「学び合い」二期
「制度の見直しNICET」
森司教
2004 年 1 月 17 日
日本の教会と言う意識が生まれてくる。日本の教会の発想がどこから生まれてきたのか。 16 教区があったが日本の教会としての考え方が生まれた背景はどこにあるのか。当時の司教達を思い起こしてみよう。イメージとしては第二バチカン公会議以前の確信に満ちて生きておられた方々が殆どであった。ヨーロッパではこの改革の一環として神学院制度の改革が進められていた。
1960 年代に日本でも一部の司教達の中から改革の声が起きて、検討がなされ提案がなされた決議が採択されたにもかかわらず幾人かの司教がローマへ直訴してしまった。この採決はだめになってしまった。これが大きな傷を負わせてしまった。古い考えの方たちは古い考え方から抜けきれずに、神学院のイメージや教会理解を受け入れられなかった。
明治の改革の時の若手と旧勢力の殿様との対立のような感じであった。白柳、相馬、島本と言った若手の司教たちが、1982になって、日本の教会が一致しなければならないと言う考えに流れを作り始めた。
16 教区がばらばらではだめではないか、日本の教会が一致するためにはどうしたらよいのか答申書が 1982 年に出された。日本の社会全体を視野においてそれを目指してゆくのが福音宣教であるとした。それまでは教区単位であった。
1970 年代にはこのビジョンが出ていなかった。そこに意識改革が起きてきたが、司祭たちや修道会や宣教会や一般信徒の中にあったのかは疑問である。
日本の教会全体を視野に入れて各教区の独自性は生かして日本全体のための共同作業を進めてゆく。自分の教区に対する責任だけではなく日本全体への責任があるとした。修道会の中にも日本の教会と言った視点で捉えることはなかったと思われる。各教区の独自性を強調するのは教会法から来るものです。日本の教会と言う視点から協力するためには中央機構が必要です。初めは各教区の連絡機関といった位置づけであった。バチカンからの連絡を伝達する。又、日本の教会として必要なものは一緒に考えましょうと言ったレベルであった。中央機構として維持するには資金が必要であって、各教区の信者数で分担した。当時は年間
4000 万円ぐらいでした。これでは活動資金には足りなかった。資金つくりのために提案されたのが中央協議会の土地を売って資金手当てをすることであった。バブル時代であったから
180 億円ぐらいで売れた。 60 億円ぐらいで新しい中央協議会が建てられて残りが 120 億円ぐらいあった。この利子で活動資金にしてゆくことになった。
もう一つの提案は委員会の設立が提案された。司教たちの下に置かれた委員会が数多く作られた。司教があまり自分の教区にいられないほどになった。日本の教会として一致して全国会議を起こすことが提案された。
具体策の一つは中央協議会の充実であった。各委員会での活動と全国会議の開催がその内容であった。全国会議を 1987 年に開催することが 1984 年に決定された。
1985 年 12 月に教区・管区別に公聴会や研修会を開催して司祭や信徒たちからの意見を求めることになった。公聴会や研修会は 1985 年に各地で開催された。開催の事情は各教区の状況によって違っていた。例えば横浜教区ではちょうど
50 周年行事が検討されていたのでどちらかを優先させる必要が起きてきて 50 周年を優先させたために全国会議に向けての検討がなされないままになっていた。その他の教区にも同じようなことが起きていた。そこで全国会議に代表として送られてきた人たちの中にも準備ができていない人たちがいると言う残念なことになってしまったが、これも教区の独自性を尊重すると言う前提から仕方のないことであった。したがって参加者に温度差が出てしまった。公開の資料は膨大なものになったがそれらをまとめないで録音を取って送ってもらうようにした。それを事務局でまとめて司教に報告し、まとめられたものが「開かれた教会」というテーマになった。それに三つの柱として1)「社会と共に歩む教会」、2)「生活を通して育てられる信仰」、3)「福音宣教する小教区」があげられた。
一番目は意識改革を求める、自分たちの教会のためではなく日本の社会のための教会である意識を育てるにはどうしたら良いのか。二番目はそれに向かっての養成に関する問題です。三番目がシステムの問題です。養成があってもシステムがなければ開かれた教会にはならない。教区制度と小教区制度の改革の問題が三番目でした。ここには教区の数の問題も教区の問題も出てきている。
1986 年の 12 月に「開かれた教会つくり」のテーマと同時に「教会と社会の遊離」「信仰と生活の遊離」の問題があがってきた。どこか遠いところでつくられた信仰様式に無理に合わされるのではなく自分たちの生活に根ざした信仰つくりの要請がなされた。
1970 年代の後半から 1980 年代の初めごろにはかなり活発であった。 1987 年の全国会議で発題がなされ一日目に「遊離」は長崎、新潟、京都、横浜が行った。記録は資料として残されている。「社会と共に歩む教会」は福岡、大阪、札幌、仙台、「福音宣教する教会」は広島、名古屋、大分、浦和の教会が担当した。
これらの発題の中には現在のわれわれにも通じる事柄が良くまとめられている。大分教区の発題の一部を読めば「開かれた教会つくりを考える時、多くの信者は「小教区の現実の姿」を「開かれていない教会」というイメージでとらえている。その主な原因と思われるものを挙げると、@ 司祭と信徒の役割が明確ではなく階層意識が定着している。司祭は小教区を管理し信徒は傍観者と言う状態です。A 信徒は、自身が自分たちの教会共同体の中に閉じこもり、人々とのかかわりを避け、自己の成聖、自分の信仰を守ることを信条としてしまった。それは地域とのかかわり、司祭とのかかわり、他小教区とのかかわり、そして信徒同士のかかわりの排除につながっています。B 小教区の信徒数から来る司牧上の弊害。信徒数の多い小教区ほど没交流型の信徒を生み、信徒数の少ない小教区ほど神父信者型の信徒を生みやすい。以上の諸点は教会内部の刷新、充実、一致をもたらす小教区活性化のために克服しなければならない要因だと考えています。」
一日目は「遊離」について二日目は」社会と共に歩む教会」、三日目は「福音宣教をする小教区」を議論して、各回の終わりにはそのためには具体的にどのようにしたら良いのか提案してもらっている。毎日具体的提案を実行委員会の方に提出してもらった。それらの具体的提案をまとめた
17 の提案が出てきた。そして「福音宣教をする小教区」に関する提言としては 7 つ出された。意識改革への提言、小教区の魂となる典礼について、教会内の協力体制を確立するために具体的な提言として出てきたのが1)信徒と司祭の役割 2)信徒と司祭、司祭と司祭の対話と交流の促進 3)司祭・修道者・信徒からなる宣教チームの養成 4)宣教に向けて信徒と司祭が共に養成を受けられる場の設定 5)司祭の共同意識の育成 6)社会に置ける信徒の種々の活動の正当な評価 7)共同司牧、小教区間の協力体制などの確立
この中で司祭同士の対話の問題は縦への関係の従順はあっても仲間との共同意識がなかなか持てない状況にあります。司祭同士が交流しない。仲間と共に働く意識が出てこない。これが癌になっています。信徒、司祭、修道者が同じテーブルを囲んで養成される場を持つことはやらなければならないことですが具体的に行われているところは少ない。司教総会の時にも重要な議題があって司祭を呼ぼうとするとすぐ反対が出る。司教は司祭の代表であるからと言う理由が出てきてしまう。司祭の意見を集約してきた代表であるのかどうか。司教とは司祭の方でもどこか遠くの所から送られてき人であるように感じている。司祭の方としては従順に協力しようと思っているでしょうが司教が自分たちの代表だと言う意識はない。司教と司祭には隔たりがある。現状では仕方がない、司教が定年で交代する時にはこれまでは幾人かの司祭に意見を聞くことはあったけれども今回福岡で交代する時には幾人かの信徒の意見も聞いたらしい。バチカンも少し変わってきたのかもしれない。しかし教区の代表であるといったことはまだまだ無理だと思います。システムとしては遅れています。
次に、「小教区制度の抜本的見直しと再編成などの確立」と「教区を越えた人材の活用や交流、財政的協力などを図る。日本の教会の 16 教区制度を再検討する」も司教達は受け入れた。
1987 年 12 月の臨時司教総会でこれらの提言を受けて「共に喜びを持って生きよう」と言う司教団メッセージが発行された。非常に速やかな対応であってこの当時の司教たちはまとまっていたといえます。日本の教会として動こう、そうしなければならないと言う意識が強かった。これら
17 の提言を実行してゆくために、責任担当司教として島本司教、松村司教、森司教が任命された。次に「制度を考えるチーム」の担当司教として島本大司教と森司教が任命された。