再び立ち上がり、生き、愛しなさい!

年間第 13 主日の福音黙想   2009/6/28   トマス・ロシカ師


昨週は、自然の力の上に働くイエスの神的な力をマルコ 4:37-41 の中に見ました。今週の福音は、病と死に対するイエスの力について語ります。これらの力に満ちた説明の中で、イエスはわたしたちに信仰の大切さを思い起こさせます。信仰無しには何もできません。ヤイロの家に向かう道の途中で(マルコ 5:22 )イエスの行く手を遮るものがあり、到着が遅れ、そして妨害にさえ出遭います。道の途中の群衆は、自分たちの汚れをイエスに委ねます。イエスはその一人ひとりに、神の十分な清めを与えます。ここでしばらく、それぞれの状況について考えてみましょう。


出血の止まらない女

12 年間も出血が止まらない女を奇跡的にいやすイエスの物語は、4福音書のうち 3 つの書で語られています。 ( マタイ 9:20-22; マルコ 5:25-34; ルカ 8:43-48)

律法は三つの形体の穢れについて、社会からその感染者を隔離すべきものとみなします。

「イスラエルの人々に命じて、重い皮膚病にかかっている者、漏出のある者、死体に触れて汚れた者をことごとく宿営の外に出しなさい。男女とも、必ず宿営から出しなさい。わたしがそのただ中に住んでいる宿営を汚してはならない。イスラエルの人々はそのとおり実行し、彼らを宿営の外へ出した。主がモーセに仰せになったとおりに、イスラエルの人々は行った。」(民数記 5:2-4 ) 

マルコ 5 章の女性は、宗教上穢れとみなされる病にかかっていました。「生理期間中でないときに、何日も出血があるか、あるいはその期間を過ぎても出血が止まないならば、その期間中は汚れており、生理期間中と同じように汚れる。この期間中に彼女が使った寝床は、生理期間中使用した寝床と同様に汚れる。また、彼女が使った腰掛けも月経による汚れと同様汚れる。また、これらの物に触れた人はすべて汚れる。その人は衣服を水洗いし、身を洗う。その人は夕方まで汚れている。」  ( レビ 15:25-27)  その病は、彼女を社会的なつながりや神殿での礼拝から隔離していたのでしょう。

彼女は、イエスがいやしてくださるのを切望しましたが、ユダヤの律法の下では、自分の出血が、イエスを穢れた者にすることを知っていました。

不浄とされる病にかかった者は、穢れた存在となりました。そして、その穢れた者が触った物も、人も穢れた存在となりました。穢れた者は、世間の人々と神の前から遠ざけられました。穢れた者は、聖なる神の御前に出るには不適当であり、ふさわしくないとされました。穢れた、とみなされる者が、社会に戻り、神の御前に出るには、浄化の儀式を受けねばなりませんでした。大胆にもイエスに近づき、その服にふれて、イエスを穢れた者にしたこの女性の振舞いは、イエスを人びとから遠ざけることになったかもしれなかったのです。しかし、イエスは逆に、彼女をいやしたばかりでなく、彼女の人間関係をも回復されたのでした。イエスが彼女を「娘よ」と言ったとき、イエスは、関わりを断つべきとされる人との関係をしっかりと打ち立てたのでした。

ヤイロの娘
感動的なヤイロの娘の物語は、長い出血の女性についての物語を真ん中にはさんでいます。ヤイロは会堂長の一人でした。彼はシナゴグの指導者の一人として、毎週の礼拝の指図をし、学校を運営し、会堂の維持管理をしていました。他のシナゴグの指導者たちの中には、イエスを支持しないようにと圧力を掛けられる者もいましたが、ヤイロはその圧力に負けていませんでした。ヤイロは、イエスを見ると足もとにひれ伏して苦悩を訴え、「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」と助けを求めました。ヤイロのふるまいは尊敬と崇拝にふさわしい態度でした。物語は続きます:「子供の手を取って、『タリタ、クム』と言われた。これは、『少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい』という意味である。少女はすぐに起き上がって、歩きだした。」 ( マルコ 5:41-42)  イエスは、「娘よ」と呼びかけ、ヤイロがもつ親子関係と同じような関係をこの娘との間に築いたのでした。いずれの場合も、イエスの聖性が相手の穢れを変容します。血の流れは止まり、女性はいやされました。死体はいのちを取戻します。娘は、病床から起き上がります。イエスは、それぞれの人をご自分のレベルに引き上げ、神の御前にふさわしい人になさいます。弟子たちがこのような「不思議なわざとしるし」を行うとき、自分の名においてではなく、イエス・キリストの御名において行いました。これもまた、イエスの聖なる力の証明です。

 

いやしびと、イエス

数々の癒やしの物語の中で、イエスは、人々に健康を与え、病をいやし、死者を生き返らせるほどの力を明らかに示されます。ルカ 7 章に記された、ナインの死んだ若者の話を覚えていますか?

「イエスはナインという町に行かれた。弟子たちや大勢の群衆も一緒であった。イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。主はこの母親を見て、憐れに思い、『もう泣かなくともよい』と言われた。そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、 『若者よ、あなたに言う。起きなさい』 と言われた。すると、 死人は起き上がってものを言い始めた。 イエスは息子をその母親にお返しになった。」(ルカ 7:12-15 )。

イエスはらい病患者の願いの叫びにも応えます: 「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります。」 憐みの気持ちに突き動かされたイエスは、神だけに許され、人間には許されない「命令の言葉」を口にします。「よろしい、清くなれ。」 マルコは記します。「たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。」(マルコ 1:40-42)

中風の病者の癒やしを憶えているでしょう。

「数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、四人の男が中風の人を運んで来た。しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、『子よ、あなたの罪は赦される』と言われた。ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。『この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。』イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。『なぜ、そんな考えを心に抱くのか。中風の人に“あなたの罪は赦される”と言うのと、“起きて、床を担いで歩け”と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。』そして、 中風の人に言われた。『わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。』 その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、『このようなことは、今まで見たことがない』と言って、神を賛美した。」(マルコ 2:1-12).

イエスの物語は、使徒言行録に続きます。「人々は病人を大通りに運び出し、担架や床に寝かせた。ペトロが通りかかるとき、せめてその影だけでも病人のだれかにかかるようにした。」(使徒 5:15).

 

「タリタ、クム」
ヤイロの娘の物語は、子供の死について、娘の甦りについて語っていますが、この物語はまた、心と霊の死について、さらには、今日、多くの若者に影響を与えている病についても語っています。

「タリタ、クム」(娘よ、起きなさい。)という力あふれる言葉は、この少女ばかりではなく、多くの若い人々、たぶんわたしたち一人ひとりに向けられています。引き裂かれた家族の状況、悲劇と喪失のために、どれほど多くの子どもたちが恐れと悲しみの日々を送っていることでしょうか。どれほど多くの子どもたちが、麻薬、堕胎、暴力、ギャング、自殺などによる堕落と死のサイクルに取り込まれていることでしょうか。今日の若者たちが、恐れ、絶望、その他の深刻な心理的、身体的病気に苦しんでいる姿は驚くばかりです。彼らの多くは、喜び、愛、希望と真理がほんとうに意味するものを知りません。


悲しみ、悲観主義、皮肉主義、無意味さ、死への願望は良くないことですが、とりわけ若い人たちがそれを口にするとき、わたしたちの心はさらに重く沈み、悲しみを覚えます。

トロントのような大都会に住んで、わたしは多くの若い人々に会う機会があります。そして、失敗、悲しみや絶望の話を聞くたびに、教会が、彼らにいのちをとりもどすためにどれほど働かねばならないかを自覚します。イエスは今日も、このような「死んだ若者たち」を蘇らせる働きを続けています。イエスは、御言葉と弟子とを送って若者を蘇らせます。弟子たちは、イエスの名によって、イエスの愛によって、イエスの言葉「タリム、クム」を若者たちに繰り返すのです。「若い男よ、若い女よ、立ち上がりなさい!再び生きなさい! 再び愛しなさい! あなたは愛されているのです!」と。

 

ダーリングハーストでの「アライブ」プログラム
今日の福音と、イエスの力強い言葉「タリク、クム」について黙想するとき、わたしは、昨 2008 7

オーストラリアで行われた「世界青年の日」でベネディクト 16 世が示した、生き生きとした特別な時間を思い浮かべます。教皇は、シドニー市ダーリングハーストのノートルダム聖心聖堂に行き、そこで麻薬その他の問題経歴のある若い人々と会われました。彼らは、「アライブ」リハビリ・プログラムに参加中でした。

教皇は、旧約聖書のモーセの言葉を引用されました。「わたしはあなたの前に生と死、祝福と呪いを置く。生を選べ。そうすれば、あなたとあなたの子孫は主であるあなたの神の愛のうちに生きる・・・なぜなら、この中にあなたの生は成り立つからである。」 

「彼らがすべきことは明白でした。」と教皇は説明されました。「それは、彼らが他の神々を捨て、モーセにご自身を啓示された真の神を礼拝することでした。・・・そしてその神の戒めに従うことでした。あなたがたは、今日の世界で、人々が他の神々を礼拝し始めることはない、と考えるかもしれませんが、ときどき、偽の「神々」をそれと知らずに礼拝していることがあるのです。偽の「神々」は・・・えてして三つのものごとの礼拝に結びつきます。物の所有欲、愛の所有欲、権力の所有欲です。」

教皇は続けました。「本物の愛は明らかに何か善いものです。愛するとき、わたしたちは最も自分らしく、最も人間的になっています。しかし・・・人間は、所有欲や征服欲で相手を見ているのに、相手を愛しているのだと考えがちです。

人間は、他人を自分の必要を充足する目的物として扱うことがよくあります・・・わたしたちの社会にあるさまざまな声にだまされることがいかに多いことでしょうか。人間関係に質的高さをもたらす、慎み、自尊心、または道徳的価値を省みることなく、性交渉を大目に見る意見もその一つです。」

 

「愛する皆さん、あなたがたは同じような状況の中にいる人たちへの希望の大使です。あなたがたはその人たちに、いのちの小路を選び、死への道を避ける必要を説くことができます。なぜなら、あなたがたは、自分の経験から語るからです。福音書の中でイエスがとりわけ愛した人は全て、間違った道を選んだ人たちでした。ひとたび自分の誤りを認めたとき、彼らは、イエスのいやしのメッセージに、いっそう広く目を開かれたのです。」

 

「実際、イエスは、社会の独善的な人々から、そのような人々に時間を使いすぎるとよく批判されたものです。 『ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、“なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか”と言った。イエスはこれを聞いて言われた。“医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。  [ わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない ]  とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。”』 マタイ 9:11-13)  」


「イエスの言葉に従い、イエスの弟子になったのは、進んで自分の生活を立て直そうとする人たちでした。あなたがたはこの人たちの足跡をたどることができます。あなたがたも又、イエスに向かう道へと戻ったのですから、とりわけイエスに近づくことができます。放蕩息子の物語の父親のように、イエスは腕を拡げてあなたがたを迎えるに違いありません。イエスは無条件の愛をあなたに差し出します・・・そして、イエスとの愛の交わりの中にこそ、いのちの充足を見出すことができるのです。」

 

イエスが、ベネディクト 16 世と、そして昨年 7 月のシドニーでのすばらしい青年の集いの上に微笑みかけていたことをわたしは確信しています。教皇が青年たちに、「立ち上がり、生き、そして再び愛するように」と呼びかけたとき、その場にイエスの言葉・・・「タリタ、クム」・・・が再び聞こえたのです。

 



Arise, Live and Love Again!

Biblical Reflection for 13th Sunday in Ordinary Time B

Father Thomas Rosica, CSB

TORONTO, JUNE 24, 2009 (
Zenit.org ).- Last week we witnessed Jesus' divine power at work on the forces of nature (Mark 4:37-41). Today's Gospel stories reveal his power over disease and death. In these powerful accounts, Jesus reminds us of the importance of faith. Nothing is possible without faith. On the way to Jairus' house (Mark 5), Jesus encounters interruptions, delays, and even obstacles along the road. The people in the passage transfer their uncleanness to Jesus, and to each Jesus bestows the cleansing wholeness of God. Let us consider for a moment each situation.

 

The hemorrhaging woman

Jesus' miraculous healing of this woman who had been hemorrhaging for 12 years is narrated in three of the four Gospels (Matthew 9:20-22; Mark 5:25-34; Luke 8:43-48). The law regarded three forms of uncleanness as serious enough to exclude the infected person from society: leprosy, uncleanness caused by bodily discharges, and impurity resulting from contact with the dead (Numbers 5:2-4). The woman in Mark 5 had a disease that made her ritually unclean (Leviticus 15:25-27). It would have excluded her from most social contact and worship at the temple. She desperately wanted Jesus to heal her, but she knew that her bleeding would cause Jesus to become ritually unclean under Jewish law.

 

Anyone who had one of the diseases was made unclean. Anything or anyone that one touched became unclean. Those who were unclean also suffered from estranged relationships with others and with God. Anything unclean was unfit or unworthy to be in the presence of a God who was holy. Those deemed unclean had to go through a rite of purification or cleansing in order to be welcomed back into society and into the presence of God. The woman's bold invasion of Jesus' space, and her touching of Jesus' garment, thus making Jesus unclean, could have put him off. On the contrary, Jesus not only heals the woman, but also restores her relationships with others. When Jesus calls the woman "daughter," he established a relationship with one with whom he should not have a relationship.

 

Jairus' daughter

The very touching story of Jairus' daughter is "sandwiched" in the story about the hemorrhaging woman. Jairus was an elected leader of the local synagogue, responsible for supervising the weekly worship, operating the school, and caring for the building. Some synagogue leaders had been pressured not to support Jesus, but Jairus had not caved into that pressure. Jairus bowed before Jesus and uttered his anguished request for help: "My daughter is at the point of death. Please, come lay your hands on her that she may get well and live." Jairus' gesture was a significant and daring act of respect and worship. The story continues: "Jesus took the child by the hand, and said to her, 'Talitha koum,' which means, 'Little girl, I say to you, arise!' The girl arose immediately and walked around" (5:41-42). By calling her "little girl," he established the same kind of relationship with her as Jairus has with his daughter. In each situation, Jesus' holiness transforms the person's uncleanness. The flow of blood is stopped. The woman is healed. The corpse comes back to life. The young girl gets out of bed. Jesus raises each person up to his level, making that individual worthy to be in the presence of God. These "wonders and signs" were performed by the apostles not in their own name, but in the name of Jesus Christ, and were therefore a further proof of his divine power.

 

Jesus, the healer

In so many of the healing stories, Jesus manifests the power to give people health, healing and even to bring the dead back to life. Remember the young man of Nain in Luke 7 who had died. Jesus said, "Young man, I tell you, arise!" Luke reports that the "dead man sat up and began to speak." Jesus responded to the cries of the leper who begged him, "If you will, you can cure me!" Moved with compassion, Jesus gave a word of command which was proper to God and not to a mere human being: "I do will it. Be made clean!" Mark wrote: "The leprosy left him immediately, and he was made clean" (Mark 1:42). How can we forget the case of the paralytic who was let down through an opening made in the roof of the house, Jesus said, "I say to you, rise, pick up your mat, and go home" (cf. Mk 2:1-12). Jesus' story continues in the Acts of the Apostles when we hear about people who "carried the sick out into the streets and laid them on cots and mats so that when Peter came by, at least his shadow might fall on one or another of them" (Acts 5:15).

"Talitha koum"

The story of Jairus' daughter not only speaks about the death of a child and the raising of that young girl back to life, but it also speaks about death of the heart and spirit, a disease that affects so many young people today. Those powerful words -- "Talitha koum" (Little girl, arise) -- are not only addressed to this little girl in Mark's story, but also to many young people, perhaps to each one of us. How many young children live with fear and sadness because of divided family situations, tragedy and loss! How many young people are caught up in vicious cycles of death: drugs, abortion, pornography, violence, gangs and suicide. Today our young people are afflicted with anxiety, discouragement and other serious psychological and even physical illnesses in alarming ways. Many don't know what joy, love hope and truth really mean any more.

 

Sadness, pessimism, cynicism, meaninglessness, the desire not to live, are always bad things, but when we see or hear young people express them, our hearts are even more heavy and sad.

Living in a big city such as Toronto, I have the opportunity of meeting many young people, and when I hear some of their stories of brokenness, sadness and despair, I realize how much work the churches must do to bring young people back to life. Jesus continues today to resurrect those dead young people to life. He does so with his word, and also by sending them his disciples who, in his name, and with his very love, repeat to today's young people his cry: "Talitha koum," "young man, young woman, arise! Live again! Love again! You are loved!"

 

"Alive" in Darlinghurst
"Authentic love is obviously something good," the Pope continued. "When we love, we become most fully ourselves, most fully human. But [...] people often think they are being loving when actually they are being possessive or manipulative.

People sometimes treat others as objects to satisfy their own needs. [...] How easy it is to be deceived by the many voices in our society that advocate a permissive approach to sexuality, without regard for modesty, self-respect or the moral values that bring quality to human relationships!"

"Dear friends, I see you as ambassadors of hope to others in similar situations. You can convince them of the need to choose the path of life and shun the path of death, because you speak from experience.

All through the Gospels, it was those who had taken wrong turnings who were particularly loved by Jesus, because once they recognized their mistake, they were all the more open to his healing message.

"Indeed, Jesus was often criticized by self-righteous members of society for spending so much time with such people. 'Why does your master eat with tax collectors and sinners?' they asked. He responded: 'It is not the healthy who need the doctor, but the sick … I did not come to call the virtuous but sinners' (cf. Mt 9:11-13).

"It was those who were willing to rebuild their lives who were most ready to listen to Jesus and become his disciples. You can follow in their footst eps, yo u too can grow particularly close to Jesus because you have chosen to turn back towards him. You can be sure that, just like the Father in the story of the prodigal son, Jesus welcomes you with open arms. He offers you unconditional love -- and it is in loving friendship with him that the fullness of life is to be found."

 

I am sure that Jesus was smiling upon Benedict XVI and that wonderful gathering in Sydney last July. Jesus' words -- "Talitha koum" -- were heard once again Down Under as the Holy Father invited young people to rise up, to live and to love again.

 

朗読:

 

Wisdom 1:13-15; 2:23-24;

 

2 コリント 8:7, 9, 13-15; わたしたちはテトスに、この慈善の業をあなたがたの間で始めたからには、やり遂げるようにと勧めました。あなたがたは信仰、言葉、知識、あらゆる熱心、わたしたちから受ける愛など、すべての点で豊かなのですから、この慈善の業においても豊かな者となりなさい。わたしは命令としてこう言っているのではありません。他の人々の熱心に照らしてあなたがたの愛の純粋さを確かめようとして言うのです。あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。他の人々には楽をさせて、あなたがたに苦労をかけるということではなく、釣り合いがとれるようにするわけです。あなたがたの現在のゆとりが彼らの欠乏を補えば、いつか彼らのゆとりもあなたがたの欠乏を補うことになり、こうして釣り合いがとれるのです。「多く集めた者も、余ることはなく、/わずかしか集めなかった者も、/不足することはなかった」と書いてあるとおりです。

 

マルコ 5:21-43: イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た。さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれもついて来ることをお許しにならなかった。一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、また、食べ物を少女に与えるようにと言われた。

 

 

 

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