外面に固執する
(「あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」<マルコ 7:8>)
年間第22主日福音黙想 2009/8/30 トマス・ロシカ師
「これはファイリサイ的だ」とか、「あの人はファリサイ人のようだ」とか、「あの人は、ファリサイ主義に毒されている」という言葉を、私たちは一体何度耳にしてきたことでしょう。ことによると、自分でも何度も口にしたことがあるかも知れません。
今日のマルコの福音朗読は、ユダヤ社会におけるファリサイ派の役割と、なぜイエスやその弟子たちが彼らの行動に強く反発したのかを理解するよい機会を与えてくれます。イエスの時代のファリサイ派とは? そして現代のファリサイ派とはどのような人たちなのでしょうか?
さて、今日の福音を理解するために、この複雑な話を単純化してみましょう。ファリサイ派の人びとは、すべてのユダヤ人が、生活の多様な局面に十戒を当てはめて、律法を生きたものにするよう願っていました。
ファイサイ派の教義は、キリスト教の教義と相反するものではありません。イエスの時代には、ファリサイ派はユダヤ教の中の「保守派」でした。彼らは、厳格にトーラーとタルムードを遵守し、外面的には非常に道徳的な人たちでした。彼らはユダヤ教の多数派のリーダーで、宗教的な熱心さと献身によって畏敬されていました。彼らと主に対立していたのはサドカイ派で、ユダヤ教の中では「リベラル派」でした。サドカイ派は、少数派の上流階級に人気がありました。
ファリサイ派は、マタイ 3:7-10 に登場し、洗者ヨハネによってサドカイ派と共に非難されます。
「ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。『蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。
<我々の父はアブラハムだ>などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。』 」
イエスも、ファリサイ派に対する厳しい言葉を用意していました。マタイ 16:6 では、次のように弟子たちに警告しています : 「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい。」 弟子たちが注意すべきこととは何でしょうか? 弟子たちは、ファリサイ派とサドカイ派の不道徳に用心しなければならなかったのでしょうか?
律法への執着:
イエスの時代のファリサイ派は、純粋に、心の命ずるままに、律法の遵守を奨励し、日常的な霊性の大切さを説きました。外面的な掟にだけとらわれるファリサイ派の人たちも居ましたが、その人たちは、他のファリサイ派の人たちから批判されていました。それは、まさに昔、預言者イザヤが偽善を批判したのと同様でした。同じように、イエスは、時には道を踏み外したファイサイ派の人たちを叱責しましたし、律法についてのイエスの新たな解釈を巡って、彼らと衝突することもありました。しかしイエスは、ファリサイ主義やファリサイ派全体を非難したわけではなかったのです。
ファリサイ派の人々は、「自分に寄り頼み、すなわち自分たちは正しい」としていたのでした。彼らは、「神の命じることを行い、神が禁じることを慎む」という自分たちの行いによって、自分たちの行いは神に気に入られ、寵愛を受け続けるものであり、それが神の前にふさわしいことだと信じていました。 ファリサイ派の人々は、律法遵守に関して、自分たちと同等の基準を満たさない人々を、一方的に、かつ偽善的態度で蔑んだのです。
彼らは、徴税人や他の罪人と一緒に食事をとりませんでした。それは、彼らが独りよがりでうち解けようとしなかったからです。彼らは、だれがイエスと共に食べたり飲んだりしているかについてぶつぶつ不平を言うことに時を費やしていました。イエスは彼らに言います。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく、病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」 ( ルカ 5:31-32)
作法云々ではなく:
今日の福音 ( マルコ 7:1-8, 14-15, 21-23) では、ファイリサイ派の人々と律法学者たちが、イエスを調べるために、エルサレムからやって来ます。イエスは、清めの儀式と、食物の浄・不浄の区別を廃止します。宗教伝統の番人たちは、イエスの律法遵守の態度が生ぬるいと指摘しました。イエスの弟子のある者は、手を洗わずに食事をしていました。 ( マルコ 7:2) ファイリサイ派の人々と律法学者たちは、この律法の緩みをとらえて、イエスに「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」 ( マルコ 7: 5 ) と挑みます。
これに対してイエスは、 作法云々や衛生上の説明で答えようとはなさいませんでした。イエスは、ファイリサイ派の人々と律法学者たちに、「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、/むなしくわたしをあがめている。』」 ( マルコ 7: 6 ∼ 8) と述べ、律法主義者の心の内を暴露します。
清めの問題におけるファリサイ派の人たちの狭くて、律法主義的で、外面的な習慣(マルコ 7:2-5 )や、外面的な崇拝(マルコ 7:6-7 )、そして掟の遵守に対して、イエスは、神の法の真に倫理的な意図を対立させて示したのです。 ( マルコ 7:8-13)
しかしイエスは、律法そのものと、ファリサイ派の解釈とを対比するだけではありません。マルコ 7:14-15 で は、清い食物と清くない食物に関する律法そのものを無視します。イエスが説く要点は、内的な態度が、律法の外面的な形よりも重要であるということだと解釈できます。そして、それにはほとんどのファリサイ派の人たちも賛同したことでしょう。
ファリサイ派の罪の概念 :
イエスは、ファイリサイ派と律法学者たちの罪の概念を拒絶します。イエスにとって、罪とは人間の精神の誤りであり、食物の区別の誤りではありません。罪に対するイエスの態度は、安息日に関する彼の考え方と一致しています。律法の文言を文字通り解釈して、思いやりを欠く態度は、人間性の喪失につながります。
イエスが、いかにご自分のメッセージを、ファイリサイ派や律法学者たちに、(マルコ 7:1- 8 ) 群衆に、(マルコ 7:14-15 : 「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。)そして弟子たちに、(マルコ 7:21-23 ) 理解してほしいと願っておられるかを(この福音の中に)見ることができます。神が律法主義を望まれないということは、全ての人にとって良い知らせです。それどころか、神がイエスにおいてなされたことによって、父である神は(わたしたちに)新しい生き方を提示されます。人は、いかによく規則に従い、自分を清く保つかについて思い煩う必要はないのです。
私たちは、清く作られているのですから、今や、他の人に奉仕するのに、自由に両手を使えます。途中で、手が汚れてしまうかも知れません。でも、神は、律法から解放して下さいます。神は恵みを与えて下さいます。それこそが、私たちが、律法主義の人たち、群衆、そして私たちの周囲にいるイエスの弟子たちにでさえも、他の人々に奉仕するときには、分かち合うことになる同じよい知らせなのです。
現代のファリサイ派 :
現代のファリサイ派とその追従者とはだれのことでしょうか ? 盲目的な現代のファリサイ派とその追従者たちは、非常に敬虔で、倫理的で、熱心な人々です。彼らは神の律法を守る努力をし、宗教的な務めに熱心です。彼らは、毎日曜日に勤勉に教会に行き、よく働き、外交的で正直な市民です。彼らは、倫理的悪を遠ざけ、それに陥らないように人に説きます。
現代のファリサイ派とその追従者たちは、倫理的で、敬虔で、熱心であることに加えて、人間的努力に重きをおいており、救いがキリストの御業のみに依存することを信じません。それよりも彼らは、救いは究極的には、キリストの御業に罪人たちが付け加えるもの次第なのだと信じているのです。
現代のファリサイ派に比べて、真のキリスト者は、十字架につけられたキリストのみを誇りとする人々です。すなわち彼らは、キリストの御業が、キリストが贖った全ての人びとの救いを約束するものと信じ、それが救いと咎めを分ける唯一のものと信じるのです。彼らは、神の前で自分が受け入れられるかどうかは、自分の努力とは全く無関係なことを知っています。彼らは、キリストを唯一の希望として依り頼み、救いを約束するには、神の恵みを受けたキリストの御業である、と知っています。
イエスが悔い改めを求めるために来られたのは、癒し手を必要とする罪びと、自身の義をもたない者、神に認められる資格の無い者、神との交わりに値しない者・・・こうした人びとのためであったことを、イエスは示されました。
憐れみの薬:
きょうの福音の中の、律法主義についてのイエスの言葉を聞くたびに、わたしは、感謝の気持ちと共に教皇ヨハネ 23 世のことを思い出さずには居られません。 1962 年 10 月 11 日、第二バチカン公会議の歴史的な開会の辞の中で、教皇ヨハネ 23 世は、誤謬の立証や教義の明確化のためにこの公会議を招集したのではないことを明らかにしました。そして、今日の教会は、「厳しさの薬よりも憐れみの薬」を用いるべきだと主張しました。
「善良なる教皇」とよばれた彼は、自分の周囲にいる「いつも破局を予測する」人々の意見を退け、その人々を、「人生の教師」である歴史感覚を欠いた、「憂鬱の預言者」と呼びました。
神の摂理は、世界を新たな、より良い人間関係の秩序に導いている。「そして、全ての物事が、人間同士の相違さえもが、教会をより偉大な善に導いている。」と彼は宣言しました。
"Papa Roncalli" (ヨハネ 23 世の本名 アンジェロ・ジュセッペ・ロンカリ) は、人間的であり、自分の印象よりも誠実さを気にかけ、自分の希望よりも周囲の人々のそれを大切にしました。思いやりに欠ける法律の文言が、人間の尊厳を傷つけることを知っていました。彼は、周囲に影響を及ぼす温かさとビジョンを以って、急速に変化する社会と教会との関連性を強調し、教会のもっとも深い真理を現代世界に明白に示しました。
"Papa Giovanni" (ジョヴァンニはヨハネのイタリア読み) は、その後継者教皇ヨハネ・パウロ 2 世によって 2000 年に列福されました。現代のファリサイ派やサドカイ派は、今日も教会の中で、また世界中で命脈を保っています。
どうか "Papa Giovanni" が現代のファリサイ派、サドカイ派の心を和らげてくださいますように!
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Caught Up in the Externals
Biblical Reflection on 22nd Sunday in Ordinary Time B Father Thomas Rosica, CSB
TORONTO, AUG. 26, 2009 (Zenit.org).- How many times have we heard, or perhaps even said ourselves: "So-and-so is a Pharisee." "That person is so Pharisaical." "They are caught up in Pharisaism."
Today's Gospel (Mark 7:1-8, 14-15, 21-23) offers us a good opportunity to understand the role of the Pharisees in Judaism, and why Jesus and others had such strong feelings against their behavior. Who were the Pharisees of Jesus' time, and who are their modern-day contemporaries?
Let me try to simplify a very complex topic to help us understand today's Gospel. The Pharisees sought to make the Law come alive in every Jew, by interpreting its commandments in such a way as to adapt them to the various spheres of life.
The doctrine of the Pharisees is not opposed to that of Christianity. At the time of Jesus, the Pharisees were the "conservative party" within Judaism. They adhered strictly to the Torah and the Talmud and were outwardly very moral people. They were the leaders of the majority of the Jews and were revered by their followers for their religious zeal and dedication. Their main opposition was the party of the Sadducees, who were the "liberal party" within Judaism. The Sadducees were popular among the high-class minority.
Pharisees are mentioned when John the Baptist condemns them and the Sadducees in Matthew 3:7-10: "But seeing many of the Pharisees and Sadducees coming to his baptism, he said to them, offspring of vipers! Who warned you to flee from the wrath to come?" Why would John the Baptizer say that the Pharisees, who were outwardly moral, zealous, and religious, were the offspring of vipers?
Jesus reserved his harshest words for the Pharisees as well. In Matthew 16:6, Jesus warned the disciples, "Watch and take heed from the leaven of the Pharisees and Sadducees." What were the disciples to beware of? Were they to beware of the immorality of the Pharisees and Sadducees?
Adherence to the law
The Pharisees in Jesus' time promoted adherence to the law with a genuine interior response and advocated ordinary day-to-day spirituality. There were some Pharisees who were caught up only in external prescriptions, but they would have been criticized by other Pharisees even as the prophet Isaiah criticized hypocrisy in the past. Similarly, Jesus reprimanded aberrant Pharisees occasionally and had some clashes with them over his reinterpretation of the law. Jesus did not condemn Pharisaism as such or all Pharisees.
They would not eat with the tax collectors and other sinners, because they were self-righteously aloof. They spent their time murmuring about who was eating and drinking with Jesus. Jesus said to them, "It is not the healthy who need a doctor, but the sick. I have not come to call the righteous, but sinners to repentance" (Luke 5:31-32).
No etiquette lesson!
In today's Gospel passage, (Mark 7:1-8, 14-15, 21-23), the Pharisees and scribes come from Jerusalem to investigate Jesus. Jesus abolishes the practice of ritual purity and the distinction between clean and unclean foods. The watchdogs of religious tradition cite Jesus for running a rather lax operation! Some of his disciples were eating with unwashed hands (Mark 7:2). Pharisees and scribes seize this infraction of the law and challenge Jesus, "Why do your disciples not live according to the tradition of the elders, but eat with defiled hands?" (v. 5).
Jesus doesn't respond with an etiquette lesson or an explanation of personal hygiene. Instead, he calls the Pharisees and scribes what they are: "you hypocrites" (v. 6). Quoting Isaiah, Jesus exposes the condition of the legalists' hearts. They cling to human precepts and put their trust in the traditions of their elders over the commandment of God (v. 8).
Against the Pharisees' narrow, legalistic, and external practices of piety in matters of purification (Mark 7:2-5), external worship (7:6-7), and observance of commandments, Jesus sets in opposition the true moral intent of the divine law (7:8-13).
But he goes beyond contrasting the law and Pharisaic interpretation of it. Mark 7:14-15 in effect sets aside the law itself in respect to clean and unclean food. Jesus' point is well taken -- and most Pharisees would have agreed -- that internal attitude is more important than the externals of the law.
Pharisaical notion of sin
Jesus rejects the Pharisees' and the scribes' notion of sin. For Jesus, sin is the human spirit gone wrong, not a failure to distinguish between types of food. Jesus' attitude toward sin is consistent with his views regarding the Sabbath. The letter of the law without compassion is dehumanizing.
We can see how Jesus wants his message to be made known to the Pharisees and scribes (vv. 1-8), the crowd ("Listen to me, all of you, and understand" vv. 14-15) and his disciples (vv. 21-23). It is good news to all that God doesn't desire legalism. Instead, because of what God has done in Jesus Christ, the Father offers a new kind of life. One doesn't have to worry about how well one is obeying the rules and keeping oneself clean.
Having been made clean, we are now free to use our hands to serve others. We might even get them dirty in the process. God gives freedom from the law. God offers his grace. That is the same good news we get to share as we serve the legal-minded, the crowds, and even the disciples of Jesus who are around us.
Contemporary Pharisees
Who are the modern-day Pharisees and their followers? The blind modern-day Pharisees and their blind followers are very religious, moral, zealous people. They strive to keep God's law, and they are zealous in their religious duties. They diligently attend Church every Sunday. They are hardworking, outwardly upright citizens. They keep themselves from and preach against moral evil.
In addition to being moral and religious and zealous, modern-day Pharisees and their followers believe that human efforts, do not believe that salvation is conditioned on the work of Christ alone; instead, they believe that salvation is ultimately up to what the sinner adds to Christ's work!
In contrast to the modern-day Pharisees and their followers, true Christians are those who boast in Christ crucified and no other, meaning that they believe that Christ's work ensured the salvation of all whom He represented and is the only thing that makes the difference between salvation and condemnation. They know that their own efforts form absolutely no part of their acceptance before God. They rest in Christ alone as their only hope, knowing that it is the work of Christ by the grace of God that guarantees salvation.
Jesus showed that only those who were sinners in need of a healer, who do not have righteousness in themselves, who are devoid of divine entitlement, who do not deserve to be in fellowship with God, are the ones He came to call to repentance.
The medicine of mercy
Whenever I hear Jesus' words about legalism in today's Gospel, I cannot help but recall with gratitude and emotion Pope John XXIII. In his historic, opening address on Oct. 11, 1962, at the beginning of the momentous Second Vatican Council, John XXIII made it clear that he did not call Vatican II to refute errors or to clarify points of doctrine. The Church today, he insisted, must employ the "medicine of mercy rather than that of severity."
The "Good Pope" as he was called, rejected the opinions of those around him who were "always forecasting disaster." He referred to them as "prophets of gloom" who lacked a sense of history, which is "the teacher of life."
Divine Providence, he declared, was leading the world into a new and better order of human relations. "And everything, even human differences, leads to the greater good of the Church."
"Papa Roncalli" was a human being, more concerned with his faithfulness than his image, more concerned with those around him than with his own desires. He knew that the letter of the law without compassion is dehumanizing. With an infectious warmth and vision, he stressed the relevance of the church in a rapidly changing society and made the church's deepest truths stand out in the modern world. "Papa Giovanni" was beatified by his successor, John Paul II in 2000. May he soften the hearts of the modern-day Pharisees and Sadducees who are alive and well in the Church and world today!
朗読
申命記 4:1-2, 6-8:(モーセは民に言った。)イスラエルよ。今、わたしが教える掟と法を忠実に行いなさい。そうすればあなたたちは命を得、あなたたちの先祖の神、主が与えられる土地に入って、それを得ることができるであろう。あなたたちはわたしが命じる言葉に何一つ加えることも、減らすこともしてはならない。わたしが命じるとおりにあなたたちの神、主の戒めを守りなさい。あなたたちはそれを忠実に守りなさい。そうすれば、諸国の民にあなたたちの知恵と良識が示され、彼らがこれらすべての掟を聞くとき、「この大いなる国民は確かに知恵があり、賢明な民である」と言うであろう。いつ呼び求めても、近くにおられる我々の神、主のような神を持つ大いなる国民がどこにあるだろうか。またわたしが今日あなたたちに授けるこのすべての律法のように、正しい掟と法を持つ大いなる国民がどこにいるだろうか。
ヤコブ 1:17-18, 21b-22, 27:良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです。御父には、移り変わりも、天体の動きにつれて生ずる陰もありません。御父は、御心のままに、真理の言葉によってわたしたちを生んでくださいました。それは、わたしたちを、いわば造られたものの初穂となさるためです。だから、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です。
マルコ 7:1-8, 14-15, 21-23:ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。――そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、/むなしくわたしをあがめている。』あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」
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