教総会でも「教会に属するすべての人々の自由、尊厳、平等であることが尊重される組織のあり方の実現を提案する」と民主主義の理念を使って教会のあり方の見直しを提唱しています。福音は民主主義理念をはるかに超えたところにあると思いますが、示す方向性は同じであるということであるとおもわれます。

 

政治思想としての「民主主義」と「福音」の共通点があるとすれば、「人は皆神によって創られ神の前に平等である」と言うことにあるように思われます。しかし政治学者からは、民主主義の方は国民一人一人が神に従うという義務が欠落していると指摘されています。一方教会の「神の民」が目指す「神の国」は一人一人が神に従うことによって実現するものでしょう。

 

教会が目指しているのは自由とか平等とかの権利関係を超えた、「支配被支配の関係を排除した権威」を共同体の中に実現しようと願っているのでしょうが、その実現のためには、現実の教会制度を真正面から見直して、教会メンバー間の相互信頼のうちに、多くの人間的努力をする必要があると思われます。その制度的見直しとしては、現在の民主主義政治制度の中で実施されている、選出・任期・分権・チェック・リコール・議会制度・司法制度などなどの導入を検討することと同時に、信徒の側から見れば、教会の出来事への信徒の参加が必要であり、参加といっても、何かを決定する際に、その決定のプロセスに参加することが大切であると思われるということです。

 

U.民主主義とは何か

 

「民主主義」と言う言葉を聴いて何を連想するだろうか。

アメリカの独立宣言「人民の、人民による、人民のための政治」かもしれない。また、毎日のニュースを通じてアメリカがイラク戦争の正当化に使われているのを承知している。少し歴史に通じている人なら「フランス革命の自由と平等」、政治に興味があれば「三権分離」「多数決」「選挙」「国民主権」「対話・説明・説得」といった「民主主義実現のための装置」をあげるだろう。それにもう少し詳しい人は「ナチス」「共産主義」も「民主主義運動から生まれたことを思い出すかもしれない。議論好きな人なら、「民主主義」と言う言葉が第一次世界大戦までは疑わしい言葉であったが、戦勝国が不承不承参戦させられた民衆への説明としてこの戦いは正義の戦いであることを「ドイツ軍国主義に対する民主主義の戦い」として主張したのだ、それ以来「民主主義」は良い意味を獲得した」と言うかもしれない。また「デモクラシー」の意味は「民衆による支配」であって、現在でも警戒を要する言葉だと歴史的背景を詳しく説明したがるかもしれない。「神なしの政治制度は可能なのか」と投げかける人もいるでしょう。

 

民主主義という考え方と言葉はそれ自体の歴史を持っている。思想としても多義的であり制度としても現実には多様ですが、多義的で多様であるにしても、ある制度が民主的であるかどうか判断され、ある集団の運営などが民主的であるかどうかも日常的にも議論に使われている。これから話を進めるためには、民主主義とは何か定義めいたものを簡単に提示するのは難しいが、少なくとも民主的とはどんなことをさしていると考えているのか、一応説明しておく必要があると思われる。「市民の政治参加の形態はさまざまであるが、民主的社会とは一般市民が社会の政策決定に影響を及ぼす機会が与えられている社会である」と言っておきたい。一般的にも民主的であるかないのかは、参加の機会や発言の機会があるのかないのかが基準になっていることが多いように思われる。ジョンヂューイが言っているように、民主主義の最大の成果は「人間らしく生きる人間」である。政治学でも「民主主義はそれ自体が目的ではない、人々が人間の根本的なあり方と人権を見出し、広め、証明してゆくための道具である」という考え方があるが、共感できるものがある。

 

一方、比較政治学では、ある国の政治体制が民主的であるかどうかの判断基準を「 ポリアキー」という尺度で考えている。その基準の要点は、@選挙により選ばれた公職者のみが公共政策をコントロールする憲法の上で権利を有する、A自由、公正な定期的選挙のみで公職者を選出する、B選挙権が成人の殆どすべてに認められる、C選挙民が公職に立候補可能、D自己の政治的見解を表明する市民の権利が護られている、E情報源へのアクセスが保障されている、F市民は、政党、利益団体、相対的に独立した団体を作る権利を有する、といった内容です。ここでは政治論をするわけではないので参考に挙げるだけにとどめておきます。

 

それでは、非民主的とはどのようなことを意味しているのかが重要になります。一人又は小人数のグループが公的な制限のない権力を行使している状態で、特に、政治官職への自由な競争がない、市民の政治への自由な参加がない政治状況を、政治学では意味している。支配者が国民に対し応責的でないのを特徴とするが、現実にはさまざまな程度の差がみられる。古典的には危機における暫定的政府である。教会のあり方の批判の中にも、同様な指摘はあります。危機的な状況で導入したあり方が集団の普段の生き方になってしまうことがる、とレイモンドブラウンの指摘している。 

 

比較政治学では権威主義体制、全体主義体制、スルタン主義、ポスト全体主義に四分類の分け方もある。全体主義は国民全体を動因する点で専制政治とは異なっているが、全体主義はファシスト政権が自らを呼んだ呼び方から生まれ、その後、共産主義諸国もそう呼ばれるようになった。権威主義体制の特徴は権力を行使するただ一人の指導者の存在がある。多くの場合、個人の神格化と、カリスマが特徴となっている。

 

一方、現在の民主的政治体制に対してさまざまな欠陥が指摘されている。チョムスキーは、最も先鋭的に現代の民主政治のあり方を批判している一人だと思いますが、「民主主義は人間がこれまで見出した社会体制の中で一番欠点の少ないものだということに賛成するか」との質問に対して「最良のシステムです」と答えている。彼に言わせると、「民主主義は一応存在しているが、未だその公約した目標のすべては実現してはいない。民主主義を広めようとする民衆と、何とかそれを抑えようとするエリートの間の戦いが繰り広げられている。企業の力の増大は民主主義を抑えようとする狙いを持っている」と言っているのは現代の民主主義の現実を把握するためには傾聴に値する指摘であると思われる。理念としての民主主義と現実の民主的政治体制の区別が必要なだけではなく、本来民主主義思想が目指しているものと、さまざまなほかの要因、特に資本主義社会の影響下において歪になった現実の民主的といわれる政治体制との区別も必要と思われます。

 

民主主義の独自の理念とは何か

民主主義と自由

「自由・平等」は「民主主義」独自の理念であると言われます。しかし、この理念に関して多くの問題が提起されていて簡単ではない。思想としての自由は古代ギリシャまでさかのぼれるが、自由主義思想の歴史は近代ヨーロッパに始まる。「個人主義」の起源がそこにあるとされる。政治言語としての自由主義は 1820 年ごろスペインで王党派の絶対主義に対抗して立憲主義政治を唱えた党派に付けられたリベラレス( Liberales )という呼びかけに始まるとされる。

 

民主主義と自由という価値観は必ずしも一つに結びつかない。自由主義の創始者はパンジャマンコンスタンといわれるが、彼の場合、近代的自由は、国家からの自由であり、権力の制限であり、権力の及ばない領域を確保することであると主張した。

 

民主主義と自由はけして円満な関係にあったわけではない。実は激しい対抗関係にあった。平等との関係でいうと、例えば、財産権の自由は経済的平等とは根本的に抵触する。 自由のあるところ不平等が存在する。不平等はまさしく自由から不可避的に発生するとも言われる。

 

人間が単に人間であると言うだけの資格で、自由権を主張できると言うことが近代民主主義の根本特徴である。思想の自由・言論の自由・出版の自由・集会の自由・結社の自由と言ったものは、単に権力からの自由、民事上の自由として意味するばかりではなく、権力への自由、政治的な自由の前提条件として意味を持っている。私有財産を制約し制限を加えながらも人間の間に連帯を創らなければならないという主張が現代の福祉国家に向かう道を開くことになったと言われている。

 

自由と平等の問題点

「幻想としての自由と民主主義」(木崎喜代治)という本がある。自由と平等のもつ根本問題について論を展開しているのでそれをベースに整理してどこに問題が潜むのか考えたい。

 

自由は解体の原理であって、創造の原理ではない。自由そのものの中には積極的なものはない。自由とは拘束されないとか妨害されないとか言うことでありそれ以上の具体的内容を含んでいない。自由な生活はそれ自体で一般的社会規範にはなれない。現実に自由は ** への自由という表現で殆どの場合**への権利を意味している。つまり、言論の自由とは言論の権利のことである。自由と放縦を区別する客観的基準は存在しない。

 

現代の自由と過去の自由は異なっている。キリスト教でもイスラム教でも人間を自由なものとは考えていない。宗教とは宗教思想であるだけではなく政治思想でも、経済思想でも社会思想でもある。人間生活全体を統括する総体的思想である。近代のヨーロッパにおける自由の思想は信仰の自由から始まるといえる。信仰の自由は信仰を捨てることでは全くない。断固として自分の信仰を守ることを意味していた。現代人が考えているような、信仰を持たなくても良い自由ではない。信仰の自由は良心の自由へと広がり、政治の領域へと拡大されてきた。政治の自由だけにとどまらないで経済や社会や文化へと広がっていった。このとき自由は限定詞なしの絶対的普遍的地位を獲得した。

 

今日の自由は具体性を欠いている。過去には自由は手段であった、信仰を確保するための信仰の自由であり、国王の圧制に対抗するための手段として自由が要求されたが、今日では何の目的のための自由かたずねない。自由それ自体が目的になっている。歴史的に見れば自由の獲得は実際上いわば準備作業に過ぎないのだが、人々は誤ってそれを最終工事と見なしてしまった。自由は解放や解体のための標語であって、創出や編成のための標語ではない。

 

従って、人間の掲げるべき目標は自由ではなく自律である。人間は自由を求めるべきではなく、既存の拘束よりも一層優れた別の新しい拘束を求めるべきであったのである。自由とは新しい自律あるいは自己拘束であったのだ。しかし、自由を獲得することは即、自律を獲得することではなかった。自律はけして容易な仕事ではない。自律こそが人間相互間の真の絆の根幹を成すからである。

 

自由という視点から考えるにしても、単純ではない。教会の民主化を考えるヒントもあるように思うのだがいかがであろう。

 

民主主義と平等

この関係は直接的である。アリストテレスは平等が民主主義の基礎であると明言している。平等がなければ民主主義はない。アテナイでも差別撤廃の要求であった。近代国家で制度的に確立されたのは、「法の前の平等」であった。この観念は神の前に平等が世俗化されて出てきたものであるとされる。神の前の平等が地上における不平等を無意味にするだけであって、現実にそれが存在することは別に妨げないように、法の前の平等も個人が体力・才能・財産・職業・信条・性において差のあることを否定するわけではない。多様であるが、法的に差別されることは無いという意味で平等であり。法というものはもともと擬制 fiction である、同じ意味で平等も擬制である。平等に扱うと言う約束事である。しかし実質的に平等を実現する試みは初めから民主主義と結びついていた。社会主義思想の後退や経済活動の自由の問題からかなりその実現への歩みは後退したとは言え、その要求は根強いものがある。「弱い人の立場に立つ」カトリック教会の姿勢としても無関心ではいられないはずである。 

 

個人を平等に処遇するとは「同じ状況にある者を、同じに扱う」ということに法律的には解釈されている。誰でも同じに扱うことではない。異なる立場・状況にあるものを同じに扱うのは平等に反すると考えられている。近代が求めた平等の初めは封建的身分制からの解放としての平等であった。順序としては自由が先に来て、平等は後に来ると理解される。平等は自由との調和を求められる。形式的平等か実質的平等かの問題もある。近代の平等権は国家による不平等処遇からの自由をして考えられた。日本の明治憲法には平等を一般的に規定する条項はないという。日本国憲法では平等保障の徹底を図った。自由と平等の関係はとても難しいのでここでは扱いきれない。

 

民主主義の機構原理

理念からすると、自治ということになりますが、民主主義であっても「人による人の支配」には違いない。民主主義では治めるものと治められるものが同じであるところにある。今日の民主政治の制度として受け取られているさまざまに機構は元来民主主義の理念とは何の関係も無い歴史的遺産、特に立憲主義の遺産に由来するのであり、もともと自由とか平等とか言う民主主義の価値原理を実現するために新たに構成されたものではない。その目的のために使われるようになったに過ぎないのだから、この理念実現のために取り入れられた装置自体に民主主義独自のものを見出すことは難しい。また、民主主義を選挙と誤解するおそれもあるだろう。「人間らしく生きる人間」をその成果とすることを忘れるならばそれ自体は道具に過ぎなくてそれは民主的てはない。

 

 

長い間「民主主義」は否定的な意味合いで使われていた

「民主主義」が良い言葉として使われだしたのは第一次世界大戦後であり、民主主義国としてのアメリカの参戦により、連合国の戦争理由を正当化するために用いられた「戦争はドイツ軍国主義に対する民主主義のための戦争である」とされた。その流れは現代でも続いている。イラク戦争を正当化するためにも「民主化」を旗印にしている。

 

ヨーロッパでは民主主義という言葉は一貫して「君主制に反対する」意味を持っていた。その時代までは民主主義が正当な言葉、良い意味を持つ言葉であったのは米国であったといわれる。他の国では民主主義を唱えること自体危険思想を意味していた。

 

しかし、保守的な視点からアメリカの政治思想を見る立場からは異論が提出されている。三権の分立もその見方からすると、権力の集中を避けるのが目的ではなく、権力を積極的に相互に戦わせることで政府権力の全体を強力なものにしようとしたと解釈される。憲法や裁判所は「議会」(市民の代表)の暴走を阻止するための防波堤であると見なされている。

 

民主主義思想は「民衆が王権から権力を奪って身分制を徹底的に打ち破る政治運動・思想・イデオロギー」として使われたのである。ナチズムも共産主義も民主主義から生まれたものであることは確かである。しかしだから民主主義はだめだというのや早すぎる。思想としての社会主義と共産主義は共産社会がとった全体主義国家の政治体制とは同じものではない。これらの思想の中には人類の生んだ叡智の宝がある。それを福音の視点から再発見する必要があるだろう。カトリック社会教説の中には多くの類似した考え方が述べられていると神学者のマシア神父は講義の中で指摘している。

 

民主主義の理念形成の根拠は何か

「国家」は「主権」という観念の上に形成された。「主権」とは他が犯すことの出来ない「最高の力」と言う意味である。国王の強権によって人工的に政治社会の枠組みが作り上げられた時代になり、その国家の最高権力を「主権」といった。従って、その意味では「国民主権」とは「王権」に代わり「国民」が最高の力を持つ国政に他ならないということになったのである。この流れを経過しなかったアメリカの 1788 年制定憲法には国民主権の考え方は全くないという指摘があるのは記憶にとどめておいても良いかもしれない。

 

「君主制王政」を支えていた思想は「王権神授説」であった。「王権神授説」は王の権力に対して神法・自然法から来る「正しさへの義務」と「根拠付け」とが対になっている。その意味からすると「国民主権」においてはその根拠付けが明確ではないと指摘されている。「平等」の根拠として、神の創造の平等性はうたっているが「国民」の上に置ける神の存在が眞に希薄である。

 

「民主主義」であっても人による人の支配には違いない、理念からすると、「自治」ということになる。民主主義では「治めるものと治められるものが同じである」ところに特徴がある。「民主主義」は思想であり民衆の解放運動であった。既に指摘したとおり、共通の原理は「自由」と「平等」であるとされる。

 

民主主義の思想の根本的な特徴は一体何なのか?民主主義になって初めて「人間が単に人間であると言うだけの資格で『自由権』を主張できる」と言われた。これは民主主義固有の特徴である。思想の自由・言論の自由・出版の自由・集会の自由・結社の自由と言ったものは、単に権力からの自由、民事上の自由として意味するばかりではなく、権力への自由、政治的な自由の前提条件として意味を持っている。

 

「自由」として何が主張されるのか。その中身を見ると、実際は中世以来の身分的な特権を引き継いだものが多いと言う。民主主義と自由は実は激しい対抗関係にあった。「良心の自由」の要求をさかのぼれば宗教改革にさかのぼれる。「権力からの自由」、権力の干渉を許さない聖域としての自由として、積極的価値になった。この自由は平等の理念と不可分のものとなったのである。「国家からの自由」は「国家への自由」にならざるを得なかった。具体的には「国政に参加する権利」の主張となったのである。

近代国家で制度的に確立されたのは、「法の前の平等」であった。この観念は「神の前に平等が世俗化されて出てきたものである」。平等に扱うと言う約束ごとであって、現実の不平等が存在していることを妨げるわけではない。米国における平等観念は実質的平等ではなく機会の平等である。いわば不平等になるための平等である。

 

民主主義の理念を実現する装置の源泉

  「権力の分離」「代表の選挙」「議会」「多数決」などの装置について少し整理してみたい。「権力分離」はもともと「混合体制論」という中世以来の伝統を近代の国民の権力に転用して作られたものである。「混合体制」は国王が家臣の合意によって支配すると言う要求であった。「議会」と言う機構は合意調達に使われた。さまざまな身分のものを集めて国政に参加する。身分制議会の機構であった。軍人貴族、高位聖職者、富んだ平民、13世紀の終わりにイングランドで開かれた「議会」、これが両院制の起源である。

 

代表を「選挙」するのが今では民主主義の原理ということになっているが、これはギリシャでは民主主義と何らの関係も無かった。代表を選ぶ選挙は古代ギリシャ人が最も警戒するものであった。選挙とは裏を返せば民衆の支持と後押しが束ねられてその力が一人の人間に握られることであったからである。多くの僭主が選挙によって選出されたものであった。

 

「多数決」は代表の原理よりは強く民主主義と結びついている。多数決は合議体の意志を決定する方法である。ヨーロッパでこの制度が確立したのはローマ教皇の選挙であった。これは民主主義とは関係ない。すべての人間の自由と平等と言う価値原理と矛盾しないようにするには多数決は満足な解決ではない。その要求を満足させるなら全員一致しかない。

 

民主主義の理想を実現できるかどうかはこれらの装置を使う人々が民主的な考え方に立っているかどうかによるのであって、装置の導入が民主化を実現するわけではない。

 

アメリカの現在の民主主義

民主主義はそれ自体が目的ではない。人々が人間の根本的あり方と人権を見出し、広め、証明してゆくための道具である。政治思想としての民主主義が目指しているのは、自由と団結、職業選択の自由と、社会組織への参加である。人間の本来のあるべき姿は民主主義から生まれると主張される。民主主義の成果は「人間らしく生きる人間」であると、 20 世紀の初めにデューイは述べていると既に言った。人間らしく生きるとはどのようなことなのか。人間が人間らしくあるためには、己を律しながら自由で創造的な環境で仕事をする必要がある。これがすべての開かれた社会の基本となるべき理念であると言われるがこれで十分ではない。自分らしさを貫くことかもしれない。責任を持つ態度かもしれない。交わりの中に生きることかもしれない。共同体の出来事に積極的に関わり責任を果たすこと。人間らしくないとはどういうことか?主体性がなく自律的でない、さまざまな抑圧の中に喘ぐ、低賃金で果樹労働の生活、ひとりの人として認められない、差別されている、いくらでも思いつくが、民主的でない政治体制の中では特権階級意外には、これらの実現は難しいと思われる。

 

現在のアメリカが広めようとしている民主主義は非常に特殊なものであるといわれる。その目的はドップダウン型で統制の行き届いた民主主義体制を作り上げることにあり、企業とその支配者からなる従来型の権力構造を守るところにあると批判されている。どのような民主主義を導入しても良いが、支配者の既得権を侵害するような民主主義はけして許さないという。つまり、どのような装置を導入しそれがどの様に運用されようとも、自分たち支配者の既得権は絶対に侵害させないという意味である。

 

現実に国家を支配しているのは投資家の集団であり、民主主義の実現のための装置は、今の社会では財界に牛耳られ、政党は財界の権利代表になっている。殆どの大統領は財界を代表して出馬している。一般市民が企業に対して行使できる支配権とは企業に労働を提供すること、企業が生産する商品サービスを消費する、命令系統の中に自分の居場所を見出す程度のことであり、発言権は殆ど持たない。

 

企業社会は全体主義的である。問題は個人の問題ではなく企業組織の問題である。財界の権力者たちは論理的で理性的に振舞っている。大企業の権力は民主的制約を嫌がるし、市場原理にさらされることも嫌う。民主的制約であるはずの規制緩和を日本でも叫んで利益拡大の場を広げようとしている。彼らが考える民主的社会における市民のあり方は、政治参加を忘れる、 PTA の会合に出席する、教会に行く、定職を持つ、消費するといったあり方である。  

 

現在の法律では法人は個人より多くの権利を与えられている。世界最大の企業 200 社が世界の総資産の25%以上を所有している。これら企業の利益は伸び、雇用は減少し、富が一極集中している。法人は生きた人間ではないから寿命がない。失敗しかない。法人の権利をどの様に考えてゆくのか大きな問題である。現代の特権階級は法人支配を通じて社会を支配している構造が見える。 CIA の秘密活動は、多くが民主主義を妨げるために行われているといわれる。またメディアは企業に支配され情報は正しく公平に流れてこない。正しい情報を得られる社会は民主的社会の絶対条件である。マスコミの問題は大きい。

 

日本の民主主義の形成過程

日本に本格的な自由民主主義体制が確立するのは戦後であるが、男子普通選挙を導入したのは、 1925 年で西欧の多くの国とほぼ同時であった。明治政府の成立から半世紀の間に西洋のさまざまな政治思想が流入した。明治啓蒙思想の代表福沢諭吉は「人間は生まれながらに自由で平等である、政府はそのような個人を守るものである」と主張した。中江兆民は民権運動を擁護し人民の参加する憲法制定議会の開催と国会の開催の必要性を説いている。民主化の理論を展開したのが吉野作造であった。彼は天皇制と抵触しないように民本主義という概念を使っている。

 

明治憲法における天皇は政治権力の絶対的所有者であり、立憲君主制の枠をはるかに超えていた。西欧世界とは異なり、国家の形成自体が共同体の解体する過程ではなく、外圧に対抗するためであった。国家観としては国家を家族の拡大したものと見る家族国家観であった。明治政府は可能な限り村落共同体を保持しようとしたのである。

 

戦後の民主主義でも欧米の原理とは異なり共同体の崩壊を前提にしておらず、政治が対立や紛争に決着をつける機能を持つのではなく、国家自体が対立や紛争を含まない集団とされた。日本の民主主義は根回しによる全員一致を原則とするとも言われる。戦後一貫して保守政党である自由民主党が政権を担当してきたが、イデオロギー論争を回避して、合意形成が容易な経済や財政の領域に紛争を限定しコンセンサスをはかってきたといわれる。特徴的なのは行政官僚との相互補完的関係で政治が運営されてきた点であろう。

 

現在の日本の政治は大きな転換期にあると思われるが、「弱い立場の側に立つ教会の一員としては、福祉政策の問題がどのようになってゆくか関心を持たざるを得ないだろう。政治用語を使えば、リベラリズムの政治原理である平等主義の追求を誰が担ってゆくのかである。

 

現代民主主義はどの様に批判されているのか

チョムスキーや木崎氏をベースにして整理しておきたい。冒頭にも触れたが、チョムスキーは、民主主義はこれまで人間が考え出した社会体制の中で最良なシステムであるとしながら、民主主義の欠陥を鋭くえぐりだしている。これまでの社会の進歩は、知識人などがもたらしたものではなく、多くの場合労働者階級の組織がもたらしたものである。

 

60 年代に欧米や日本で大きな反体制運動が起きた。日米欧の企業の大物経営者、政策決定に参与している立場の人たちは知識人エリートの肝いりで「民主主義の危機」という本を出した。その危機とは一般民衆、女性、若者、さまざまな少数派、民衆全体が政治討論に参加しようという意欲を見せたことを危機と見なしたのである。民衆が以前の受動的で無関心な姿に戻らない限り、真の民主主義は回復しないでしょうと書物でいうのである。若者に対して受動的な姿勢をとるように教え込むことが出来なかったのは、学校、大学、教会が機能していなかったからだとする。このころ権力の大企業への移転、福祉国家の解体が起きて民主主義への攻撃が始まっていた。これらは執拗な宣伝工作と平行して行われてきた。政府が直接的な暴力を行使し得ない場合には、人々をマインドコントロールする必要が生じる。アメリカとイギリスでは洗脳を引き受ける産業がどこよりも巧妙になっている。

 

米国の社会ではいつも世論調査が行われています。これは実業界が民衆の考えを知りたがるからです。宣伝工作の目的は人々が自分たちは無力で孤立している感じを抱かせればよいとされます。人々が自分自身のささやかな生活、生活の軽薄な部分にしか関心がなくなる、政治的局面で人々が役者ではなく観客の立場にとどまること。メディアは民間企業の利益に奉仕する道具です。教育を受けた階級の従順さを見ることが出来るでしょう。特権的知識人が反体制に加わると仮定してみた場合に、何らかの処罰は免れません、非難を受け、憎しみをかい、中傷されるでしょ。唯一の方法は組織を作ることです。このような考え方は政治の駆け引きの舞台では顔をだすエリートの大部分が抱いている思想である。社会の構造の中における、特定グループの利益独占とか、支配の上下関係、社会的階層構造や意思決定の階層構造は旧態依然としてかわらに、そこから階級闘争が起きてくる。

 

民主主義の装置が機能するための前提条件

民主主義が有効に機能するためには、「討論」と「説得」が不可欠であると言われる。多数決の決をとる前に十分な討論と説得の過程を経なくてはならない。討論と説得の過程をぬきにしたら多数決は単なる専制にすぎない。それに加え関連したさまざまな制度例えば、経済的、法律的、文化的、諸制度がそれぞれに民主主義の理念に適合した補完的機能を担わない限り、民主的政治体制だけでは真の民主化された社会は実現されないだろう。民主主義本来の要求は、そもそもすべての成員による自発的な秩序であり、治めるものと治められるものが同一であるところにあるといわれる。民主主義は思想であって制度そのものではないのだから、様々な政治制度の中で実現可能であるといえるだろう。既に述べたことだが、民主的であるためには一定の条件が満たされていなければならない。

 

非民主的政治体制とは何か

一人又は小人数のグループが公的制限のない権力を行使している。特に、政治官職への自由な競争と市民の政治編お自由な参加を欠いて、支配者は国民に対して応責的でない政治体制である。権威主義体制、全体主義体制、スルタン主義、ポスト全体主義などのなで呼ばれることが多い。

 

身分制の差別と民主主義

王、貴族、聖職者、戦士、平民、の階級制度の中に長い間教会が存在していたことは歴史的事実だろう。そして、この身分制度で成り立っていた君主政の共同体が近代に至り崩壊してゆく、それに変わる政治制度として、民主的政治体制が国民主権の考え方の下に登場する。国民主権はそのような背景で説明として考えられた政治思想と見て良いだろう。国民主権の考え方がなければ民主的政治体制が成立しないわけではないようである。それは既に述べた、アメリカの場合を考えればよいだろう。

 

ともかく、そのような状況の中で、教会は政教の分離を認め民主主義を肯定したものの自分自身の内部の制度は身分制を維持したままで今日に至っている。民主化を論じるならばこの教会内の身分制である「位階制度」を問うてみる必要があるのではないだろうか。「『仕えるもの・僕』としての立場」と「現在の『身分制』の色濃い位階制」とどの様に整合性を持たしえるのか。少なくともいえそうなことは、第二バチカン公会議の「神の民」の教会論の前には「位階制度」は神の民である「信徒」の外にあったが、「神の民」理解では信徒も聖職者も内側にあるということである。また「神の民」はそれ以外の世界に中に散在しているという認識と「神の民」の世界に対する役割「秘蹟性」を自己認識のうちに強く打ち出したことではないだろうか。それがどの様に聖職者とその他の神の民との関係に変化を与えたのかということになるだろう。公会議以前にはローロッパの閉鎖的世界のなかで全てがキリスト者であるという前提で教会の理解がされてきた。その中で世俗権力と教会権との関係や信徒との関係が考えられてきたといって良いのではないか。少しは考える参考になるかもしれないと思い、バチカン、教皇庁、位階制などの参考資料をカトリック大辞典から集めてみました。

 

 

V 教会の政治制度

 

教会は本質でいに世俗の社会制度をはるかに超えたものであることは確かであるが、このように存在する教会システムは世俗の政治制度と類似した形態を事実上有している。カトリック教会は制度上現実に、バチカン市国という国家主権を国際法上も認められた国家の中にあり、その国家の元首として教皇がおられる。新カトリック大辞典から抜粋しておきましたので参考にしてくださ。

 

 

W 宗教における権力の問題をかんがえてみたい

 

公開の内側からだけ見るのではなく外からの意見も聞いておきたいと思う。「宗教と権力の政治」佐々木毅の著作を少し参考にして考えることにしたい。

 

宗教の権力は神によって設けられたのであるから神の名において従わなくてはならないという考えが基礎になっている。神の統治と世俗の統治は区別されている。少なくともローマ教会においては、教皇は世俗の支配者の行為(皇帝の行為)を監督する義務を持ち、皇帝は教皇に絶対服従しなければならないという考えに立っている。それを拒むなら破門される。君主に対する臣下の服従義務は破門とともに解除される。すると彼の権力基盤は一瞬に雲散霧消してしまう。教皇は法の上にあり、誰の裁判にも服さず、最高の裁判権を有する。教皇以外に人間の魂に対し責任を持つことの出来るものはいない。世俗の権力とは全く異なった権威である。人間活動領域全部を支配するきわめて独特なもので人間の救いに関する権威である。

 

キリスト教の支配する国は「レース・プーブリカ・クリスティアーナ」という言葉が使われていた。信仰がすべてを結びつける絆の役割を果たしていた共同体であった。破門されるとあらゆる社会関係そのものが解体することになった。信仰こそが社会的信頼関係の前提であるから、この前提がなくなれば社会秩序そのものが解体する。信仰を中心とした社会的つながりがなくなると無権理状態になる。現代人為は想像しにくい構造であった。人間が人間である限り人権があるという話とは全く違う構造になっていた。信仰共同体のメンバーでる限りにおいて権利がある。今の信者は教会から離れても生存が脅かされることはほとんどないだろうがこの時代はそうではなかった。先ず所有権があってその権利を守るために社会を作るとか政府が出来上がるという話とは議論の構造が違っている。信仰に関する権威、魂を守る責任から信者の生活のあらゆる面に事細かに介入してくる。後で少し触れるがイスラムの政治体制とも異なっている。

 

世俗の権力と教皇の権威の関係は、教皇が霊的権威を担ういじょう世俗の権力者の霊的側面には介入することになるので教皇の権限の方が有利に立つことになる。しかしこの関係は王国の成立政治権力の増大によって大きく変わらざるを得なくなるのである。既に述べたことだが、「国家」は「主権」という観念の上に形成され、「主権」とは他が犯すことの出来ない「最高の力」と言う意味である。これは国の内側に対してと同時に外に対しても主張されたわけで、その結果は教皇権からの干渉を受けない権利を意味することに通じてくるのである。

 

その結果、教会構造の変革を伴うことにならざるを得なくなる。例えばフランスの国内では聖職者も国王主権の下に置かれることになったのである。そこに近代の世俗権力と教皇権力の緊張関係が新たに生じてきたわけである。聖職者の任命権にも及ぶことになる。また教会分裂は、教皇権と真正面から衝突し、血なまぐさい時代が来ることになる。ローマ教会当局はこの流れの中で格闘するが、世俗権力に対する権威は急激に減少してゆくことになる。そしてこの時代になると教会から離れることが生命を脅かす脅威ではなくなり多くの信者が教会を離れる現象が起きることになる。権威権力で信者を教会の内側にとどめることは出来ない新しい時代に教会自体が生きなければならなくなったと言えるだろう。教会の権威が教会共同体の生活空間の全域を覆っていた時代と比較すると、現代では教会に所属する信者に対する教会の権威も大きく変質したと見て良いだろう。

 

最後に 

言いたいことは、政治問題に関しても教会の問題に関しても、無関心が一番危険であるということです。両方ともわれわれの人生に直接影響するのであって、傍観していると、自分には関係ないような気分になってしまいますが、誰一人として無関係でいることは出来ません。

 

教会の事柄に無関心であることに対して、信徒に警告している教会法神学者がいます、「ドイツカトリック教会の現状―教会法学者の目から」(神学ダイジェスト 2000 88 号)に書かれていることです。この文章はドイツの「神の民運動」の会員の前で行われた講演記録です。要約すれば以下のようになるでしょう。

 

位階制は教会法上から明らかに支配である。信徒に要求されているのはこの支配をキリスト教的な真の自由と理解し受け入れることであり、位階制に反抗する自由は位階制の自己理解の中にでは適法ではない。

 

教会の中で何かを変化させようとする信徒に一体何が出来るのか。信徒は教会を確り見張っていなくてはいけない。位階制によって正当化された教会指導上の決定を注意深く見守るべきである。先ずは、立法者の持つ教会理解を把握し、見据え、幻想から開放されること。教会内で現れる問題を無害視しない、軽く扱わない、厳しい警戒の目を注ぐ必要がある。教会の構造を改めればすむことを個人の問題として批判しない。

 

教会に属している信徒の生き方は教会の構造形態に左右される。「交わり」という概念で法律を霊的なものにしてしまうと位階制の暴走は防止できなくなる。厳しい教会構造をソフトな表徴や概念で包む方法はなかなか見抜けない。教会改革は必要ないという印象を与えるなら注意が必要である。「交わり」には「位階的」を言う形容詞をつける必要がある。

 

ローマから来るものを軽視するやり方は、結果的に信徒に重荷を負わせる結果になる可能性がる、危険なやり方である。事態を寛大に見て待つ忍耐を薦める言い方は胡散臭い。信徒はこれまで以上に教区司祭に眼を向け司祭たちがあたかも教皇のように振舞うことがないか見張るべきである。

 

教区司教は位階制の直接の代表者である。認識の仕方、認識力はまちまちである。広い視野を持つ人もいるし教会政治に異なった態度をとっている。現在の司教はローマの選出基準に沿って選ばれ、忠誠請願も行いローマに対し忠誠を誓ってその職務についている。

 

司教職に就いての神学的説明と司教が現実に置かれている法的地位との食い違いがある。司教は信徒の前でこの食い違いに賛成するか離れるのか決めるべきである。司教職が信徒をどの様に見ているのか、聞くもの、命令されるものと見るのか、兄弟と見ているのか、司教は自分の考えを表明すべきである。これは攻撃的な要求ではない。

 

信徒の参画を高める必要と可能性を意識することが大切である。司教を助け司教に結ばれることで司教が問題に手を触れるのを恐れる不安を取り除くことができるのです。教会は聖なるものによって根拠付けられた「支配の場」であり、キリスト教的自由が服従となるところです。以上が一法学者の勧めです。

 

教会に関する事柄は、この法学者の言う通り、幻想を抱かず、現実から目をそらすことなく、慎重に理性的に対応すべきでしょう。民主的社会とは一般市民が社会の政策決定に影響を及ぼす機会が与えられている社会である。民主主義の最大の成果は「人間らしく生きる人間」である。「民主主義はそれ自体が目的ではない、人々が人間の根本的なあり方と、人権を見出し、広め、証明してゆくための道具である」という考え方があることを既に説明してきたが、特にここで重要なのは。民主化の基本は「人間らしく生きる」という点てある。福音の根源も「人間らしく人間が生きる」ことに違いない。今日のテーマで言う「自分らしさを貫き」生きることとも関係している。

 

民主化という言葉を教会に投射してみると何が言えるのか。「神の民」全員が「人間らしく生きる人間」となり、神の民の生き方に影響を及ぼす決定に信徒も何らかの形で参加する機会を設けるのが教会の民主化の基本だろうと思われる。司祭人事問題についても、個別人事問題に参加することではなく、人事判断基準の検討の場に発言の機会を与えることは聖職者と信徒の間の信頼関係を形成する助けとなるだろう。司教が明らかに位階制の中心であるから、参加の問題もこのレベルでの意思決定へ過程に参加することを期待したいものである。司教の任命は信徒にとって大変重要なことである。どのようなタイプの人がなるかによって教会生活は大きく影響されるだろう。いずれにしても基本的には、「神の民」として兄弟的で正しい「位階制との交わり」を考えるのが良いように思われる。教会が共同責任で目指すのは「弱い立場にある人々との交わりである」これは、真の民主化が目指しているところと方向性は同じだろう。現在の東京教区がとくに目指しているこの基本方針も、信徒の参加の下に考える機会があったならもっとこの課題が信徒自身の自らの課題となっていたと思われる。

 

特定の利益集団が政治の世界を支配し貧しい者がより貧しくなるのを防ぎ、弱い立場の人々の側に立つのが社会の民主化の道と解釈可能ならば、岡田大司教が就任以来強調されている教会の進むべき方向と同じであると思われる。

 

東京教区ニュースの 11 29 日号で特集として 10 月にカテドラルで開催された「正義と平和全国集会の記事が大きく載っている。表題は「注目を集めた教会の民主化」である。 民主化のイメージとして岡田大司教が@「小さな人、弱い立場の人、迷っている人などが真に救われる、支えられ、助けられる教会」A「司教から見た責任の分化」B「聖職者の呼び方」C「教会内での女性信者の位置づけ」を挙げられている。

 

信徒の教会の事柄への積極参加の姿勢は、 NICE の時代から既に言われていたことであることは確かだろう。また現代東京教区で進められている宣教協力体の検討に際しても信徒の意見を広く求め討議への参加の機会があり、今でも多くの信徒が運営への参加を求められている。以前に比べれば信徒が参加できる場面は広がってきている。信徒の参加は現実には既に始まっているのである。全体としてみると信徒の方の積極性が未だ未だ不足しているかもしれない。「教会の民主化」の切り口から 21 世紀の教会のあり方を皆で考えてみても良いように思われる。「学び合いの会」の指導者の一人でああられるシェガレ神父も「福音と社会 207 号」で指摘しているように「教会とつながっていながら手探りや迷いを繰り返す信仰者の権利」を安心して教会を信頼して行使したいものである。

 

 

参考資料

1) 教会の組織

バチカン :面積 0.44 平方キロメートルの世界最小の国家。 1929 年イタリア国家とのラテラノ条約により独立した都市国家として成立した。国家の存立の理由は、教皇の完全かつ明確な独立を確保し、国際法上も明白な主権を保証することにある。教皇は独立国家の元首の地位を兼ね備えている。国籍を有するものは教皇庁に属する枢機卿たち教皇から特権として国籍を与えられたものである。職務から離れ又は特権を失うと元の国籍に戻る戻れない場合にはイタリア国籍が与えられる。政体は選挙制君主制である。選挙で選ばれた教皇は最高の立法権、執行権、司法権を有する。

 

教皇庁 :( Sedes Apostolica=Apostolic See, Sancta Sedes, Curia Romana=Roman Curia )聖座は一種の法人であり、自律的存在であり、固有の機能と固有の司法権を持ち、行動の自由と行政上の権限が保障されている。 8 世紀以降は立法の主体としても現れている。これにより霊的主権のほか世俗的主権が生じた。 1870 年教皇領が消滅して 1929 年ムソリーニとの条約によりバチカン市国( Stato della Citta del Vaticano )が成立したが、この間も聖座は国際法上の主体と見なされ続けた。

 

12 世紀に教皇の直接協力者は枢機卿に限定された。枢機卿会議が開かれ審議決定される。 16 世紀になると諸問題を解決するための専門知識が必要とされ重大な問題は枢機卿委員会に委任されるようになった。 1542 年異端審問のための委員会 Romana Inquisitio) が設立された。その後さまざまな委員会が設置されたり廃止されたりしたが、ほかに裁判所と事務局が設置された。聖省の管轄領域も明確に規定された。原則として指揮・管理の任務に限定されている。 1967 年にすべての省は枢機卿長官の下に置かれた。 1988 年教皇庁改革憲章が公布された。ローマ教皇庁は国務省、省、裁判所、評議会、事務局からなる。教皇庁とは教皇が託された任務を果たすための道具のようなものである。

 

教区司教のこれら機関に対する申し出では教皇自身に対して申し出るのと同じと理解される。制度上完全に教皇に従属している。各機関は枢機卿の長官あるいは大司教の議長、その他の枢機卿と教区司教、秘書で構成される。教役者や信徒が顧問に任命されることもある。全員任期 5 年。現在の組織は 2 局国務省、9省、3裁判所、11評議会、3事務局、2管理室である。全世界に 118 在外公館を持つ。

使徒座の 2003 年総収入約 274 億円、支出約 287 億円。雇用抑制とプロジェクト絞込み実施で、前年比約 9 億円削減された。

 

位階制度: ヒエラルキア hierarchia=hiera arche (聖なる権力)聖職者による支配の意味である。叙階の秘蹟によって裁治権が授けられる。教会はその設立の初めから師弟の関係を構造的に持つ共同体であった。そのあり方は歴史的に変遷してきているがその基本構造は継続されてきている。第二バチカン公会議でもそれは再確認されている。枢機卿、大司教、司教総代理、小教区長などは叙階の秘蹟を授けられたものの中から任命される、教会の決定によって立てられた職務である。

 

歴史的変化を一瞥すれば、 2 世紀には一人の司教によって治められる体制は明確にされ始め、 13 世紀には「キリストの代理者」の称号も教皇だけに使われるようになり教皇権も確立した。中世には神学上、叙階の秘蹟による霊的権能と教会法上から来る裁治権に区別して理解されていたがこの二分法的理解は改められ、第二バチカン公会議では人的要素と神的要素によって形成される複合体であるとし、聖なる権能にはこの二つが含まれているとした。一方、教会は「神の民」として理解されている。民の頭はキリストであり、教会は神との親密な交わりと全人類の一致のしるしであり道具であるとされた。

 

以上の通りですが、ヒエラルキアの問題については、世俗権力との緊張関係だけではなく、ヒエラルキーの中にも、多くの緊張関係が時代の流れと共にあり、現在でも未解決な面もあると思われる。具体的には教皇権と公会議の関係や、地方教会と普遍教会の問題が大きいだろう。最近でも二名の著名な枢機卿が論戦を戦わせているほどである。それに教皇の選出と枢機卿任命の問題。司教選任の問題も大きいと思われる。

 

 

2)教会関係の参考資料

「今日の教会における共同責任」スーネンス枢機卿(あかし書房)

「教会における司祭の役割」カスパー(神学ダイジェスト 31 号)

「現代カトリックの信仰」カスパー(南窓社)

「正義と自由(カトリック社会要論)」ブロイニング(上智社会事業団)

「支配しないリーダーシップ」ロービンガー(松田清四郎私訳)

「21世紀が求めるキリスト者の生き方」(参加的共同体とリーダーシップ)」

山田経三(新世社)

「組織とリーダーシップ」山田経三(上智大学経済学部)

「教会と女性、そして民主化」弘田しずえ(カトリック京葉宣教協力体)

「民主主義とカトリック教会の関係を考える」オリビエシエガレ(福音と社会207号)

「来日講演記録」レナードスイドラー

「信徒中心の教会」レオナルドドーハン(女子パウロ会)

「旅する教会」レイモンドブラウン(ドンボウスコ)

「教会その本質と課題を学ぶ」百瀬文晃編(サンパウロ)

「第二バチカン公会議40周年」増田祐志(神学ダイジェスト96号)

「カトリック教会会憲」 ARCC (神学ダイジェスト96号)

My Hope for the Church Bernard Haring LIGUORI TRIUMPH

「教会内の暴力」カミロ・マチッセ( Testimonio )(学び合いの会私訳)

「教会における男女の協働」(カトリック司教協議会)

「聖書と差別」(日本カトリック部落問題委員会編)

「教会、カリスマと権力」レオナルドボフ(エンデルレ)

 

3) 一般参考書籍

「近代民主主義とその展望」福田観一(岩波)

「民主主義とは何か」長谷川三千子(文芸春秋)

「正義論自由論」土屋恵一郎(岩波)

「デモクラシー」千葉真(岩波)

「イデオロギー脱イデオロギー」佐伯啓思(岩波)

「現代民主主義の病理」佐伯啓思(岩波)

「自由主義の再検討」藤原保信(岩波)

「秘密と嘘と民主主義」ノームチョムスキー(成甲書房)

「政治学」(有比較)

「イスラーム世界の 2000 年」(草思社)

「宗教と権力と政治」佐々木毅(講談社)

「権威と権力」(岩波)

「国家と革命」(岩波)

「幻想としての民主主義」木崎喜代治(ミネルバ)

「比較政治学」真柄秀子(放送大学)

「日本政治思想史」平石直昭(放送大学)

「保守主義の哲学」中川八洋( PHP

 

インターネット URL (アメリカ)

Voice of the Faithful ( www.votf.org )

 

以上の文章は「福音と社会」218、219号に掲載されたものです。

 

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