「現在の教会の状況の中には教会の“成長”を 阻害している
構造的欠陥があるのではないか」
2004年10月16日
参加者:総数 34 名
参加者から寄せられた感想:
それなりに良かったですね。発題者のお一人おひとりから真摯に生きる信仰者の姿も伝わってきました。中でも、
” 司祭の生きがいに信徒が組み込まれている ” 、
” 自分を何で満たそうとしているのか ” 、 ”
教会を自己実現の場にしてしまっている ” 、 ”
人との関わりに於いて自分を客観化、相対化してユーモアをもって対応する事が大事 ” 等々、のフレーズには全く同感、と思いました。
でも、まだ教会概念を小教区の建物の中で教義が前提にある司祭と信徒の集いを指していると思われる発言が多かったようにも思いました。学び合いの会は議論する場ではないのでいろんな考えが発表し合えれば良いのですが。
司会挨拶
今年は年間を通して、「信徒と司祭の新しいかかわり」を目指して、いわゆる教会の民主化も踏まえ、問い直してみるのが基本テーマです。
第一回目には、キリストの教会にはどのような「信徒司祭の関係」が望まれるのか。現在教会に漂っている相互不信に似た状況「教会の現状」を福音に照らして考えました。第二回目6月12日は「信徒」は教会の活動に「参加」するのではなく教会の完全な欠けるところの無い一員であり教会そのものを「構成」するのだという事実から考えました。今日が第三回目です。時間がかなり経っているので簡単に今年の2回の集まりを振り返りましょう。
次回のテーマに続くような話し合いに今日なることが期待されています。12月11日には今期の最後の課題として「教会は誰とともに歩むのか」を問うところから信徒と司祭の関係を考えてみることになります。
発題1
今日のテーマについて問題提起はしますが、問題解決は皆様で考えていただきたい。私が指摘したいのは「誰もが見たくない、誰もが知っている現実」事柄です。大阪教区の生涯セミナーでまとめられたものがありまして、「教会共同体とは」というテーマで分かち合いの結果がまとめられたものです。交わりが為されていない現実をどの様に見るのか。どうしてなのか。これは不平不満を集めたものではなくて、これらを踏まえることによって次のステップに切り替えてゆける、明日の希望を見るためです。自分の小教区でも同じような分かち合いを何度かしました。それらの結果と大阪の結果とはほとんど同じでした。教会の現状はどこでも同じであるということになります。要点だけを挙げます。日曜にミサに来る信者が大半である。交われない交わらない信者が多い。教会共同体のエネルギーをそいでいる。これが成長性を阻害すると思われる。
信徒の思い、思い違い、姿勢から来るものもある。司祭から教えてもらう体制が主体でした。司祭からの支持がないと安心できない自信がもてない、そして行動が出来ない状態がある。自分に洗礼を授けてくれた神父さんのことがいつまでも教会の中にうごめいている。最近洗礼を受けた信者にはそのような話題がないので寂しい思いをしている現実があって、これも交われない背景にある。九州や奄美大島の信者は隣近所が皆信者の中で育っている人は信者数の少ない地域では彼等の発言は異質に聞こえる。
一生懸命学び知識をためてはいるけれどもそのような人は教えたがる。これは新しいメンバーにはギャップに感じられる、つらい思いをさせてしまう。洗礼が卒業式になって教会に来なくなる。つまるところ私と神さまとの関係だけになってしまう。共同体を度外視して、他者との関係を持たない。
神父の思い、思い違い、から来るものもある。問題点、争いごと、に関して、具体的な解決を図らないで、祈ることで済ませてしまう司祭もいる。司祭は逃げ回っているとの陰口も聞かれる。公私をわきまえない司祭もいる。信徒の奉仕を当然と思っている司祭もいて、さまざまなことをやらせている。不満がたまるし中傷が起きる。
発題2
マクロ的な話をします。原点を押さえることが大切。イエスは貧しい人々と連帯し、彼等の側に立ち、ユダヤ社会を批判し、弾劾し、そのため十字架刑で殺された。次に、教会の流れを押さえておくことです。原始教会の設立は聖霊降臨ご使徒たちを中心にしてキリスト者の集団がおこされた。その後各地に信徒の団体が設立された。その宣教の中心になったのが使徒、執事、ステファノなどのような助祭、それに信徒の集団でした。司教を中心とした集会が催されたがそれは都市中心の宣教活動でした。司教が定住するようになる。司教座の名前を都市名とするようになった。 313 年以降キリスト教公認後、教会は制度を整備してくる。そのころから農村への宣教活動が行われてくる。司牧者が定住するようになる。聖堂を中心とした信仰集団が形成されてくる。だんだん小教区とか聖堂区という形が整ってくる。司教は司祭に対して法的な特権を与えるようになってくる。中世になると教会も財産を持つようになってくる。十分の一税とか埋葬権とかが司祭に与えられるようになる。聖堂区とは都市とか国王、大地主、司教、修道院とかいったところに出来た地域社会を作っていった。そのころ主任司祭という呼び方が出てきている。トリエント公会議で主任司祭という呼び方が公に認められた。
日本における宣教はどうであったのか。さまざまな信心行と共にそれぞれ異なった母国の教会制度がそのまま持ち込まれ、今日の教会のすがたを形成している。
教会の成長とは社会と遊離してしまった教会を修正してゆくことだと思います。そのために第二バチカン公会議以降東京大会も開かれ NICE が開催された。そこで言われたのは「開かれた教会」ということです。社会から遊離した教会を修正することによって為されるものである。結論的には再度イエスの生き様に見習うということです。これが教会の福音化であるとおもいます。この原点に返るために何をするべきかの課題を自分なりに整理してみます。これまであちこちで云われてきたことです。社会との縦の関係に関連することでは教会内部はたてに一方通行です。信徒と聖職者の役割分担が明確ではない。いろいろ議論はされているけれども学生運動も市民運動もない。単なる個人プレーになっている。
横のつながりで社会参加のプログラムを作って行くことが必要になっている。「神の国」つくりのプログラムを話し合って明らかにする。今の教会は自己完結型になっている。司祭と信徒の関係しか生まれない。修道院も治外法権の中にいる。聖俗の問題では聖の氾濫状態であると思う。信仰教育の問題も今の制度では子供たちを純粋培養することしか考えていないみたいである。教え方も司祭との一対一の対応で行われている。典礼の面でも儀式偏重が見られる。秘蹟の共有が少ない。ミサのしるし理解にも不十分さが見られる。共同体のしるしとしての面を考え直す必要がある。ゆるしの秘蹟も聴罪司祭を通してしか与えられない。司祭が信徒の数に比べて極端に少ない地域などを思うとこのままで良いのかなと考えてしまう。共同体としてゆるしあうかたちが出来ても良いのではないかと思われる。
これらの問題から派生するものとしては、官僚制、司教の選任方法の民主化、司祭の任期制、独身制、終身制、女性司祭、政治や社会正義へのアレルギー、聖人、聖域、聖職といった事柄に過剰に反応している。祝福はなんでしょうか。車も祝福を受けている。司祭の生きがいの問題もあるでしょう。
最後のまとめ、歴史のなかで作られてきた教会を少しずつ修正しながら原点に戻り、人々からの信頼を取り戻すことが大切だと思う。急激には出来ないので教会の中の理不尽な事を「希望を持った意識改革」で変えてゆくことではないでしょうか。教会の民主化の話が出ますが「神との関係」で考えるのではなく「人間同士の関係」のなかで考えることだとおもわれます。「神との関係」を取り戻すことが「民主化」だと思います。
現実の問題を幾つか挙げておきます。自分の小教区ではパイプオルガンを購入しようとしています。教会費の数年分の費用が必要です。聖水がないのでそれを造ろうという話もあります。私は反対しています。教会はきらびやかなところである必要はないとおもうのです。「みことばの祭儀」が嫌いな司祭がいます何が何でも「ミサ」を行うのです。「ミサ」ばかりの教会でよいのでしょうか、それが私の問題提起です。
発題3
テーマを教会の成長と信仰者としての成長にポイントを絞って見ました。そこから、成長を阻害しているものは何か、構造的欠陥は何処にあるのかを、学び合うことができればと思います。私たちは、2年間の「学び合い」そして「学び合いの会」で、学び合うことによって、改めて「私たち一人一人が教会」と、再確認しているのではないでしょうか。
教会の成長について考えるに先立って、では、聖書の中には、教会の定義をどのように現されているのか、見てみました。
◆教会の定義、
8月1日付け「カトリック新聞」「展望」に、森司教もお書きになっておられましたが、パウロが教会について、定義している箇所、コリントの信徒への第一の手紙」の冒頭です。
『コリントにある神のエクレジア(教会)へ:すなわち至る所で私たちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、キリスト・イエスによって聖とされた人々、召されて聖なるものとされた人々へ』(新共同訳)
*森司教は「ここで留意すべき点は、パウロが、キリストに出会い、キリストこそ自分の人生の力、光、支え、救いになると確信し、キリストと結ばれ、キリストを主として呼び求めている人々の共同体を、教会といっていることである。」と、お書きになっています。
◆教会の成長
“キリストに結ばれ、そのキリストを主として呼び求めている人々の共同体が
なかなか成長できないようです。ご多分に漏れず私の所属教会もそのようです。主任司祭が代わるたびに、人々の力のバランスが変わります。積極的に他教会に代わっていかれる方、口実を設けて静かに、いつの間にか離れていく方。突然、教会の役職を下りる方、辞退する方。それぞれに重大な理由はあるのでしょうが、全体の活動力を弱めてしまいます。キリストに結ばれているはずの共同体が、神の前では似たり寄ったりの私たち人間が、人の思いと、力に動かされ右往左往します。それは、決して悪意ではないのでしょうが、私たちの持つエゴがこのときとばかり強く渦巻いている様です。“自分を何で満たそうとしているのか?”“何を獲得して満たされたいのか?”“何を所有したいのか?”“自分の存在の主張か?”強いては集団(個人)で個人をコントロールしたりします。其処には人間としての「甘え」が見え隠れし、嫉妬、妬みも味付けをして「不平等だ!」「教会は民主的ではない!」と叫びます。もちろん、真摯に教会の改革を願って“民主化を!”と、叫んでいる場合もありますので、言葉には十分注意し識別が必要だと感じています。
司祭は新たな、縦関係を築こうとなさいます。(そう見えるからでしょうね)
果てはそのお先棒を担いで、争いを起こす者も出てきます。全てにおいて、選択決定できる司祭の役割は非常に大きく、共同体そのものが大きな傷(?)を受ける場合もあります。司祭の選択と決定が正しいものであるか否かは、私たちが論ずるところでは無いように思います。神様が良いようにしてくださいます。神様はお忙しいのですからね。時間がかかる時もあります。私たちは頂いている忍耐力より、さらに、その恵みを、チョッピリおまけしてもらっているようで、「開かれた教会」になるには、いま少し忍耐が必要な教会です。方向性はもっていても、まるで舵の無い船のようです。会議は延々と続き、疲れ果てます。そのような時、私たちは決して知らないわけではないのに、パウロの「ローマの信徒への手紙 12章4〜8節」は、すっかり忘れられ、キリストは、隅へほっぽり出されている。皆が皆では無いでしょうが、そのような印象を受けます。『私たちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形
づくっており、各自はお互いに部分なのです。』 しみじみ思いますが、神様は実に巧に私たち人間をお使いになられますね。私たちは、その本当の意図を見分けられていないようです。なんとも巧妙です。(当然ですが、神様は凄い!)
そして、「聖書」は信徒の、信仰の未熟さについて、「コリントの信徒への第一の手紙3章1〜6」で、こう言います。『兄弟たち、わたしはあなたがたには、霊の人に対するように語ることができず、肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語りました。わたしは、あなたがたに乳を飲ませて、固い食物は与えませんでした。まだ固い物を口にすることができなかったからです。いや、今でもできません。相変わらず肉の人だからです。お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなた方は肉の人であり、ただの人として歩んでいる、と言うことになりはしませんか。』
教会を愛していながら、そこには霊的に未成熟な私たちがいます。教会の成長には、「私が教会」との意識を持っていること。“一人一人が教会である私たち”が、キリストに結ばれ、神に呼び集められて、教会を構成している。この意識のあるなしの違いは大きいようです。
ミサを司祭と共に捧げ、その秘蹟に与り、実りを受け取って神に派遣されている場所に帰っていく。教会共同体の活動は、使っていただければ精一杯し、足場を家庭にして、社会の真只中で生きています。これが私たちです。
(教会の運営参加に、積極的にかかわれないのは何故でしょう?)
◆人間として、信仰者としての成長。
「聖書」は『キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようと思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、自分と同じ者になられました。』(フィリピの信徒への手紙2章6〜7)と、「自分を無にして」自分を惜しみなく与えつくす、神の姿の本質、神の無償の愛を説いています。パウロのような衝撃的な神との出会いだけではなく、洗礼の恵みと同時に、使徒としての使命に与っている私たちも、時として神を忘れ、日常生活に押し流される瞬間をもちながらも、日々の出来事の中に、私たちを「福音化」する、さまざまのキリストとの出会い、キリストの愛に触れます。私は、「信仰と生活の遊離」とは感じていません。ささいな人々との出会いのなかに、散りばめられている、この貴重な宝物を、大切に一つ一つ集めていく、これによって神に出会う。出会わせていただく、私たちが人間として、そして信仰者として、成長させてもらえる機会でもあります。イエスの考え方、イエスの価値観が、出会った人の心に沁みていく様に触れる事もあり、希望、勇気、力をいただきます。
「自分を無にして」この言葉に触れる時、私は、ある小さな出来事を思い出します。人間として、キリスト者としての真実の私、キリストがいつも共に歩いてくださっている事を確信し、感謝した出来事でもあるからです。そこには未成熟なキリスト者の私がいます。 それは、かれこれ30年ほど前になりますが、ある家族に出会いました。家族構成は、ご夫婦、お子さんが3人。明るい仲の良い家族に見えました。私たちは、当時、集合住宅の2階と4階に住んでいましたが、友人の彼女は、まもなく、ある日を境に、あるときは醤油、次の日は砂糖、冬には暖をとるための灯油、調味料から始まって、様々のものを「貸して!」と言ってこられます。もちろん、快く、二つ返事で差し上げます。ところが、一年ほど経った頃でしょうか、私の心は不遜にも、「こんな事でいいの?」「彼女はこのままでいいの?」「援助は簡単にしていいの?」と、揺れはじめ、心が深いところで二つに裂け、苦しみだしたのです。私自身の深いところには「静かな一点」があります。他の誰も触れることのできない、この「静かな一点」が不協和音を出し始めました。何かが分離してしまったようです。この小さな揺れは、自分を見詰めるいい機会になりました。其の夜、「実は・・・」と話し始めた私に、夫の応えは、思いっきり打ちのめされるものだったのです。「人間は捨てたものじゃないよ!キリスト教のことは分からないけど、君の信じているキリストは、どうもそうじゃないようだ。聖書の中に答えがあるんじゃないの?」と、言います。神から委ねられた、神が無償で与えて下さった、それは数え切れないほどの恵みを預かっていながら、隣人と共にいない現実を、突きつけられた瞬間でもあります。私は、個人的には静かに沈黙している時間が好きですが、人生の時間を共有した伴侶に、「ミサ」の実り、「説教」から受け取り私の琴線に触れた事など、食事をしながら伝える習慣があります。
常々「私ひとりを見てカトリックを判断しないで!」と、言い続けている小心な私に、神は、彼を通じて神のメッセージを私に伝え、キリストはご自身で、彼にキリストを理解させておられました。神のまなざしを実感したひとコマです。聖書は、『だれかが無理に一マイルの道を歩かせようとするなら、一緒に二マイル歩きなさい。求めるものには与えなさい』(マタイの5)の箇所が、まず浮かんできました。『お前たちは私が飢えていたときに食べさせず、乾いた時に飲ませず』(マタイ25)では、神様の心にかなう人を知り、ルカ福音書では、『あなた方によくしてくれる人に、善いことをしたからといって、なんの恵みがあるだろうか。何も当てにしないで貸してやりなさい。』と、キリストは言われます。私は、“みことば”に触れすっかり楽天家に変貌していました。
また、一年が過ぎ、私たち夫婦が現在の地に移転することになり、事は終結しました。お別れの食事に招待した時、彼女は、小学生のころに出会った同級生の傷の思い出を、カトリック信者に出会った、最初の話としてなさいました。(ホントにドキッ!としました)私は、彼女の唯一の財産であったらしい陶器の壷を贈られ、非常に困惑し、神様の計らいに身の竦む思いをしました。(全てをご存知の神様、勘弁して!ご冗談でしょう?そんな気分です)その後、彼女は男女3人の子供を引き取り離婚しました。私たちは、物理的な距離を持ちながらも、いまもお付き合いを続けています。
教会も常識的な人間社会です。組織化は必要でしょう。でも、神が人々を集められた教会は組織ではあっても「愛が中心の組織」ですから。私たち一人一が信仰者として霊的に成長させていただき、願わくは、教会なら言いも悪いも「神と人間しかいない!」という次元の、矜持や、思惑があっては話せない真実の比重の重い会話がしたい。司祭のリーダーシップ、人間性、あの人、この人のことより、聖霊はその内的働きを通して働くようですから、まず、立ち止まって、自分の内なるものを見詰め、自分がどの様な霊に動かされているか霊的識別をし、私たちが、日常生活の中で、“何を基準に選びをしているだろうか?”“イエスの価値観を持ち、それに従って歩いているだろうか?”ここからが、出発ではないのでしょうか。
「誰と共に歩くのか」「私たちが教会」です。その意識を一人一人が持ち続けられます様に。最後に『私はこう祈ります。知る力と見抜く力とを身につけて、あなた方の愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。』(フィリピ1章9〜10)
司祭発題
小教区の現場しかやってこなかったので、それだからこそ見えたこともありますし、ずいぶん苦しんだこともあります。司祭の立場から、これまでいろいろ体験し、考えたことをお話しましょう。
私は 31 年前に司祭になりました。初めて赴任した教会は今では大変良い教会であったと思います。司祭を育てようという温かい雰囲気が信者さんの中にありました。言われる本人には憎くて言っているのか育てようとして云っているのか直ぐわかります。信者に本当に良く叱られましたし、注意もされました。世の中はそんなものではないとか云われる。大人の信者さんが多かったのでしょう。
主任司祭が立派でした。パリーミッションの方でした。福音に生きた方でした。この方の下なら一生助任でもいいと思ったものでした。その司祭は徹底的に家庭訪問をなさいました。しかし私に同じようにやれとは言わない。しかし良い点は見習わなくてはと私も同じことを始めました。家庭訪問することでその信者との隔ての幕がサーット取り除かれるような感じになることがよくありました。その次の日曜日に教会に来られた時には全く雰囲気が違っていることがあったのです。そこで私も最初の転任先の教会でまず家庭訪問を始めました。半年間に150軒自転車で回り、皆様からいろいろ悩み要望を聞きましたし教会への要望もうかがいました。
今の教会は家庭訪問しても家庭によっては片道20‐30キロくらいあるでしょう。2−3軒回ると行って帰るだけで半日かかります。1500人ぐらいの信者さんがいるが、私自身老齢になってきているので家庭訪問を徹底するのは大変だと思います。
神学校に入ったころ第二バチカン公会議がはじまりました。ミサ典礼などはそれまではラテン語でやっていました。「教会は絶えず刷新しなければならない」(神学者キュング)と言うことで、教会だけのことではなく、信者たる者キリストの従う者は絶えず悔い改め刷新しなくてはならないということがよく言われました。小教区を預かっている司祭として言えることは、司祭はやはりリーダーということです。しかし司祭だけではなくて信者の中にもリーダーがいないとこちらも困る。ここに集まっておられる方は各教会の信徒のリーダーだと思いますが、「祈り」と「みことばへの学び」が大前提であるということです。公会議は私たちに何を望んだか、そして、教会は今何を望んでいるのか、それらを絶えず知る努力をすること、それを教会的教養と呼びましょう。
かつて太平洋戦争開始時、日本の軍隊に問題であったのは、海軍と陸軍でアメリカに対する認識が違っていたところにあります。海軍は海外に出かけて、よく外国の事情を知っていました。従って米国と戦えば確実に負けると思っていたので戦争開始に大反対しました。陸軍は外を知らないから、思い込んだらどこまでもです。このようなタイプの人はこわいですよ。思い込んだら自分は変えられない。しかし教養とは自分を客観化することです。知識を得ることによって、今自分はどのようなところに居るのか知ることが、自らが客観的になることです。絶えず学ぶことにより自分を相対化する。絶対化して良いのは神のみであって、他のすべてのものは相対的なものです。教会であろうと司祭であろうと同じです。そのために、われわれは絶えず「学び」を大切にします。それはどのような分野でも同じでしょう。
もう一つ大切なのはユーモアでしょう。自分を含めてこの世はすべて不完全。己を相対化する余裕があるからこそ、ユーモアも出てきます。教会の中では時々ごたごたありますが、皆まじめすぎるからだと思えるときがあります。自分に余裕がないと他への裁きがはじまります。そうなると世の中と全く同じレベルの集団になりさがります。吉川英治の本に「われ以外人みな師なり」と云う題の本があります。赤ん坊からも私たちは教えられることがあります。従ってすべての人から教えを受ける謙虚さが大切です。信者であるとか司祭であるとかは関係ありません。キリスト者にとって、この精神は大切です。もしこの点に司祭に欠けている人がいるならば、それは司祭の人間としての資質と霊性の問題でしょう。皆さんドノドン言えばいいのです。遠慮して言わないからいけないのです。
しかし司祭として見ていて信者さんに言いたいこともあります。一例ですが、ある教会で昔クリスマスの夜のミサにモーツアルトのミサ曲が聖歌隊によって歌われていました。どう考えてみてもこれは今の教会の典礼の精神には相応しいとは思われません。そこで3年間待った後私自身がもう止めるようにといったら、聖歌隊は怒りましたね。神父さんは幼児洗礼ではないから教会の伝統が分っていない。われわれの教会は100年の伝統ある。カトリックの伝統を守りたいからモーツアルトのミサ曲を聖歌隊でやりたいとう。昔国王や地方の領主など権力のある人たちが、例えば自分の即位 30 周年に有名な作曲家に記念としてミサ曲を作らせるのが流行でした。名誉心もあって、お金も沢山もらえるので彼らは作曲したのでしょう、しかしこれでは音楽芸術的に如何に優れたものであっても、所詮信仰の発露ではあり得なかったのです。
言ってみれば彼等の勉強不足です。今までやってきたことを否定されると自分たちの立場がなくなる。これをやらないと聖歌隊がなくなり自分たちの居場所がなくなる。自己実現の場になっています。聖歌隊の本来の役割は会衆と共に歌い会衆をリードするという事です。そこに会衆への奉仕の精神が無い。もちろん司祭も教会内で自己実現をしています。しかしこれを絶対化してはいけないのです。いつも「祈り」と「みことば」に照らして、己を反省することが大切でしょう。自分たちの立場を常に相対化してゆかなくてはならない。その意味では先ほどの教養が大切にってます。
そもそも典礼とは何か、どのような歴史を経てそれぞれ来ているのかを学ばなくては、己の立場を修正できない。その意味でも教会は常に刷新されなくてはならないと思います。皆さんがそれぞれの教会で働いて下さることは大いに賛成で、大いにやって頂きたい。しかし、最終的決定権を司祭に与えてくださらないと、とんでもないことになります。本質的でないことは信者さんに決定していただいて大いに結構です、しかし肝心なところは司祭が決定権を握っていないと、司祭は日曜日にミサだけを挙げていれば良いことになってしますでしょう。もしそうなら大変不幸なことになると思います。
私は代々プロテスタントの家庭に生まれました。20歳で自分の意志でカトリックになりました。大いに私たちカトリックがプロテスタントの方々に学ぶ点があります。しかし限界も感じたからです。それは目に見える権威、教導職といっても良いでしょう、教え導く職務が存在しないことです。牧師の権限は100人信者が居るとしても一票しかありません。民主主義ですので多数決の原理が働きます。自分の有利なように人間的動きが出て来る危険もあります。どうしても司祭の権威というものは必要です。しかし絶えず正しく権威を使うことが大切です。要はバランス感覚が必要でしょう。
公会議の精神から新しいことに変えようと思っても、教会の中では自分たちは長年このようにやってきましたという答えが帰ってくることが良くあります。 今私達のカトリック教は公会議以降、それぞれの国の文化を尊重することを宣言しました。日本ではカトリックはバタ臭いと言われています。ヨーロッパ流ということです。これは変えていかないといけないことです。一例を挙げれば茶道の作法を取り入れて手でご聖体をいただけるようになりました。ミサで伴奏にオルガンだけではなくお琴も使えるようになりました。これらはみな公会議の精神から来ます。カトリックはバタ臭いといわれることに痛みを感じています。イエス様はすべての国の救い主になられたのです。日本人として日本人に一番ピンと来るような典礼、教会内の言葉などに変えてゆかなければいけないのです。
意見交換
* 何故ローマンカラーをしているのですか?便利だからです。ネクタイつけるときのワイシャツは汚れるけれどもこれは目立たない。
* シスターの制服はかって労働服であったのがそのまま時代と共に残ってしまったということですが。フランスの 17 世紀の農民の服装でした。それがそのまま修道女の服装になったのです。
教会では権威ぶったものは払拭してゆかないと日本の社会に受け入れらないのではないかと思って質問しました。
* 信徒中心と言っても教会の決定権は司祭にある。教会の委員会は諮問委員会に過ぎないと聞くと驚く人がいます。これは教会法に書かれていることです。決定権は司祭にあって良いのではないでしょうか。
* 教会の決定権について先ず言いますと、何でもかんでも司祭が決めると言うことではないと思います。信者に任せて良いものはたくさんあります。最後の重要な事柄だけは残さないととんでもないことになります。特に典礼の問題はそうです。例えば、祭壇の中央にある聖櫃を移動する決定をしました。お聖堂は、ご聖体のあるところと教育されてきたと思いますが、ご聖体は本来は病気の方に持ってゆくために、または聖体訪問される方のために小聖堂に置かれていたものです。聖堂とは礼拝の場でミサが行われる場所です。ご聖櫃が司式司祭の真後ろにあるということは、日本文化ではご聖体に失礼なことです。そのような理由から中心から横に移すことにすると説明しました。説明はしましたが全員が納得することは出来ません。信者といっても極端に言えばゼロ歳から 100 歳までいます。さまざまな人の集まりです。大方の方の納得が得られればそれ以上待つわけには行きません。典礼については司祭の専管事項で良いと思います。
* 今日のテーマに戻ると、阻害しているのは何かと問うこと自体が阻害していると思うのです。**とは何か?***とは何か?とあまりに神経質に問うことばかりをする。あるべき姿とか考えすぎて、検討しすぎることが成長を阻害していると思います。場数を踏んで教会にはピンからキリまであるのだという体験をするのは良いのだが、検討しすぎが成長を阻害していると思っています。
* テーマを決めるまで時間をかけてきました。信徒と司祭の間に不信感があってどうしようもないという事で、それをどの様に乗り越えていったらよいのかと問うことにしたわけです。今日もいろいろな意見が出てきましたがまだまだ膿は出てこないなという感じを受けています。先ほども指摘されましたように、大切なのは自分を客観視する、教会も覚めた目で見つめなおして見る、そこにどのような問題があるのか考えながら、私たちは一体何を作り出していったら良いのか考えることが大切なので、醜いものに蓋をしてしまったり、話題にしないで置くと、それが膨らんでいってしまうと思うのです。このグループで思いっきり話し合って見えてきたものを大切にしたいなと云うのがこのテーマの趣旨です。
* 見たくない現実をどの様にしてみるのか。通常では見たくないものは排除したりつぶしたりしますが。現実を認識しあって皆でどのように対応するのか考えるなら、将来の希望が見えてくる。臭いものには蓋、見せたくないものは隠す、このようなことは教会ではあってはいけないのではないか。互いに同じレベルで話し合って行く基本姿勢が必要でしょう。司祭も同じレベルにたって話し合う、司祭だからいえないということがあればそこに断絶が起きる。本音が出し合える場がいつも欲しいと思っています。司祭は立場を守るために本音を語らない問題を切り捨て正面から回答を出さないでいると、後にもっと大きなものが残ってしまう。
* 司祭にはけして言えないこともあります。云ったらおしまいということもあるのです。誤解されたままでいなければならないこともあるのです。
* 制度として司祭が孤独にならざるを得ないおかしいのではないかと信徒の側から感じることもあります。今の制度のままならそのままその制度のうえに権威をもって乗っていないとやっていけないということになると思うのです。それで良いのかその制度自体が歴史の中で作られたものではないのかという問いかけも必要だと思うのです。第二バチカン公会議では教会をこのような方向に変えてゆこうではないかということが云われているとおもうのですね。それをすべての信者はどの様にとらえているのかが重要でしょう。それは先日カテドラルで開かれた「正義と平和」全国集会の「教会の民主化」のセクションで取り上げたアンケートにも問われているところです。例えば「公会議は教会が管理するのではなく奉仕することに相応しいスタイルに招ねいています・・・」。このアンケートを絶対視するわけでは決してありませんが、「まだまだだそのような方向にいっていない」といった感じの結果が出ていると思うのです。ある神父さんが言って下さったことですが「自分が介護している親や手が離せない子供のなかに主イエスを見るのではないか。本当につらく貧しい人は毎週ミサには来られない。福音を生きているかどうかは洗礼からの長さには関係ない。教会を毛嫌いしている人のなかにも福音を生きている人は沢山いる。教会に通ってくる人のなかにもいるでしょうが少ない。それを心がけることが大切なのだ。」と。このような考え方が大事にされるならば、ミサに遅れるとかいったようなことを云うのではなく、信者の生活こそが福音に生きる場である。教会に集まった人たちの奉仕のスタイルはどのようなもので無ければならないのかもっともっと見直す必要があるのではないでしょうか。
* 幾つか感じたことを申し上げます。項目を挙げるような話し方ですが以下のようになります。1)集まっている皆さんの意識がそれぞれ違うように感じました。2)私の場合は、教会作りの実践の中で、やむにやまれぬものがあります。3)小林神父さんが言われたことに関しては、教会で理解されない時に、信徒と司祭の間がシャープになって、緊張しますが、私達には帰って自分のうちのぬくぬくしたものがあるのだけれども、司祭には教会しかないということがあります。失礼かも知れませんが司祭はどんな思いでその夜を過ごすのか気にかかります。4)教会には夜中でも関係なく電話がかかる。あらゆることが司祭一人の部屋にあるわけです。社会的な見方からすれば「神父の仕事だろう」という言い方があります。それはとんでもない見当違いであって、ソコンところを矢張り理解しないと、両方で成長に向けて、前向きには行かない。5)神父様は「ユーモア」が大切でしょうと言われましたがその通りでしょう。チョト引いてみて、中を見て、仲良くする道を考えてゆく。何によってそのようなことが起きてしまうのか考えることが大切です。6) NICE のころに「社会との遊離」と言う言葉で言われました。歳とった司祭でも若い司祭でも司祭は確かに世間知らずの方もおられる。それと同じように私どもも世間知らずですね。7)世間知らずだと思う事例では、靖国に参拝したとたんに「正平協」から白い目で見られるとかですね。日本の伝統を現実に日本の宗教の問題ではなくて、周辺のところで考えてしまう。周辺にいるのは何か、仏教徒もいれば 神道もいる、殆どの日本人というのは突き詰めて云えば靖国に行ってしまうような人ですね。8)その人に向かって兄弟と言えるようなそういう実践をするとなると、いろいろ問題がありました。非難すべきものは非難しなければならない。9)われわれ教会はものすごく外に開かなければいけないような気がするのですね。それがインカルチュレーションということのことばだろうと思うのですね。この言葉も横文字が好きではないのです。何とか日本語化してゆかなくてはいけないとは思っていますけれども。10)ローマンカラー、シスターたちの服装を日本の文化その辺から見て問題にすれば良いのではないか。自分たちの実践にとって如何なのかそこに振り返って世間では如何なのかその人たちがおかしいと思えばおかしい。受け入れるなら受け入れても良いのではないか。11)実践によって絶えず検証することが大切であると私はいつもそのように思っております。
* 「不信」ということがあって成長を阻害している構造があるというのと切り口は違うのですが、一粒会の仕事にかかわっていますが、これは司祭の召命のことですね。召命はどこから生まれてくるのかとよく議論になりますが矢張り「家庭」だろうということになります。先ほど「家庭訪問」の話が出ましたが、「神父さん」と「信者」との間に「不信」があるのを子供たちが見たら如何思うだろうかと考えてしまいます。その辺のところをいまの私達は考えてゆかないといけないねということがあります。今日のテーマを考える時「司祭の召命」についても考えて見たら良いのではないのかなと感じて発言しました。教会でミサの後で飲むことが良くあります。そのとき「主(酒)で乾杯!」と言うのですよ。教会の雰囲気をもっと楽しくゆくのが良いように思います。そうすれば「不信感」もなくなるのではないでしょうか。食事するのは大切ですね。
「増田師」コメント
人生の先輩で教会でも長年活躍してきた方々がたくさんいらっしゃいますので恐縮しております。今日の皆さんのお話から感じたことを短い時間で述べて見ます。
先ず押さえておかなくてはならないのは教会無しには信仰はあり得ないということです。「私と神だけ」の信仰生活は、個人主義の反映している時代にあっては、現代多くなってますが、教会なしにキリスト教の信仰にどの様にしてアクセスできるのでしょうか。出来ません。教会は世代から世代に伝えられてきました、聖書も教会の書物です。聖書を信用するけれどもそれを作った教会を信用しないのは論理的矛盾です。教会なしに信仰生活はあり得ないのです。これは大きなポイントです。
教会とは何なのかというと「神の民」ということです。しかし「民」の中にはいろいろな人がいるということです。民の中にはいろいろなイメージを持って集まって人がいるということです。癒しをもとめてくる人、あるいは、人生の中で少し余裕があって分かち合える人もいるでしょう。自分のイメージや期待がなかなか実現しない時に、教会なのにおかしいとか、こんなはずではなかった、とかいった不満が出てくるのでしょう。
教会は愛の共同体であるといわれるしその通りですが、「愛」と言う言葉一つをとってもさまざまなイメージがあるのです。ある人にとっては暖かくほんわかしたイメージでとらえているし、是是非をキチットするのが愛であると考える方もいます。そのような異なった考えの人たちが「愛」といって共同体を作ってもあまりうまく行かないでしょう。いろいろな共同体イメージを持った方々の集まりですから、当然行き違いやコミュニケーションの齟齬が起きてきます。そこで大切なのは「聞く」ことです。裁くよりも相手のことを「聞く」ことがとても大切になります。
発題のなかで「出会いの中に神を見出す」とおっしゃった方がありましたね。「みことば」の分かち合いと同時に人生の分かち合い、人生に神が働いておられる。人生に働いておられる神の働きを見ることが出来るのか。そこが大切になってきます。「刷新されなくてはならない教会」という言葉もたくさん出てきましたが、結局その辺のことになると思うのです。「相対化」「客観化」というのも根底にあるのは、自分以外のいろいろな出来事に神の働きを見ることが出来るのかどうかです。そこで正すところはただし、聞くところは聞くことが必要になって来るのでしょう。「聞く」姿勢がとても大切なのです。パウロの一節を引用されて「自分を無にされたキリスト」の話をさた方がおりましたが、われわれは自分も含めて、簡単に判断してしまいますね。ことがらはそれほど簡単ではないですね。
「神の民」という言葉は綺麗なんですけれども、現実にはさまざまな思いや人間的な感情も持ち込まれるわけです。教会共同体にもさまざまな期待とイメージを持って来られる方がおられるのだと言う現実の中で一つの共同体を作って行くときに大切なのは「聞く姿勢」「相手を尊重する姿勢」「他を他として認める姿勢」が必要でしょう。他を自分の中で還元してしまい自分の中に引き付けるのではなく「他を他として認める」ことが尊重です。
司祭と信徒の関係で司祭の役割は何かと言うことでは教会共同体に対するある種のリーダーシップを持っているのですが、それは絶対的なリーダーシップではない。教会法上で司祭に対してだけ保留されている権限があるのも事実です。しかしどの様にその権限を行使するのかはとっても大切なポイントです。この権限の行使の仕方にさまざまなばらつきがあるのだと思います。一方的に自分には権限があるのだからと言って権限を行使してしまうタイプの方もいらっしゃるかもしれません。なるべくコンセンサスを作りながらいろいろな人の意見を聞きながら最終的に自分に与えられている権限をコンセンサス形成の中で行使する方もいるでしょう。
小林神父様の話の中で感銘を受けたことがあるのですが、初めて着任した教会で司祭を育成する雰囲気が信徒の中にあったと言う話でしたがこれはとても大切のことです。どういう司祭を望むかと言うことはどういう信徒を望みますかと言うのと同じことなのです。どういう司祭を望みますかと言うことは、同時にあなた方はどういう信徒になりたいですかと言うことなのです。これは対を成している質問です。
そういう司祭がいるということはそういう司祭を作る雰囲気があると言うことです。ある傾向の司祭が共同体の中に居るならそう云う司祭を許している人々がいるということです。司祭と信徒の間に不信感があるとすれば片一方の問題だけではないでしょう。信徒の話を聞かない司祭の話はよく聞きますが、信徒の側にそれでは司祭の話を聞く姿勢があるのかということにもなります。それも問われなければならないポイントの一つでしょう。
私たちは今新しい形の教会を模索できる時代になっています。この場合、教会といっても小教区制度のことですが、この「学びあいの会」もホームページがありますが、 IT の時代になって、これらを通じていろいろなレベルの共同体というものを構築することが可能なわけです。地域にたまたま住んでいるからその地域の共同体に行くことも必要なことですが、一方でそれぞれの人生のその時期のアジェンダを抱えている人が、例えば親の介護の問題を抱えている人が、同じ小教区の中にはそれを話す場や分かち合う場がない時には、小教区や教区も越えて、介護で悩んでいる信者の集いである共同体を、 IT 時代の技術を使ってでも教会施設を使ってでも、どんどん作ることが出来るわけです。
建物の教会イメージから離れて、むしろ人生を分かち合う共同体としての教会を模索して行く時代ではなかろうかと思います。それを可能にするテクノロジーを手にしているのです。そこにこそ生活の分かち合い「みことば」の分かち合いの共同体が、違う形で、実現する可能性があるのではないでしょうか。
「森師」コメント
ここで今話している方々の教会のイメージが全く違うようです。組織としての教会の構造的欠陥を指摘しようとしているのか、モットダイナミックなキリストに出会った人たちの群れを共同体と言っているのか、その辺のところが共通理解とかフォーカスが明確でないので話を聞いていて、少しもどかしくなるようでした。
目に見える教会のあり方は司祭も信徒もそれぞれの時代の精神構造に相当影響されていると思います。日本人の歴史でも、縄文式から弥生式そして聖徳太子の時代があって、荘園時代になって、平家の時代になって、貴族の時代があって、武士を中心とする時代、徳川時代になり、明治になってくる。その時代のあり方はその時代を背景にしてとらえます。それと同じように、目に見える組織としての教会の構造はそれぞれの時代の枠の中に生きていっている。教皇が王様になった時代もあれば、司祭が市役所、区役所のように管理を役割とした時代、キリスト教共同体の中のカトリックの正統な信仰を育ててゆくための指導者としての役割を持った時代などがあり、時代によって教会のとらえ方のイメージは違っているのです。そこで奉仕し教会に身を委ねる司祭の役割も変わってきてしまう。それは司祭をとがめるとかの問題ではないのです。教会の姿を自分たちはどの様に描くのか、これからの教会のあり方とは何なのかということをもう少し掘り下げる必要があります。今までの歴史的な背景の中に向かって欠陥があるよというのは分かる。それは直ぐに出てくることです。今の日本の国家のあり方も大きな問題になっていますでしょう、それと同じように、これからの教会のあり方を明確に見つめながら、そのなかで司祭のあり方信徒のあり方を一緒になって考えてゆくことが、今本当に大事な時期になってきているのではないかと思います。
もう一つは教会というのは生きている現実を動かしているメンタリティーの問題です。民主主義ということが出てきていますが、民主主義のよさと欠陥を明確に識別してゆかないと、民主主義と本質的な福音に基づく共同体のあり方はどこにあるのか。民主主義的な制度に対して教会としてはどのようなものを持っているのか、と云った観点から考える時に教会は何を持ってゆけるのか。時代がわれあれにチャレンジしているものをもう少し突き詰めることが必要でしょう。つまり民主的価値観に対しての識別が問われてきていると思います。歴史的な流れの中で出てくる教会の構造の欠陥は当然、教皇や司教や司祭が中心になってきていますからそれに対する批判が集まるのは仕方がない。しかしそこにばかりこだわっていてもしょうがないし、司祭は立つ瀬がない。そういう教会の下に一生懸命奉仕して自分の身を捧げてきたわけです。その問題ではなくてそのようなイメージを作ってよしとしてしまった歴史的現実を直視しながら、現代問われている教会のあり方がもう少し鋭くとらえられるなら良いなだが、と言った印象をうけました。
「シェガレ師」コメント
皆さんの話を聞いていて三つのことを考えました。一番目は「成長」です、学びあいを通して皆さんが成長されているのが分かりました。希望を持って欲しいと思います。「学び合い」も教会ですがこの新しい構造を通して皆さん歴史や聖書を調べ、問題意識も高まってきていると感じます。十分ではないかもしれませんが、成長を感じます。二番目は小林神父様の「余裕のないユーモアのない言葉は裁きになる」という指摘です。私たちは「学び会い」を通して傲慢に成らないようにしたいですね。特に司祭に対して時々判断が早すぎるように思えます。
日本に来た時に学生紛争を体験しましたけれども、彼らにはユーモアがなかったことです。イデオロギーにどっぷり漬かって余裕がなく決めすぎる。その結果はリンチになりましたね。互いに殺しあう。教会の制度化というときそれ自体を悪のように云っているように聞こえる発言が時にありますが、教会の制度無しには信仰もないわけです。そのような媒介的なものがなければ信仰にアクセスできません。確かに教会の制度の中には問題があるかもしれませんが、何故そのようになったのかその背景をもう少し知る必要があると思います。例えば独身制ですが、現状では司祭の孤独、司祭のわがまま、また場合によっては性的虐待にも関係あるかもしれない。もともとは独身制度はそのようなことではなくて、家族とか経済の利害関係に縛られないで、皆に奉仕する目的で作られたものと思うのです。制度そのものが悪ではなくて、原点に照らし合わせて、良い制度とは何か、歪んだ制度とはどういうものなのか、考え識別しなければならないと思います。このようなことを感じました。
完