魂のための健康食品

年間第20主日福音黙想 2009/8/16  トマス・ロシカ師

 

 

ヨハネ福音書6章( 41-51 )で、イエスは、自分を「天から降ってきた生きたパンである」と語り、聴衆を、このパンを食べるように、すなわち、自分を信じるようにと招きます。

 

イエスは、「わたしを信じる人は永遠のいのちを得る」と約束します。イエスは、出エジプトの荒れ野でイスラエルの民を養うために天から降ったマナにご自身をなぞらえます。それは、イスラエルの民にとって、大切な記憶を呼び起こす生き生きとしたイメージです。それから、ヨハネ 6:5 1の中でイエスは「わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」と述べます。そこで、聴衆は「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と訊ねます。彼らは、イエスがご自分について説明することを期待して、このように反応したのでしょうか?

 

確かに、彼らが想像したように、イエスは何か別のことを言おうとしていたのです。いずれにせよ、聖書の中では、だれかの肉を食べることは、暗に大きな敵意を表すものとされています。 ( 詩篇 27:2; ザカリア 11:9)  その血を飲むことは神の律法によって禁じられた忌まわしいものと見做されていました。 ( 創世記 9:4, レビ記 3:17; 申命記 12:23).

 

しかし、イエスは質問に答えて、いっそう明白な言葉で彼の最初の宣言について説明されます。

「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。」

敬虔なユダヤ教徒はだれも、人間の肉を食べようとは思わないでしょう。「どうしてイエスは、このときも 「(わたしのうちに) とどまる 」とか、 「(わたしのうちに)住む」、あるいは「わたしのうちに生きる」のような、好ましい表現をもちいなかったのだろうか、と問いたくなるでしょう。イエスは、そのようなどぎついイメージと表現で、本当に人肉を食べることを奨励したのでしょうか?

 

肉と血:

今日の福音の中で、イエスは、一つの命と他の命との、固い結束と深い関係を表現するために、このような強い言葉を用いているのです。イエスは、犠牲を表す言葉を用います。トーラーは、典礼において動物の犠牲を求め、どのようにその犠牲が整えられ、その肉が用いられるべきかを特定します。 祭壇で焼かれる肉もあり、食べられる肉もありました。

 

イエスは、この世界のためにいけにえとなります。 イスラエルだけのためではありません。 ( ヨハネ 3:16-17) 「肉と血」というヘブライ語の表現は、全人格、を表しています。

イエスの全てを受け入れるためには、彼の肉と血を受けることが必要です。イエスに出会うということは、ある意味では、彼の肉と血に出会うことを意味します。イエスを―イエスの全てを受け入れる人々にとって、イエスの命は、自分の骨にからみつき、血管を勢いよく流れるものです。先週の土曜日に食べた夕食をわたしたちの身体から取り出すことができないように、もはや、信者のいのちからイエスを取り分けることはできないのです。 

 

イエスを真に受け入れる:

わたしたちが、宗教に、知的なアプローチをするときに真に大切なことは、宗教上の教義や真理を信じることだと思いがちです。それでは、イエスを受入れることは、知的同意に過ぎないことになります。しかし、わたしたちには、キリストの現存を、知的認識ではなく、他の方法によっても受け入れられることを特別に感謝する時があります。

 

山上で五千人の人々に与えるのにイエスが用いたパンは、真のパンというには不足しています。

何故なら、そのパンは人々の飢えを一時的に満たしたに過ぎないからです。

それに比べて、イエスの肉と血は、真の食物です。何故なら、「このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」(ヨハネ 6 51 )、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得る」(ヨハネ 6: 54 )からです。「わたしは、天から降って来た生きたパンである。」(ヨハネ 6 51 )。

この「生きているパン」は、イエスがサマリア人の女に示した「生きている水」(ヨハネ 4 10 )に相当します。この文脈において、このパンを食べることは、最終的にキリストを受入れ、信じる行為を意味します。

 

歴史的背景:

ヨハネがこの福音書を書いたときに起きた二つのことに注目してください。それはヨハネが、「イエスの肉を食べ、その血を飲むこと」を強調したことに影響を与えたかもしれないのです。

第一は、キリスト仮現説とグノーシス主義的異説の影響です。この両方ともが肉を悪と考え、キリストが肉体をもつ可能性を否定しました。第二は、ユダヤ人のキリスト教信者に対する差別です。主の晩餐を執り行うキリスト教徒は、ユダヤ教のシナゴグから 閉め出されていたようです。

 

聖体は、マナの賜物に隠された意味を実現します。こうしてイエスは、旧約の誓いの中で象徴的に予告されたものの、真実、かつ完全な実現として、ご自身を示されます。 

もう一つのモーセの行為も預言的価値があります。砂漠の中で民の渇きを収めるために、モーセは岩から水を流れ出させました。「仮庵祭」で、イエスは人間の精神的な渇きをいやす約束をします。「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。『渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。』」 ヨハネ 7:37-38)

 

わたしたちの食べ方:

わたしたちの食生活は、自分が何者であるかを反映し、影響を受けます。それは生き方へのアプローチを示します。多種多様な社会と文化を調べると、それぞれに伝統的な食物と食習慣のあることが分かります。

「わたしはイタリア系なので、スパゲッティ、ラザーニア、トルテリニ・ア・ラ・パナ、またはピザをよく食べます。」 とか、「わたしは、生粋のアメリカ人ですから、ハンバーガー、ホットドッグ、ステーキ、コカコーラ、フレンチ・フライを食べます。」 「わたしはカナダのケベック州の人間です。(フライド・ポテトとチーズの)プーティンとメイプル・シロップが好きです。」と言った具合です。フランス人はクレープ、ベルギー人はワッフル、中国人は米、パレスチナ人とイスラエル人は、(豆をつぶして揚げた)ファラフェル、スイス人ならチョコレート、そしてエスキモーなら鯨の脂身というわけです。要するに、「わたしたちの食べ方」は、自分自身を示す方法とも言えます。それは、自分の世界観、価値観、生き方へのアプローチを反映し、しばしばそれを決定する要素となります。 

 

食物は、単なる栄養物の集まり以上のものです。それらには、人に影響を与える、豊かな意味合いが含まれています。珍しい食材や香辛料は、特別な料理のために珍重されます。ある食物は、多くの文化の中で、特別な聖性を持つものとして礼賛されますが、別のところでは全く忌避されます。

選ぶ食物のタイプによって、わたしたちのムードが影響されることもあります。辛くて、スパイスの効いた刺激的な食事は、多くの場合、怒りやすく、神経質になる方向に影響が現れるでしょう。冷めたい食物は、気分を和らげ、平和な気持ちにするでしょう。食物は祝い事を助け、苦しむときに慰めを与えてくれます。食物は愛のしるしであり、多くの場合、人々を一つにする手段になります。

 

「食事の仕方」は、継承文化の重要な一部です。物質であるパンは、身体を養うことは出来ても、魂を養うことは出来ません。わたしたちの食物は、実に、物質的存在と霊的存在の組合せです。

身体は、食物に含まれる滋養の物質的な側面によって養われます。一方、魂は、食物を含む全ての物質的要素を活気づける霊的な力によって養われます。

 

カタボリックよりカトリック?

人の身体・精神の状態は食事[何を食べているか]で決まる[判断される]。 」という表現は、英語圏において 1920 30 年代まで聞くことがありませんでした。その頃、食物が健康をコントロールするという説を強く信じた栄養学者の Victor Lindlahr が、カタボリック・ダイエット(筋肉を落とすダイエット)を開発しました。 1942 年に、 Lindlahr は、「 人の身体・精神の状態は何を食べているかで決まる  〜ダイエットで健康に〜」という本を出版しました。この時から、ダイエットが世に知られるようになりました。 

キリストの現存を求める人々にとって、ヨハネ福音書のイエスの教えは真によい知らせです: 「食物があなたを創る」のです。聖体のうちに頂いたもので、わたしたちは創られるのです。

 

今週は、自分の霊的ダイエットを検証し、本当に自分に命を与えるものを探しましょう。同時にまた、永遠の命に導くことのない劣悪な食物をしっかりと見分けましょう。

 

 

 

 

 

 


Health Food for the Soul

Biblical Reflection for 20th Sunday in Ordinary Time B   Father Thomas Rosica, CSB

 

 

VATICAN CITY , JULY 31, 2009 (Zenit.org).- In chapter six of John's Gospel (vv. 41-51), Jesus speaks of himself as "the living bread that came down from heaven" and invites his hearers to eat of this bread" -- that is, to believe in him.

 

He promises that those who do so will have eternal life. Jesus compares himself to the manna that came down from heaven to sustain the people of Israel in the wilderness. It is a vivid image that certainly evokes important memories for the people of Israel . Then in John 6:51, Jesus says, "The bread that I will give for the life of the world is my flesh." Then his hearers ask: "How can this man give us his flesh to eat?" Did they respond in this way to give Jesus a chance to explain himself?

 

Surely, they may have imagined, Jesus meant to say something else.

After all, to eat someone's flesh appears in the Bible as a metaphor for great hostility (Psalms 27:2; Zechariah 11:9). The drinking of blood was looked upon as an abomination forbidden by God's law (Genesis 9:4, Leviticus 3:17; Deuteronomy 12:23).

 

Yet Jesus responds to the question by further explaining his initial declaration with explicit terms: "Unless you eat the flesh of the Son of Man and drink his blood, you have no life in you. Those who eat my flesh and drink my blood have eternal life, and I will raise them up on the last day, for my flesh is true food and my blood is true drink. Those who eat my flesh and drink my blood abide in me, and I in them." No observant Jew would consider eating human flesh. We may ask ourselves: "Why couldn't Jesus continue using such pleasant terms as "abiding," "dwelling," "living in me" terminology? Was he advocating pure cannibalism with such vivid imagery and language?

 

Flesh and blood

In today's Gospel, Jesus uses strong language to express the indissoluble union and inextricable participation of one life in another. Jesus uses sacrificial language. The Torah requires ritual sacrifice of animals, and specifies how they are to be prepared and how their flesh is to be used. Some flesh is to be burned on the altar and other flesh is to be eaten.

 

Jesus makes his sacrifice in behalf of the world -- not just Israel (see also John 3:16-17). The Hebrew expression "flesh and blood" means the whole person. To receive the whole Jesus entails receiving his flesh and blood. To encounter Jesus means, in part, to encounter the flesh and blood of him. For those who receive Jesus, the whole Jesus, his life clings to their bones and courses through their veins. He can no more be taken from a believer's life than last Saturday's dinner can be extricated from one's body.

 

True reception of Jesus

In our cerebral approach to religion we often assume that what really matters is believing some important religious dogmas or truths. Receiving Jesus can be reduced to a matter of intellectual assent. There are times, however, when we can be particularly grateful that the presence of Christ is not something that can be recognized cerebrally, but can be received by other means as well.

 

The bread that Jesus used to feed the 5,000 on the mountaintop was something less than true bread, because it satisfied the people's hunger only momentarily. By way of contrast, Jesus' flesh and blood are true food because "whoever eats of this bread will live forever" (v. 51) -- and "have eternal life" (v. 54). "I am the living bread that came down from heaven" (v. 51a). This "living bread" parallels the "living water" that Jesus offered the Samaritan woman (4:10). To eat of this bread, in this context, means the once-and-for-all action of accepting or believing in Christ.

 

Historical background

It is important to be aware of two things that were happening at the time of the writing of this Gospel that might have influenced the John to emphasize the eating of Jesus flesh and the drinking of his blood. The first was the influence of Docetic and Gnostic heresies, both of which considered flesh to be evil and denied that Christ could have a physical body. The second was Jewish discrimination against Christian believers. Christians who observed the Lord's Supper were likely to be banned from synagogues.

 

The Eucharist fulfils the meaning hidden in the gift of manna. Jesus thus presents himself as the true and perfect fulfillment of what was symbolically foretold in the Old Covenant.

Another of Moses' Acts has a prophetic value: To quench the thirst of the people in the desert, he makes water flow from the rock. On the "feast of Tabernacles," Jesus promises to quench humanity's spiritual thirst: "If anyone thirst, let him come to me and drink. He who believes in me, as Scripture says, 'Out of his heart shall flow livers of living water'" (John 7:37-38).

 

The ways we eat

Our eating style reflects and affects who and what we are. It identifies our approach to life. If we examine various societies and cultures, we see that each has its traditional foods and food rituals.

"I am of Italian descent. I often eat spaghetti, lasagna, tortellini alla panna or pizza," or "I am a real American. I eat hamburgers, hot dogs, steak, coke, and French fries." "I am Québecois. I feast on poutine and drink maple syrup." The French eat crepes, Belgians eat waffles, Chinese eat rice, Palestinians and Israelis eat falafel, the Swiss eat chocolate, and Eskimos eat whale blubber. In short, the "way we eat" reveals how we identify ourselves. It reflects and often determines our worldview, our values, and our entire approach to life.

 

Foods are much more than just a collection of nutrients; they are a wealth of influences and connotations. Rare foods and spices are treasured as special culinary delights. Some foods are worshiped in various cultures as having an unusual holiness or are avoided altogether. The type of food we choose can affect our moods. Hot, spicy, or stimulating foods may influence many of us toward hot-temperedness or nervousness. Cooling foods can relax us and give us peace of mind. Foods can help us celebrate and can comfort us when we mourn. They are a sign of love and are a means of uniting people on many occasions.

 

The "ways we eat" are an important part of our heritage. The soul is not nourished by physical bread, as the body is. The food we eat is actually a combination of both a physical and a spiritual entity. The body is nourished by the physical aspects, or nutrients, contained in the foods we eat; the soul is nourished by the spiritual power which enlivens the physical substance of all matter, including food.

 

Catholic rather than catabolic?

The actual phrase "you are what you eat" didn't emerge in the English language until the 1920s and 30s, when the nutritionist Victor Lindlahr, a strong believer in the idea that food controls health, developed the Catabolic Diet. In 1942, Lindlahr published "You Are What You Eat: How to Win and Keep Health With Diet." From that moment onward, the phrase entered the public consciousness.

For all who seek the presence of Christ, Jesus' teaching in John's Gospel is good news indeed: "We are what we eat." We become what receive in the Eucharist.

 

This week, let us examine our spiritual diets and look at the things that truly give us life, and those things that are junk foods that don't lead us to eternal life.

 


 

朗読

 

箴言 9:1-6:知恵は家を建て、七本の柱を刻んで立てた。獣を屠り、酒を調合し、食卓を整え/はしためを町の高い所に遣わして/呼びかけさせた。/「浅はかな者はだれでも立ち寄るがよい。」/意志の弱い者にはこう言った。「わたしのパンを食べ/わたしが調合した酒を飲むがよい/浅はかさを捨て、命を得るために/分別の道を進むために。」

 

エフェソ 5:15-20:(皆さん)愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。

 

ヨハネ 6:51-58:(そのとき、イエスはユダヤ人に言われた)わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」

 

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