スイドラーさんを囲む Meeting の記録

(感想的なもの)

2005・7・12(真生会館)

 

アメリカの信徒神学者として有名な
レオナード・スイドラーさんを囲んで

Meetingが行われました。ご専門は、

「諸宗教の対話」や「教会刷新運動」です。

 

    14名の方が参加者されました。前半は「学び合いの会」のこれまでの約一年間の活動状況: (1) 正義と平和全国集会に参加と発題  (2) アンケートとその結果 (3) 教会の民主化関連資料の作成配布 (4) ヘーリ ング “My Hope for the Church” 翻訳開始  (5) 二泊三日全国合宿計画 などの報告をしました。

  

    ここでは、後半のスイドラーさんの話と参加者とのやり取りの要点のみを報告します。要点と言っても準備された講話とは違って、話題はあちこちに飛びましたし、多岐に及んでいます。記録ではなく、数人の参加者の協力でできたものですが、感想とでも言ったような内容です。

 

   スイドラーさんはこの度日本に来る前に、約3週間パキスタン、インド、バングラディッシュを旅行されたとのことです。この旅行はキリスト教とイスラム教との対話のために企画されたもので、アメリカの国務省のスポンサーによるものです。アメリカの国務省はこれら地域のイスラム学者との交流を進めているらしく、昨年の夏にはこれらの地域のイスラム学者をアメリカに一ヶ月間招いて各地の教会やシナゴッグを訪問しさまざまな人々にあい会議を開いたとのことです。話はパキスタンのムシャラック大統領との会談のことから始まりましたが省略いたします。

 

    本論である教会改革にたいしては、「どの様にして我々自身が教会の政治機構の中で責任を分担してゆけるのか」という点を強調していました。「教会の中における民主主義の実現には長い道のりが必要であり、教会の民主主義のポイントは「その意思決定で苦しまなければならない(禁欲的 ascetic )状態にならざるを得ない人々は当然のこととしてその意思決定に大きく関与すべきなのだ」多分フマネビテを暗示していたと思います。

 

   「現在は10億の信者が全世界にいます。ですから信者全員が投票することは出来ない。間接的なやり方になるでしょう。しかし、その決定で重大な影響を受ける人々は自分たちの声はその意思決定に反映されなくてはいけない。これが教会の民主主義の基本との主張です。状況に応じて時代に応じて民主主義のあり方は異なってくるでしょうがこの基本が重要なのです」と云っていました。

 

    次に、最も関心の高いベネヂクト16世について。スイドラーさんは1970年代に Germany Tubingen 大学で教えておられ、その大学では当時助教授で進歩的な考え方であった Joseph Ratzinger に出会っています。 彼は当時司教の有期制とか司祭信徒による司教選挙などといったことを主張した論文を発表していました。そのような改革派の神学者が保守的な考え方に変わっていったのです。考え方がなぜ変わったのかは憶測に過ぎませんが、当時各地の大学で学園紛争というのが起きてこの出来事が大きく影響を及ぼしたのでしょう。学園紛争のときには、 Ratzinger は、一流大学の職を辞して、田舎の学校に逃げた惨めな思いをしている。教皇就任以前の Ratzinger の神学者に対する厳しい姿勢を見てきたので、それが、出てくるのではないかと思っていたが、これまではそうした厳しさは示されていない。これは教皇という立場の影響力の大きさを考えて、発言が慎重になっているのではないかと思うとのことです。

 

    Ratzinger が当時の学生運動の激しさには驚いたというのは本当だろう。変化すること自体は問題があるわけではない。彼の果たさなければならない役割が彼を変えたのだろうと思う。我々はみな変化するのではないか。“新教皇に悲観的ではない”との話も参加者からもでました。

 

    Benedict 16世が保守主義者から再度進歩的に変わるのを期待している人は多いのかもしれません。 Benedict 16世の選出に関しての参加者からの意見は大歓迎と言う声は聞かれませんでした。それよりも次の候補はどうなのか、これからの教会は変わる可能性はあるのかといった疑問が投げ掛けられました。「教会にとって危険なのは、どんなに素晴らしい教皇が選出されたとしても、長期に在任されると独裁的になるかもしれないと言う点にある。たとえば、ヨハネ23世が 75 歳ではなくて45歳であったとすれば、35年間の在任中に“慈悲深い独裁者”になったかもしれないのだということです」とスイドラーさんが云っておられました。

 

    ともかく、「問題は教会の構造にあると言うことではないか」とも問いかけていました。構造問題に関連して、アメリカの性的虐待の問題は、個別の性の罪の問題と言うよりも、教会の体質にあり「事件の隠蔽、秘守主義」に原因がある。結果的に、 1000 億円を越える賠償金の支払いのため教区は大規模に資産を売却せざるを得なくなった。われわれの司教達に対する怒りは「私の教会を壊さないでほしい!」「あなたの教会ではない!」「私たち皆で、責任をとる!」と言う叫びなのです。下からの構造を作り上げていくことが必要で、決まったことは文章にしておくこと、何より、教育された信徒がいなければだめであると。教会は、司教が指導運営し、信徒はただ従うだけのものではではない。司教が勝手に恣意的独断的に運営したり隠蔽したりするからこそ「民主化」が必要になるのだ。

  

  アメリカの教会の状況についてプロテスタントも含めて話がありました。アメリカの小教区の中での民主化の状況、特に信徒の参加状況、についての質問が参加者から出されたのに答えて話されたのですが、アメリカの教会の事情は地域によって多様性があるので一概には言えないというのが答えのようでした。 プロテスタントについては、アメリカには350を超える教派がある。教派ごとにかなりの違いがある。南部のバプテスト教会は超保守的である。スイドラーさんが居るフィラデルフィアのプレスビテリアン教会の例では、司教は居らず、各小教区の代表からなる会議体が、カトリックの司教の役割を行っている。小教区の牧師は、自分の希望を行えるわけではなく、重要事項は、この会議体の承認が必要となる。しかし、小教区には固有の事情がそれぞれにあり、その要望は相当尊重される。民主化につてはこれらのプロテスタントからも学ぶものがあろう、という趣旨のことをスイドラーさんは述べました。

 

  

    教皇選挙コンクラーベの話題が参加者からだされました。日本でも広く報道され一般の関心も高かったのですが、この選挙は教皇が選んだ枢機卿が教皇を選ぶという仕組みになっており、つまり、10億の信者の頂点を極々わずかの人で選ぶことになっているが、もう少し民意が反映される方法もあるのではないかという意見もあって良いように思われる。アメリカでは教皇選挙はどのように受け止められているのか。若い司教あたりから何か意見があがらないのかとの問いに対して。回答は直接的ではありませんでしたが、枢機卿の前段階の司教に選出されるまでに大きな構造的な問題があることを示唆する次のようなものでした。

 

   新教皇の選挙人である枢機卿の大半は、長期在任の故教皇ヨハネ・パウロ二世が任命した人である。アメリカの司教の状況は惨憺たるものである。これは、司教の選任に際して、いくつかの特定の問題、女性司祭とか、司祭独身制とか問題についてバチカンの主張に対する反対意見歴の無いことを重視し、司教候補者の教会運営能力で判断されていない。だから、彼等のリーダーシップを待つわけに行かない。さらに、教会内の相当の地位にある人には、「発言禁止課題リスト」がある。それらの課題について司祭は発言を許されないので、教会が直面する課題について「考える」司祭が減ってしまった。唯々諾々と上司の言動に従う人ばかりが出世するので、問題への対応能力が育たない。性的虐待問題も80年代初めに既にアメリカ司教会議から問題が指摘されていたが、司教たちが放置してきた背景がある、と述べていました。

 

   次に参加者から意見がのべられた。日本の文化とヨーロッパには文化の違いがある。  ラッチンガーさんの考え方はヨーロッパ的でアジアの文化を理解できないのではないかと思う、と云われたことを、スイドラーさんが受けて、話は発展して日本の学生の問題になってしまった。

 

   日本の文化と日本の神について自分の体験を話したいと言うことで話された内容は分からない点も多いのですが推察するところ、要点は以下の通りではないかと思います。

 

   

  日本の大学で二年間教えていた時のこと、英語での対話でしたが、私は彼らに「人生の意味」を投げかけてみました。驚いたことに殆どの生徒は私の投げかける質問を理解できなかったのです。日本の学校での宗教の教え方に問題があるのではないか。 24−5人の生徒の中で 2− 3 の例外が居ましたが、この学生はキリスト教の教育を受けた人でした。 私から見ると人生の意味についての質問が理解できないと言うことは驚きなのです。もしかすると私が誤っているのではないかと思いますが、そこにはある種の誤った儒教の教えがあるのではないかと思うのです。日本軍の南京虐殺での首切り事件とどの様に関連するのか。外部に対する抑制が効かない状態が内面に起きているのではないか。何故こうしたことが起きるのか。ドストエフスキーがカラマゾフの兄弟で言っているように「神がいないと、そこは原始状態になる」というのを思い出すのですが、もしかすると私は全く間違っているでしょう。誰か答えて欲しい。これは個人的な狭い体験からの考えですが、それでも・・・。

 

  

  参加者の一人が発言して、日本の学生の殆どが「人生の意味」を問う意味が理解できなかった問題に直接解答を今出すことは出来ないけれども、二つの事実を指摘したい。一つは日本の(公的な)学校では宗教を教えることは禁じられているので必然的に信仰の問題を言葉にする訓練が一般の学生に欠けていることは事実だろう。二番目は正月には数百万の人々が神社やお寺にお参りする。また夏になると日本の各地で祭りが盛大に催されて若者が沢山みこしを担いで練り歩く。彼らがこの行為をどの様に考えているのかは分からないがこれは宗教的表現であると思う・・・・。

 

    

  それに対して、スイドラーさんは、「宗教を知らない人にとっての宗教の意味」と言う本を書いたことがあります。意味の問題です。わたくしの逢った多くの日本人の学生は問題自体を理解しないと言うことです。答えの問題ではないのです。

 

   参加者の一人であったシェガレ神父がこの問題提起に対して発言してくださいました。概要は以下の通りです。

 

  意味の問題ですが、日本人の思考のあり方は異なっていて、儀式や祭りなどではその意味を体現するかのようです。形そのものが意味を明かしている。 しかし彼らは内面から生み出される意味の世界を言葉には容易にしない。日本語は内的な体験を言語として表現する力はあまり無いと思います。私にもスイドラーさんと近い体験があります。

 

   端的に云えば、東洋的な思考では、意味を表現する以前意味は存在する、言葉であるよりもその意味を現すのは体によって行われる儀式だ。言葉はむしろ内面をとらえるのを邪魔している。日本の祭りに行くとそこには意味が既にあってそれを体で表現している。形そのものが意味の媒体となっている。そのためか彼らはそれを言葉にしない。彼らが言語化しないということは重要なことだと思うのです。仏教でも座るままだけで,神についてとか人生の意味とかを論じてはしないですね。ただ座って悟る体験を待つ。霊的な深い部分での変化を待つのですね。彼らは確かに神と出会っていているでしょうが、日本語はこの出会いの体をとらえるのを言語化する力が無いのではないでしょうか。日本語はこのような面では言語の力は弱いので体体験をもって真理に近づこうとする。形から入るのです。 ( 以上がシェガレ神父からいただいた話の概要です。 )

 

  「若者に魅力のある教会になるには・・・・」という質問から発展してスイドラーさんが話されたアメリカの教会の問題点とヒスパニックに関して少し書き足しておきます。

 

   現在アメリカのカトリック教会はヒスパニック系の人口が激増しているところからくる問題があります。彼らは全体的に保守的です。また一般的には教育が不足しています。殆どの人が追従型の人たちなのです。彼らはグループを形成しています。1500万に達します。300万は教育があるでしょう。残りの人たちは教育が無いことになります。

 

   カトリックの学校が沢山あります。フィラデルフィアでは公立校の生徒数と同じぐらいがカトリック校に行っているでしょう。ニューヨークでも似たようなものです。全米では300のカトリック系の大学があります。政府は反宗教的です。しかしアメリカは最も宗教的な国なのです。学校だけではなくて病院とかその他の施設の数からもそれは言えるでしょう。教会とかシナゴッグとかモスレムとかに行く人たちの数からも云える。ヨーロッパは宗教が低下していますのでその比較としても良く指摘されることです。アメリカの多くの教会では日曜日には4〜5回のミサがあります。

 

  

    問題は司祭の数の減少です。ボストンでは2年前に問題が起きましたが司祭の不足で12の小教区が閉鎖されようとしました。反対運動が起きて取りやめになりました。若者も教会に来ます。問題は司祭のリーダーシップの問題なのです。ボストンの小教区閉鎖問題は、司教がいかに一般信徒の希望を知らないかを示すものだと思われます。

 

  

    参加者からの情報と感想では、政府が教育で「反宗教的」というのも、昔の共産主義国家における反宗教的とは異なり、「差別問題」に根ざす平等とか差別防止政策からの姿勢であろうと思えます。30年前までは、黒人が人種差別の代表的問題でしたが、近年は、米国各地では、下級作業の要員に移民が使われ、近隣のラテンアメリカ諸国、特にメキシコからの移民が急増しています。自動車の運転免許試験なども、英語以外にスペイン語、さらには中国語、韓国語、ベトナム語など数カ国のものが用意されている公的機関が大都市では少なくありません。ヒスパニック系に教育がないのは移民した一世で、時間が経ち二世、三世の時代になれば、中国系のように優秀な人材が輩出するかもしれません。ヒスパニック系がグループを形成するのは、経済的、言語的差別があるからでしょう。アメリカという国は、元来WASPの国で、ドイツ、アイルランド、イタリア、ウクライナなどカトリック系は後着組で、先着組に蹴飛ばされてきた歴史の中にあるようです。カトリックの学校の問題は、公立学校の授業料が政府負担なのに対して、カトリック系は、受益者負担で授業料が高いこと。尤も、州法で税制上の控除が受けられるところがあります。

 

 

    以上が今回の概要ですが、参加者のひとりとして感じるのは、対話とか話し合いは容易ではないということです。スイドラーさんが教えた日本の大学生のような何かしら歯がゆさとかある種の腹立たしさみたいなものを感じてしまいましたが、他の参加者の皆さんは如何でしたでしょうか。多くの聞き間違いや重要な事柄で抜けたところがあるに違いないとは思いますが、これが限界なので限界のままに皆様の前に報告します。ともかく、この文章は参加者の何人かの方々の励ましと具体的なご指摘の助けで書き上げたものです。

 

  

    日本人と日本文化を理解してもらうにはどうしたらよいのでしょうか?スイドラーさんが率直に投げかけた彼の抱いている「日本人に対するナントも良く分からなさ」には大変深い課題があるように思えます。こちら側にもあちら側にも問題があるでしょう。もっとみなで話し合いたいものですね。

 

   

   

    「対話と話し合いは、容易ではない」というのは、実に同感ですと他の参加者の方も指摘しておられます。日本人の無反応と薄ら笑いは、困惑の表現かもしれません。文化の違いなのでしょうか?講演会などで、日本では質問の時間を設けても、特に質問が出ないのがほとんどなのに対して、私の限られた経験ですが、北米の人は、周囲の人を気にせずによく質問し、意見を言います。これも文化や表現の違いかと感じます。これも説明のむつかしい課題ですが、小教区の教会の若い世代は、課題によっては、けっこう意見を出すので、世代の違いかという感じもします。

   

  

   他の参加者のご意見と幾つか取り上げて皆様とご一緒に考えたいと思います。話題になっている「日本人は学生に限らず、何を目標に生きているのか、「人生の意味」とか、「人生の価値」とか、「自分の信条」をどのように考えているのかについて軽々には語らない」、語ることに慣れていないし、語ることをHesitateする傾向があることは確かだと思います。だからと云って、それを考えていないとか、持っていないということではないに違いない。それぞれの人は持っているに違いないのに、尋ねたり、話し合ったりすることなく、一般人は生きています。

  

  それだけ、そのことに切実感がないというわけでもないでしょうに。おびただしく出版される書籍には、それらが書かれてもいますし、講演などのテーマも基本的には、それが多いですし、この頃では、多くの人が「自分史」の中で自分の生き方を書いているのですね。日本人は自分の気持ちや考えをはっきりと言わないことを良しとしていることは、他人の気持ちに対しての配慮もあるでしょうし、それをはっきりと言うことで嫌な思いをすることを避ける知恵もあるかも知れません。人生については、「今日言って、明日変わるかもしれない、人生のはかなさ、移ろいやすさを何となく感じているので、不用意には、わかったようなことは言えない」ということなのかも知れませんね。

 

  最後にもう一人の方からの感想を載せておきます。「神がいないと、そこは原始状態」・・・これこそ、言葉が先行して意味を創造してしまう好例ではないでしょうか。私は、「微笑みの国」スリランカ(上座部仏教)で、あのように暴力が繰り返されたことが不思議でなりませんでした。戦時の狂気と、無宗教とを短絡するのがスイドラー氏の本意でないことを確かめたく思います。            

   

文責 「学び合いの会」

 

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