アンケートの集計結果
「学び合いの会」(真生会館)
第 9分科会:「神の民としての教会」
−第二バチカン公会議の示す参加型教会を考え行動する−
この分科会に今回ご参加の方々(約100名)から、第二バチカン公会議以後、カトリック教会が目指しているあり方・スタイルについて、どのように実感されているかをアンケートでお聞きしました。回答者数42人(女性信徒27人、男性信徒9人、修道者7人)のご認識は下表の通りです。 (アンケート作成に際しては、神学ダイジェスト 96−「40周年を迎えた第二バチカン公会議の現在」を参考)
どのような教会が望ましいですか?
(各設問毎にあなたの評価が高い場合は5、低い場合は1の方向でお示しくださいとお尋ねしました。)
@ 第二バチカン公会議は、教会をトップダウンの行動スタイルというあり方から、「協力」、「パートナーシップ」、「協働」という横関係を強調しています。あなたの周りではこの精神はどの程度に実現していますか。(パートナーシップや協働は、教皇と司教、司教と司祭、司祭と小教区民、司教と小教区民との間にまで及ぶと言われています。)
A 公会議は、教会を「管理すること」よりも「奉仕すること」にふさわしいスタイルに招いています。効果的に奉仕するためには、自分達が考えた解決を一方的に与えるのではなく、奉仕される人々の必要と触れつづけ、そこから学ぶことを意味します。
あなたの周りでは、奉仕者のスタイルは変わったでしょうか。
B 公会議は、「発展」、「進歩」、「進化」という用語を多用し、教会は常に変わり続けることを示しています。これは、従来の静的用語(=教義、教会規律など)によって特徴付けられるスタイルと断絶しようとする「しるし」であるといわれています。
あなたの周りでは教会はこの精神に沿って、変わっているでしょうか。
C 公会議は、排他的ニュアンスを持つ伝統的な用語の代わりに包括的ニュアンスを含む
用語を使用しています。つまり、「呪われよ」や「破門」の代わりに、「兄弟姉妹」や
「善意の人々」というような親愛を込めた言葉に溢れています。この親愛の情は、他教派のキリスト者のみならず、よりよい世界のために汗を流そうとするすべての人に向けられています。あなたの周りではこの「親愛の情をこめたニューアンス」はいかがでしょうか。
D 公会議は、受動的に受容することを示唆する言葉使いから、積極的参加や相手に対する激励を含む用語へと移行しています。典礼改革の根本的かつ明白な目的は、ミサにおける全会衆の積極的参加であると言われています。日本の司教団も「人々の心の琴線に触れるような典礼を生み出す努力が求められています」(「ともに喜びをもって生きよう」 1988年1月発行)と宣言しています。例えば、ミサの中での従来の信仰宣言に代えてニケア・コンスタンチノーブル信条、或は使徒信条を用いることになります(なりました)が、説明のプロセスがあった上で変更されたと受け止めていますか。
「対話」によって教会は各人の確信や良心に信頼するという道を開いたとのことですが,貴方の周りでは《対話》ト《信頼》は深まっているでしょうか.
F フランス革命に代表されるような啓蒙主義が、教会に「近代風なもの」との一切の妥協を拒み、教皇制度と位階制度(司教・司祭・助祭・信徒)の権威主義を助長してきた過去の歴史があります。第二バチカン公会議が望んだことは、この種の閉ざされたゲットー化した、秘密主義で断罪好きの、権威主義のスタイルの変化だったとのことです。あなたは今の教会をどの程度その意味で刷新されたと評価されていますか。
G ご意見:(自由にお書きいただいたものです。)
1) 今度の信仰宣言は、枠の中に閉じ込められるようで・・・(50代、女性)
2) 以前は、病人への聖体奉仕は信徒が行なっていたが、主任司祭が交代し、信徒の聖体奉仕者は廃止された。司祭はご自分で病人を訪問し、ゆるしの秘跡と聖体を授けています。訪問を受けている病人の皆さんは、神父様から頂くことはとてもありがたいと喜ばれているという話を聞きました。変わっていかなければならないのは、信徒であり司祭であるという基本的なことです。それぞれの立場で意識改革が必要で、まず、気づいた人が声を出していかなければと思います。今日の分かち合いで、その勇気を頂きました。支え合いが大切ですね。(50代、女性、)
3) 6年前、選挙による教会委員選出の運営の民主化のために、規約が作られました。主任司祭交代と同時に、選挙に反対意見をもつ人々の進言により、「規約見直し」という体裁で、主任司祭の呼びかけで始まりました。信徒の自主性を重んじ教会運営を参加するという主旨は、教会法を楯に一語一句、排除されていきます。(60代、女性、)
4) 今、小教区の教会には聖霊が働いていないと思います。日曜日、自分の権威ばかりふりかざし、全く責任をとらない司祭と、その司祭の歓心を買うために、委員会も通さずに、多額のお金を使う財務、司祭の言うことなら何でもOKで、虎の威を借りてやりたい放題のレジオを中心とする“喜び組み”の人たちとミサに参加することは苦痛ですらあります。今、私が一番困る瞬間は、まだ洗礼を受けていない人から、あなたの教会に行ってみたいと言われること、一番嬉しい瞬間は、教会の中で考えられないような意地悪をされながら、協力してくれる友がいることです。(60代、女性、)
5) 教会が変わることを殆どの人が望んでいると思いますが、実は自分ひとり一人が教会であり、ひとり一人が変わることによって教会が変わると、本気で考えている人は少ない気がします。従って、常に人のせい、司祭のせいにして、不満にみちた教会から抜け出れません。私の所属する教会は、今回の司祭移動で今までの教会のカラーと随分変わって来ました。司祭によって教会が変わるのではなく、もっと信徒が自立していればいいと思いますが・・・。役割り分担についても性別なものはまだ多い気がします。信徒の意識が大切と思います。希望を持ち続けたいと思います。(60代、女性)
6) 小教区による差があまりにも大きいことを感じました。司祭のご苦労もあるでしょうが、このような話し合いで、司祭の意識改革もお願いしたい。また、司祭としてよりも、まず人間としての生き方も問われると思います。また、信徒の一人として、自分自身の生き方の反省も大きかったです。ありがとうございました。(60代、女性)
7) 「仕えられるためでなく、仕えるために・・・」(70代以上、女性)
8) 旧態依然の教会組織を改めていくことは難しい。建物(教会という)依存から脱して地域にお茶の間作りを考えていこうと思っている。福祉の風土作りを先ずはグループでひろげる。カトリックは何故か気位が高いと言われている・・・こともあるので、教会(小教区)のシックハウス状況を逆手に化学物質に対する話題をもとに「考える会」も生まれている。(70代以上、女性、)
9) 変化を行なわなければ、教会の存続はないと思う。企業も同じだが、危機感がなければ、痛みを伴う変革はない。変革しなければ組織は前例に縛られ、固定し、滅びる。このような会は良いことと思う。今の教会は、千葉の教会と異なり親しみがあり、権威的もない。(40代、男性)
10) 教会に来て働いて悩んでいる47歳の男性を仲間に入って欲しいです。今回の集会はすばらしかったです。お世話ありがとうございました。(60代、男性)
11) 問題は、昔の教会の教育を受けた発言力のある年配の信者の存在である。特に女性の場合、教会の運営に刷新を学ぶチャンスがなかった方が多く、若い信者の新しい動きの足を引っ張る言動がある。「私達は、神父様の話を聞きに来たのであって、あなたの話を聞きに来たのではない」と言われたら何も言えなくなる。年配者の再教育が必要と思う。或は時間かけて発言力が衰えるのを待つより道はないのかも知れない。(60代、男性)
12) 第二バチカン公会議以降の入信者であり、回答するだけの知見がない。(60代、男性)
13) 回答で4とか3にしたのは、考え方は、ほぼそうなっているが、態度(habitus)や行動(actio)がまだ十分できていないとか、「たてまえ」ではそう思っていても「ほんね」では熟していないとかいうことが見られるためです。多くの人には、教会内だけに福音宣教の働きを見ていて、教会外に目を向けない、あるいは手を伸ばさない傾向があります。福音を背負って、教会外の多くの人々に働きかけるのが、「神の民」の使命なのだということを、自覚したいと思います。「対話」とは、意見の異なる人との分かち合いが基本です。ところが、異なる意見にぶつかると、意識的か無意識的かは別として、それを排除するか避けるかすることが多い。これでは対話になりません。自分の物差しで計るのではなく、相手をもっとよく知るように努力する必要があります。(70代以上、男性)
14) ありがとうございました。真理は、あなたを自由にする。Sr.ナンシーの「危機はチャンス!!」が、今回の第9の集いに少し・・・風が吹き始めたようです。企画、進行のプロセス自体、神の民の道行きだったと思います。日本の教会に希望が実現します。一人ひとりの回心で。(60代、修道者)
15) ある時期から、ミサ後のお知らせは、担当信徒がしていましたが、司祭の交替後1年ぐらい経ってから、ミサ後にすべて司祭が知らせるように変わってしまいました。開かれかかった(意識化が始まった)教会が縮んでしまった印象があります。(60代、修道者)
16) 教会といっても、神父さんによって、左右されているように思います。私はシスターですが、ご聖体(病人奉仕の)も、その都度、司祭から頂かねばならない。求道者も、神父さんに送らねばならない。上から下の司祭がいました(3年前)、間違っていると分りながら、司祭のやり方に委かせるしかありませんでした。主任司祭ににらまれることは、教会に行けなくなるし、仕事も出来ません。信徒も育っていませんから、司祭に憎まれた信徒も遠ざかることになります。次に代わった司祭は、教会の新しい方向付けに力を出しておられますが、いろいろな司祭の影響で新しい路線を受け取っていく信徒は少なく(信徒が育っていない)、神父さんもご苦労のようです。(70代以上、修道者)
17) バチカンUは、出エジプトであった。そして40年が過ぎた。今、私達は、ヨルダン川を渡るところまで来ているだろうか。むしろ、エジプトに帰りつつあるのではないでしょうか。(40代、修道者)
「学び合いの会」コメント:
回答とご意見をお寄せいただきありがとうございました。
私達は、アンケートの冒頭にも書きましたように、カトリック教会は、第二バチカン公会 議を境に、あり方・スタイルを変えようとしていると考えております。過去とのある種断絶があってしかるべきだし、この断絶や変化によってこそ、教会がイエス・キリストの福音を同時代に生きる人々に伝えることが可能になるのだと考えています。今回のアンケートのご回答からは、まだまだ道遠しとの感想を持たれる方も多いと思いますが、いかがでしょうか。この結果からのご判断は、皆様にお任せ致します。
アンケートの集計は、評価別に女性信者、男性信者、修道者(司祭を含む)と合計に分けて作表してみました。もっとたくさんの回答が集まれば、年代別とか地域別とかの集計でそれなりの傾向があるのか、ないのかもわかるかと思いました。
ところで、参加された皆様は、第 9分科会の雰囲気ををどの様に感じられましたか。「学び合いの会」の一参加者としては以下のように感じました。
内容的には教会改革に対する多くの考えが示唆されたと思いますが、一番印象に残るものは何かということになれば、それは「聖職者の呼び方」への提言だったのではないでしょうか。「様」はやめた方がよさそうな雰囲気でしたね。後藤さんは無論のこと岡田さんも同じ意見であると感じました。“岡田大司教様”も、“いや岡田さん”も、話の途中でも何度も「神父様、司教様」と言って、“まだまだですね”とすぐに訂正されて、会場の爆笑を誘ったほどですから。
教会の改革はこの辺りから始めるのが良いのではないでしょうか。しかし、無論反対された方もいました。「様」で当然とのお考えもありましたね。現在の教会の中では、賛成の方もいれば反対の方もいるでしょう。一方を強制するのは良いことではないでしょうし、互いに相手の考えを尊重し合いたいものです。しかし、教会が「神の民」であり、「交わり」であり、「共同体」を目指すとき、どのように呼び合うのが良いと皆なで考えることは必要ではないでしょうか。
今回のような「後藤さん」「岡田さん」と呼んでも自然に感じられるような話し合いの場が 多くなることを願っています。最後に市川の方々の「小教区の歩み」はこれからの日本の教会に一条の光をともされ、日本の教会に希望を抱かせてくれるものでした。
「学び合いの会」に是非ご参加下さい。21世紀のカトリック教会を考え続けましょう。
以上