そのパンをいつもわたしたちにください
年間第18主日福音黙想 2009/08/02 トマス・ロシカ師
今日の出エジプト記からの第一朗読から、私たちは、神がその民に失望しているに違いないと解釈することができます。イスラエルの神は、まさにその民を奴隷から解放したばかりで、約束の地に向けて旅立たせたところです。しかし、紅海を渡り、勝利を祝った後のシナイで、民が最初にした行いは、先ずマラの苦い水にぶつぶつと不平不満を言い、次にエジプトでの贅沢な暮しに思い焦がれ、不平を言って懐かしがることだったのです。彼の地では、みな腹いっぱい食べられたのですから。(出エ 15:22-27) この恩知らずの行為と嘆きの状況の中で、神は彼らの食物として、天からパンの雨(マナ)を降らせ、うずらを与えます。出エジプト (16:2-4,12-15) の記述は、(マナとうずらが貧しい食べものであると不平を言う)信じない者たちと(これらを飢えた者たちへの神の豊かな恵みと見る)信じる者たちとを対比を際立たせています。
別な種類の食物:
パンを増やす奇跡に続く、今日のヨハネ 6:24-35 の福音朗読の中で、イエスは、彼を探し求める群衆に向かって、「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。」 ( ヨハネ 6:26-27). と話されます。
イエスの話を聞いていた者たちはつぶやき合い、次のようにイエスに尋ねます。「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」 ( ヨハネ 6:28) するとイエスは答えてこう言われました。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」 ( ヨハネ 6:29) すなわち、朽ちることのない食物の与え主である 「人の子」 を信仰することを強く勧めているのです。父がお遣わしになったイエスへの信仰がなければ、朽ちることのないこの賜物を認め、受け取ることはできません。
パンを増やす奇跡は、その出来事の目撃者たちに、期待通りの信仰の反応を喚起することはできませんでした。彼らは、新たなしるしを求めました。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」 ( ヨハネ 6:30-31).
弟子たちは、イエスの周囲に集まり、先祖が砂漠で食べたマンナのようなしるしを期待しました。しかしイエスは、マンナの奇跡の単なる繰り返しを越えるもの、全く別の食物を期待するように彼らに強く求めました。イエスは言います。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」 ( ヨハネ 6:32-33).
わたしたち一人ひとりの中には物理的な飢え渇きもありますが、もっと基本的な飢え渇き、ふつうの食物では満たされない飢え渇きがあります。それはいのちへの飢え渇き、永遠への飢え渇き、神への憧れです。マンナというしるしはキリストの到来の布告でした。キリストは、ご自身が「世に命を与える」「生けるパン」となって、わたしたちの永遠への飢え乾きを満たす方でした。
この問答でのイエスの言葉には、驚くべきところがあります。それは、ご自分をもう一人のモーセとも、人間の預言者たちの列に加えられるもう一人の預言者とも言っていないことです。いのちのパンを与えるときに、イエスは、その場しのぎの食物を提供するのではなく、彼の「言葉」という永遠のパンを私たちに与えます。それは朽ち果てることなく、栄養を与え、永遠のいのちを与えます。イエス自身がパンであり、それをわたしたちと分かち合うために与えて、私たちを信仰へと招きます。「イエスのもとに行き」「イエスを信じ」、「イエスを見上げ」、「イエスに引き寄せられ」、「イエスに聞き」、「イエスに学ぶ」ようにと招きます。これらの動詞は皆わたしたちの信仰の積極的な応えを求めています。 ( ヨハネ 6:36, 37, 40, 44, 45 参照 ) イエスの言葉はわたしたちの信仰を養うものです。
イエスの語ることを聞いた人々は、たぶん自分たちの願いがどれほどのものかに気づかずに、マンナのしるしによって宣言されていたことを実現するように、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」 ( ヨハネ 6:34) 、と求めるのです。この願いは、なんと人を動かす力を持っていたことでしょう! また、 それが成就するとはなんと寛大で驚くべきことでしょうか! 「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」 ( ヨハネ 6:35)
不平不満とイデオロギー
イエスの話を聞いていた者たちにとっては、この言葉を、単なるしるしでなく、しるしによって示される神秘と捉えることも、また日常のパンを「永遠のいのちにつづく」パンと理解することも困難でした。そして、21世紀を生きる私たちにとっても、そのようなメッセージを、自分の生活の中で、単なるしるしでなく、神秘として捉えるのは容易なことではありません。
時には、聖体祭儀と教会についての私たちの不平不満が熱く高まり、砂漠でのイスラエルの民の不平不満と変わらないほどになることがあります。教会の方針、ジェンダーの問題、典礼の実践、言語といった問題から生じる過度の緊張状態、これらの全てが、今日の聖体祭儀に影響を与え、私たちが神不在と感じることにつながっているとも言えるでしょう。
現在のような聖体祭儀は、(イスラエルの民が)砂漠で不平不満をつぶやいた場所、マサ(試し)とメリバ(争い)(出 17:7 )では行われません。私たちはしばしば、信心と典礼についての果てしない議論、あるいは憐れみと正義についての絶え間のない論争にはまりこんでいます。そのようなことになってしまうのは、信心が典礼の敵のように扱われたり、憐れみが正義への裏切りであるかのように扱われたりすることや、あるいは、典礼が個人的な信心へと引き下げられたり、正義が福音の大切な要素とされなかったりすることがあるからです。
崇敬の再発見:
上記の「典礼と信心」について具体例をあげましょう。わたしと同世代の人の多くは、若い世代の聖体の崇敬と信心の再発見にとても否定的に反応します。ベネディクト 16 世は、聖体の崇敬とカトリック生活における信心を大変強調しています。多くの人は、公的な礼拝が崇敬と緊密に関わっていて、両者を一つのものと見なすことさえ出来るということを理解できずにいます。敬虔と信心は成熟した信仰への跳躍台となり得ます。キリスト教共同体の聖体祭儀に集まるたびに、全教会と共に、わたしたちは聖体であるキリスト、生けるパン、いのちのパンであるキリストへの、私たちの信仰を表明します。
昨年、ケベック市における第 49 回国際聖体大会で、フィリピンのタグル (Louis Antonio Tagle) 司教は、真の聖体崇敬について、意味の深い説明で締めくくる注目すべき教えを述べました。タグル司教は次のように述べました。:
「聖体において、教会はいのちの神を崇敬して、イエスと結ばれます。しかし、聖体崇敬の実践は、礼拝の各部分に生気を与えます。わたしたちは、聖体におけるキリストの現存は典礼を超えて続いていると信じます。祝福された秘跡を崇敬することは、『現前し』、『とどまり』、『見つめる』という意味です。崇敬するとき、私たちはイエスの御前にあり、イエスの犠牲は、いつも私たちの前にあります。イエスの内にとどまるとき、わたしたちはより深く自分を与える犠牲に同化します。そして、イエスを見つめるとき、わたしたちは受け入れ、自分が崇敬する神秘によって変容させられます。
聖体崇敬とは、イエスの十字架の足下に立ち、彼のいのちの犠牲の証人となり、それによって刷新されることです。十字架上でのイエスの犠牲、イエスの霊的賛美は、イエスによる究極の崇敬の行為です。」
今週、自分自身に問いかけしましょう。イエスの聖体の現存は自分にとって何を意味していますか?毎週(ある人にとっては、毎日)の主の食卓の祝宴への参加によって、私たちは、感謝する人、優しさと正義を愛する人に変わっているでしょうか? イエスは主の食卓の祝宴を共にする人に何を求めるかを考えましょう。 どうすれば聖体が自分の生活の象徴となり、自分の生活が聖体を象徴するものとなるでしょうか? わたしたちはどのように感謝を言い表しますか? 聖体は、生活に指針を与える霊的実践になっていますか?
ミサが、わたしたちの小教区と周囲の社会を、絶え間なく愛の文明へと変えられますように。
ミサが、正義に飢え渇くわたしたちを養ってくれますように。
私たちが聖体を切望することで、互いに、いっそう忍耐強く親切になれますように。
さあ、私たちが、聖餐において受けるものに本当になれるように祈りましょう。
Give Us This Bread Always!
Biblical Reflection for the 18th Sunday in Ordinary Time B
By Father Thomas Rosica, CSB
TORONTO, JULY 29, 2009 ( <http://www.zenit.org> Zenit.org).- We can certainly understand God's frustration with his people in today's first reading from Exodus (16:2-4,12-15). The God of Israel has just delivered his people from slavery and has set them on the way to their promised land. Yet fter crossing the Red Sea and celebrating their victory, the first recorded action in the Sinai proves to be grumbling and dissatisfaction, first over the bitter water at Mara (Exodus 15:22-27), and then more complaining and nostalgic longing for the fleshpots in the land of Egypt, where they were able to eat their fill! Into this setting of ingratitude and lamentation, God rains down bread from heaven (manna) and quail for their food. The Exodus passage (16:2-4,12-15) contrasts the nonbeliever (who grumbles that the manna and quail are meager nourishment) with the believer (who sees these as God's generous gifts to the hungry).
A different kind of food
In today's Gospel text (John 6:24-35) that follows the miraculous multiplication of the loaves, Jesus says to the crowds who were seeking him: "Truly, truly I say to you, you seek me, not because you saw signs, but because you ate your fill of the loaves. Do not labor for the food which perishes, but for the food which endures to eternal life, which the Son of man will give to you" (John 6:26-27).
Jesus' hearers continue the conversation and ask him, "What must we do to perform the works of God?" (John 6:28). Jesus answers: "This is the work of God, that you believe in him whom he has sent" (John 6:29). It is an exhortation to have faith in the Son of Man, in the giver of the food that
does not perish. Without faith in him whom the Father has sent, it is not possible to recognize and accept this gift which does not pass away.
The miraculous multiplication of the loaves had not evoked the expected response of faith in those who had been eyewitnesses of that event. They wanted a new sign: "Then what sign do you do, that we may see, and believe? What work do you perform? Our fathers ate the manna in the wilderness; as it is written: He gave them bread from heaven to eat'" (John 6:30-31).
The disciples gathered around Jesus expecting a sign like the manna, which their ancestors had eaten in the desert. But Jesus exhorts them to expect something more than a mere repetition of the miracle of the manna, to expect a different kind of food. He says: "It was not Moses who gave you the bread
from heaven; my Father gives you the true bread from heaven. For the bread of God is that which comes down from heaven and gives life to the world" (Jn 6:32-33).
Along with physical hunger there is within each of us another hunger, a more basic hunger, which cannot be satisfied by ordinary food. It is a hunger for life, a hunger for eternity, nostalgia for God. The sign of the manna was the proclamation of the coming of Christ who was to satisfy our hunger for
eternity by Himself becoming the "living bread" that "gives life to the world."
What is so startling about Jesus' remarks in this discourse is that he is not claiming to be another Moses, or one more messenger in along line of human prophets. In giving us the bread of life, Jesus does not offer temporary nourishment, he gives us the eternal bread of his word. It will not pass away. It will nourish and give life forever. Jesus is this bread, and in offering to share it with us he calls us to faith in him. Jesus invites us to "come to him," "believe in him," "look upon him," "be drawn to
him," "hear him," and to "learn of him." All of these verbs invite the active response of our faith (cf. John 6:36, 37, 40, 44, 45). His word is nourishment for our faith.
Those who heard Jesus ask him to fulfill what had been proclaimed by the sign of the manna, perhaps without being conscious of how far their request would go: "Lord, give us this bread always" (John 6:34). How eloquent is this request! How generous and how amazing is its fulfillment! "I am the
bread of life; he who comes to me shall not hunger, and he who believes in me shall never thirst."
Grumblings and ideologies
How difficult it was for Jesus' hearers to make this passage from the sign to the mystery indicated by that sign, from daily bread to the bread "which endures to eternal life"! Nor is it easy for us, the people of the 21 st century to make such passages in our own life, from sign to mystery.
At times our grumblings and murmurings about the Eucharist and the Church often rise to fevered pitch, not much different than the grumbling and murmuring of Israel in the desert.
Excessive tensions arising from Church politics, gender issues, liturgical practices, language -- all of these influence today's Eucharist -- and can lead us to a feeling of God's absence.
Our Eucharistic celebrations are not taking place at Massah and Meribah --places of murmuring in the desert. We are often stuck in endless arguments between devotion and liturgy, or in a constant dispute between charity and justice.
When devotion is treated as the enemy of liturgy and charity as the betrayer of justice, or when liturgy is reduced to private devotion and justice not recognized as constitutive to the Gospel.
Adoration rediscovered
Here is one concrete example to illustrate the above point about liturgy and devotion. Many of my generation have responded very negatively to the younger generation's rediscovery of Eucharistic adoration and devotion.
Benedict XVI has put a great emphasis on Eucharistic adoration and devotion in Catholic life. Many of us have failed to see that our public worship is intimately related to adoration, so much so that that they could be considered as one. Piety and devotion can be springboards to mature faith. Each time we gather together to celebrate the Eucharist as the Christian community, we profess, together with the whole Church, our faith in Christ the Eucharist, in Christ -- the living bread and the bread of life.
Last year during the 49th International Eucharistic Congress in Quebec City, Philippino Bishop Louis Antonio Tagle delivered a remarkable catechesis that concluded with a profound explanation of the meaning of authentic Adoration of the Eucharist (http://www.zenit.org/article-22972?l=english).
Bishop Tagle said: "In the Eucharist, the Church joins Jesus in adoring the God of life. But the practice of Eucharistic adoration enlivens some features of worship. We believe that the presence of Christ in the Eucharist continues beyond the liturgy. Adoration of the Blessed Sacrament connotes
being present, resting, and beholding. In adoration, we are present to Jesus whose sacrifice is ever present to us. Abiding in him, we are assimilated more deeply into his self-giving. Beholding Jesus, we receive and are transformed by the mystery we adore. Eucharistic adoration is similar to
standing at the foot of the Cross of Jesus, being a witness to his sacrifice of life and being renewed by it. The sacrifice or spiritual worship of Jesus on the cross is his supreme act of adoration."
This week let us ask ourselves: What does Jesus' Eucharistic presence mean for us? Does our participation in the weekly (and for some, daily) celebration of the Lord's meal transform us into people of gratitude, loving kindness and justice? Let us consider what Jesus requires of us who partake
of the Eucharistic banquet. In what ways does the Eucharist symbolize the life we are living and our life symbolize the Eucharist?
How do we express gratitude? Is the Eucharist the spiritual exercise giving direction to our life?
May our Eucharistic celebrations continue to transform our parish communities and the society around us into a civilization of love! May they nourish in us a hunger and thirst for justice. May our longing for the Eucharist make us ever more patient and kind with one another. Let us pray that we may truly become what we receive in the Eucharistic meal.
朗読
出エジプト 16:2-4, 12-15:荒れ野に入ると、イスラエルの人々の共同体全体はモーセとアロンに向かって不平を述べ立てた。イスラエルの人々は彼らに言った。「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている。」主はモーセに言われた。「見よ、わたしはあなたたちのために、天からパンを降らせる。民は出て行って、毎日必要な分だけ集める。わたしは、彼らがわたしの指示どおりにするかどうかを試す。「わたしは、イスラエルの人々の不平を聞いた。彼らに伝えるがよい。『あなたたちは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンを食べて満腹する。あなたたちはこうして、わたしがあなたたちの神、主であることを知るようになる』と。」夕方になると、うずらが飛んで来て、宿営を覆い、朝には宿営の周りに露が降りた。この降りた露が蒸発すると、見よ、荒れ野の地表を覆って薄くて壊れやすいものが大地の霜のように薄く残っていた。イスラエルの人々はそれを見て、これは一体何だろうと、口々に言った。彼らはそれが何であるか知らなかったからである。モーセは彼らに言った。「これこそ、主があなたたちに食物として与えられたパンである。
エフェソ4:17, 20-24:わたしは主によって強く勧めます。もはや、異邦人と同じように歩んではなりません。彼らは愚かな考えに従って歩んでいます。しかし、あなたがたは、キリストをこのように学んだのではありません。キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです。だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。
ヨハネ6:24-35:群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り、イエスを捜し求めてカファルナウムに来た。そして、湖の向こう岸でイエスを見つけると、「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と言った。イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」そこで、彼らは言った。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」すると、イエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。