2. 「神の民、共同体としての教会」
1)私は公会議を挟んで授洗しました。宣教師が主任をされている小教区で授洗しました。広い心で接して下さった。司祭が指導されるままに教会は歩んでいましたが、公会議の変化を古い信者は考えない方も多いように思われました。使徒職のグループに入った。活動をしみなで相談しながら歩み始めた。結婚後は邦人教区司祭の教会に属しその後6人ぐらいの司祭が代わられた。
それぞれの司祭と共に歩んできた。苦楽を共同体と共にしてゆく中で歩むことが出来た。共同体は信仰者が育てられる場であったともいます。しかしつらいこと悩みもあってそれがむしろ力になったと感じている。洗礼を受ける動機は人それぞれ違っている。共同体に参加した跡で洗礼の意味を理解して行けるならよいと思う。共同体に入るということはイエス様に対してイエスを言うことであることを確かなものにしてゆくことが出来ればよいと思う。勉強をしているときの司祭との関係と入信後の司祭への印象が違ってくることがある。そのような時、洗礼を受ける意味、共同体に入る意味を明確にしないといけないと思う。
2)授洗者のアフターケアーが大切でし。共同体が受け入れる体制が必要でしょう。宣教を引き受けていることを意識しないといけない。地域、職場、その他で、一人で宣教をするとしても共同体が支えていなければ出来ない。この辺がかけていると思う。共同体の中での信徒と司祭の関係を考えたい。求道者を紹介しても司祭によって差がある。信徒と司祭の連携が必要だろう。司祭の性格や状況を理解して橋渡しする必要がある。みことばが力になる。苦しんでいるときにみことばが響く。みことばの力を新しい方とも苦しんでいる方とも分かち合えると良い。神の民は信者の集まりと理解できる。洗礼を受けた者。司教、司祭、信徒、修道者みな不完全です。不完全でも神の国を目指している。神の支配がゆきわたっている状態。地上の教会が教会憲章にあるようにキリストが教会を始められた。教会はしるしであり道具であると言われる。キリストが教会を作られた意味は神の国を建設するところにある。
3)信徒の意識の刷新が40年たってどうなのか。深いところで学びが足りない。小教区ではあまり第二バチカン公会議に触れることはなかった。小教区以外で触れるほかなかった。1982年に司教団は日本の教会の優先課題を発表した
その後に1987年に福音宣教のNICE1が開かれた。共同責任の実現がうたわれている。苦しみあえぐ人々と共に歩む連携がうたわれた。NICEで司教・司祭・信徒が同じテーブルに着いたのは印象的出来事であった。学びの不足があった。司祭間でもばらつきがあって信徒の中にとまどいがあった。
NICEが生かされていない。現在に生かすことを考えないといけない。
4)共同体として新しい方々をどのように受け入れるのか。苦しんでいる人々とのかかわり方。相手の立場で寄り添うので良いのではないか。意識心が不足していると感じられる。共同体を形成するときには一人一人が自分の信仰を見直してイエスの思いを深めて生かされるとき自然に共同体は生き生きとしてくるのではないか。難しい教義や教えはわからないが自分がイエスに愛されているこその様に共同体で振舞うことではないか。司祭に希望するのは心に響く説教をしてほしい。日常生活に合った説教である。共同宣教の新体制で悩んでいる司祭もいる。司祭の立場屋個性を理解する。司祭と信徒で一緒に向かってゆく。司祭との対話が教会の行事に限定されてしまっている。共同体の成熟が必要。共同体によって成長させられる。
5)分かち合いは小さグループが大切だが閉鎖的になってはいけない。司祭へのお願いは信徒の悩みに対して受け止めてくれない不満を聞く。心の病などの方へは専門家を紹介する。信徒は司祭に聞いてもらいたい、霊的な話を聞きたいと願っている方、ただ向き合ってくれるだけでよいと思っている人も多い。司祭と信徒の関係が共同体に大きな影響を与える。