「学び合いの会」例会記録
2005年6月25日(土)
本日のテーマ: 「信者同士の交わり」
今年の年間テーマが「“交わり”の中に生きる」であり、第一回目「“交わり”を生かすリーダー」に続く第二回目のテーマです。
参加者: 総数 32名
本日の進行:
@ 10:30−10:35 開会、祈り
A 10:35−11:00 発題: 3名 各10分程度
B 11:15−12:10 小グループ分かち合い
C 12:10−12:40 全体会、意見交換
D 12:40−12:55 参加司祭のコメント
E 12:55−1300 連絡事項
発題1
信者同士の“交わり”
1) 最近訪れた教会で感じたこと 〜 St.Augustine Church 、 Hawaii
a. ALOHA andWELCOME 、 coming together in prayer
b.開放感溢れる雰囲気――土曜日午後 金婚式を祝う家族との出会い
c.日曜・平日ミサの 2 回にあずかるーシルバー年代の奉仕活動活発
d. New bishop chosen for Honolulu Diocese ― Hawaii ' s Newspaper
2) Pope Benedict XVI から学んだこと
a. 謙虚に自らを委ねる〜謙虚さが人間を逞しくする。
b. 全ての民は、一つの大きな家族〜教会は“神の民”の集まり。
c. 信仰と愛と霊的な連帯感での一致〜イエスの家族と教会共同体。
3 ) 信者はそれぞれの人生を生きる〜私たちは独自の道と与えられた時を歩む
・信者の交わりの中で、相手への尊厳を最も大切にしたい
・良心を全身に充満させて、兄弟姉妹と交わる。
4) VAT2
・教会生活に於ける信徒の能動的参加が求められている
・政治と社会的現実と関わる信仰実践をしょう
・「人間は他人との交流、相互奉仕、兄弟たちとの話し合いを通して自分のあらゆる才能を伸ばし、自分の召命にこたえることができる。」 (現代世界憲章25・人間と社会の相互依存)
5)信徒活動の活性化を目指して〜小教区における司祭と信徒の協力体制
・課題と目標を明確化にして対話を重ねる〜共同作業
□具体的な奉仕活動について〜新しい試みと発想により信徒の生活の中での体験を生し、霊性の多様化を認め、推進する必要がある。 ‘04,6,5 シェガレ神父
□習志野教会の新しい信徒活動〜前主任司祭が蒔かれた種
・新しく来られた方々の世話係― 12 人
・葬儀奉仕のグループ〜先唱者・待者・オルガニスト・連絡係―15名
□時代環境と共に、新しい理解とビジョンをもって真の交わりの中を歩もう
「心を新たにして自分を変えていただき、何が神のみ心であるか、何がよいことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい.....奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に専念しなさい。」 (ローマ12・2&7)
学び合い 2 年コースで講師から学んだ内容
「交わり」= KOINONIA (キリストを中心とした交わり)に関する KEYWORD の抜粋
1. VAT 2の目指した4つの刷新 ‘03,5,24 シュガレ神父
@教会の言葉・・・信仰の中心に福音、生きた言葉の回復 「典礼憲章・他」
A信教の自由・・・自分の良心に従い、自由に行動 「信徒〜宣言」
B社会との関係・・時代変化の受け入れ、時のしるしの分別「現代世界憲章」
C教会の自己理解・教会は「コミュニオン」であり、キリストが中心である
交わりの関係。全員は「神の民」。神の国への「旅途中の群れ」。 「教会憲章」
2.心の歩みとしてのミサ ‘03,6,14 森司教
・信仰を生きる私達のドラマ〜自分に何か起こりそう〜信者の生活との接点。
日常生活に持っていく使命。
3.キリスト者の知恵と工夫・・・中世ヨーロッパの信徒の役割 10,1 1 川村神父
・コンフラテルニタス(グループ・ワーク)〜自発性による集団
・16 C 日本の教会を形作った〜共同体成立の基盤=”コンフラリヤ“
4.将来に向けての姿勢と視点の変革 11、 8 ニコラス神父
・教会と生活のギャツプ、祭儀と社会のギャツプ
・信徒の創造力と育成〜信仰生活と奉仕のために、力を与え権限を委託
5.教会共同体のあり方・・・使徒2・47、ルカ18・2 11,29 シェガレ神父
○コイノニアによる信者のつながりが、教会共同体の基礎〜互いに受けいれよう
・ 教会の小教区は、日本社会の縮図? ―――二つの共同体イメージの同化
・ 村共同体的な価値観に立ち、暖かさと安定を求める人々
・ 都会型「コミュニティ」の価値観に立ち、さっぱりした関係を求める人々
□再編成を迎える世界の教会共同体が直面する課題
・ Proximity ・ Universality ・ Plurality ・ Openness
6. NICE の視点からー〜―「開かれた教会づくり」 ‘04,1,17 森司教
@ 社会と共に歩む教会
A 生活を通じて育てられる信仰
B 福音宣教する小教区 3つの柱を活かしたい
□コイノニアによって、人間の共同体の交わりが神の愛によって深められ完成してくる。
新しい希望のうちに。
発題2
「学び合いの会」本年度のテーマについて意見交換をしている時に「神の民の教会のありかた」を幾つかの切り口から検証していったらどうかという提案がありました。これから私が発題をしようとすることは、その中の説明責任に関わることかと思います。
今日のテーマは「信者同士の集まり」となっています。いいかえれば教会共同体が「福音的な説明責任を果たしているか」即ち「お互いに、そして社会に対して福音的なしるしとなっているか」というところに関わってくる、このあたりについて日頃感じていることをお話しようと思います。
始めに 、発題のきっかけは以下の2点にあります。
前回「交わりにおけるリーダーとは、仲介者、和解者の役を為す」ということを増田師が話しをしてくださいました。それを私はキリストの姿として捉えました。
学び合い2年間コースの最終発題では森司教からミサを中心にした典礼について発題がありました。そのなかで今日に至るまでのミサの経緯を背景に、その問題点として「典礼におけるべき論がミサの本質であるダイナミズムを失っているのではないか」という指摘がありました。
そこで、ミサにおける「べき論」を「仲介者、和解者であるキリスト」を背景にして同じことが「信者の交わり」にも現れているのではないか。これを問題意識として投げかけてみようと思いました。
信者同士の交わりから生じる疲れ
時々「社会の福音化」という言葉を目にし「そうだ、そうだ」と思うのですが、信者同士の交わりで起きている事の中には「教会の福音化」こそ緊急な課題だという側面もあります。イエスは「疲れたもの、重荷を負うものは、誰でも私のもとに来なさい。休ませてあげよう」 (マタイ11:28)と私たちを招いてくださっている。「疲れている人、重荷を負っている人誰でも」と言っておられるにも関わらず、教会にくると「疲れてしまう」ケースがあるのです。これから2例紹介いたします
介護に疲れた方が「息抜きに出かけて帰宅をしたらお母様から叱られた」ことを愚痴として話をした時に返ってきたことばが「それは、出かけたあなたが悪い」という一言だったそうです。介護で疲れている人にさらに疲れるようなことを言ってしまう。家族の中で苦しいからその胸の内を語ったら、かえって「疲れを招く」ことばがかえってきてしまったケース。ドラマなどでも見るように、世間様ではではそのようなことが横行していたとしても福音のセンスは違うはず。
次にもう一例。これは昨年の「正義と平和協議会」の全国集会の時に聞いた話です。ドメスティック・ヴァイオレンスの被害者であった講師の話ですが、被害に遭って一番苦しい時に、教会はかえって彼女を苦しめたという例です。「教会に行っても心身共に助けてはもらえ ない。教会では受けとめてもらえない話」ということが彼女を苦しめたと聴きました。
この2つの例は「疲れを増す」信者の集まり、即ち「信者の姿はこうあるべき」という背景があるように思えてならないのです。信者の交わりにおいてこのような事ばかりがおきているわけではありませんが、やはり「典礼に置けるべき論」と並行しているように思えてならないのです。善意ではあっても人を傷つけ疲れさせてしまう現状では『社会の福音化』と同時に「教会の福音化」も大事なことではないのかと思うのです。
「べき論」は聴く耳を閉じさせてしまうのではないか?
では、「信者同士の交わり」において疲れを生じる「べき論」ですが、信者同士の交わりのみならず、
教会が社会に対して福音的なしるしとなっていくためには弊害となっていると思うのです。というのは、「べき論」は「耳を閉じさせてしまう」のではないかと思うのです。「べき論」が支配をしていると、「聴く」ことが出来なくなってしまうのではないでしょうか。「耳を閉じてしまう状態」。日常生活でも相手の話を聴けなくなってしまう。その結果相手を支配してしまう関係になってしまう。少し飛躍するかもしれませんが、マルタとマリアのエピソードはこの状態を端的に教えてくれているのではないかと思います。イエスの足元でマリアは周囲の状況も顧みずイエスの話に聞き入っていた。マルタはイエス樣をもてなすためにかいがいしく準備をしていて手伝いをしない姉に対してイエスに「手伝うように言ってください」とお願いをしたがイエスさまは「「マリアは良い方を選んだ」とマルタを諭された。ここにマルタの「べき論」と、言い過ぎかもしれないが「マリアを支配する心」が見えるように思う。この時に多分びくともしなかったマリアの姿はひとつのモデルだと思うのです。イエスをもてなすためにかいがいしく働いていたマルタは自分の使命(もてなし)を果たしていれば、イエスはこのような言いかたをなさらなかったのではないでしょうか?
社会における「べき論」に対して
次に、社会における「べき論」に対して、「信者の交わり」、即ち教会の出番は?と考える時に先日
ここの(真生会館)「心を病んでいる人を支える人のための講座」で臨床心理士の先生が話をしてくださったことにもヒントがみられるような気がします。心の病にかかった患者の家族には「育てかたが悪かった」などと自責の年が強い人が多いけれども、これは病人にとってはとてもマイナスになると。親が自責の念から解放されていくと患者さんの状態も良くなっていくということでした。これまでは、世間で、また教会でも「こころの病を持っているかたに目がむかなかった」。勿論教会で「精神的な病気の治療」などはできませんが、せめて「こころの病を持っている方々が世間的な考え、思いから解放される」ような環境を整えることが出来たらそれは大きな福音になるのだろうと思います。私たち「信者同士の交わり」そのものがより「福音的な交わり」として、「日々の疲れを癒せる場所」となれば、社会にあるも「べき論」に対して出番があるのではないでしょうか。
私もしばしば「べき論」に基いて「ああして」「こうして」「それはダメ」などと、決めつけたものの言いかたをしていることを反省するのですが、他者との対話の基本も余分な「べき論」をふるい落としてこそ成り立つのではないでしょうか。そこには、お互いに人としてよりその人らしくなるチャンスがあり、「仲介者、和解者であるキリスト」が居て下さるのではないでしょうか?
いろいろあっても週に1度は所属する教会のミサに里帰り
以上、これまで気になっていたことをお話してきましたが、「典礼におけるべき論」と「信徒の交わり」を疲れさせてしまう「べき論」は並行しているように思えるのですが、長い歴史の中で培われてきたものとして、また、教会は7日に一度という単位で動くところなので生まれ変わっていくのに時間がかかっ
てもしかたがないのかなとも思います。
しかし、このような「べき論」があったとしても、典礼は典礼でそこにはキリストがおられる。十字架上の死と復活によって示された神様の愛の交わりに招かれて私は所属する教会の主日のミサに里帰りをするのです。何はあっても1週間の苦楽と感謝を捧げる日です。この交わりから派遣されて出かけて行く。ひとりひとりがキリストと共に出かけて行く。その生き方、表現は様々であっても、不必要な「べき論」で苦しむ人達にそっと「心配をしないでだいじょうぶ」と言える輪を広げていきたい。
マザーテレサが、「最も苦しむ人に奉仕することは第2の聖体拝領」と言われたのを思い出しました。マザーテレサの足元にも及びませんが、「信者同士の交わり」が、苦しむ人と共にありますように。
「疲れた者、重荷を負う者は誰でも私のもとに来なさい。休ませてあげよう。」と招いてくださるキリストの
福音が教会と社会で輝きますようにと祈りながら。
発題3
“信者同士の交わり”−はだかでつき合う、いやし、いやされながら−
“人生は旅である” 私たちは誰でも個人史を持っていますが、その中にいくつかのエポックがあるでしょう。ある日、ある時、ある所でキリストの福音に出会った。そして大いなる恵みの日、洗礼を受けて神の子となり教会共同体のメンバーになりました。それはご存知のように、単なる組織の会員というのとは本質的に異なるキリストの神秘体、つまりキリストを頭とする生命の有機体のメンバーになりました。即ち、ここから私という個人の救いの歴史が時間的に始まったと云うことです。神様のご計画は私たち一人ひとりを“天地創造の前に、神は私たちを愛して――イエス・キリストによって神の子にしようとみ心のままに前もってお定めになった(エフェゾ 1.4-7 )ので、私たちがその日、神から愛されたことを知ったことです。こうしてキリストによって集められた共同体は日々、みことばとキリストの体をいただき養ってくださることをご存知です。しかし、私たちはどれほどこの神秘を実存的に受けているでしょうか!
私たちの弱さ、おろかさ、汚さ、エゴイズムなどを一番よく知っておられるのは主キリストです。それで、皆さんに心を開いて私の体験をお話しますが、自分自身がまづキリストによって変容されること、祈りを培うこと、形にはまった祈りでなく、個人のはだかの叫び、うったえ、その姿を飾らないで、ひそかに誰もいないところでキリストに向かうのです。主は必ず応答してくださいます。ほんとです !!
私たちそれぞれが真にキリストと出会ったなら、信者同士の交わりにも成長があり、その絆も強まることになるでしょう。どうしてでしょう。それは私の心の壁、私の自我がキリストによって壊され、キリストによっていやされるからです。その時、主キリストがわたしの内奥に生きておられることを発見するからです。
主が私のために苦しみ、おん血を流して私たち一人ひとりを救ってくださった。そしてご復活の時、真ん中に立って(ヨハネ 20.19 〜 23 )平和を下さいました。ここに真の自由、平和、喜び、確信が生まれます。私たち共同体は旅する共同体で、たえず死んで復活する信仰に歩一歩、成長、成熟して行きたいものです。
私のマニラでの体験はこうした長い救いの歴史の中のひとこまですが、この出会い交わりは現在も続いております。私たちも激動する世界の中にあって、出来ることを一歩一歩、主と共に働く聖霊の導きを信じて益々信者同士の絆を深めて参りましょう。“栄光から栄光へと”主に変えられながら。(使徒パウロのことば)
基本的構造: 出会い ――――― ――――――――→ 成長・発展・成熟
感謝・喜び・ 不安・恐れ・けんか・
一致・悲しみ うらみ・ねたみ・分裂
全体での意見交換 (各グループ別発表でなく、自由に発言)
* 「べき論」に思い当たることがありますのでその辺のところを少し取り上げます。自分が「べき論」に縛られそれによって人を裁いてしまうということはよくおこります。今では、第二バチカン公会議の原点である「神の民の交わり」にいつも立って教会生活を送りたいと思っているのですが、自分は幼児洗礼で古い時代の「べき論」、例えば「善徳を積んで天国を目指し撃破せよ」「善徳をするのも個人の救いのためであって天国へ宝を積むものである」というように教えられてきたわけです。今ではそれはずれた考えだと思うのですが。
今日のテーマの「信者同士の交わり」では互いに「・・・でなくてはならない」ことをするのではないと思います。信者同士は互いに欠点を持ったもの同士であり、同時に、互いに違った考えを持っている人たちでもあって、それでも「同じ神の民」であり、「同じ神に向かっている」もの同士であると認めあう。そして、傷ついても責め合わないで許しあい頭を下げて受け入れ合う。その様な原点に常に返りながら交わりを求めていきたいとおもいます。そうすれば、ファリサイ人的にならないですむのかなと思いました。熱心になればなるほどファリサイ人のようになる危険があるのだということを意識していきたいと思います。
* 私の所属している教会は交わりが出来ていないと感じています。教会の中にヒエラルキーが出来上がって、それが中心になって、普通の信者と二つに大きく分かれている現状があります。その違いは何だろうかなと思います。信仰のセンスの違いではないかと思っています。信仰のセンスは派手なものではなくて、非常にシンプルであるがそれが光り輝くものであると思っています。ヒエラルキーがこの教会では非常に派手でけばけばしく全てを覆い尽くしている。信仰のセンスの違いで交わりが無い。教会の土壌が疲弊している。そこにはあたらし芽も出ないし、花も咲かない。
そのような中で土壌改良をしながら新しく出来たものが「新しくこられた方の世話係」と「葬儀奉仕グループ」です。これが司祭と共に土壌改革を開始した一歩です。また自分の住んでいる社会の中でキリスト教に接していない方たちとの交わりを持っています。その中には信仰のセンスを持っている方たちが沢山いらっしゃるのです。私達の交わりは教会の中だけではない。教会に来られない方たちとの交わりをもっと大切にしたい。そのような交わりの中で土壌改良をしてゆき、より深い交わりが生まれてくる。神の民としてそのような交わりを築いてゆくことが私にとっては一番大切のことではないかと思っています。
今いろいろと教会の役割を持っています。出来ることなら教会に行って祈りかえるだけを続けたいのです。新しく芽が出てきたものがおそらくやがて教会を変えてゆくだろうとの確信を持っています。ここに今日も同じ教会の方がおられますが、開かれた真の交わりの教会を作り上げて行く仲間とこのようにしてこの会合に参加できたことを神様に感謝しています。
* 一寸視点を変えて申し上げます。交わりの話から派生して取り上げられたのです。教会の中の「奉仕」と「当番制」のことです。役割分担に際して、教会の中で「当番制」で良いのかということです。いろいろな見方がありますが、当番制にすると当番に当たっても来られない人はどうするのか。多分一般社会のボランティアーの集まりではルール破りになるでしょう。教会だと割りと理解がある。ボランティアーとは何かとかかわりますが、ギブアンドテークの中でやっているのだからルールを護るべきだとの考え方もある。そうすると出来ない人は排除されてしまう。教会の中ではどうなのか。本来奉仕はボランティアーであるから当番制や義務が入るのはおかしいではないかと言う見方もある。結論は出なかったのですが、この辺のことはラディカルな問題だと思えるので時間があれば話し合ってみると良いのではないかと思いました。
* それに関連して一言申し上げますが、私は、ホームレスの方々におにぎりを差し上げる教会の活動に参加していますが、当番制にしようかとの話は出ますがこれまで当番制にはしていません。ですからいつも参加される方の人数にばらつきがあります。非常に少人数の時もありましたが、結果として、これまで一度として「おにぎり」が出来なかったことはありません。神さまが送ってくださるよと言った話になったりします。
聖霊のお導きと言う話はこの会でも良く出ますね。いつも対立するのですが、サラリーマンをやっていますといつも発想がサラリーマン的になりますが、教会の場面ではイライラすることがあります。教会の論理と違っていてどうかすると僕のような考え方をする人はお客さんになってしまう感じがします。教会は主婦の方たちの感覚で動いているような気がします。どうしても今のところ「聖霊の働き」と言った言い方はしたくない気分なのですね。信仰の問題かもしれませんが。
* 昨日もある集まりがあって、最後に「聖霊の導きによって・・・・」を祈ったのですが。私としては三位一体を前提にすると「聖霊・・・」と祈らざるを得ないのですね。
「教会に来ても癒されない」「教会に来ても満たされない」といわれる方の問題をどの様に解決してゆけるのかについて一言話したいのです。普段教会では話せないけれどもと言われて4時間も喫茶店で話を聞くようなことがありました。普段顔を合わせる人には話せないけれどあなたにはと言うことがあります。交わりにもいろいろありますね。遠く見えなくなるまで手を振って見送ってくれた時に感じる暖かさとか、通り道を疲れて歩いている時に一寸知り合いに声を掛けられて感じる暖かさもありますし、対面して座っている相手の微笑みを通して伝わる交わりもある。言葉だけではないし教会の宣教活動も同じだと思います。
* 「学び合い1期」に参加していました。その後、時間の都合で「学び合いの会」には参加できなかったのですが、今日は教会の仲間が発題をするということなので久しぶりに参加しました。「学び合い」で学んだことの殆ど実践は出来ていませんが、一つだけあります。それは主任司祭に対して「高い段からの話だけでは無くてたまには平面で交わる場をもちましょうよ」と呼びかけたことです。それが実践されて「いまさら会」と言うのが誕生しました。昔の公教要理しか学んでいない人たちが集まって新しいカテキズムを使って勉強する集まりです。いつもは教会で目立たない方たちが集まって来ています。昼間30人ぐらいの夜7−8人でしょうか。
「学び合い」で学んだことは殆ど忘れましたが、シェガレさんが「若者たちは神父様などと私のことを呼びませんよ“シェガレさん”とみなに呼ばれていますよとおっしゃったことを覚えています。親しみを持って声を掛け合うことが大切ですね。上智大学の頃もみなそうでしたね。学生寮でも“さん”つけで“神父さん”を呼んでいました。このようなところから交わりが始まるのではないでしょうか。
参加司祭のコメント
シェガレ師:
今朝ここで現実の交わりの実践が体験できたと感じました。皆さん自由に話せたと思います。その中で交わりは体験できましたがそれだけでは何か一寸足りないなと思われている方もいるでしょうね。交わりは人間の知恵だと思うのです。いろいろな工夫が必要ですね。
しかし「交わり」には人間的な知恵だけでは足りないと思うのですね。そこが大切なところではないでしょうか。人間の思いは時々邪魔になってしまう。その辺のところは「べき論」と言う言い方で出てきていましたね。「・・・でなければならない」例えば「よわい人を助けなければならない・・・」と言う思いだけでは、善意を持ってやっているけれども逆効果になる時が多いでしょうね。何か上に立って他者を見下すようなところが感じられてしまうおそれがあるでしょう。「交わりは人間の知恵だけではない」と私は感じています。
聖書で「交わり」とはコイノニアと言います。コイノニアは人間のレベルでの付き合いだけではないのですね。必ず聖霊の導きがあります。初代教会の信者たちは初めに集まったときにはみな聖霊の賜物を受けていることが前提でした。「交わりの霊」というか霊的な面があるのであって、それが無いとどうしても「交わり」にはなれないのです。
「交わり」とは非常に現実的なところがありますので微笑みとか優しい言葉とかも大切ですが「霊の賜物」を切り離してしまうと単なる「人間的な交わり」になってしまうおそれがあるでしょう。
現実の人と人のつながりは複雑ですからあまり理想論にとらわれるとやっていけないといった気持ちになるでしょうね。滅茶苦茶になってもいいのではないでしょうかね。
増田師:
今日のテーマで感じることの一つはシェガレ神父がおっしゃった事と同じです。「教会の交わり」とはヨハネの手紙の最初に書かれているように、「父と子と聖霊の交わりにわれわれも招かれている」と言うことが大前提になります。これを忘れて人間同士だけの交わりに陥ると教会の存在意義は全く無いのです。社会の多くの人の集まりと同じになります。教会はそれとは全く違うのだと言うことが大前提です。それを押さえた上で次のことを申し上げます。
信者同士の交わりが聖書ではどの様に書かれているのか。教会の礎である使徒たちやパウロやその他の弟子たちは、聖書にどのように描かれているのか。福音書の中で最も初期に書かれたと考えられているマルコ福音書では、イエスに選ばれた12人はしょっちゅう仲間割れをしていますね。「まだわからないのか!」「信仰が薄いものたちよ!」とかイエスに怒られていますね。イエスが十字架にかかられる直前でもヤコブとヨハネの母親がシャシャリ出てきて「あなたが栄光の座に着かれるときには、息子の一人を右にもう一人を左につけて欲しい」といったりしてイエスのことを全くわかっていない様子が書かれている。さらには、十字架の時には逃げてしまう。しかし復活体験があって再結集してゆくわけです。
復活体験で強くされて宣教を始めてゆくのですが、また直ぐに仲間割れして行くのです。使徒言行録6章を読めば直ぐに出てきますね。「そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである。」結局、ステファノたちが選ばれることによって話はおさまりますが、あの場面は仲間割れですね。ヘブライ語を話すユダヤ人とギリシャ語を話すユダヤ人の仲間割れです。復活を体験しているにもかかわらずこのような仲間割れが起きています。パウロとペトロも喧嘩しますね。律法を護ろうと主張するユダヤ人とそうでないユダヤ人の間の争いが激しくなってペトロは律法を護るユダヤ人たちに引きずられてゆきます。ペトロは両者の間で右往左往してしまいます。そのペトロの態度を、異邦人に律法遵守を求めない立場のパウロは厳しく批判しました。ガラテアの手紙の中で、ペトロが欺瞞的態度をとったのでパウロはペトロを叱責したとはっきり書いてあります。
結局、「交わりとは何か」と言うとき、それは「仲良しになることが目的ではない」ということです。当然意見の違いはあって良いのです。意見の違いを述べ合うときにはルールと言うか、人間としての配慮がいるのは当然ですが。意見の違いを排斥するとなるとそれは交わりではなく画一化( uniformity)になります。交わりは一致(unity)を前提としています。一致の中で違いがあって良いのです。
それではどこで一致を感じるのか。パウロははっきり書いています。それは「ミサ」です。ミサにおいてみなはキリストの体に一致するのです。違いをなくしてしまうと違いの中にある豊かさをも失くしてしまいます。霊のカリスマの豊かさを失ってしまうのです。違いがあるからこそ豊かになるのです。違いを認め合うのですが、それではどこに交わりの根拠があるのかといえば「三位一体の交わり」です。我々の具体的なレベルで言えば「ミサ聖餐」と言うことになります。つまり「感謝の祭儀」の中で、違いのある我々が、一つ一つ部分となって、一つの体であるキリストに造りあげられるのです。
ミサも一緒に出来ないぐらい違ってしまうと難しいかも知れませんが、教会で何とかミサぐらい一緒に出来て平和の挨拶ぐらい出来るくらいの互いの意見の違いぐらいはあっても良いのです。このようなことは使徒の時代から続いている人間の姿なのです。
しかし、一方、実現はしないけれども目指している方向としては、ミサの中で体験している理想、つまり「三位一体の交わりの中に招かれている」と言う理想が大切です。それをなくしてしまうと教会の存在意義は無くなってしまうのだと私は思います。
以上
文責「学びあいの会」