D「次の世代に伝えられる教会」
教会に若者が見えなくなって久しい。自分たちが子供のころは青年会の部屋はいつも賑わっていた。現在教会で奉仕している方でこのような経験を持って方も多いだろう。しかし一方その様な経験があっても教会から離れてしまっている人たちも多い。自分の兄もその一人です。教会に不信感を抱いて、子供にも洗礼を授けませんでした。信仰に厚い両親は孫がかわいそうだと心配しています。自分は子供に洗礼を授けて教会学校にも熱心に行かせて信仰を伝えることにおろそかであったとは思いませんが、次世代に自分の信仰を伝えることが出来ていないと感じています。
先日の総会のときにも若者は見当たりませんでした。次世代を引き継ぐ若者はどこに行ってしまったのか。こんな状態でよいのだろうかと不安になりました。ただ祈るだけではこの状態はかわりません。私たちには受け継いできた信仰を次世代に伝える義務があるのです。
数年前に子供たちをどのようにしたら教会につなげて行けるのか考えるグループを立ち上げましたが、ほとんど集まりませんでした。それでも数回それぞれの思いを分かち合いましたが、他者に責任を押し付ける意識がどうしても出てきてしまっていました。回を重ねるうちに「なぜ自分は子供に洗礼を授け、何を願っているのだろうか、なぜミサに与らせているのだろうか」問うようになりました。そこから浮かび上がってきた問題は親自身がどれほど信仰を真剣に捉えているのだろうかという思いでした。このグループは先へ進むことなく立ち消えになりました。
他の教会に目を向けてみると、近くの教会では若者だけではなくあらゆる年層の信者が熱心に子供たちを幼児から成人まで一貫してサポートする体制が出来上がっていました。老人は子供たちに自分の孫のように接している。一人一人が自分の出来ることをしながら若い人たちを育てている。歴代の主任司祭はこの教会の伝統を引き継いで更に引っ張っている。また信徒がそれに応えてゆく。これはよい教会のモデルだと感じました。
社会では子供たちが考えられない事件を起こしています。子供たちの世界がおかしくなっている。それは大人の世界のゆがみに他ならない。子供たちは大人を写す鏡です。厳しくするだけでは犯罪は減らないでしょう。犠牲者は子供たち自身です。大人の作り出した世界を変えなくてはなりません。
子供が教会に集まらないのは子供たちからの SOS です。キリストのいのちが次世代に伝わらないのは私たちの信仰が危ういからではないでしょうか。障害になるのは大人の律法的態度です。キリストのみことばが伝える価値観が私たちの本当の生き様となっているのだろうか。机上の空論になってはいないか。それでは伝えることが出来ないと思います。
子供たちは小学校の低学年でいくつもの習い事を抱え小さいのに非常に多忙です。高学年になると塾通いで教会に行くことが出来ません。中学になると部活が始まり練習練習の毎日です。高校生はアルバイトと予備校。大学に入ると多くの興味あるものが待ち構えています。教会どころではないのです。そのころになるといただいた聖霊の力は弱まりキリスト者としての召命も忘れ去られます。
大人が神様を大切にしないなら、子供たちが大切にしなくても当然でしょう。私たちは信仰よりも大切だと思い込んでいることをたくさん抱え込んでいます。