「性をどう理解し、どう意味づけるか」

森一弘

2004・6・19



最終的にはキリスト教的光あるいは福音の光から見たらどうなるのかと言うことになると思います。一番目の性のエネルギーについては説明の必要も無いくらいでしょうが、はじめに、幾つかの統計資料を参照して現実の一端を見ておきたいと思います。



始めに統計的側面からの解析

1)「人口問題研究所」35歳未満の男女



90%以上が結婚を望んでいる。性を媒介とした家族共同体を希望している。性のエネルギーが人間の一生を動かしてしまう現実が見えます。家族を作るエネルギーになっていることは否定できないでしょう。現在シングルの人たちが増えてはいても其の人たちもいずれは結婚したいと言う意識は強いのでシングルの増加が即結婚したくない人の増加とは言えない。性のエネルギーは動いているのでそれを認めざるを得ないだろう。



2)「現代のエスプリ」老いの性60歳以上

* 性的欲求は男女差が大きい、女性74%、男性20%は殆どか全く欲求が無いと答えている。男性は女性に比較して性的欲求が強いとこのデータからは言える。若い時ほど強くは無いけれども無くなったとは言っていない。男性は人によるけれども80歳90歳まで可能である。

* 性交渉自体も男女差が大きい、女性85%、男性48%が全く無いと回答している。ここにも男女差が現れている。

* 望ましい性関係、精神的愛情女性55%男性33%、その他の項目が女性30%男性6%、性交をもつが男性は42%であり女性は6%である。このエスプリの分析に寄ると、直接的性的欲求が薄らいでも共にあろうとする意識は明確に現れている。精神的な性が表れてきていると言える。性のエネルギーは若い人たちだけではなく年取っても無視は出来ないと言うことです。人間の性のエネルギーの強さを表しているも一つの面は性産業の繁栄からも見られます。



3)性風俗の繁栄、新聞、雑誌、写真、アダルトビデオ、など。

夕刊フジ夕刊現代など性の広告で一杯です。性情報と性風俗の氾濫を見れば性のエネルギーのすごさが分かる。1)2)との違いは伴侶から離れ孤独のうちに性的欲求を満たそうとする人々の姿であり、そこには関係性、責任性、継続性の欠如が見られる。一緒に人生を歩んでゆくと言った性の対象にはなっていないのが特徴です。持続性と継続性のためには何かが必要であるとの意識は持っていることもデータから読み取れる。



性エネルギーを媒介として継続し持続する交わりのために

1)結婚相手への条件(「人口問題研究所1992」)男女共に人柄への関心が強い。それ以外では男性は相手の容姿に強い関心を示す、女性は経済力をはじめ職業、容姿、学歴に高い関心を示している。男女差が多い。女性に経済力があると夫婦のバランスは難しくなる現実が見える。女性は自分のアイデンティティを男性に依存している社会現象が現れている。夫の学歴職業経済力に依存している姿が現れている。このデータから言えば日本の社会の女性はかなり男性に依存していると言える。男性は「俺について来い」の意識が強い。男性が求めているのは女性の容姿である。ただ可愛ければよいということになり映画のプリティーウーマンの意識がこのデータに見える。しかし一緒に生きてゆくためには人柄への信頼感でということも明確に出ている。性のエネルギーだけではだめである。人間であることの特徴がそこに見えていると思う。人柄と言う中に性のエネルギーが生かされてゆく事が求められているのでしょう。



2)人生をやり直しが出来るとすれば同じ伴侶を選ぶかの質問に対しては、女性30%、男性40%が肯定的。その理由は優しさ、思いやり、包容力などを挙げている。性を媒介として結びつきを持続して行くために、人格的確かさ、豊かさが求められている。人格とか人柄とは何であったのか少し見て明確にしてゆきたい。



性のエネルギーだけではすまされない人格性を人は持っている。人格性と性の関係を明確にするために聖書から考えたい。



聖書からみた男と女 創世記2章男女の創造物語(2:7,18−25)

1)創世記の解釈

7節「神は、土の塵で人を形づくり、其の鼻に命の息を吹き込まれた」は神への人の依存をあらわしている。土とか塵にはむなしいとかもろい軽い存在と言う意味以外に喪つまり悲しみの意味があるといわれている。罪を犯して悔い改めて塵をかぶるこれは悲しみのシンボルです。創世記では人間の中にもろさはかなさと同時に人間の中には非常に暗いものがあるとみている。神が息を吹きかけられると書かれ人間が神に依存するものであることを明確にしている。



次に「こうして人は 生きる者 となった」の「生きる者」とは原語では「ネフェッシュ」(大きく開いた咽)である。旧約聖書に355回出てくると言われる。何かを求めて口を大きく開けている状態を意味している。つまりこれは「生きる者になった」というよりも「切に何かを求めて止まない存在になった」「飢え渇く存在」となった事を元来意味している。これは生の特徴を表現している。何かに飢え乾き何かを求めている状態は生きているあかしである。求めなくなったら死んだと言うことになります。



求める存在になったと言うことであるならそこで「誰を」「何を」求めているのかと言う問いが出てきます。其の問いに対して創世記は答えをキチント出しています。「人は独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を創ろう」(新共同訳)独りでは人生はまっとうできないとか、独りでは人生は豊かに出来ないという意味で捉えて良いと思う。そのためには何が必要かというので彼を助けるものを創ろうという。人間は「誰かを切に求める存在になった」と解釈しても良いだろう。



別の訳では、「彼と 向き合うような 、 助け手 を創ってあげよう」(岩波訳)となっている。原文では

[向き合う」= ケネグド =「同じ平面に立って、面と面とを突き合わせて」の意味であり、

「助け手」= エーゼル =「値からあるものが無力なものに、豊かな者が貧しい者に」上から下へと言うことである。この言葉は殆ど神さまについて使われているか残りは王に対してである。



この訳のほうが正確であると思う。男性が女性を経済力で支えるのはエーゼルの関係です。縦の関係でない物を与える。裕福な人が貧しい人に与えるのもエーゼルです。医者が患者に手を差し伸べる、若い人が年寄りを介護する、互いにかけているものを補い合う側面があり、人間は一生涯自分の人生は自分で解決出来ないから誰かの力を必要としていると言う意味では人間は生涯エーゼルを必要としているのは本当のことです。それだけなら神さまで十分なはずです。神さまのもとでエーゼルは見出せる。



しかし神さまは独りでいるのは良くないだから私のところにきなさいとは回答していない。そうではなくて相応しいケネグドエーゼルを与えようとおっしゃった。その人の同じ立場平面に立って人間として同じ苦しみ喜びにも共感して分かち合いながら人間として歩もうと言うのがケネグドでそれを人間は求めている。神はそれを与えようとした、エーゼルだけを与えようとしたのではない。縦の関係から同じ平面に立つ関係に変わって行く事が人間には必要なのだろう。人間はケネグドエーゼルに飢え渇く存在になったと言うことです。面と面が向きあって人生を歩めるような相手に飢え渇く存在にたった。



聖書ではこれまでは人が主語になっている。男も女もケネグドエーゼルに飢え渇く存在になっていると言うことです。「わたしの骨の骨肉の肉」の場面に「これこそ!」と言う感嘆詞が3回でてきて感動を表している、面と面を向き合って人生を歩む相手を見出した感動をうたっている。「骨の骨肉の肉」これは運命の共有を表している。人生の伴侶の意味です。「父母を離れて」は原文では父母を見捨ててです。神よ、神よ、何故私を見捨て・・・と言う「見捨てる」と同じ言葉です。親子は縦の関係ですが横の関係においては本人の責任と自覚が必要であると言うことで見捨てと言う言葉が使われたのだろう。「裸で恥ずかしくない」の意味はいろいろな欠点や未熟さを出し合ってもかばい合い包み合っているという意味です。



もう一つの側面は教会の結婚式で言われる「**さんを妻にしますか?」と言うのは、神さまから「**さんは一人では生きてはいけませんからあなたは**さんのケネグドエーゼルになってくれますか」と言われているのと同じです。神さまからの委託があると考えて良いと思います。この人の人生を引き受けてくれないかと神さまからの委託があるのです。そこに信仰が出てきます。それに対して「はい」と答えるのだと考えて良いでしょう。子供が生まれてくる時も同様です。信仰の目から見ると「この子は独りでは生きてゆけないから生涯にわたるケネグドエーゼルになってくれないか」と神さまから夫婦に言われていると考えて良いでしょう。



ケネグドエーゼルになりえるための条件は何か 。

一番目は「柔らかで棘の無いもので包まれたいと言う飢え渇き」で

二番目は「かけがえのない存在として自分が肯定されたいという飢え渇き」三番目は「自分の可能性を開花させたい飢え渇き」

最後は「心に触れたい、交わりたい、飢え渇き」です。



この四つが人間の基本的飢え渇きです。この飢え渇きを満たしてくれることを相手のケネグドエーゼルに求めている。「柔らかで棘の無いもので包まれたいと言う飢え渇き」は人間のペルソナとしての飢え渇きです。これが詞のエネルギーを媒介として相手と関り合って自分の身を相手の内に沈めゆだねることによってほっとする。この生きている世界は荒々しく棘に満ちているけれども夫婦が裸になって相手を確り受け止める時、性を媒介として、人は柔らかで棘の無い温かなものに包まれて行くと言えるかもしれない。



「かけがえのない存在として自分が肯定されたいという飢え渇き」これは皆さんが結婚した時にしていることです。他者から見るとどう見えようと相手を絶対視してかけがえない存在とされている。私にとってはあなたしかいないと言った思いになっている。互いに肯定しあう心からの交わりが始まっている。性の交わりの中でもそれが言える。それが人生の支えになる。 OK であると小さいときから言われ続けていないと人間は生きてはいけないものです。現代の子供たちがこの問題を抱えてしまっている。



「心に触れたい」、これはとても大事です。心から感謝します、心から仕事をします、心から手紙をかきました、などと「心から」と言う言葉を使う。このときには私の背後にある私がそこにいることであって、相手も心を開けば、心と心が交じり合うことが出来る。心を閉じると相手は入ってこられない。人間にとっての真の豊かさは心の交わりから来る。それを命が燃えると言っても良い。表情が生き生きしてくるのはこの交わりにおいてです。人間である私が柔らかく包まれ其の私が肯定される。この私が交わりたい。しかし人間は身体性を持つ。相手も同様です。飢え渇きとしては心を開くのですが問題があります、それは心だけではだめで体を動かす必要がある。身体性の中で脳が働いている。脳は心と繋がっている。脳から指令がいって体が動く。





「人間のセックスの本質」近藤裕「夫と妻の人間学」



「人間のセックスの本質は、一つには、脳の中の大脳辺縁系の反応である。性ホルモンが視床下部の細胞にキャッチされ、其の情報を大脳辺縁系に伝えることにより、興奮が起こる。これが、動物的、本能的、あるいは性器的セックスである。」目から入ってきた刺激が脳に伝わって興奮してくるのであった人間のセックスは脳であることは間違いない。しかし人間の場合この大脳の反応だけで行動しているとどうなるか。虚無感に陥るだろう。「人間の場合、こうした大脳辺縁系セックスのほかに、大脳新皮質前頭葉系のセックスがある。相手と深く交わりたいと言う精神的な欲求、精神的一体感に対する欲求により大脳新皮質系前頭葉が活動し辺縁系をコントロールする。相手との深いかかわりが生じていないセックスを続けていると、虚無感に陥るのは、たとえ生理的欲求を満足しても、精神的満足、大脳新皮質の満足が得られないために不満が残り、これが虚無感を生むのである」前頭葉は理性を司る。相手と深くかかわりたいという精神的欲求で前頭葉が活動してコントロールする。セックスを通して深い交わりが育ってゆく。心が前頭葉に働きかけて性衝動を動かして行動を制御する。人によっては大脳の方のセックスが非常に大きくなってしまって開いてかまわずに行動を起こしてしまいレイプしてしまうのは心でコントロールされていない状態です。動物的性衝動にペルソナが引きずり回されている。



まとめ

人間の性というのは、ケネグドエーゼルを求めて、それと出会わなければ人間の飢え渇きは満たされない、というところから意味づけて行くべきではないかなと思います。この私は棘の無い柔らかなものに包まれて掛け替えのない自分として肯定され相手と深く交わって育ってゆきたいそういうペルソナとして私がこの世界の中で其の答えを見出してゆくために性が意味づけられてくるのではないか。現実の性は動物的生理的本能からペルソナの欲求を混乱させ振り回し人間を引きずりまわしてしまう。そこにさまざまな不幸が起きる。



性の交わりには人格性、継続性、責任性が伴い、そこから子供の問題も起こり、離婚を安易に考えてはいけないと言う判断が成り立ってくる。



これらのことを踏まえながら現実に性を生きるのが人格の成長に繋がってゆくのかをロールプレーを参加者にしていただいて皆で考えてゆきたいと思います。(ロールプレーの部分は文章化するのが難しい面がありますので割愛します。)



7 月 3 日の「学び合い」のテーマは「家庭家族の問題」ですので今日は性を媒介とした男女の交わりがテーマでそこでは一番深い本質としては相手の中にケネグドエーゼルを求め互いに向き合って生きてゆく伴侶を求める本能があってそれが性を媒介として充足されてゆくのだと考えたいし、創世記のメッセージはまさにそれであると思います。それで次回のテーマに重なるようなところを少し話しておきましょう。



家とか家族とは何であったのか。

ケネグドエーゼルから考えるとどの様に説明できるか。漢字の語源から見ると大切な家畜を守る形になっている。家の意味に古い中国では「互いに守りあう」、「互いが貴重である」、「一緒に居る」の三つの意味を込めていた。この意味は現在でも基本的には受け継がれているが、これが揺さぶられていることも確かでしょう。外で受ける家族の被害から家族は互いに守れない。夫や妻や子供が受けている人生の苦しみから家族は守れなくなってきている。社会構造が大きな力を持っているから家族の小さな力では守れない。互いに大切にする面でも仕事のほうを優先せざるを得ない。妻のほうもボランティアーの方が面白くなってきたりしている。一緒に居る時間も少なくなっている。家に従来期待されていた機能が現代社会によって果たせなくなってきている現実がある。

家庭の「庭」は閉ざされた空間を意味しているらしい。昔の日本の家には庭があったが平均的な日本人の家はマンションで庭が無くて、一歩外に出ると自分の空間がなくなってしまう。家の中の空間も非常に小さい。これも脅かされていると言える。一緒に共に居る空間が小さくなってきている。その意味でも家族は揺さぶられている。

次に家族の「族」の意味は「ある旗の下に束ねられた」の意味と言われる。この旗とは現代では何であろうか。そこに家族理解の混乱があるといわれる。どのような旗の下に二人が束ねられるのか。命の流れ、血の流れの元に束ねられる。現代日本でも血のつながりに重きを置いて個の形成が遅れていると言われる。結婚式場の**家と++家の結婚式と表現するのはこの立場を取っていることを表している。男の命の流れが基本となっている。男と女がたての関係にここではなっている。

別の旗が同時に存在している。これが友愛、愛とか言われる旗です。結婚の軸足がこちらのほうに移ってきている。1975年以降日本ではこの変化が強まってきている。愛が旗印として結ばれるのであれば愛が無くなれば結婚の意味が無くなる。そこで離婚がしやすくなる。カトリックの考えでは第二バチカン公会議までは命の流れを第一義としていた。神の創造の業に参与するととらえて来た。公会議の後で、結婚は愛によって人格を育てあうのだという理解がされ始めた。パウロ6世はこの二つをうまく合わせようとした。しかし、これでも原理的には愛が無ければ破局に至ることになる。

もう一方の考え方では、子供が一人前になるまでは責任があるから頑張るということになる。愛の無いところでは子供が育たないから子供がかわいそうであると言う考えも出てくる。カトリックとしては愛とはキリストの愛であると考える。だから破局はありえないから離婚は無いと考えている。今でもこの考えである。

愛と言う旗だけを掲げるのならば同棲でも良いではないかと考える人が出てくる。これも家族として認めるべきであるとしてフランスではそれを認めている。北欧でも同様に同棲を家族として法的に認めている。これは人間の尊厳という観点からとらえているのでしょう。もう一方、養子制度がある。これも愛があればという考え方である。しかし家族には愛と言う言葉では説明しきれない何かがある。愛という旗だけではこれからの夫婦を肯定しきれないのではないかと思われる。

もう一つの新しい考え方がある。家族は「福祉共同体」であるという見方がある。ある学者が発表された考え方である。厚生省が福祉財源の不足を解決するために福祉的役割を家族に戻す理論的背景として出されてきた考え方である。家族のこの辺の事情は、人間は一人では生きては行けないというケネグドエーゼルを求める存在である人間の本質に関わってくると思われる。ともかく「家族は独りでは生きてはいけないと言う旗の下に性を媒介として一つの屋根の下に共同体を作ってゆくのだ」と言う視点からとらえてゆくべきであると思われる。神様からこの人の人生に寄り添って生きてゆくように委託されて二人は共同体を作ったのだという考えで説明できると思われる。
            

家とか家族とは何であったのか。ケネグドエーゼルから考えるとどの様に説明できるか。漢字の語源から見ると大切な家畜を守る形になっている。家の意味に古い中国では「互いに守りあう」、「互いが貴重である」、「一緒に居る」の三つの意味を込めていた。この意味は現在でも基本的には受け継がれているが、これが揺さぶられていることも確かでしょう。外で受ける家族の被害から家族は互いに守れない。夫や妻や子供が受けている人生の苦しみから家族は守れなくなってきている。社会構造が大きな力を持っているから家族の小さな力では守れない。互いに大切にする面でも仕事のほうを優先せざるを得ない。妻のほうもボランティアーの方が面白くなってきたりしている。一緒に居る時間も少なくなっている。家に従来期待されていた機能が現代社会によって果たせなくなってきている現実がある。



家庭の「庭」は閉ざされた空間を意味しているらしい。昔の日本の家には庭があったが平均的な日本人の家はマンションで庭が無くて、一歩外に出ると自分の空間がなくなってしまう。家の中の空間も非常に小さい。これも脅かされていると言える。一緒に共に居る空間が小さくなってきている。その意味でも家族は揺さぶられている。



次に家族の「族」の意味は「ある旗の下に束ねられた」の意味と言われる。この旗とは現代では何であろうか。そこに家族理解の混乱があるといわれる。どのような旗の下に二人が束ねられるのか。命の流れ、血の流れの元に束ねられる。現代日本でも血のつながりに重きを置いて個の形成が遅れていると言われる。結婚式場の**家と++家の結婚式と表現するのはこの立場を取っていることを表している。男の命の流れが基本となっている。男と女がたての関係にここではなっている。



別の旗が同時に存在している。これが友愛、愛とか言われる旗です。結婚の軸足がこちらのほうに移ってきている。 1975 年以降日本ではこの変化が強まってきている。愛が旗印として結ばれるのであれば愛が無くなれば結婚の意味が無くなる。そこで離婚がしやすくなる。カトリックの考えでは第二バチカン公会議までは命の流れを第一義としていた。神の創造の業に参与するととらえて来た。公会議の後で、結婚は愛によって人格を育てあうのだという理解がされ始めた。パウロ 6 世はこの二つをうまく合わせようとした。しかし、これでも原理的には愛が無ければ破局に至ることになる。



もう一方の考え方では、子供が一人前になるまでは責任があるから頑張るということになる。愛の無いところでは子供が育たないから子供がかわいそうであると言う考えも出てくる。カトリックとしては愛とはキリストの愛であると考える。だから破局はありえないから離婚は無いと考えている。今でもこの考えである。



愛と言う旗だけを掲げるのならば同棲でも良いではないかと考える人が出てくる。これも家族として認めるべきであるとしてフランスではそれを認めている。北欧でも同様に同棲を家族として法的に認めている。これは人間の尊厳という観点からとらえているのでしょう。もう一方、養子制度がある。これも愛があればという考え方である。しかし家族には愛と言う言葉では説明しきれない何かがある。愛という旗だけではこれからの夫婦を肯定しきれないのではないかと思われる。



もう一つの新しい考え方がある。家族は「福祉共同体」であるという見方がある。ある学者が発表された考え方である。厚生省が福祉財源の不足を解決するために福祉的役割を家族に戻す理論的背景として出されてきた考え方である。家族のこの辺の事情は、人間は一人では生きては行けないというケネグドエーゼルを求める存在である人間の本質に関わってくると思われる。

ともかく「家族は独りでは生きてはいけないと言う旗の下に性を媒介として一つの屋根の下に共同体を作ってゆくのだ」と言う視点からとらえてゆくべきであると思われる。神様からこの人の人生に寄り添って生きてゆくように委託されて二人は共同体を作ったのだという考えで説明できると思われる。

 


                            



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