イエス、心優しき神の羊飼い

年間第 16 主日の福音黙想  2009/7/19  トマス・ロシカ師

 

今日の聖書朗読には、全体を通して羊と羊飼い(羊を飼うこと)が主題となって流れています。感動的な聖書の物語、「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。」 ( マルコ 6:34) によって、私たちは、教え、赦し、導くイエスの司牧に心を向けることができます。

古代の文学では、しばしば一つの共同体を導く責任者を「羊飼い」と呼んでいます。同様に、旧約聖書でも、たびたび主ご自身を民の羊飼いとして描きました。個々人は、主に向かって「私の羊飼い」と祈ります。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」 ( 23:1)  そして、共同体も、主に向かって「イスラエルの羊飼い」 と祈ります。 「イスラエルを養う方/ヨセフを羊の群れのように導かれる方よ/御耳を傾けてください。」 ( 80:2) 新約聖書では、羊飼いのイメージは、偉大な権威と責任を表します。羊の群れを養うということの意味は、羊飼いは羊の群れを異教徒から護らなければならないこと、そして、羊たちを略奪者たちから護るために身構えていなければならないことです。

ヨハネは、「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」 ( ヨハネ 10:11) と述べ、イエスご自身が、「イスラエルの希望であるよい羊飼いの到来を実現した」と宣言されたことを伝えています。

 

イエスが、使徒たちと一緒に、人里離れた所に退かれると、大勢の群衆がその後を追いました。イエスは、この新たな出エジプトの人々を見て深く憐れみ、多くのことを教え、その人たちの霊的飢えを満たしました。(マコ 6 30-44 、ルカ 9 10-17 、ヨハ 6:1-14 参照)こうしてイエスは、次第に、自分が新しいイスラエルの忠実な羊飼いであることを示されていきます。

 

マルコ福音 6 30-31 で、イエスは、群衆の「飼い主のない羊のよう」な有様を深く憐れんだと描かれていますが、そのようなイメージは、福音書のイエスが最初ではありません。このイメージは、エゼキエル 34 章から引き出したもので、そこ(エゼキエル書)では、弱い者たち、傷つきやすい者たちに心をかけるどころか、その人たちのおかげで私腹を肥やしていたイスラエルの羊飼いたちに対して、神は怒りを爆発させています。

 

「主なる神はこう言われる。見よ、わたしは牧者たちに立ち向かう。わたしの群れを彼らの手から求め、彼らに群れを飼うことをやめさせる。牧者たちが、自分自身を養うことはもはやできない。わたしが彼らの口から群れを救い出し、彼らの餌食にはさせないからだ。まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、その群れを探すように、わたしは自分の羊を探す。わたしは雲と密雲の日に散らされた群れを、すべての場所から救い出す。」 ( エゼキエル 34:10-12).

 

飼い主のいない羊

イエスの憐れみは、はかない、つかの間の後悔や悲しみの感情 より深いものです 。むしろ、人々の状況を見て感じる深い苦痛、すなわち、はらわたが捩じれるようなタイプの心配と悲しみです。イエスは、神の豊かな救いが及ばないところで生きている人々の霊的生活について述べています。イエスは、これらの人々が、霊を養ってくれる人も無く、教え、導く人も無く、心の飢えに直面しているこれらの人々の魂を見て、はらわた捩じれるような強い悲しみを感じました。彼らは、誤った教えから護ってくれるる羊飼いが居ないので、危険に曝されていました。善い羊飼いが居ない羊たちのように、彼らは置き去りにされ、悪の攻撃に曝されていたのです。邪悪な者は、 咆哮するライオンのように 、むさぼり尽くす相手を求めて徘徊します。

 

「飼い主のいない羊のような有様」は、21世紀に生きるの多くのキリスト者の霊的生活を的確に表現しています。この表現は、方向性を見失い、無力で、悪の誘惑と攻撃を容易に受ける同時代の多くの人々を言い表しています。「飼い主のいない羊」は、ただの小さな迷子の羊どころではありません。小さな傷つきやすい羊どころではありません。彼らは、まさに危険と破滅に直面しているのです。

 

イエスの憐れみ

イエスは病者たちと出会い、その憐れみが彼らを癒しました。

イエスは、悪霊にとりつかれた者たちと出会い、その憐れみが彼らを解き放ちました。イエスは、多額の負債を負う家臣をもつ王の物語を語られました。家臣が負債を支払えないときに、王は、その家臣を家族もろとも奴隷にしようとしました。家臣は王に慈悲を乞い、王は、その家臣を「憐れみ」、多額の負債を許しました。

 

イエスは、よいサマリア人の話をされました : ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見過ごして通り、同じように、レビ人もやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通り過ぎた。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て「憐れに思い」、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分の驢馬に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。「この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。」。イエスは、「あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」と訊ねられた。(ルカ 10:33

 

放蕩息子の物語 ( ルカ 15:12) をご存知でしょう。「ある人に息子が二人いた。弟が父親に、『わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言い、父親は財産を二人に分けてやった。弟は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。彼は食べるにも困り、ある人のところに身を寄せ、豚の世話の仕事をしたが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。そこで、彼は我に返って、父のところに帰って言おう。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください』 と。そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、 憐れに思い 、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。『お父さん、わたしはもう息子と呼ばれる資格はありません。』しかし、父親は僕たちに言った。いちばん良い服を着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせ、王さまのような祝宴を始めた。

 

イエスの憐れみは、癒し、食物を与え、大きな負債を赦し、傷ついた身体を手当てし健康に返し、罪人を家に迎え、その尊厳を回復します。イエスは、自身の憐れみを神のもとに、すなわち天国に置いたままにしません。イエスは、私たちに次のように命じています。「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」

 

今日の、マルコ 6 章の朗読箇所に登場する人々に対して、イエスは、ただ憐れに思う以上のことをしています。イエスは強い感情に動かされて行動しました。それは、羊飼いがその羊のために行うと思われる行動を遙かに超えていました。真の羊飼いは、イエスを自分の生き方の模範として、自分に信頼する人々を愛し、イエスに倣わなければなりません。

 

そのような憐れみを、わたしたち自身はどこに見出すのでしょうか。

時折、どんなに善意に満ちていても、自分の周りの人たちが皆、助けを必要とし、羊飼いのいない羊のような状態にあることに気づく場合があります。 「一体、どこに行けば、この憐れみの感情を、他者と分かち合うことができるだろうか。」と自問するときがあります。 わたしは、ただ神の前に独りいて、自分を直視するときだけに、神の憐れみを知ることができることを学びました。イエスが司牧の最中に、群衆の際限のない要求に直面して、弟子たちに「人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われたのは、たぶん、偶然ではないでしょう。私たちにとっては、日常生活の喧騒から離れて神の前で自分の心を見つめるために黙想することが、まさにそれにあたるのではないでしょうか? そして、そこで、私たちは憐れみを知り、現代におけるキリストの憐れみの担い手となるのです。

 

民を導き出す

憐れみの心をもつ司牧のテーマについての黙想で、最も力強く、心に響いてくるものの一つに、 2005 4 24 日、ベネディクト 16 世の教皇着座時の説教があります。

 

「キリストの聖なる心配を牧者も持つべきです。彼は荒れ野に多くの人々が生きているという事実に無関心ではいられません。様々な形の荒れ野があります。貧困の荒れ野、飢えと渇きの荒れ野、誰からもかえりみられないという荒れ野、孤独の荒れ野、破壊された愛の荒れ野。」

「そして神が見えないという荒れ野、人間の歩みやその尊厳についての意識を失ってしまった空虚な魂の荒れ野。この世界には外的な荒れ野がますます増えていきます。なぜでしょう。それは内的な荒れ野がこれほどまでに広がっているからです。

 ですからこの地球上の宝はもう神の庭の建設のためには利用されていません。神の庭ではすべての人々が生きることができるはずですが、現実には破壊や搾取の権力に奉仕させられています。」

「教会のメンバーは全員が一致し、そしてその牧者たちも皆、キリストのように人々を荒れ野から連れ出し、生命の満ち満つる所、神の御子との友情、私たちに生命「完全な生命」を与えるお方に導くため、共に動き始めなければなりません。」

 

今週、どうぞわたしたちの祈りが、気づき、憐れみ(共感)、勇気に向かいますように。

ご一緒に主に願いましょう : 同世代の人々や、おそらくはわたしたち自身もそこに暮らしている、広大で、さらに広がりつつある砂漠に、もっと十分に気づくことができますように。 

主に願いましょう : 本当に羊飼いのいない羊の群れに対して、主の憐れみを持てますように。どうぞ、私たちにその憐みをお与え下さい。

そして、勇気を願って祈りましょう : 友人たちを、砂漠から引き戻し、よい羊飼いであるキリストと親しく交わる、いのち溢れる場所に導き出す勇気をお与えください。

 

 

 

 

 

 


Jesus, the Compassionate Shepherd of God

Gospel Reflection for 16th Sunday in Ordinary Time B Father Thomas Rosica, CSB

 

TORONTO, JULY 15, 2009 (Zenit.org).- The themes of sheep and shepherding flow through the Scripture readings for the Sixteenth Sunday in Ordinary Time (Year B). The moving Gospel story of Jesus having compassion on the crowds that were "like sheep without a shepherd" helps us to focus on his ministry of teaching, reconciling and shepherding.

 

Literature of antiquity often referred to the person responsible for guiding a community as a shepherd. Likewise, the Old Testament frequently described the Lord himself as the shepherd of his people. Individuals invoked him as "my shepherd" (Psalm 23:1), and the community prayed to him as the "Shepherd of Israel" (Psalm 80:1).

 

In the New Testament, the image of the shepherd expresses great authority and responsibility. Nourishing the flock means that the shepherd must protect them from heresy, ever ready to defend the sheep from marauders. John tells us that Jesus himself proclaimed that he fulfilled Israel's hope for the coming of the good shepherd: "I am the good shepherd. The good shepherd lays down his life for the sheep" (John 10:11).

 

When Jesus withdraws with his disciples to a deserted place to rest, he attracts a great number of people to follow them. Toward this people of the new exodus Jesus is moved with pity; he satisfies their spiritual hunger by teaching them many things, thus gradually showing himself the faithful shepherd of a new Israel.

 

When the Scriptures describe Jesus as having pity on his flock because they were "like sheep without a shepherd" in Mark 6:30-34, such an image is not original to Jesus in the Gospels. The image is drawn from Ezekiel 34, where God unleashes his anger at the shepherds of Israel who have fattened themselves on the weak and vulnerable, instead of caring for them (Ezekiel 34:10-12).

 

Sheep without a shepherd

Jesus' compassion is much more than a fleeting or temporary feeling of regret or sorrow. It is rather a deep anguish, a gut-wrenching type of anxiety and sorrow over the condition of people. Jesus was describing the spiritual lives of those who were living outside of the salvation so freely offered by God. Jesus felt gut-wrenching anguish over the souls of these people who were facing spiritual starvation without someone to feed them, teach them, and lead them to true spiritual nourishment. They were in danger without a shepherd to protect them from false teaching. Like sheep without the good shepherd, they were alone and vulnerable to the attacks of the evil one, who roams around like a roaring lion, seeking someone to devour.

 

"Like sheep without a shepherd" is an accurate description of the spiritual lives of many 21st-century Christians in the world today. The expression describes many of our contemporaries who are directionless, helpless, and very vulnerable to the seductions and attacks of the evil one. "Sheep without a shepherd" are more than just a little lost. They are more than just a little vulnerable. They are facing danger and destruction.

 

Jesus' Compassion

Jesus saw the sick and his compassion healed them.

He saw those possessed by demons and his compassion freed them. He told the story of a king who was owed a huge debt by his servant. When the servant could not pay, the king ordered him thrown into slavery, along with his family. When the servant pleaded for mercy the king "had compassion" on him and forgave the huge debt.

 

Jesus spoke about a man going down from Jerusalem to Jericho. That poor fellow fell among thieves who beat him, robbed him and left him to die. Two high-ranking religious officials passed by him, but a Samaritan stopped and "had compassion" on him. He bandaged the man's wounds and carried him to an inn where he nursed him through the night. The next day he paid the bill and gave the innkeeper his credit line, saying, "If he needs more, charge it to me."

 

Who can forget the thought-provoking story of the younger son who took his inheritance and squandered it in loose living? One day he "came to himself" and returned to his father's house, not hoping to be restored as a son, but wanting only to be hired as a servant. His father saw him coming and "had compassion" on him. Before the son could even utter his speech of repentance, the father placed on him a ring and robe   and shoes and called for a royal feast.

 

The compassion of Jesus heals and feeds, forgives huge debts, nurses hurt bodies back to health and welcomes home sinners, restoring them to a place of honor. Jesus will not let his compassion stay with God or in heaven. He commands us: "Be compassionate as your Father is compassionate."

 

Jesus did a lot more than just feel compassion for those in today's Gospel story from Mark 6.

His strong emotion moved him to act, far beyond what any shepherd would be expected to do for his sheep. The authentic shepherd, who models his or her life on Jesus, must love the people entrusted to him and imitate Jesus.

 

Where will we find such compassion for ourselves?

From time to time, despite our best intentions, we find ourselves among those in need, those who are like sheep without a shepherd. At times we ask ourselves: "Where on earth can we find this compassion to share with others?" I have learned that only in solitude before God, faced only with ourselves, can we learn the compassion of God. Perhaps it is not by accident that in the thick of his ministry and burdened by the unrelenting needs and demands of the crowd, Jesus called his disciples to join him in the desert: "Come away to a deserted place all by yourselves and rest awhile."

Could it not be the same for us, that away from the hustle and bustle of the everyday demands, we retreat in order to wrestle with our own hearts before God? And there we learn mercy and become in our day bearers of the compassion of Christ.

 

Leading people out

One of the most powerful and moving reflections on the theme of compassionate shepherding is found in Benedict XVI's inaugural homily of his Petrine Ministry on April 24, 2005:

 

"The pastor must be inspired by Christ's holy zeal: for him it is not a matter of indifference that so many people are living in the desert. And there are so many kinds of desert. There is the desert of poverty, the desert of hunger and thirst, the desert of abandonment, of loneliness, of destroyed love.

"There is the desert of God's darkness, the emptiness of souls no longer aware of their dignity or the goal of human life. The external deserts in the world are growing, because the internal deserts have become so vast. Therefore the earth's treasures no longer serve to build God's garden for all to live in, but they have been made to serve the powers of exploitation and destruction.

"The Church as a whole and all her Pastors, like Christ, must set out to lead people out of the desert, towards the place of life, towards friendship with the Son of God, towards the One who gives us life, and life in abundance."

 

This week may our prayer be for awareness, compassion and courage. Let us beg the Lord to make us more aware of the vast and growing deserts in which our contemporaries, and perhaps even we are living today. Let us ask the Lord to give us his compassion for those who truly are sheep without shepherds.

  And let us pray for courage to help lead our friends out of their deserts and into the places of life and friendship with Christ, the Good Shepherd.

 

 

朗読

 

エレミヤ23:1-6:23:1: 「災いだ、わたしの牧場の羊の群れを滅ぼし散らす牧者たちは」と主は言われる。それゆえ、イスラエルの神、主はわたしの民を牧する牧者たちについて、こう言われる。「あなたたちは、わたしの羊の群れを散らし、追い払うばかりで、顧みることをしなかった。わたしはあなたたちの悪い行いを罰する」と主は言われる。「このわたしが、群れの残った羊を、追いやったあらゆる国々から集め、もとの牧場に帰らせる。群れは子を産み、数を増やす。彼らを牧する牧者をわたしは立てる。群れはもはや恐れることも、おびえることもなく、また迷い出ることもない」と主は言われる。見よ、このような日が来る、と主は言われる。わたしはダビデのために正しい若枝を起こす。王は治め、栄え/この国に正義と恵みの業を行う。彼の代にユダは救われ/イスラエルは安らかに住む。彼の名は、「主は我らの救い」と呼ばれる。

 

  エフェソ 2:13-18: あなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。

 

マルコ 6:30-34:使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。

 

 

home page