この人は、大工ではないか。マリアの息子ではないか。
年間第14主日の福音黙想 2009/07/05 トマス・ロシカ師
今日の福音の物語は、たぶん、よく知られすぎている箇所です。毎週、安息日(金曜の日没から土曜の日没まで)にシナゴグの会堂に行き、自分の番がきたら礼拝で聖書を朗読するのが、イエスにとっての慣習だったのでしょう。
イエスの村の人々は、彼が他の場所で奇跡を行ったことを聞いていたので、彼の教えに注意深く耳を傾けたことでしょう。自分の村のこの若者は、ここではどのようなしるしを行うのだろうか、と。
今日の物語の中で、イエスは、預言者が自分の故郷では敬われないことに驚かれます。ナザレの人々は、イエスを非難し、イエスの説くことに耳を傾けませんでした。彼らは、「大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか」と言って、イエスが説くことを、さげすみました。こうして、そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかったのです。
もし、人々の誰もが嫌い、理解しようとしないならば、彼らは自分自身の視点以外のものは理解できないでしょう。そして他の人々愛することも、受け容れることもしないでしょう。このような物語は、実際、身におぼえのあることではありませんか? 同じようなことを、度々していないでしょうか?
故郷に帰る
わたしたちは、ルカがイエスのナザレ訪問を記録した唯一の福音記者と思いがちです。「イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。」とこのナザレのシナゴグにおけるプログラムに基づいたエピソードが語られます。(ルカ 4:16). マタイとマルコも、このエピソードにふれますが、ナザレの名前は出さずに、単に「故郷」(マルコ 6:1, マタイ 13:54) と記します。ルカの語る物語とマタイとマルコの物語との間には、いくつかの違いがあります。後者の2福音書においては、「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」(マルコ 6:3 )、「この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。」 ( マタイ 13:55) と表現され、人々はイエスの貧しい身分を先ず考え、その偉大な使命を考えません。ルカの表現は、これに対して、イエスの貧しい生い立ちにはふれません。
マルコでは、イエスの故郷訪問は、その司牧の始まりではなく、長いこと福音宣教や癒やしをなさった後、 いくつかのたとえ話や ( マルコ 4:1-34) 、 ヤイロの娘の蘇生物語 ( マルコ 5:21-43) の後に置かれています。マタイでは、イエスは既に「12使徒」 ( マタイ 10:1-15) に使命について語られた後に、置かれています。
今日の朗読箇所のマルコの説明 (6:1-6) の中の、「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」というイエスについての故郷の人々の質問の意味は何でしょうか?
故郷の人々はイエスに「あなたは自分が何者だというのか。」と問うように見えます。イエスは、この質問が、故郷の人々の固定観念(囚われた考え)に深く根ざしていることを見てとります。「これは、大工ではないか。マリアの息子ではないか。だから自分たちの一人ではないか?そうならば、彼は、自分ができること全てを、我々のためにして当然ではないか。お前は我々のものなのだから。」という考え方です。
イエスは「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われ、故郷の人たちが示した固定観念に抵抗されました。イエスの故郷の人々は盲目の特定の形に捉われていました。その盲目とは、わたしたちも時々陥ることです。イエスは、「そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。」のでした。
ビジョンと心
普遍的なビジョンをもつことがどれほど難しいかを今日の福音は示します。イエスのような方、やさしい心、広い視野と大きな精神をもった方に会ったとき、わたしたちはとかく妬ましく、自己中心的、心の卑しい者になりがちです。イエスの聖性に故郷の人々は気づくことができませんでした。それは彼らが自分自身を本当には受け入れなかったからでした。彼らは、イエスの神との関係を認めることができませんでした。なぜなら、彼らは、主に属する、従う気持ちを完全には育てていなかったからでした。自分の傍らに立つメシアを見ることができませんでした。それはイエスが彼らの一人のように見えたからでした。神に愛される民であることが分かるまで、奇跡はほとんど起こらないでしょうし、わたしたちの中にいる預言者、神の言葉のメッセンジャーは、その声を聞きいれられず、ふさわしく受け容れられることもないでしょう。
今日の福音の中でマルコは「イエスは人々の不信仰に驚かれた。」と語ります。イエスの言葉を聞いて、イエスの故郷の人々は、最初イエスに感心し、イエスを誇りに思いました。イエスの解放のメッセージは素晴らしかったのです。それから、この若い預言者が自分たちの一人に過ぎないと気づいて、「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。」と言うのです。
一番厳しい批判者は、自分に親しい人であることがよくあります。いつも肩を叩き合っている、家族や親戚、近所の人の一人であったりします。ナザレの人々はイエスに対して、固定観念を棄てませんでした。囚われた愛が視界をさえぎるとき、それは暴力的反応を生み出します。この種の反応は、嫉妬と激怒のドラマを引き起こします。マルコの説明では、人々はイエスにつまずき、攻撃します。それは「これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。」(ルカ 4:28-29 )というルカの表現のようでした。
わたしたちも、心を開かないと、そのような過激な状態になりかねません。
イエスは厳しく批判されました。それはイエスが心を広く開いたからです。とくに、社会の末端や片隅にいる人々にそれを示したからでした。イエスの開放的な姿勢は、反対を呼び起こし、イエスを十字架に導きました。使徒言行録に中に、異邦人への聖パウロの説教の成功がユダヤ人の一部に嫉妬を引き起こす場面が何度もあります 。 彼らはパウロに反対し彼に対する迫害を巻き起こします。 ( 使徒 13:45; 17,5; 22,21-22) キリスト教共同体の中でも、コリントの教会では、多くの信者が嫉妬心をもって使徒の誰かに結びついたとき、同じような思い込みが深刻な障害を引き起こしました。それは、コリント教会の中に対立と分裂を引き起こし、パウロはこれに介入しなければなりませんでした。 (1 コリント 1:10-3:23) 今日の福音は、イエスの模範にふさわしくないある種の態度に対する警告を発しています。人間はとかく思い込みに囚われ、独善的で、こころが狭くなり勝ちです。わたしたちは、イエスが一つの村や町、国でなく、世界の救い主であることを忘れてはなりません。 ( ヨハネ 4:42) 。
全き美と卓越の存在であるイエスに近づき、倣うためには、質の高い寛大さを自分の心にもつことが必要です。寛大さに反するもの、その敵は羨望です。羨望は、他人の美と卓越を認めたくない、そして他の人の名誉を否定したいという、人間の性格の欠陥です。羨望は、もはやまともに相手を見ることができません。なぜなら、その人の目は「閉ざされて」、自分自身の美と他の人の美を見ることができないからです。羨望は、必然的に自分も他人も暴力と破滅に導きます。全き美と卓越の存在であるイエスに近づき、倣うために、先ず、自分に羨望の態度があるかよく認め、それを取除かねばなりません。
寛大さは、他の人々を自由にします。というのは他の人が、神の美のイメージにふさわしいほどに大きくなるはずだからです。寛大さはわたしたち一人ひとりに、他の人が当然受けるべき最大の満足と幸福を受けられるように望む気持ちを起こさせます。寛大さは、それ自身を越えた視野をもつことができます。それは、多分自分には全く欠けているものを他の人が持つことを喜び、そして多分他の人の良さ、大きさ、美しさを喜ぶことができるのです。
祈りましょう。イエスがわたしたち自身の不信仰に驚かれませんように。むしろ、わたしたちのイエスへの誠実さと兄弟姉妹への奉仕への、小さな、日ごとの行いを喜んでくださいますように。
どうぞ主が、わたしたちに寛大な心を与えてくださいますように。それによって他の人々のもつ賜物を羨むのではなく、自分自身を越えて、他の人々の善良さと美に大きく目を開かれますように。
神の力だけが、精神の空しさと貧しさから、混乱と誤りから、そして死の恐れと失望からをわたしたちを救うことができます。救いの福音は今日のわたしたちのための「偉大なニュース」です。
Is Not This the Carpenter, the Son of Mary?
Biblical Reflection for 14th Sunday in Ordinary Time B
By Father Thomas Rosica, CSB
TORONTO, JULY 1, 2009 (Zenit.org).- We know today's Gospel story well, perhaps too well! It would have been customary for Jesus to go to the synagogue each week during the Sabbath, and when his turn came, to read from the scriptures during the Sabbath service.
His hometown folks listened ever so attentively to his teaching because they had heard about the miracles he had performed in other towns. What signs would their hometown boy work on his own turf?
In today's story, Jesus startled his own people with a seeming rebuke that no prophet of God can receive honor among his own people. The people of Nazareth took offense at him and refused to listen to what he had to say. They despised his preaching because he was from the working class; a carpenter, a mere layman and they despised him because of his family. Jesus could do no mighty works in their midst because they were closed and disbelieving toward him.
If people have come together to hate and to refuse to understand, then they will see no other point of view than their own, and they will refuse to love and accept others. Does the story sound familiar to us? How many times have we found ourselves in similar situations?
Homecoming
We often think that Luke is the only evangelist who records Jesus' visit to Nazareth, "where he had been brought up" and that programmatic episode in the Nazareth synagogue (Luke 4:16). Mark and Matthew also refer to this episode, although without mentioning the name of the town, calling it simply "his hometown" or "his native place" (Mark 6:1; Matthew 13:54).
There are, however, several differences between the story told by Luke and those of Mark and Matthew. In the Gospels of Mark and Matthew, people consider the humble origin of Jesus who was "the carpenter" (Mark 6:3), "the son of the carpenter" (Matthew 13:55) and use it to doubt the greatness of his mission. Luke, on the other hand, makes no mention of Jesus' humble origins.
In Mark, Jesus' visit to his hometown is found not at the beginning of his ministry, but after a long period of preaching the Gospel and healing, even after the talks on the parables (Mark 4:1-34) and the resurrection of Jairus' daughter (Mark 5:21-43).
In Matthew, Jesus has also already pronounced his address on mission to the "Twelve Apostles" (Mark 5:21-43)
What was the meaning of the peoples' questions about Jesus in Mark's account (6:1-6) that forms this Sunday's Gospel? "'Where did this man get all this? What kind of wisdom has been given him? What mighty deeds are wrought by his hands! Is he not the carpenter, the son of Mary, and the brother of James and Joses and Judas and Simon? And are not his sisters here with us?' And they took offense at him."
"Who do you think you are?" they seem to be asking him. Jesus sees that the questions about him correspond to a deeply possessive attitude: Is not this the carpenter, the son of Mary, and therefore one of us? You belong to us and therefore you must do for us all that you are able to do. We own you!
"Prophets are not without honor except in their hometowns and among their own kin, and even in their own homes." Jesus resists the possessive attitude manifested by his people. The people of Jesus' native place were suffering from a particular form of blindness -- a blindness that sometimes affects us, too. Jesus refuses to place his extraordinary gifts at the service of his own people, putting strangers first.
Vision and heart
Today's Gospel shows how difficult it is for us to attain to a universal vision. When we are faced with someone like Jesus, someone with a generous heart, a wide vision and a great spirit, our reactions are very often filled with jealousy, selfishness, and meanness of spirit. His own people couldn't recognize the holiness of Jesus, because they had never really accepted their own. They couldn't honor his relationship with God because they had never fully explored their own sense of belonging to the Lord. They couldn't see the Messiah standing right beside them, because he looked too much like one of them. Until we see ourselves as people beloved of God, miracles will be scarce and the prophets and messengers who rise among us will struggle to be heard and accepted for whom they truly are.
In today's Gospel story, Mark tells us that Jesus was amazed at their unbelief. Listening to Jesus, his own people were initially filled with admiration in him and pride because of him.
His message of liberation was marvelous. Then they recognize this young prophet as one of them and they say: "Is not this the carpenter, the son of Mary?"
The most severe critics are often people very familiar to us, a member of our family, a relative, or neighbor we rub shoulders with on a regular basis. The people of Nazareth refused to renounce their possessive attitude toward Jesus. When possessive love is obstructed it produces a violent reaction. This sort of reaction provokes many dramas of jealousy and passion. They took offence at him in Mark's account just as "everyone in the synagogue was enraged (Luke 4:28) and they sought to kill him" (4:29) in Luke's version of the story. Refusal to open our heart can lead to such extremes.
Jesus was bitterly criticized because he demonstrated great openness of heart, particularly toward people on the fringes and borders of society. His openness caused rising opposition that led him to the cross. In the Acts of the Apostles we read more than once that the success of St. Paul's preaching to the gentiles provoked jealousy among some of the Jews, who opposed the Apostle and stirred up persecution against him (Acts 13:45; 17,5; 22,21-22). Also within the Christian community, we need only recall the situation in Corinth where similar possessive attitudes caused serious harm when many believers attached themselves jealously to one apostle or another; causing conflict and division in the community. Paul had to intervene forcefully (1 Corinthians 1:10-3:23).
Today's Gospel warns us to be on guard against certain attitudes that are incompatible with the example of Jesus: the human tendency to be possessive, and egoistic and small in mind and heart. We cannot forget that Jesus is the Savior of the world (John 4:42), and not of the village, town, city or nation! We cannot forget that Jesus is the Savior of the world (John 4:42), and not of the village, town, city or nation!
In order to approach and imitate Jesus, who is total beauty and uniqueness, the quality of magnanimity is necessary in our hearts and minds. The opposite and enemy of magnanimity is envy. Envy is that fault in the human character that cannot recognize the beauty and uniqueness of the other, and denies the other honor. Envy can no longer see because the eyes are "nailed shut," blinded to one's own beauty and the beauty in others. Envy inevitably leads to forms of violence and destruction, of self and of others.
In order to approach and imitate Jesus, who is total beauty and uniqueness, the attitude of envy must be first acknowledged and then banished.
Magnanimity lets others be free, for the other person must become great enough to be an image of God's beauty. Magnanimity arouses the desire in each of us for the other to receive the greatest possible satisfaction and happiness that rightly belongs to the other! Magnanimity is capable of looking beyond itself, it can grant the other what oneself perhaps bitterly lacks, and can perhaps even rejoice in the other's goodness, greatness and beauty.
Let us pray that Jesus not be amazed at our own unbelief, but rather rejoice in our small, daily acts of fidelity to him and our service to our sisters and brothers. May the Lord grant us magnanimous hearts so that we may look far beyond ourselves and recognize the goodness, greatness and beauty of other people, instead of being jealous of their gifts. God's power alone can save us from emptiness and poverty of spirit, from confusion and error, and from the fear of death and hopelessness. The gospel of salvation is "great news" for us today.
朗読
エゼキエル 2:2-5; 2:23-24 : 霊がわたしの中に入り、わたしを自分の足で立たせた。わたしは語りかける者に耳を傾けた。主は言われた。「人の子よ、わたしはあなたを、イスラエルの人々、わたしに逆らった反逆の民に遣わす。彼らは、その先祖たちと同様わたしに背いて、今日この日に至っている。恥知らずで、強情な人々のもとに、わたしはあなたを遣わす。彼らに言いなさい、主なる神はこう言われる、と。彼らが聞き入れようと、また、反逆の家なのだから拒もうとも、彼らは自分たちの間に預言者がいたことを知るであろう。
2 コリント 12:7-10 :思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。
マルコ 6:1-6 :イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。そして、人々の不信仰に驚かれた。それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。
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