E「日本の社会に開かれた教会」
このテーマは神の前に開かれた私たちを言うことです。1549年ザヴィエルの宣教から現代に至っているわけですが、幸い第二バチカン公会議で刷新がなされました。世界中のカトリック教徒がこの文脈の中で自分の時と場所で話し合い自身を形成することが求められています。ここでは公会議以降の問題を云々はしません。ここではわれわれが逃げも隠れも出来ない事実を確認して起きたい。信者は社会への関心関与寛容にかけているとは思いませんが、禅宗の家庭で育った私は、いまだに信者同士の間に鼻であしらうような態度が見受けられるまたいまだに理解できない言葉がまかり通っている。内容が社会の現実とかけ離れ教会の中でしか理解できないロジックで話されるときに一層かそくします。話す人がどこに立っていて目線がどこにあるのか。根源的に問題があることを示している。
信徒は信徒のカリスマ司祭は司祭のカリスマで整えていなければならないと思う。しかし現実の教会にはその努力が皆無であると思います。ただ細々とばらばらに、わが身に鞭打って心ある信徒や信徒仲間と分かち合いを重ねながら何とか自分や私達のカリスマを持って言葉や行動によって何とか信仰を伝えてゆきたいと思い続けています。
バチカン公会議の重要性を世間一般社会がどのように受け止めているか。われわれはイエスの福音の新しさ刷新と受け止めていても人間の 新さになってゆくに は程遠い現状です。200年間に行われた誤りについてローマ教会の懺悔以上には教会の新しい面を理解する世間の人は少ないのです。人類の危機に際して心をまともにつかまなければ人は生き延びることが出来ない時代の到来です。われあれは福音の持つ重みにかかわらなくてはなりません。この福音とのかかわりの中で日本の教会の働きが求められている事は決して小さくはないと思っています。アジアシノドスが表明した信仰の深さは今までの西洋のキリスト教を越えて新しい21世紀をリードする予感を起こさせます。その際、重要なのは私達信徒がどのようにそれに対応しかかわってゆくのか考えて行くによって、日本の社会に教会を開いてゆくことを期待しようではありませんか。