C「心の糧命としての教会」
2 年間の学び合いは私しにとりまして大変有意義なものでした。私なりに教会について考えるようになりました。更に 2003 年 11 月 29 日「聖書の中の平和のメッセージ」(森司教様)のお話の内容はこれまでの学びの根幹とも捕らえました。
私には十分に理解することはできませんが,私なりに少しずつわかり始めてきましたものは、これからの教会と結びつくことと思いますのでお話したいと思います。
先ず、神様は地球上のなんとも悲惨な人々の叫びを一つ一つお聴き下さっていらっしゃること。そのことに私は心から気付きました。そしてこれまで感じることのできない深い思いが心の中に今もあります。
神様はイエスさまを地上におつかわし下さいました。見捨てられ誰からも相手にされない人、自分では立つことの出来ない人、苦悩にさいなまれる人、ひり一人にイエスさまは救いの手を差し出して下さいました。
私はこのごろ生きることの重さ悲しさ弱さなどしみじみと思ってしまうのですが、それでいいのです。心砕いてごらんになっていらっしゃるおおいなるお方がいらっしゃるのだ。そのお方に向かって叫びを出したらいいと思えるようになりました。
イエスさまはまた叫びを聞いたあなたが行って共にいなさいとおっしゃっておられるのです。共にいるだけでよい・・・・。 ところが共にいるだけではなく、同じように神様に向かって叫びはじめるのです。それは自意識が崩れ人間そのものを真正面から見据えたときふとイエス様に出会うのです。その時イエスさまは命をくださいます。その命を共にいるものと共有する。これまでの教会は救いが個人にとどまっている。その先が見えてこないように思いました。
しかし、イエスさまの命の体験を豊かにさせていただくことそうした人々は教会に帰ってきます。教会はまた人々を送り出す。
人々の持ちよるイエスさまの命が教会にあふれ出るのではないでしょうか。その様に今考えています。